テル・サラサート第五号丘出土のニネヴェ5式土器

沼本 宏俊
国士舘大学イラク古代文化研究所




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ニネヴェ5期とは

 南メソポタミアのウルクを中心にメソポタミア全域及びイラン高原、アナトリア東南部にまで広がっていた西アジアで最古の都市文明ウルク後期文化(前三五〇〇−三一〇〇年頃)が衰退した後、各地方で独特の土器文化が興隆する。中でも北メソポタミア地方(イラク北部・シリア北東部)でウルク後期の土器を継承し、独自に発展した独特の彩文土器と刻文土器に代表される文化がニネヴェ5期である[1](前三一〇〇−二四〇〇年頃)。この時期は北メソポタミア地方がアッカド帝国に統轄される直前の期間であり、町邑から要塞を備えた都市に推移する過渡期で、都市国家成立の黎明期と言えよう。ニネヴェ5期に並行する時代、南メソポタミアでは初期王朝期文化が興り、多くの文献資料(粘土板文書)を残しているのに対し、北メソポタミアのこの時期にはそのような資料は未だ存在せず、文化編年や社会、政治、経済の実体は殆ど不明である。近年、欧米諸国の研究者達はこの「謎の文化」の解明を共通のテーマとして積極的に調査と研究に取り組んでいる。その大きな理由は村落社会から都市国家に変貌してゆく背景と、南メソポタミアのシュメール文明との関連について注目しているからである。一九八〇年以降の各国調査隊による北イラク、北東シリアの発掘調査で数々のニネヴェ5期の遺跡が発見され、それ以前まで全く不明であったニネヴェ5期の編年は、後述するように土器の形式と彩文土器と刻文土器の共伴関係から大きく四つの時期に細分できることが明らかになった。しかし、それ以上にはまだ層位学的に実証されておらず、ニネヴェ5期の詳細な編年は未だ確立していないのが現状である。



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サラサート第五号丘出土のニネヴェ5式土器の重要性

 これまでの発掘調査により検出されたニネヴェ5期の土器以外の遺物や建築址は乏しく、そういった資料で編年を確立することは困難である。したがって、この時期の諸問題を解決するには土器研究が最も有効である。発掘件数のわりに公表された土器資料は今のところ数少ないが、東京大学総合研究博物館には東京大学イラク・イラン遺跡調査団(団長江上波夫)が一九六五−六六年に行った北イラクのサラサート五号丘の発掘調査(第四次)のニネヴェ5期の土器資料が大量に保管されている[深井・堀内・松谷一九七四] 。この調査当時には登録品以外の遺物のイラク国外への持ちだしが許可されており、出土土器の大半を研究資料として搬出することができたのであった。その土器の総量は約一・二トンにも及ぶ膨大なもので、一つの遺跡から出土し、かつこれほど纏まった量のニネヴェ5期の資料が所蔵されている例は諸外国にはない。サラサート五号丘から発見された建築址(穀物倉庫址、円形巨大窯)、遺物はニネヴェ5期の中のある一つの時期「ニネヴェ5前期(彩文と初期刻文期)」の標準とされ、資料的に高く評価され外国人研究者のニネヴェ5期に関する論文、報告には常に引用され、ニネヴェ5期の遺跡の中でも最も注目すべき一つとされている。ところが資料はごく一部しか公表されておらず、その大半は未整理で貴重な資料が埋もれていると言っても過言ではない。この未公表資料を多方面から整理分析し内外にその成果を公表することによりニネヴェ5期の中でのテル・サラサートの占める重要性と資料としての利用価値はより一層高まり、ニネヴェ5期文化の解明に大いに貢献するにちがいない。特に当該資料は統計的処理が可能な纏まった数量があるので土器組成、土器の用途、生産体系、建物の機能、さらにはこの時期の社会構造の一端を解く手掛りとなる。このような重要性から執筆者はこの資料の調査を平成六年から開始し、現在も継続し分析を行っている。

 サラサート五号丘のニネヴェ5式土器の解説をするにあたり、まずニネヴェ5期文化の地域と環境およびこれまでの調査の概要についてふれてみよう。



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分布と地域

 ニネヴェ5式土器が出土した遺跡は主に、現在のイラク北西部、シリア北東部、トルコ東南部にかけてのザグロス山脈南麓の肥沃なアッシリア平原に認められる[挿図1] 。現在、これらの地域はクルディスターン地方と呼ばれ、クルド人、アラブ人のほかに、アッシリア人、アルメニア人、ヤジーディ人、トルコ人などの少数民族が共存しており、多民族社会の縮図というに相応しい地域である[2]。したがって、ニネヴェ5文化圏はこれらの地域の範囲を中心に広がっていたと考えられている。この地域の気候には四季があるが、乾期の夏と雨期の冬に二分され、年間降雨量は約二〇〇−四五〇ミリでその約九〇パーセントが雨期の一一月から四月に集中する。中でも二月、三月は特に降雨量が多く毎日土砂降りが続くことも珍しくない。言うまでもなく、この時期の雨は天水農業を主体とするこの地域の農作物生産に重要な役割を果たし、その年の降雨量が麦の生産高を左右する。この豊富な雨量と肥沃な土壌がこの地域に世界最古の農耕文明の発祥をもたらす大きな要因となったわけで、この地域は所謂「豊沃な三日月地帯」に属し初期農耕文明が興った地域でもある。イラク、シリアに属す地域は現在も穀倉地帯となっており、両国の農業経済の基盤となっている。

