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公開セミナー

巨大帝国への路 -イランの鉄器時代
Prelude to Empire: The Iron Age of Iran

ハミド・ファヒミ & バーバラ・ヘルウィング
Hamid Fahimi & Barbara Helwing


はじめに

図1. テヘラン近郊、ケイタリーイェ墓地遺跡出土の注口土器(前1200年頃)

 イランではかつてアケメネス朝ペルシャ(前55 0-前330年)という古代西アジア最大の帝国が栄えました。そうした巨大帝国成立への路を開いたのは、その前の鉄器時代における文化発展です。西隣りのメソポタミアと違って鉄器時代のイランには文字資料が乏しく、その研究はもっぱら考古学的証拠によっています。本日は、最新の考古学的知見を整理しながら、イラン鉄器時代の文化変遷についてお話させていただきます。

 イランの鉄器時代は青銅器時代に用いられていた彩文土器の製作がすたれ、灰色土器が主流になった時点で始まるとされています(図1)。この時代をI期、II期、III期と3時期に区分することはおおむね受け入れられていますが、イラン全域で同時進行したわけではありません。鉄器時代I期は北西イランではおおよそ前1450年頃、ルリスタン地方では前1300 年頃に始まるようです。II期はおおよそ1200/1100年頃から前800年頃までで、鉄が一般的に使用されるのはこの時期になってからのことです。鉄器時代III期は前800年頃から前550年までです。さらに初期アケメネス時代に相当する鉄器時代IV期が設定されることもあります。

原史時代のイラン:鉄器時代I期〜II期、前1450〜800年頃

 初期鉄器時代は集落外にもうけられた墓域(鉄器時代以前は住居内の床下埋葬が主流でした)と灰色土器に特徴付けられます。初期鉄器時代には集落の密度は大変低く、北西イランでは集落遺跡はほとんど知られていません。ルリスタンではそれまでの集落は完全に放棄されたようです。このような状況から、鉄器時代I期には人口が大変少なかったと考えるのが適切です。墓地遺跡が少ないことからも同様のことが推測できます。

 一方、鉄器時代II期の北西イランにおいては数多くの集落が見つかっており、当時の人々が定住的で農耕に基盤をおいた生活を営んでいたことが明らかになっています。かつてはこの時期には遊牧民的な生活様式が営まれていたと推測されていましたが、それは誤りであったようです。

 初期鉄器時代の定住集落の最も良い例としては、ウルミア湖の南、ソルドゥス渓谷の中央部に位置するタッペ・ハサンルーが挙げられます。この遺跡はイラン式建築の発展を示す最も良好な資料を提供しました(図2)。ハサンルー遺跡における鉄器時代最古の居住はハサンルーV 期(鉄器時代I期)に始まりますが、先行するVI期(青銅器時代)の居住とは大きな断絶があります。第V期には、支え壁をもち、壁に沿ってベンチ状構造がみられる首長層の館が検出されました。このベンチ状構造は古代イラン伝統建築がもつ第一の特徴といえます。また、建物内の広間では円柱が2列に並んでいました。これはイラン建築の第二の特徴で、メソポタミアのバビロニアやカッシートの建築にも見られます。これら2つの要素はアケメネス朝のアパダーナへとつながるイラン建築様式の先行事例です。

 続くハサンルー第IV期は鉄器時代II期に相当します。この時期、この遺跡は何回か激しく破壊されたようです。特に前800年頃と考えられるIVB期の大火災は重要です。ザグロスに向かったアッシリアの軍事行動、前9世紀末のウルミア湖周辺でおこったウラルトゥ帝国の成立と南方への拡大などが関与しているのではないかと考えられます。事実、出土遺物にはイラン様式、アッシリア様式、ウラルトゥ様式といった広範にわたる文化要素がみられます。いずれにしても大規模な襲撃があったのは確実で、犠牲になった兵士と一緒に発見された金製の鉢は、ハサンルーの2万点を超える出土遺物の中で最も有名なものとなっています。

 一方、鉄器時代の墓地遺跡として最も著名なのは、イラン北部のギーラーン州セフィード川渓谷で見つかったマルリーク遺跡です。この遺跡では53の墓が発掘されました。墓は岩盤を掘り込んだり石壁を貼るなどして造られており、巨大な石で蓋がされていました(図3)。すばらしい武器がたくさん出土することから、これらの墓は戦士のものと考えられています。そのような墓は初期鉄器時代のこの地域に特徴的です。しばしば素晴らしい馬具も出土し、馬が埋葬された例も知られています。

 マルリーク遺跡で最も有名な出土品は、精緻な装飾を施した金銀器です。そうした容器はエラムやアッシリア、バビロニアの様式を想起させますが、あきらかに在地で生産されたものです。さらに、興味深い出土品として人形の土器やウシの形をした土器が挙げられるでしょう。ウシ型土器は初期鉄器時代のギーラーンにおいてウシが大変重要であったことを示しているように思われます。

