6 先端科学による年代の判定





 放射性炭素(炭素14)による年代測定は、これまでも先史人類学や考古学の年代解析にしばしば用いられてきた。しかし、近年では蓄積データが豊かになり、われわれの時代に近い年代についても、ある程度の誤差の範囲内で暦年代を推定できるようになりつつある。解析精度については事例や保存環境によって変動もあり得るが、しかし、後代に捏造された贋作などの一次判定については、ほぼ間違いのない結論を導き出すことができる。


6-1 「エジプト書記立像」
寄せ木彫刻、高84.0、エジプト第12王朝、紀元前18世紀、石橋財団ブリヂストン美術館蔵

 かねてより「贋作」の疑いを持たれていた作品であるが、放射性炭素年代測定調査の結果、使用された木材は紀元前1800年前後のものであることが判明した。また、エックス線透析によって、一木の丸彫り彫刻でなく、四肢、胴体、頭部などが、複数の木材にほぞを掘り、しっくいを含む媒材で固着する組み立て法が取られていることも明らかになった。正面向って左側の脇の下部分に新しい金属釘が一本埋め込まれているが、それ以外の箇所には新しい時代の手による「撹乱」の痕跡がなく、古代の文化財として申し分のない保存状態にある。
(西野嘉章+吉田邦夫+丑野毅)



医療用X線透過装置による観察


1 装置

 タンカ RT-1550型 X線装置(田中レントゲン製作所)、工業用X線フィルムRF 四切(富士写真フィルム株式会社)、四つ切カセッター。

2 方法

 前方からの透過像は上方約1.5メートルからX線を照射し、木彫の下にカセッターを敷いて撮影した。4回の撮影でそれぞれの部分をオーバーラップさせながら全身を撮影した。側方からの透過像は横約1メートルの距離からX線を照射し、側方にカセッターを立てて撮影した。6回の撮影で全身をカバーした。
照射条件——90キロボルト、200ミリアンペアで2.0秒×3回の多重露光を行った。

3 処理

 X線フィルム用自動現像機・ハイライン RH-9001を用いて現像した。現像液、定着液はMX-D、MX-Fを使い、現像時間は摂氏26度で3分間とした。

 現像したX線フィルムを観察して、概略の検討をした後、光学スキャナーを使ってX線画像を取り込みデジタル化した。四つ切のX線フィルムをA4版2枚に分割して取り込み、これらを画像処理ソフト(Photoshop 5.5)を使って観察・検討した。X線透過像はネガ・ポジ反転をさせて、X線の透過度が高いところを白く、X線が透過しにくいところを黒く表現した方が判読しやすい。ここでは、通常、ポジ像を拡大・画像処理して観察している。分割画像を接合した全身画像を写真1に示す。なお、文中の寸法はフィルム上の大きさを計測したもので、X線の広がりによる補正を行っていない。

写真1

4 解析

 木彫は一見すると、両腕を除いて1本の木から彫刻されているように見えるが、X線を透過することによって幾つかの部分でつなぎ合わせてあることがわかった。とくに、頭部から腰部にかけての正面(構成部材①)と背面(構成部材②)は、二つの木を張り合わせて一体にして彫刻されている。以下、それぞれの部位をやや詳しく見ていくことにする。

(1)胴部・頭部

 胸部には正面から見ると縦長の直方体をしたほぞがはめ込まれていることがわかる。このほぞは木像の全面と背面の接合を安定させるために付けられたものと思われ、ほぞ穴は背面(構成部材②)の深くまで穿たれていて、周囲には接着剤らしきものの充填された痕跡が見えている。同様のほぞは胴部にもある。こちらは横幅がやや広く、両者とも正中線上に位置している。これらは、どちらも正面(構成部材①)にほぞがつけられ、背面(構成部材②)にほぞ穴が掘られている可能性が強い。胸部のほぞは母材側で20×50ミリメートル、ほぞの上面で18×40ミリメートルで台形をしている。腹部のほぞは35×40、ほぞの上面で28×40ミリメートルで、これもほぞの先端部でやや細くなっている。これら二つのほぞについてはさらに精査する必要がある。

 二つの板の張り合わせは、これら二つのほぞと、頭部から腰あたりまでまだらな模様を作っている接着剤と思われるものによって行われている。頭部では接着剤を塗布したときの刷毛目と思われる模様が観察される。感覚は1ミリメートル前後で、ややカーブを描いている。右膝部に木釘が一本認められ、頭部左こめかみ部にもう一本木釘が使われている。しかし、右膝部の木釘は二枚の接合のためというより、制作時に膝の部分が折れたので、補強のために接着剤と併用したと見た方が良い。