[挿図1]ニネヴェ5式土器の分布と主要遺跡
[Rova 1988, II, IIIを改筆]
1-ニネヴェ(Nineveh)
2-テル・ビラ(Tell Billa)
3-テル・サラサート(Tell Thalathat)
4-テル・モハメド・アラブ(Tell Mohammed Arab)
5-テル・カラナ3号丘(Tell Karrana 3)
6-テル・ツウェイジ(Tell Thuwaij)
7-テル・ハワ(Tell Hawa)
8-テル・レイラン(Tell Leilan)
9-テル・ブラク(Tell Brak)
10-テル・シャガル・バザル(Tell Chagar Bazar)


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これまでの調査と研究

 現在、ニネヴェ5期は幾つかの時期に細分化されることが明らかになった。この時期の大まかな編年の確立までの経緯について、ニネヴェ5期の主要な遺跡の調査成果の概要を年代順に記してみよう。まず、ニネヴェ5(ファイブ)期の名称の由来とその文化層の最初の発見についてであるが、イギリス人地理学者トンプソンらは一九二九年から三一年にかけてイラク北西部、モスール市にある新アッシリア帝国の都として知られているニネヴェのクユンジュク遺丘を発掘調査し、彩文土器と刻文土器(精良で高温焼成された灰色土器)を発見した。これがニネヴェ5式土器が最初に公式に報告された調査である[Thompson and Hutchinson 1931; Thompson and Hamilton 1932] 。しかし、この時にはまだニネヴェ5という名称は付けられていない。翌一九三二年、トンプソンとイギリス人考古学者マロワン(夫人は推理小説家アガサ・クリスティ女史)はクユンジュク遺丘の新アッシリア時代の下層の層序を確認するため、深さ約二七メートルのピットを地山まで掘り下げた。その結果、地山から数えて五番目の層位から出土した彩文土器や刻文土器に代表される土器群を一つの時期、文化に伴ったものと見做しニネヴェ5(Ninevite 5)と名付けたのであった[Thompson and Mallowan 1933] 。以後、ニネヴェ5という名称が土器の様式や時期、文化を呼称する際に一般的に使用されるようになったのである。マロワンはこの調査の層序の前後関係と南メソポタミアのジェムデド・ナスル期や初期王朝期の彩文土器との類似性からニネヴェ5期を紀元前三〇〇〇年期前半に編年づけたのであった。この編年は以来五十年以上にわたり支持されており、現在のニネヴェ5期の編年の基礎になっている。

 一方、ニネヴェの発掘調査が行われていた一九三一−三二年、ペンシルベニア大学博物館とオリエント研究所で編成されたアメリカ隊は、ニネヴェの北東約二五キロに所在するテル・ビラの発掘調査を開始し七つの文化層を確認した[Speiser 1933] 。この調査で認められた遺構、遺物に関しての詳細な報告はいまだに公表されていないが、調査隊長スパイザーによれば最下層の七層からは彩文のニネヴェ5式土器が、六層より上層からは刻文のニネヴェ5式土器のみが出土したと報告している。スパイザーはこの層序関係から彩文土器は刻文土器よりも明らかに古い時期に伴うが、これらの二種類の土器はおよそ同一の文化に属すと主張し、この文化層の時期をマロワンと同様に南メソポタミアのジェムデド・ナスル期に並行すると見做し紀元前三〇〇〇年期前半に編年づけた。また、同氏はこれらの様式の土器には当然ながらニネヴェ5という名称は使用せず「チャリス・ウェアー」もしくは「ビラ・ウェアー」と呼んでいる。

 ニネヴェ、テル・ビラの調査後約三十年の間はニネヴェ5期遺跡の本格的な発掘調査は実施されず、ニネヴェ5期の諸様相は全く不明のままであった。その後、ニネヴェ5期の文化層が確認されたのは一九六五年に東京大学イラク・イラン遺跡調査団が実施したイラク・モスール市の北西約四〇キロにあるテル・サラサート五号丘の発掘調査であった[深井・堀内・松谷一九七四] 。この遺跡からは穀物倉庫址と巨大円形窯が発見され、これらに伴い多量の彩文、刻文、素文のニネヴェ5式土器が混在し出土した。穀物倉庫址の構築に伴う攪乱が全く認められない層と窯内部からは彩文土器と刻文土器が共伴し出土しており、これらの土器はほぼ同時期に併存していたことを示している。しかし、発掘者はこの調査においてニネヴェ5期の編年を細分化するような新たな証拠を提示することはできなかったとし、彩文土器と刻文土器が同時期に併存したという事実を明言していない。この見解の背景には、この遺跡で確認されたニネヴェ5期の層位の堆積が主に穀物倉庫址のみに伴う比較的薄い単一時期の生活層であったため、層序の上下関係から土器編年を追求することが困難であったことや、当時のニネヴェ5期の編年は上記のテル・ビラの調査の層序で得られた彩文土器は刻文土器に先行し出現する、即ち彩文土器と刻文土器は同時に共存しないという意見が定説化しており、この編年に固定観念があったことが挙げられる。

