ギリシアへの遠い道

濱田耕作の『希臘紀行』をめぐって

周藤 芳幸
名古屋大学文学部




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はじめに

 ギリシアにおける考古学調査の歴史をふりかえったときに、まず気がつくのは、旅行記あるいは紀行文が果たしてきた役割の大きさである。ギリシアの地誌に関してまとまった情報を与える古典史料としては、前一世紀から後一世紀のストラボンによる『地誌』と、後二世紀のパウサニアスによる『ギリシア案内記』との二書が広く知られているが、とりわけ後者は、狭義の紀行文ではなくむしろ名所旧跡に即した歴史解説書という体裁をとってはいるものの、内容的にはそのような旅行記の嚆矢とみなすことができよう。『ギリシア案内記』の翻訳を手がけられている馬場恵二氏は、この書について「本書が残されたればこそ、われわれはギリシア本土で発掘された古代遺跡の多くのものの特定ができ、その意味を知り、歴史の文脈に位置づけて解釈を試みることができるのである」と述べているが、まさに至言といってよい[1]

 近代になって、オスマン帝国治下のギリシアは、古典文化の故地として、またヨーロッパの内なる秘境として、多くの旅行家たちが目指すところとなった[2]。パウサニアスの『ギリシア案内記』が、そのような旅行家たちにとって座右の書であったことは、イギリスのディレッタンティ協会から派遣されたチャンドラー(R. Chandler)の旅行記が、パウサニアスによる『ギリシア案内記』に大幅に依存していることからも窺うことができる。彼の旅行記は、ただちに各国語に翻訳されて同時代のフィルヘレニズムに強い影響を与え、それをもとにしてギリシアを舞台とするヘルダーリン(F. Hoelderlin)の名作『ヒューペーリオン』が創作された間の事情などには、きわめて興味深いものがある[3]

 この一八世紀半ばに始まったギリシア旅行熱は、一九世紀にいたって空前のギリシア旅行記ブームをもたらすことになった。一九世紀の初頭には、まずドッドウェル(E. Dodwell)がギリシア各地を訪れて旅行記を著し、一八二〇年代のギリシア独立戦争後には、ロスを筆頭とする専門の考古学者が精力的に各地を踏査して、現地に残されている遺物や遺構についての記録を残すようになる[4]。これらの記録のなかに、既に現物が失われてしまった貴重な碑文のコピーなどがしばしば含まれていることは古代史研究者のあいだではよく知られているが、先史時代の問題に関しても、これらの記録からは、ときとしてきわめて貴重な手がかりが得られることがある。たとえば、画家ロットマン(C. Rottmann)の水彩画に、干拓される以前のボイオティアのコパイス湖を描いたものがあるが、そこには期せずしてミケーネ時代の城塞グラに伴う堤防施設の痕跡が明瞭に表現されているのである[5]

 この旅行記ブームは、後続の旅行者が先達の旅行者による記録を参照しながら、ときにそれを追確認し、ときにそれを批判してより正確な情報を記載することにつとめたために、その積み重ねを通して、ギリシアの地勢や遺跡の現況に関する情報が蓄積される結果をもたらした。そしてそれは、一八七〇年代からギリシア各地で大規模な発掘調査が本格的に開始されるための重要な下地となったのである。一般には、シュリーマン(H. Schliemann)がパウサニアスの『案内記』の記事をもとにミケーネを発掘したときの経緯があまりにも有名であるため、このような旅行記の系譜は脚光を浴びることが少ないが、学史の流れの上では、シュリーマンのように古典史料に直接立脚する方法は、一八七〇年代にあってはもはや時代錯誤であり(もちろん、それは円形墓域の発掘に成功したシュリーマンの天才性を貶めるものではない)、当時既にギリシア各地の遺跡については旅行記を通してかなりの情報が蓄積され、それが二〇世紀に入ってギリシア考古学の発展の礎となったことは疑いがないのである。そして、一九七〇年代からギリシア考古学のなかで地域調査の意義が強調されるようになると、前近代の遺跡の状況ばかりでなく、地域の伝統的な慣習や生業システムについても貴重な情報を多く含んでいるこれらの旅行記の価値は、再評価されるに至っている。