(2)脚部

 エジプトの男子立像は通常左足を一歩踏み出しているが、それがこの立像にも踏襲されている。大腿部以下の脚部は、左脚の臑から下(構成部材③)を継ぎ足して前に突き出している形が作り出されている。固定するために膝下左側と臑右側の2ヵ所で木釘と接着剤が使われている。右脚は背面部(構成部材②)がそのまま取り付け用の突出部まで一体である。つま先(構成部材④と⑤)は左右共に付け足して足の甲から差し込まれた木釘と接着剤で固定している。この木釘は直径5.5ミリメートルで、左が長さ40ミリメートル、右が30ミリメートルである。つま先の継ぎ足しは、エジプトの木彫ではセンウセルト1世像(第12王朝)など、よく見られる製作法である。

 年代測定に使った資料を採取した部分は右足裏に延びた突出部である。背面部(構成部材②)の末端に位置する。突出部の底面からのみを使って年代測定用の資料を採取した。この突出部は左右両足にあり、幅70ミリメートル、厚さ20ミリメートル、長さ45ミリメートルで、とくに左足の年輪構造の観察によって脚部と一体になっていることが確認できる。左右の突出部のほぼ中央にそれぞれ直径約10ミリメートルの穴があいていて、穴の周囲に着脱の際に付いたと思われる傷が見られる。木彫を直立させるための固定に使われたものかもしれない。

(3)腕部

 エジプト木彫の一般例にもれず腕(構成部材⑥と⑧)は左右共に肩の部分で接合されているが、ともに腕の外側から穴をあけ直方体をしたほぞを刺し込んで固定している。左右ともほぼ横25ミリメートル、たて50ミリメートルのほぞである。隙間に接着剤を塗布することによって固定し、腕の外面に残る穴にも接着剤が充填されて釘隠の役割を果たしている。

 右腕に刺し込まれたほぞの下側に平行して先が鋭く尖った金釘が見えている。頭はなく、先端は円錐形をしている。太さは一様でない。頭部がやや細く、最大径はおよそ2ミリメートルで、長さは45ミリメートルである。近代工業による大量生産品ではない。また、今は埋められているが、釘の刺し込まれた外側にはロート状の穴があけられていたことと、ほぞが折れたらしく腕の接合部分が薄い板を挟んで接合されていることから、腕がはずれてしまったため後に補修した跡である可能性が高い。また、左腕と胴体との間は接着剤が分厚く塗り込められているが、右腕にはほとんど見られない。制作時に使われた接着剤は、後述するようにしっくいである可能性が高く、透過X線像ではX線を吸収するため白く抜けている。後世、補修した際には、しっくいを使わず、他の接着剤を使ったものと思われる。

 また、左腕の取り付け部の肩から上腕部にかけて、長さ65ミリメートル、厚さ10ミリメートルの小さなパーツを継ぎ足しているが、理由はわからない。接着剤の塗布がほとんどないように見えるので、これも後世の補修跡かもしれない。右腕は肘を曲げて前に突きだしているが、肘のところから先が接合されている(構成部材⑨)。木釘らしいものが見える。左手と同様に物をつかんでいる。手指の構造はよく観察できなかったが、左手と同一構造と思われる(構成部材⑩)。左腕(構成部材⑥)は親指までは一体構造で、何かを握る、または提げる格好をしている。手首から先、親指を除いた四指の部分(構成部材⑦)が接合されている。この部分に直径約5ミリメートルの穴が開けられている。

 このように見てくると、木彫は10個のパーツに分かれ、4つのほぞ、少なくとも7本の木釘、および接着剤を使って制作されたことがわかる。少なくとも、頭部から足先までは、一体に仕上げた上で彫刻されたものと考えられる。両腕についてはよくわからない。

 正面と背面を二枚の木を張り合わせたのは、左足を一歩前に出す姿勢を彫り上げるための工作法と考えられる。それでも足りずに、左足は膝下からさらに継ぎ合わせ、さらにつま先を接いでいる。手に入る部材が、10センチメートル未満の厚さの板材だけで、丸太が入手できなかったのかもしれない。

 古代エジプトでは、木の彫像にシリア方面から輸入されたレバノンシーダ[ヒマラヤスギ属]やイタリアサイプレス(イトスギ)[イトスギ属]などの木材が使われていたという。現在、レバノンシーダはレバノン、トルコに分布し、イタリアサイプレスは地中海沿岸地方、中東、アフガニスタンなどに分布している。イトスギの幹は直立し、高さ20〜30メートル、幹の直径60〜70センチメートルで、大きいものは高さ45メートル、直径1メートルに達する(林ら、1985)。この時代に調達できる形状が板材のみだったとすると興味深いことである。