 テル・サラサート五号丘の調査以後は、ニネヴェ5期遺跡の層位学的な発掘調査は一九八三年のイラク北部チグリス川河畔のエスキ・モスール・ダム水没地区の遺跡群の諸外国隊による調査が開始されるまでは行われなかった。この地区の数多くの遺跡からはニネヴェ5期の文化層が発見された。中でもイギリス隊が行ったテル・モハメド・アラブとドイツ・イタリア編成隊により行われたテル・カラナ三号丘の綿密な発掘調査は、近年まで未解明であったニネヴェ5期の起源と編年の概要を層序学的に実証した。

 テル・モハメド・アラブからはウルク後期と厚い洪水層を挟んで二つの時期に分かれるニネヴェ5期の層位が認められた[Roaf 1983; Roaf and Killick 1987] 。下層のニネヴェ5期層は六つの生活面からなり彩文土器と簡略なモチーフの刻文土器が共伴し出土し(モハメド・アラブ2期)、この層をニネヴェ5前期に属すと見なした。これらの土器に酷似するテル・サラサート五号丘から出土した彩文土器と刻文土器は同時期に併存したことが証明されたのであった。一方、上層のニネヴェ5期層からは重厚で複雑な文様をもった刻文土器と削文土器が出土し、彩文土器は共伴しないことが判明した(モハメド・アラブ3期)。そしてこの層をニネヴェ5後期に相当すると見なした。この調査により、従来の調査では明確な解答は得られなかったニネヴェ5期の彩文土器と刻文土器の共伴関係はほぼ解明されたのであった。

 テル・カラナ三号丘の調査ではテル・モハメド・アラブには存在しなかったウルク後期からニネヴェ5前期にかけての継続した三つの生活層(Level 3b, c, 2)が検出された[Wilhelm and Zaccagnini 1991, 1993] 。これらの層からはウルク後期の土器とニネヴェ5式土器の両方の特徴を有した土器が出土したことから、これらの土器群はウルク後期の土器が踏襲され徐々に変化したものと判断され、「トランジショナル期(過渡期)」が設定されたのである。この層位の発見によってニネヴェ5式土器の原型はウルク後期の土器であったことが実証されたのであった。さらにこの時期の土器群は主に彩文土器と素文土器により構成され、ニネヴェ5前期に属すモハメド・アラブ2期、サラサート五号丘で認められた灰色・刻文土器は、この時期にはまだ出現しないことが明らかになった。また、このトランジショナル期の存在が実証されたことにより、従来の調査で認められただ漠然とニネヴェ5期の土器と判断されていた既知の資料の中には、実際はこの時期に属すものが数多く存在することが判明した。例えば一九三〇・三一年のニネヴェの調査ではトランジショナル期に伴う土器が多数公表されている[Thompson and Hamilton 1932] 。最近、ドイツ人研究者がニネヴェの発掘資料の再調査を行った結果、ニネヴェ5層の下層にウルク後期最終末期からトランジショナル期に伴う層位の存在したことが明らかになった[Gut 1995] 。

 以上、これまでの主要なニネヴェ5期遺跡の調査について概観したが、現在、研究者間で最も支持されているニネヴェ5期の編年は、上記のテル・モハメド・アラブの発掘調査成果をもとにローフとキリックが提示した編年案である。それは古い順に「トランジショナル期」、ニネヴェ5前期、ニネヴェ5後期、ニネヴェ5最終末期の四つの時期に大別したものである[3][Roaf and Killick 1987] 。これらの小時期を南メソポタミアの編年に対比するとトランジショナル期がジェムデド・ナスル期に、ニネヴェ5前期が初期王朝I期に、ニネヴェ5後期が初期王朝II期とIII期前半に、そして最終末期が初期王朝III期後半におよそ並行すると考えられている。以上の小時期の彩文土器と刻文土器の共伴関係について簡略に記すとトランジショナル期には彩文土器のみが、ニネヴェ5前期には彩文土器と簡略な文様の刻文土器が、そしてニネヴェ5後期には複雑で重厚な文様の刻・削文土器のみが存在する。最終末期になると重厚な文様の刻・削文土器はなくなり、簡素な文様の刻文土器に転じてゆく。執筆者はこの編年を基礎とした上で土器の器形や文様の特徴、共伴関係などから、この編年は更に細分化できると考えトランジショナル期とニネヴェ5前期の間に「インターミディエイト期」を、ニネヴェ5前期とニネヴェ5後期の間に「初期削文期」という新しい小時期を設定したのであった[Numoto 1991, 1993、沼本一九九五][表1] 。

[表1]ニネヴェ5期の編年(Roaf and Kilick 1987 を改筆)


