西アジア先史時代の植物利用

デデリエ遺跡、セクル・アル・アヘイマル遺跡、コサック・シャマリ遺跡を例に

丹野研一


 東京大学の西アジア調査では、旧石器時代から青銅器時代にいたる、先史学の各時代を押さえた発掘が行われた。これらの発掘が世界の考古学に多大な学術貢献をはたしてきたことはいうまでもないが、植物学的な観点においては、世界最古の農耕をうみだした新石器時代、およびその前後をおさえた貴重な調査であったといえる。その時代の連続性のために、東京大学の保有している植物資料は、農耕社会の起源と展開を明らかにするための絶好の資料である。

 本稿では、農耕がはじまる前のデデリエ遺跡(ナトゥーフ時代)、農耕が起源し発展した時代のセクル・アル・アヘイマル遺跡(新石器時代L-PPNBおよびPN期)、農耕が定着したとされる時代のコサック・シャマリ遺跡(銅石器時代)の3つの遺跡について、植物の出土概況を述べる。そしてこれに基づいて西アジアの先史時代における植物利用について概説し、また初期農耕の研究でもっとも重点を置かれてきたムギ類の栽培化について、最近の研究例を概説したい。

 デデリエ遺跡とセクル遺跡は、現在筆者が植物同定を進めているところなので、本稿は調査結果の概要を紹介するものである。コサック・シャマリ遺跡についてはウィルコックス(Willcox 2003)とペシン(Pessin 2003)が報告書を出しているのでこれに準拠するが、筆者が新たに調べた結果を加えて話を進める。これらの現在進行中の研究については、今後研究が進んだときに新たな解釈ができる可能性はもちろんある。しかしともかく本稿では3遺跡の現時点での出土結果をよりどころに、西アジアの植物利用が時代とともにどのように変化してきたのかを概観してみたい。なおこれら3遺跡の植物の出土状況は、筆者が大雑把にみたところでは、これまで報告されている対応地域・時代の出土状況と大きな矛盾はない。

■デデリエ遺跡
 ナトゥーフ時代、北西シリア・アフリン地域

 デデリエ遺跡は5万年前ころのムステリアン層と1万3,000年前頃のナトゥーフ層からなる遺跡であるが、ここでは後者について述べる。

図1 デデリエ洞窟付近の植生。今は木があまり育っていないが、ナトゥーフ時代にはもっと生えていたようである。

 デデリエ遺跡は洞窟遺跡であり、北西シリア・アフリン渓谷のワジの崖にある。崖の上の現代の植生は、岩がちの痩せた土層にカシの木などがまばらに生えている、とても貧弱なものである。木々は草食獣によって食害されており、膝の高さほどにしか育っていない(図1)。この崖を下る斜面はやはり植被がまばらではあるが、カシ類のほかに、野生のピスタチオやイチヂク、サンザシなどの食用に適する樹種が点在する。デデリエ洞窟からアフリン渓谷には容易に下りることができるが、現在この渓谷ではコムギ、ビート、ジャガイモ、綿花などのさまざまな作物や、ザクロなど特産の果樹などがさかんに植えられており、耕地化が著しい。このように山上は家畜の過放牧による食害がひどく、また渓谷内は徹底的に耕地化されており、本来の植生環境をうかがいしることはきわめて難しい。

 デデリエ遺跡の出土植物を調べることによって、過去の環境復元をすることには意義がある。デデリエは農耕・牧畜が開始されるよりも前の時代に属するので、人間による環境へのインパクトがまだ非常に小さかった。そのためこの遺跡の出土植物を調べることによって、本来の自然に非常にちかい姿の植生を復元しうるデータを取ることができるであろう。西アジアでは、とくに新石器時代後半から青銅器時代にかけて、森林伐採が各地で進んだとみられており(Miller 1998;Asouti and Austin 2005; Deckers 2005)、現代においても本来の植生またはそれに近い姿が残されている地域はきわめて限定的である。

 デデリエ遺跡のナトゥーフ層からは、ピスタチオの殻の破片が大量に出土した(図2a,b)。ピスタチオは野生種のPistacia terebinthusとみられる小さなものが多いが、やや稀に大きくて殻の厚いP. atlanticaとみられるものも含まれていた。これらは現代の日本で流通しているP. veraとは別種の植物で、ナッツとしての味はそれほど変わらないものの、実が小さくて殻が固いので、我々現代人にとっては非常に食べにくい。アーモンド(Amygdalus sp.)の殻やエノキ属植物(Celtis sp.)の種子なども多く出土した。ピスタチオやアーモンドなどのナッツ類は、脂肪を多く含んでおり、またエノキ類は甘い。この脂肪と甘味のために、とりわけ嗜好されていたものと思われる。

図2 ピスタチオの仲間。
(a)デデリエ遺跡の炭化したピスタチオ種子と破片 (b)デデリエ洞窟周辺に生える野生のピスタチオ(Pistacia terebinthus)
図2a
図2b

 木の実のほかには、少量であるけれどもアインコルンコムギ、オオムギ、Stipa属植物などのイネ科植物の種子がみられた。また同じく少量のレンズマメとTrifolieae連に属する多様なマメ類が出土している。さらにこれらイネ科・マメ科植物よりも若干多い数のシソ科Ziziphora capitata或いはこれに近い植物の種子がみつかっている。この植物は芳香があり、新石器初頭までの遺跡でよく出土するが、どのように利用されていたのか実際のところは不明である。