 左足のくるぶし付近では幅およそ70ミリメートルに70本程度の年輪が認められる。異常に広い年輪があったり、不明瞭なものもあるが、その数が大きく変わることはない。さらに、右腕にも明瞭な年輪構造が認められる。上に述べた樹種の構造とは矛盾しないが、樹種決定も行う予定である。

5 構成部材①における接着面の観察

 構成部材①と②を接合するために多量の接着剤が使われている。この接着剤はX線を完全には透過しないことから、材の接着面に残されている凹凸の状態を映し出す効果を副産物として得ることができた。正面からと側面から撮影したX線写真を細かく観察してゆくと、刃物によって削り取られた痕跡を幾つか確認することができ、材の接着面に施されている加工痕の一部を観察することができる。今回の観察では正面からとやや正面よりの側面から撮影した写真であったことから、構成部材①の接着面の情報のみである。このことは接着剤のふくらみが正面側にあること、即ち構成部材①が削られて窪みとなったところに接着剤が充填されていることからも判断することができた。顕著な痕跡として残っているのは、胴部のほぞの左側に接するような位置に、左に中心を持つ弧を描いて残されている。幅は20ミリメートル、弧は160ミリメートルの長さであった。弧の上端と下端の様子を今少し細かく観察すると上端部は材に対してスムーズに工具の刃が接しているが、下端部では刃の運動は急に止まってその先は折りとられるような痕跡を残している。このことから、材は上から下に向けて削られていることがわかる。また、弧の形が整った円弧をなしていないため正確な大きさはわからないが、半径はおよそ40ミリメートル前後であったと考えられる。構成部材①を裏側から見ると正面から見て左側にあった弧の中心は右側になる。それらを合わせて考えると、短い柄の付いた工具を持って右側から肘を支点にした回転運動による削り痕であろうと推定される。同様の削り痕は左側の腰部から大腿部にかけてと、胸部と胴部にあるほぞの中間点にも見ることができる。いずれも形状や弧の中心が正面から見て左側にあることなど、先ほど観察した削り痕と同一の特徴を備えていることが認められる。これらの残された削り痕は、おそらく右利きの人による同じ工具を使った加工の痕と判断することができる。

6 接着剤

 蛍光X線の測定・分析によると、しっくい(CaCO3、炭酸カルシウム)を使って、部材同士を接着したものと考えられる。左肩の接合部で剥離して挟まっていた約1ミリメートル角の接着剤を二片採取した。蛍光X線装置(XGT2700 堀場製作所、JSX-3201 日本電子)を用いて、2つの資料について元素分析を行った。定性的な結果であるが、両方で検出された主な元素は、Si(ケイ素)、Ca(カルシウム)、Fe(鉄)などであった。1つの資料は他にPb(鉛)を含んでいた。

 用いた蛍光X線装置はどちらもエネルギー分散型検出器をもっている。後者はUTW(Ultra Thin Window)で、X線検出器の膜は非常に薄く、軽元素であるC(炭素)やO(酸素)を検出することが出来るが、残念ながら定量することは出来ない。

 今回の測定結果から考えられることは以下の通りである。まず、主にしっくいで出来た接着剤が接合部に隙間が出来て砂ぼこりを集めて、ケイ酸塩を含むようになったことが考えられる。あるいは、いささか考えにくいことながら、すでにこの時代にケイ酸塩を含む耐久性があるしっくいを用いていたのかもしれない(近世になると砂を混ぜて使われるようになる)。また、鉛を含むものがあったことから、鉛および鉄などを含む顔料によって彩色されていた可能性もある。今後、精査する必要がある。もう一点は、しっくい(主としてカルシウム)によって、写真1に見られるような明確なX線吸収が起きるかどうか疑問があった。二資料と同程度の大きさの晶質石灰岩(大理石 山口県美弥郡秋吉台)を用いて、50〜100キロボルトのX線による吸収を比較した結果、同じような吸収を示すことがわかった。
(丑野毅+吉田邦夫)