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サラサート第五号丘のニネヴェ5式土器

 五号丘出土のニネヴェ5式土器は彩文土器、刻文土器、灰色土器、素文土器、素文粗製土器に大別され、これらはニネヴェ5前期の典型的な資料と見なされこの時期の代表的な器形がすべて認められる。代表的な器形は小型碗(胴部に屈曲を持つ)、高坏、釣手付の小中型壺、台付甕[挿図2-8] で、器形はバラエティに富むが、トランジショナル期のものとは全く異なる器形は認められない。何れの器形もウルク後期の器形を原型とし徐々に変化したものである[4]。例えば彩文の高坏、甕類の底部の変化を挙げればウルク後期の低い高台はトランジショナル期には台状になり、ニネヴェ前期には長い脚や高い台に推移する[挿図3-5] 。小型碗の屈曲部はウルク後期、トランジショナル期のものは鋭いが、ニネヴェ前期には緩やかになる[挿図2] 。


[挿図2]彩文小型碗


[挿図3]彩文高坏


[挿図4]彩文壺


[挿図5]彩文甕

i 彩文土器

 彩文土器は約五百点が出土しており、小型碗、高坏、釣手付台付壺、台付甕の器形が認められる。土器の胎土は概してスサを含んだ例が多く、特に大型器形には顕著に多量のスサが認められる。成形に関しては小型碗、高坏、釣手付壺はロクロにより仕上げられているが、大型台付甕は輪積み成形されている。器面の調整方法はトランジショナル期のものと同様で各器形とも胴部下半の外面が削られ、特に大型の甕の内外面には荒い削りが施されている。彩文は単彩で暗紫色、紫紺色が典型的な色調であるが焼成状態により茶色、濃い緑色を呈したものも多くみられる。彩文は常に器面にクリーム色、白色の化粧土を施した上に描かれている。

 小型碗には彩文が施されたものは数少なく完形品の出土はなく十八片を確認したにすぎない[挿図2j] 。トランジショナル期にはこの器形に彩文が施された例が多く認められるが、ニネヴェ5前期には数少なくなる。この理由としてトランジショナル期以後に灰色土器が出現したため、この時期の同器形は殆どがこの種の土器で製作され、文様には刻文が採用されたことが挙げられる。高坏は小型から大型(口径約一〇−三〇センチ)の様々の種類の器形が認められ[挿図3j-n] 、共通する特徴としては口縁部が直立もしくは僅かに外反した例が多いことが挙げられる。トランジショナル期のこの器形は常に内傾した口縁部を特色としていたが、この時期には直立した状態に変化し、底部に付属した脚状の台は茎部と裾部から成る長い脚に変化する。大型器形には太く長い茎部を特徴とした脚を有した例が多く認められ、茎部に長方形の透かしをもつものが多い[挿図3m、n] 。釣手付台付壺のサンプルも少ないが、鋭く張った肩部を特徴とし、縦穿孔された釣手が四つもしくは二つ器周に付く[挿図4] 。他遺跡出土の同器形の釣手には完全に穿孔されていない例や使用痕が認められないことから[挿図4d] 、釣手は実用としてではなく装飾の一部であったと考えられる。台付甕には肩部が張った器形と丸い形態のものが認められるが、前者の器形がより一般的である。これらの頚部は概して長く、口縁部は外側に開く。そして、底部には必ず高い台が付属する[挿図5e-h] 。

[文様の特色]  五号丘の資料が比定されるニネヴェ5前期には彩文土器は最も隆盛を極め、様々の文様要素、文様構成をもった彩文が出現する。前の時期のトランジショナル期に比べ文様要素の種類が極端に増加し、特に具象文(鹿、山羊、鳥、植物等)が頻繁に認められる[挿図6] 。文様単位は多くの文様要素の組み合わせから構成され、一つの基本となるモチーフ(凹レンズ文、重弧文、鹿文、山羊文等)に、他の種類の文様要素を付属した文様が数多く認められる。トランジショナル期には文様は主に器体の上半部に施されているが、この時期には常に器体の全面に文様が密に描かれるようになる[挿図3-5] 。そして、これらの文様構成は主に水平帯状文[挿図2j、3j、4f] と方形の区画に文様要素を描いたパネル文から成る[挿図3k-n、4h、5e-g] 。水平帯状文は上下に反復し描かれ、パネル文は主に二種類のパネルの左右、上下の反復を基調にし、トランジショナル期のものに比べ整然と規則化されている。文様の基本はトランジショナル期のスタイルを踏襲しているが、更に文様施文の規則性は強固になったのである[挿図7] 。パネル文の中では具象文のパネルと幾何学文のパネルの組み合わせが最もポピュラーで芸術的にも優れた印象を受ける[挿図3n、4h、5e] 。器体全体の文様構成を示す体部上半と下半の文様の組み合わせも多様になり、胴部下半には前の時期よりも太いラインで描かれたニネヴェ5期の固有の重弧文が頻繁に認められる。五号丘の彩文の特徴としては、体部の上半にパネル文を下半に重弧文を描いた文様構成が多いことと、凹レンズ文の使用頻度が高いことが挙げられる[挿図3l] 。他のこの時期の文様の特色としては、トランジショナル期よりも明らかに多くの種類の筆を使用し文様が描かれているため[深井・堀内・松谷一九七四] 、幾何学文、具象文など各々の文様は遥かに洗練され優美に仕上げられており、以前よりも急速に施文技術が進歩したことを物語っている。ニネヴェ5期の彩文土器の全般に共通する特色であるが、特にこの時期の文様はただ漠然と施文するのではなく、それぞれの器形やサイズに適合した文様を施しているのである。例えば、高坏には縦を基調にした文様は描かれていないし、上半部の幅の狭い高坏にはパネル文は施されない[Numoto 1991, 1992] 。ニネヴェ5前期の彩文は器体全面に華美で重厚な文様を特色としていることから、典型的なニネヴェ5期の彩文土器と見なされているが、一方では壺、甕の中には頚部と体部下半のみをべたぬりした彩文土器が数多く認められる[挿図4j、5h] 。特に五号丘ではこの出土点数が多いことや、主要文様帯の肩部から胴部上半に太い縦線のみが描かれた甕の存在[5]、刻文や刻線を折衷させた甕が数点認められることは非常に興味深い。ニネヴェ5前期以後には彩文土器は忽然と姿を消してしまい、土器の装飾は刻文に転換することを考慮すれば、これらのサンプルは彩文の簡略化と衰退を象徴していると考えることもでき[沼本一九九五] 、五号丘出土の彩文土器は隆盛と衰退の両方の要素を兼備した終末期的な特色を有した彩文ニネヴェ5式土器と見なすことも可能である[Numoto 1991, 1992] 。