 デデリエ遺跡ではナトゥーフ時代の焼けた家屋が見つかっている。この家屋には背後の壁を支えるために材木が使われていた。この材の一部を採取し、樹種を調べたところ、それはカエデ科の木(Acer sp.)であった(サンプル番号K25-L8)。この木はこの地域特有のマキーと呼ばれる疎林に比較的ふつうに見ることができるが、デデリエ周囲では、食害にあったマット状の木ばかりなので筆者はまだ見ていない。

 このように農耕がはじまる前のデデリエ遺跡では、本の実など木本植物資源を有効に利用していた。大量のピスタチオはZAD2遺跡(Edwards et al. 2004)などでも知られるが、デデリエではそれよりもはるかに多くなりそうなので、特記すべきことかもしれない。西アジアでは農耕が開始・展開されるにしたがい、ムギ作に偏重してゆく傾向があるが、デデリエの時代にはまだムギに偏っておらず、多様な植物を利用していた。このような多様な植物利用はイラクのムレファートM'lefaat遺跡(PPNA)(Savard et al. 2003)や北シリアのテル・カラメルTell Qaramel遺跡(PPNA、George Willcox私信)でもみられている。これまでムレファートやカラメルの「多様な」植物は、うがった見方では本当に利用されていた植物ではなくて遺跡周囲の雑草を反映しているのではと考えられる状況であったが、洞窟遺跡であるデデリエで同様な植物が出土している事実は、これらの植物が目的を持って利用されていたということを示唆している。

 周囲の植生という観点では、デデリエ遺跡ではカエデの材木が使われ、ピスタチオやアーモンド、エノキが食用されていたことから、木本資源をよく利用していたことがわかる。また筆者が水洗選別(ウォーターフローテーション)によって資料を回収していた際に、リスの骨(Lionel Gourichon博士による同定)が一片みつかった。これらのことを総合すると、かつてのデデリエ周辺は森だったのではないかと考えられる。ただし、リスがいるような森とはいっても日本のような深い森林ではなく、日当たりを好むシソ科やアインコルンコムギ、マメ類などが生えていた疎林(マキー)に近いような森だったと思われる。今後、樹種同定を行い、この点については解明してゆきたい。

 デデリエ遺跡は、人間が環境におおきなインパクトを与えはじめた新石器時代よりも前の時代であるので、農耕がどれほど環境に付加を与えたのかについての比較データとなりうる。ナトゥーフ時代の生業を明らかにすることも学術的に非常に重要ではあるが、われわれ人類がいかに環境を破壊してきたかを知るためにも、デデリエ遺跡はたいへん貴重な資料を提供する。

■セクル・アル・アヘイマル遺跡
 新石器時代L-PPNB期およびPN期、北東シリア・ハブール河流域

 セクル遺跡は、北東シリアのハブール河流域において、はじめて定住されたフロンティア的な性格の遺跡だとみられている。この遺跡では、得られる炭化物の量はそれほど多くないけれども、オオムギとやや稀にエンマーコムギやレンズマメなどがみつかっている。その他の野生植物や雑草などもある程度みられるものの、デデリエのような多様な植物は、この遺跡ではみられない。

 ムギ類は小穂軸の脱落痕を観察することで、栽培型・野生型を識別することが可能である。これを調べたところ、少なくともオオムギについては栽培種が存在することがわかった(図3a,b)。コムギについては、小穂軸の出土数が非常に少なく、現時点では栽培・野生の判別はできない。

図3 セクル遺跡から出土したオオムギ。 (a)栽培型の小穂軸。 (b)炭化種子
a
b

 現代のこの地域の年間降水量は300〜250mmであり、オオムギの天水農耕はぎりぎり可能であるが、コムギ栽培は困難である。過去にこの地域の降水量がどれほどあったのか知ることは難しいが、セクル遺跡の北東でトルコ国境に位置するテル・モザーンTell Mozan遺跡では、今は樹木はみられないけれども、青銅器時代には落葉性カシの疎林帯に属していたようである(Deckers and Riehl 2004)。野生コムギはカシの疎林帯によく生えるので、もし新石器時代のセクル付近にまでカシ林があったならば、野生コムギもそこにあったかもしれない。また、コムギ栽培もできたかもしれない。炭化材分析による植生復元が今後行われるべきであるが、低倍率顕微鏡でみるかぎり、炭化材の多くは小枝であるので、カシ林はなかったのではないかというのが筆者の現時点での印象である。

 セクル遺跡では、デデリエ遺跡のような多様な植物利用はみられておらず、むしろどこかの農村からオオムギ、エンマーコムギ、レンズマメといった作物のセットがそのまま持ち込まれたようにみえる。この地域は、いわゆるメソポタミア都市国家の時代あるいは現代では、オオムギの大穀倉地である。しかしそれを反映するような大量の出土は、セクル遺跡からは今のところみられていない。むしろその貧弱な出土状況や、おそらく足りなかった降水量のもとでエンマーコムギを作ろうとする試みは、フロンティアでの農耕の困難さを物語るかのようである。そしてその逆境の中でオオムギ栽培に活路を見出した点は、のちにメソポタミア都市国家の穀倉地として君臨するこの地域の原初の姿として、たいへん興味深い。