 この地域では、こうした墓地遺跡と対応する集落が長い間知られていませんでした。しかし、近年、イラン・日本共同調査隊による組織的な踏査によって、鉄器時代II期やIII期の集落の実態が始めて明らかになりました。集落は山の斜面に営まれ、住居は石や木材で造られていたようです。
  初期鉄器時代の豪華な副葬品をもつ墓地遺跡はルリスタンでも知られています。ルリスタンからは、いわゆる「ルリスタン・ブロンズ」として知られる多くの青銅器が出土します。かつては、それらは遊牧民が残したものであるとのみ考えられていましたが、今では調査事例も増え編年も整備されてきています。

図2. ハッサンルー遺跡居館の中庭 図3. ギーラーン州で見つかった墓の一例

 

初期歴史時代のイラン:鉄器時代II期末〜III期、前800〜550年頃

 イラン高原に最初の政治勢力が形成されたのは、アッシリアが金属、馬、貴石などを求めてイラン西部へ周期的に軍事行動をおこし始めた時期です。これが内的な発展に伴うものか、アッシリアの侵略に触発されたものなのかということはわかっていません。前9世紀にはウルミア湖の周辺にウラルトゥの国家やマンナイ王国が建設されました。また、ザグロス山中にはパルサやメディアなどの勢力が存在していました。前9世紀第三四半期のシャルマセルIII世の文書にもこの2つの勢力についての記述が見られます。

 前7世紀にはキンメリア人やスキタイ人などの北方からの遊牧騎馬民族の侵入がありました。この出来事をきっかけに、アッシリアとイラン高原の勢力バランスが大きく変化していきます。新しい北からの勢力と友好的な関係をもつことで、前7世紀の間にイランのメディアはより大きな勢力へと成長してバビロニアと同盟を結び、ついには前612年にアッシリア帝国に終焉をもたらしました。

 鉄器時代III期は、特別な文化を生み出すことができる新しいエリート層が出現する時期でもありました。墓にはより洗練された土器が副葬されるようになります。同時に、メディアが関係を持った様々な文化の影響がみられるようになります。例えばテペ・シアルクの墓に副葬された素晴らしい図像様式をもつ彩文土器はアナトリアのフリギア、あるいはリディアとの関連を想起させます(図4)。鉄器時代III期におけるアセンブリッジにはそのように様々な文化の要素が混在するため、遺物や遺跡が文献に書かれているどの都市、どの民族に帰属するのかということを特定することがしばしば難しくなっています(図5)。特にメディアの物質文化については不明確なままです。というのも、メディアに関しては適切な考古学的調査で得られた遺物が大変少ないのです。極めて小数の発掘事例によれば、様々な文化の要素が混在する坩堝のような状況が確認されています。そのような混沌とした状況を経て、ついに本当の「ペルシア文化」の形成にいたります。それがアケメネス朝の文化です。

図4. シアルク遺跡のB地区墓地出土の注口付き彩文土器(鉄器時代III期) 図5. 各地の様式が混在したラピスラズリ製容器。ジウイエ遺跡出土(鉄器時代III期)

 

おわりに

 鉄器時代の始まりは、それ以前のイラン高原の文化に完全な断絶をもたらしました。この急進的な変化はこの地域への新たな人びとの移住によるものと考えられてきましたが、そのような単純な見方は今や有効ではありません。また、集落遺跡が乏しく特徴的な灰色土器が出土する墓地遺跡ばかりが注目されたことで、鉄器時代の人びとは大部分が遊牧的生活を営んでいたと考えられてきましたが、その解釈は考古学的事実に基づくものではなく、墓地遺跡中心の発掘調査戦略に由来するものでした。おそらく、遊牧民や定住民が共存し、地域ごとに相互補完するような生活が営まれていたのだと考えられます。
  近年の調査によれば、鉄器時代II期以降、ウラルトゥやマンナイが王国を築いていた北西イランだけでなく、それ以前の時期には定住的な居住が見られなかった地域、例えばアルボルズ山中においても地域の拠点集落が形成されていたことが明らかになっています。また、イラン建築の最も特徴的な要素はこの時期に発展します。

 鉄器時代III期、アッシリアの侵入をうけたザグロス山中の部族の1つであるメディアは大きな勢力となり、瞬く間に反アッシリア勢力の中心となりました。前612年、アッシリアが崩壊したことに伴って、メディア帝国の形成と拡大への道が開かれると同時に、様々な異なった文化要素が統合されていきました。こうした状況が真の「ペルシア文化」を成立せしめたアケメネス帝国の拡大まで続いてゆくのです。

 本稿は、2005年3月24日におこなわれた総合研究博物館公開セミナーの講演要旨です。イラン考古学研究センター研究員、ハミド・ファヒミ氏が講師をつとめられました。共著者のバーバラ・ヘルウィング博士は氏の共同研究者で、ベルリンのドイツ考古学研究所研究員です。要旨作成にあたっては本学大学院人文社会系研究科修士課程・有松唯さんの協力を得ました。

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(西秋良宏・本館助教授/考古学)
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Ouroboros 第27号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成17年5月30日
編集人:高槻成紀・佐々木猛智/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館