[挿図6]彩文土器の文様要素の変遷[Numoto 1992]


[挿図7]彩文土器のパネル文様の変遷[Numoto 1992]

ii 灰色・刻文土器

 五号丘では計千五百八十片の灰色土器が出土し、そのうち文様が施されたものはリッブド/レイヤード文(水平畝状文・水平多状刻線文)が二百十二点[挿図8a、b、9a、10a] 、刻文土器五十九点[挿図8d] 、ノッチド・バンド(ロープ状文)八十四点[挿図9c、d、10e] で計三百五十五点であった。ニネヴェ5前期の刻文様は大半が体部の上半に限り認められることから、灰色土器の約三分の一に文様が施されていたことが判明した[Numoto 1997] 。胎土は殆ど混入物を含まない非常にきめの細かい精製した(水漉した)粘土が使用され、ロクロ成形され器肉は非常に薄く仕上げられている。高温で焼成されているため主に灰色、緑灰色もしくは黒灰色を呈し堅緻であるため、灰色・刻文土器は彩文土器と同時に窯詰めされ焼成されなかったことを暗示している。灰色・刻文土器は小型から中型(径約四・二〇センチ)の碗、高坏、壺、釣手付壺に認められ[挿図8-10] 、大型器形には殆ど認められない。注目すべきは小型碗と高坏の胴部下半の色調が底部と上部では異なっており、この現象はこれらの器形の全体の八・九割に認められた。この色調の変化は同一器形を重ね焼きをした際に生じた痕跡と推測され、灰色土器の多量生産を示唆する好例と言えよう。


[挿図8]灰色刻文小型碗


[挿図9]灰色刻文高坏


[挿図10]灰色刻文壺

 トランジショナル期の碗の形態は、屈曲部が器高の中間やその上部に位置し、体部上半が著しく内傾していたがニネヴェ5前期には形態は大きく変化する。すなわち五号丘の多くの資料に共通するように屈曲部が器高の中間より下部に位置し体部上半が僅かに内傾した形態である。底部の形態も以前は半球状の丸底であったが、この時期には尖りぎみに削り整形した底部を有したものも出現する。ニネヴェ5後期以降には胴部に明瞭な屈曲部が存在しないものや全くないものが出現する。したがって口縁部は直立したものが多く、内傾したものは殆ど認められなくなる[Numoto 1989][挿図8] 。高坏は胴部に屈曲部を持ち僅かに内傾した上半部と玉縁状の口縁部を特色とし、脚部の形態は総じて低く台状を呈している。この種の器形には彩文土器に一般的な茎部を有した長い脚は認められないことから、使用された粘土の質や焼成温度が彩文土器とは異なることが深く影響していたと考えられる。体部と脚部は別に作られており、脚の胎土中には体部よりもスサを多量に混入させている。この要因としてスサを混ぜることで粘土の粘着性をさらに増進させ、体部との接合を容易にしたり剥離を防ぐ目的があったと考えられる。同じ現象は釣手付台付壺や彩文土器の高坏にも認められる。ニネヴェ5後期になると屈曲部をもった高坏は減少してゆき、坏、鉢類の器形の底部は尖りぎみの丸底を呈するものが多くなる[挿図9] 。小型壺は丸底で肩部に四つ孔があけられている場合が多く、釣手付台付壺には肩部の張った器形と丸い器形が認められる。これらの孔や釣手は彩文土器の同器形と同じように装飾的な要素が強い[挿図10a-e] 。