【文献】
林弥栄・古里和夫、1985、『原色樹木大圖鑑』、中村恒雄監修、北隆館。


6-2 『キリストの顔』
木彫、幅28.5、奥26.5、高35.0、フランス北部、19世紀、「石橋家二十九番」、石橋財団ブリヂストン美術館蔵

 放射性炭素年代測定の結果、材料に使われた木材は1850年から1900年にかけてのものである(1760年前後のものである可能性も残される)ことが判明した。彫刻の表面は中世後期の木彫と見まがわんばかりの時代色を帯びているが、これは長期間にわって屋外に晒されていたための経年変化の跡と思われる。また、かなり目立つ部分に大きな亀裂が生じていることから、使用材を寝かせ、乾燥をさせるプロセスが充分でなかったと考えられる。彫刻の技術的な側面で言うと、とくに頭髪の部分などの彫り跡からみて、鑿の切っ先が中世後期のものとは考えにくい形状を呈している。首を深く下方に傾げる人頭は、たしかに中世後期のキリスト磔刑像に多く見られるものではある。しかし、その場合には棘冠を頭に頂いていることが多く、その点でも本作品の頭部の表現には不自然な点が認められる。作品の底部には鋸状のもので裁断された跡が認められるが、そのさい、彫刻の中軸線と直交する面でなく、いくらか首を傾げたかたちを取るような角度で裁断されたため、磔刑のキリストに特徴的な苦しみの表情が増幅されることになったのであろう。もっとも、だからといって本作品の審美的な価値を卑しめてはならない。これは正当な技法で制作された紛れもない19世紀木彫として、充分鑑賞に堪える作品だからである。
(西野嘉章+吉田邦夫)


6-3 アフリカ彫刻
木彫、高54.0、制作地未詳、19世紀


6-4 アジア神像
木彫、幅10.0、奥18.5、高68.5、制作地未詳、19世紀半ば

 おそらく舟の舳先を飾っていたのだろう。使われているのは南方系の、しかし硬質の材である。

6-5 仏陀(?)
木彫、高44.0、日本、19世紀末


6-6 ヴェネト=ビザンティン派、『聖母子』
板に油彩・テンペラ、縦25.0、横19.5、イタリア北部、15世紀中葉

 美術史学的な研究は、様式と図像の比較分析から本作品の制作年代を1420年代とし、額縁の推定年代とされる16世紀初頭に傷んだ部分を加筆し補修するなどの改変がなされたとしてきた。しかし、放射性炭素年代測定と光学的な解析を行った結果、基底材が百本以上の年輪を有する北方系の材で、年代は15世紀中葉のものであることが裏づけられた。また、エックス線解析によって画面下層に下絵が残されていることも判明し、カルトン(型紙)等を用いてのステレオタイプな制作法によるものでないことがわかった。


6-7 シエナ派、『聖母子』
装釘板、板にテンペラ、縦37.5、横27.0、イタリア中部、1521年、個人蔵

 裏面に「シエナ大聖堂聖具室動産目録千四百二十一年バルトロメオ」の記銘あり。


6-8 中世写本零葉
ヴェラム紙に彩飾、縦39.3、横26.0、フランス、1360年頃

 変哲ない中世写本の零葉ではあるが、X線の投射による成分解析から使用された材料をある程度まで特定することができる。文字の部分については、ゴール・インクが使用されていることがわかった。樫の木にできる虫瘤(gall)を採取し、そこに緑バン(硫酸鉄七水和塩FeSO4.7H2O)を加えると虫瘤の中のタンニンすなわち鉄分が黒化する。これをアラビア・ゴムで溶いたものがそれである。朱文字はミニウム(minium)と呼ばれるが、これは水銀の硫黄化合物である辰砂(HgS)。またイニシャル装飾部分については、青色が水酸化炭酸銅(2CuCO3.Cu(OH)2)の藍銅鉱、金色には金箔が使用されている。ただし朱色の部分については、朱文字部分と組成が異なる。すなわち、鉛丹(Pb3O4)に有機系赤色顔料を混入したと推定されるのである。1947年にイスラエル西岸地域ヒルベト・クムランで発見された紀元前2−1世紀の「死海写本」についても同様の分析がなされており、われわれの解析データは朱と黒の文字部分についてその結果を追認することになった。古代の地中海東部地域に起こった写本制作技術は、1500年近くのあいだその基本がほとんど変わらぬままにあったことを確認することができる。
(西野嘉章+吉田邦夫)


6-9中国古代竹簡(贋作)
竹に墨書、長30.0前後、個人蔵

 平成7年に日本、台湾、香港で大量に出回った「中国湖北省出土・戦国時代楚の竹簡」である。この種の竹簡は複数のルートを介して国内で1万本以上流通し、なかには数本単位から百本、千本単位で購入した者もいた。しかし多くの竹簡が持ち込まれるにつれて、それらの出自を疑問視する声が強くなった。そこで、科学鑑定が求められ、最初に流通した「大阪ルート」のもの、東京の美術商が扱ったもの、「香港ルート」のものの3種類の年代測定を行った結果、比較対照試料として使用した「都内の焼き鳥屋から入手した竹串」と年代の違いのないことがわかった。また竹簡に書かれた文字については「包山竹簡」からの敷き写しと考えられ、その際に生じたと思われる「誤写」もいくつか認められた。本物らしく見せるため、干支を含む文がわざと引用されている。素材と記文のいずれにおいても、この竹簡は贋作以外ではあり得ない。
(吉田邦夫)




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