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三宅艮斎 シーボルト 鉱物標本
はじめに
 鉱物168点、木箱入。ドイツ語による記載あり。添付文書1点。「鉱物標本 三宅艮斎が収集したもので一度シーボルトの手に渡ったがその後再び我が国に帰ったもの 三宅氏蔵」とある。東京大学総合研究博物館小石川分館蔵。
 三宅艮斎:文化十四年(1817)- 明治四年(1871)
肥前国南高来郡北有馬村に生まれ、祖父玄碩、父英庵を初め、代々医者の家系であった。14才の時、長崎に移り、蘭学医楢林栄建に入門して
          医学を学んだ。
天保十二年(1841) 江戸に出て薬研堀に住み医を開業し、翌年に銚子に移り医業を続けた。
弘化三年 (1844) 堀田侯に招聘されて下総佐倉に移った。その後、堀田家の領地である出羽国柏倉に赴任し、余暇に金銀鉱や硫黄・硼砂など
          鉱物を研究した。
安政九年 (1859) 堀田侯の藩医となり文久中医学校の教授として外科手術包帯学を教えた。
文久元年 (1861) シーボルトが再来日して赤羽根に滞在しているときに、訪れて医学、薬草などについて教えを受けた。
慶応二年 (1866) 幕府に招聘されたが、怪我のため出頭できなかった。間もなく大政奉還となり明治維新を迎え、
明治四年 (1871) 七月三日、本所の家で没した。墓所は駒込願行寺。
 (呉秀三著「シーボルト先生・その生涯及び功業、平凡社」より)
 三宅艮斎はシーボルトと会ったとき、鉱物標本の鑑定を依頼したが、シーボルトは標本をヨーロッパに持ち帰った。三宅艮斎の長男秀が遣欧使節の随員でマルセイユにいたとき、シーボルトに標本の返還を求めたが、シーボルトは標本の返却には応じなかったと思われる。本標本はヨーロッパ産の鉱物標本のコレクションであり、シーボルトが三宅に日本鉱物標本の代わりとして与えたことを推測させる。シーボルトが持ち帰った鉱物標本の行方は現時点で不明である。
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