[刻文土器の文様]  ニネヴェ5期の灰色・刻文土器は現状ではニネヴェ5前期の初頭に発生したと考えられているが、まだ層序の上下関係により実証されていない[Numoto 1994] 。テル・モハメド・アラブの調査によれば、ニネヴェ5前期の最も古い生活層からはレイヤード/リッブド、ノッチド・バンド[挿図9b] などの簡素な文様の刻文土器が出土し、それ以降の層位から様々の種類のモチーフを持った刻文土器が出土したと報告している[Roaf 1983] 。この事実から、発掘者は早い層から出土した簡素なモチーフを特徴とした刻文土器が、この時期の中でも最も初期的な様相を示すとしている。なお、刻文土器の明確なプロトタイプと見なされる資料はトランジショナル期には認められない。

 刻文は主に小型から中型の灰色土器に認められる。大型器形に刻文が施された例は五号丘の資料にはない。五号丘の資料で最も多いレイヤード/リッブド文の水平の刻線や畝状文はすべてロクロを使用し施されている。さらに殆どの刻文土器の体部下半は磨かれており素文の灰色土器にくらべ極めて入念に製作された様子が窺える。ニネヴェ5前期に相当する五号丘の刻文の代表的なモチーフは、ノッチド・バンド、フェザー・バンド(羽毛状文)、曲線状の刺突文、三角形の刺突連続文、山形文、ジグザグ・ライン、綾杉文、三角形、蝶文の内部を刺突文で充填した文様等である。これらのモチーフの殆どが水平を基調に施文され、刻み目は総じて細く浅い。ニネヴェ5後期に典型的な縦を基調とし器面を深くえぐった「削文」モチーフは認められない[挿図9j、k、10f-h] 。これらの中で最も使用頻度が高いモチーフがノッチド・バンドで大半のサンプルの文様に認められる。器体全体の文様構成が一種類のみの水平帯状モチーフで形成されるものと、二、三種類の水平帯状モチーフで形成されるものに大別される。前者の例を挙げれば、ノッチド・バンド・モチーフが数状認められる場合は、右上がりと左上がりの刻み目のノッチド・バンドが常に上下に反復し、後者のモチーフが複数存在する場合にも上下に交互に反復するという規則を持つ。この文様帯の反復の規則性は上記した彩文の文様構成に全く類似する。これらの水平帯状の文様構成に比べ例は少ないが、パネル文も認められる。パネル文に認められる主なモチーフは蝶文で、彩文のパネル文様と同様に二種類のパネルが左右交互に繰り返し施文されている[挿図8f] 。言うまでもなくパネルは器周を均一に区画するように施文されている。この時期の大半の刻文の施文は体部上半に認められ、ニネヴェ5後期の壺にポピュラーな全面に密に施された例は少ない。刻文の文様構成の規則は彩文のそれに酷似しており、同一工人が彩文土器と刻文土器の両方を製作していたのはまちがいない[Numoto 1993] 。五号丘の刻文土器の中で特筆すべきは穀物倉庫の外部への出入口を持つ二×一メートルの小部屋(R15b)から出土した肩部にフェザー・バンド文をもった黒灰色の完形小型壺である[挿図10b] 。驚くべきことにこの壺の中にはアスファルトが現存しており、口縁から肩部にもそれが付着した形跡がある。五号丘の出土事例からアスファルトは主に接着剤として石製鎌刃と柄の装着や破損した土器の補修に使用されていたことが立証されている[深井・堀内・松谷一九七四] 。この壺の発見はニネヴェ5式土器の器形の用途や五号丘の穀物倉庫の部屋の機能を特定する上で非常に貴重な資料である[6]

iii 素文中・大型土器

 五号丘出土のニネヴェ5式土器の大半(約一〇〇〇キロ以上)がこの種の土器で占められる。甕とボールに大別され、胎土には細砂粒、粗砂粒、そして多量のスサを混入している。輪積み成形され、内外面には器肉を薄くするため常に粗い削りが施されている。外面は削り後そのままのものと粗いナデにより仕上げられたものがあり、中にはクリーム色、白色の化粧土が認められるものもある。彩文の甕は肩部が張り底部に台をもつ器形が多いのに対し、素文の場合は丸い肩部で丸底もしくは平底の器形が多い。中型の完形品の多くは火災を受け廃棄された穀物倉庫の部屋(R1)から出土し、その中の数個には内部に炭化した大麦が充満しており、この器形は主に貯蔵用に使用されていたことを示唆している。出土した甕の中で最も注目すべきは、重複した新旧二つの巨大円形窯(O2, O3)とそれを取り囲む円形壁の間(R3)から発見された大型甕である。計六個体があり、それぞれ三個ずつが上部と下部の窯の側に設置され、これらの大きさと形態は殆ど同一で、完形品の一つは高さ約九六センチ、最大径約八〇センチ、重量約六〇キロを測る。これらの大甕は口縁部や上半部のみを残し埋設され、底部に径八・九センチ大の孔をもっていることから精製粘土の製造のために水漉施設として利用されたと考えられている[7][深井編一九八〇] 。他の甕で特筆すべきは、原位置を保って出土した完形の大型甕である。この大甕も上半部を残し埋設されており、口縁部には台付甕の台部片が蓋として逆さに重ねられ、底部は石膏で全面が補修されていた。この甕の屈曲部の直下とその下方には器周に縄の圧痕が水平に部分的に認められる。この縄の圧痕は大型器形のため輪積み成形した時の器壁の崩れを防ぐ補強のためか、円形に成形する際の目安として巻かれた際に生じたものと推測され、当時の大型土器製作の技術と工夫が良くわかる資料である。ボールは径約二〇・六〇センチのものがあり、大型品は口縁部が大きく外に開いた器形で、小型品にはやや外反した器形が認められ、両者とも平底と口縁部の内面に玉縁を有している。同器形はニネヴェ5後期まで存続する。

iv 粗製土器

 甕型とボールの器形があり大量に出土している。主に白色で石英質の粗砂を多量に含み内外面には磨きが施され、素文中・大型土器に比べ低温で焼成されているため軟質である。通常、甕には三日月状の把手が口縁部の外側に四つ付き、ボールには把手が口縁部の内面に付く内耳状となっている場合が多い。一般に調理用の土器と考えられており、内外面に炭化物が付着した例が多く認められる。五号丘の場合は穀物倉庫という共有の貯蔵施設が存在することから、麦を長期間保管するためこの種の土器を使用し焙煎もしくは燻蒸したという推測もできよう。

v 土器蓋

 約六十点が出土している。ニネヴェ5期の最も典型的な器種の一つで類似品は以前のウルク期には殆ど認められない。円盤型を呈し胎土は中・大型土器のそれと同じである。甕の口縁部の大きさにあわせて製作されているため大小様々のサイズがある。上面にはハンドルや把手が付くものや刻文、貼り付け文の装飾を施したものも認められる。また、上記したように原位置を保って出土した大型甕の口縁部に台付甕の台部が蓋として逆さに置かれた状態で三例ほど検出されている。このような台付甕の台部や甕の底部を蓋として代用した例が当時には相当数あったと考えられる。ニネヴェ5期の蓋の出現と一般化の原因を当時の社会構造をふまえ判断すれば、余剰の穀類を保管管理するための必需品であったのかもしれない。

vi 他の遺物

 発掘区全域から割れ口が人為的に磨滅した各種の土器片が多数出土している(灰色精製土器片 約五十点、彩文土器片 十七点、中・大型素文土器片 約五十点)[Numoto 1997] 。これらの土器片は特に巨大円形窯の内部とその周辺、及び穀物倉庫の東南側の土器窯が集中している区域から数多く出土していることから、土器製作時に内外面を調整する際の工具として使用されたと考えられる。この遺物の発見は、穀物倉庫の外側の区域一帯は居住区としてではなく、土器生産工房として利用していたとする見解を補強する貴重な証拠となりうる。なお、同時期の居住区は一、三、四号丘に想定され、これらのテルにはウルク後期からニネヴェ5期最終末期までの継続した厚い層位の堆積が予測されている[江上一九五八] 。



6


五号丘の資料の再分析でわかった新事実

 五号丘の穀物倉庫に伴うニネヴェ5期の生活層の堆積は比較的薄く、長く見積もっても約五十年ほどの使用にとどまったと考えられる。このような短期間の層序堆積の状態から従来、外国人研究者は出土土器を一部の公表資料のみから判断し、器形や文様には時期差を示すような大きな変化は存在しないと見なしていた。しかし、未公表資料の土器を出土地点や層位別に詳細に観察した結果、五号丘で最下層となる穀物倉庫の構築面に伴った層や巨大円形窯から出土した灰色土器と、最も新しい時期に伴う穀物倉庫外側東南部の表土下層の生活層や窯址から出土した灰色土器の器形には顕著な変化が認められた。後者の土器には胴部に屈曲部がない器形や、新しいタイプの刻文が存在しており、これらは執筆者が設定した後の「初期削文期」の灰色土器に類似した特徴を備えていることが判明した。執筆者はこの事実を一つの根拠として穀物倉庫址に伴う層から出土した土器群をニネヴェ5前期の後半に、表土下層の生活層から出土した土器群を前期より若干降る時期に位置づけた[Numoto 1997] 。



7


ニネヴェ5式土器から観た社会構造

 町邑から都市に推移してゆく背景には土器生産体系の変化があったと考えられる。執筆者はその大きな根拠として灰色土器の出現が画期となり、土器の大量生産が可能になったことを以前から指摘している[Numoto 1993] 。灰色土器はニネヴェ5前期初頭に突如出現し、ウルク後期、トランジショナル期の土器や彩文土器とは全く異質であるため土器生産の技術革新があったと推測され、当時の社会全体にも何らかの変革が興ったことを窺わせる。灰色土器の製作には高速回転轆轤の使用と高温焼成が可能な土器焼窯の開発が必要と考えられ、このような土器製作技術の革新は土器の量産化を可能にし、この時期には既に土器製作の専業化が始まっていたことをも暗示している。また、彩文土器の文様施文技術に関しても以前の時期よりも遥かに向上しており、このことを補強する証拠になると考えられる。五号丘では他に類例のない巨大円形窯の存在とその周囲には六基の窯がみとめられ一大土器製作工房であったことは間違いないと思われ、土器専門職人が存在していたと推測してもおかしくない。しかし、ニネヴェ5前期の共同体の経済的な基盤は麦の収穫によるところが大きく、人々は絶えず農業に従事していたにちがいなく、兼業として農閑期または農作業の合間を利用して土器を製作していたとなれば、生業としての土器生産は否定されよう。この時期に専業化が確立していれば近隣との交易の拡大化および階層社会の黎明が予測されるが、五号丘の土器生産はあくまでもサラサートの一共同体の土器の需要をみたすものに過ぎなかったように思われる。このように土器の様相のみからニネヴェ5前期に都市化に関連した社会構造の変化が興ったという明確な証拠を見出すことはできない。

 灰色土器の伝統は北メソポタミアの都市形成期にあたるニネヴェ5期終末にまで踏襲され「メタリック/ストン・ウェアー」と呼ばれる非常に硬質で薄手の土器に改良される[Weiss 1990, 1991][挿図8j、k] 。このような灰色土器の変遷は町邑規模の遺跡から防御壁を備えた三〇ヘクタールを超える都市クラスの遺跡へ移行する過程にほぼ一致するため、「メタリック/ストン・ウェアー」の出現はニネヴェ5前期よりも土器生産体系の飛躍的な進展を現し(轆轤、使用工具、焼成技術の改善と進歩)、都市化による人口の集中化と増加、交易による需要のためか大量生産化がより進んでゆき、専門職人の出現、専業化の確立を暗示している[沼本一九九五] 。五号丘の出土品に代表されるニネヴェ5前期の華美で緻密な文様の彩文、刻文土器から簡素で素文の「メタリック/ストン・ウエアー」[挿図8m、10i、j] への転換は、土器の量産化により文様は簡略化、衰退してゆき、文様よりも実用的な機能を重視した社会構造がその背景に介在したこと示唆している[Numoto 1993] 。つまりニネヴェ5終末期には都市成立による政治経済の改変と支配体制の確立により土器生産の専業化は、支配階層の中に完全に定着していたことを物語っている。




【註】

[1]ウルク後期の直後からアッカド期(前二三五〇年)直前までの期間で、紀元前約三一〇〇年から二四〇〇年の期間を総称しニネヴェ5期と呼んでいる。南メソポタミアのジェムデド・ナスル期、初期王朝I、II、III期におよそ並行する。[本文へ戻る]

[2]イラク領内のニネヴェ5式土器の分布は現在のクルド人自治区とおよそオーバーラップしている。[本文へ戻る]

[3]これらの小時期の呼称名は各研究者により異なる。因みに執筆者はニネヴェ5前期を「彩文と初期刻文期」(The Painted and Early Incised Period)と、ニネヴェ5後期を「後期刻文・削文期」(The Late Incised and Late Excised Period)としている。[本文へ戻る]

[4]ウルク後期の土器でもこの時期の首都であるウルク遺跡やユーフラテス中流の植民都市ハッバキビーラ遺跡の土器とは異なる北メソポタミアを中心に認められる地方色の濃い器形で、モハメド・アラブやカラナ三号丘出・・・・・・土のウルク後期の彩文や高台を有した碗、甕等に代表される(Killick 1986)。[本文へ戻る]

[5]この彩文甕の大半は五号丘で最も新しい時期に伴う窯跡(K1)の内部から出土しており、口縁部や台部は過焼成により歪み、胴部も整然とした形態でなく表面は煤けており、不良品として廃棄されたものと推測される。文様も極めて雑に施されており、縦線の描かれている間隔は均一でない。[本文へ戻る]

[6]穀物倉庫の十五の部屋は外壁に接しているが、出入り口のある部屋は他に一つしかなく、その部屋は反対面にあり同程度の規模である(R17)。発掘者はこれら二つの出入り口のある小部屋の機能を特定しかねているが(深井・堀内・松谷一九七四)、この壺が出土したことから日常品である各種の備品及び道具類を収納した部屋と想定することもでき、穀物倉庫は穀物の貯蔵に限らず、共同体の多目的な倉庫として利用されていたことを暗示している。[本文へ戻る]

[7]興味深いのは上部の窯に伴う二つの大甕の底部から据え付け坑の底面の間にはスサを水平にぎっしり含んだ堆積が厚さ約四〇センチにわたり観察されたことである。この事実は報告書には記述されていないが、発掘調査日誌にセクション図と詳しい観察が記録されている。このスサの用途について特定はできないが、大甕が水漉施設の機能をもっていたとすれば、下層へ水の浸透を容易にするための便宜的な設備という解釈も可能である。[本文へ戻る]



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219-台付鉢、土器、イラク、テル・サラサート5号丘、ニネヴェ5期、高さ二三・四cm、考古美術部門


220-大形台付壺、土器、イラク、テル・サラサート5号丘、ニネヴェ5期、高さ四七・一cm、考古美術部門


223壺、土器、イラク、テル・サラサート5号丘、ニネヴェ5期、高さ六・五cm、考古美術部門


226鉢、土器、イラク、テル・サラサート5号丘、ニネヴェ5期、高さ六・四cm、考古美術部門


236ふた、土器、イラク、テル・サラサート5号丘、ニネヴェ5期、高さ四・九cm、博物館考古美術部門




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