 しかし、本稿の目的は、ギリシア考古学の発展に果たした旅行記の役割一般について論じることにあるのではない。本稿は、我が国では比較的早い段階で、それも考古学というディシプリンの確立に大きく寄与した研究者の手によってギリシア旅行記が著されながら、なぜ、それがギリシア考古学の発展へとつながることがなかったのかという疑問に対して、その旅行記を読み返すことによって新たな光をあてることにある。なぜならば、その光によって浮かびあがる影の部分にこそ、昨今隆盛をきわめる我が国の海外調査が抱える問題点も潜んでいると思われるからである。



2


濱田耕作のギリシアへの旅

 考古学者としての濱田耕作については、ここで多言を要しないであろう。行政発掘が考古学的調査の中核を占める現在でこそ、考古学の研究における大学の存在意義は揺らいでいるが、一九一六(大正五)年に、イギリスのペトリー(W. M. F. Petrie)のもとへ留学していた濱田耕作が帰国して京都帝国大学の考古学教室の教授に就任し、我が国で最初の考古学講座を開設したときには、彼の双肩には我が国の考古学の行方を定める重責が負わされていたのである。これに対して、濱田耕作がよく応えたことは周知の事実であり、その『通論考古学』は、我が国における考古学概説の不朽の古典として、今日に至るまで版を重ね続けている。また、京都大学で濱田耕作の教えをうけた「西の」研究者たち、及びその後継者たちは、東京大学に拠る「東の」研究者たちとは異なる独自の伝統をうちたててきており、その影響はいまだに根強く残っている。

 濱田耕作の研究者としての関心は、きわめて多岐にわたっていたが、ギリシアとローマの古典文化に対する関心には、ひときわ強いものがあったらしい。イギリス留学中の一九一四(大正三)年に南イタリアとシチリアを訪れた彼は、ペストゥムのホテルの部屋で偶然アテネのエレクテイオンなどの絵はがきをみつけ、「さるにても、我れは何時の日か親しく希臘の人たるを得む、雅典のアクロポリスの上に立つことを得む。其の日を思ひやるだに心躍らむとす」と述懐している[6]。その濱田が大戦下の一九一五(大正四)年の初夏にようやくギリシアを訪れたときの旅行記が、濱田の最初の単行本として一九一八(大正七)年に刊行された『希臘紀行』である[7]

 この旅行記は、「羅馬から雅典へ」「雅典の都」「雅典の附近」「クリート島の旅」「ペロポンネソスの巡遊」「北希臘へ一歩」の六章からなる。「羅馬から雅典へ」によれば、濱田は、一九一五年の五月六日の早朝にローマを発ち、バリから船に乗って、翌日の午後にパトラスへ上陸した。今日でもレヴァント風の雑然としたたたずまいを残すパトラス市街の荒涼としたたたずまいは、かねてから古典的なギリシアへの憧れを胸に秘めていた濱田には、かなりのショックを与えたらしい。しかし、慣れないギリシアコーヒーに度肝を抜かれ、夜は南京虫の襲来に悩まされながらも、翌日の濱田は、コリントス湾沿いの美しい風光にすっかり心をなごませている。

 アクロポリスの偉容に忽然と眺め入りながらアテネ入りした濱田は、下町の「アテーナ」街(現代のアゴラを貫いているアシナス通り)に宿をとり、さっそくアテネ市内を探索している。アクロポリスの解説などはさておき、十四節からなる「雅典の都」の章のなかで目を引くのは、第七節の「シュリーマン夫人を訪ふ」と、第十節の「英国学会 リカベトス山」であろう。第七節については角田文衛氏による解説があるのでここでは立ち入らないが[8]、学史的にみてより興味深いのは、第十節の方である。この「英国学会」とは、いうまでもなく、BSAの略称で多くの日本人考古学者やギリシア史研究者にも親しい、リカヴィトスの麓にあるイギリス考古学研究所のことである。濱田が訪れたときには、大戦中のことでBSAには学生は滞在していなかったが、彼はここで二〇世紀前半のギリシア先史考古学をリードすることになるアラン・ウェイス(A. J. B. Wace)と邂逅している。


雅典シユンタグマ広場よりリカベトス山を望む[『希臘紀行』より]

 「雅典の都」を構成する節のなかでは、ギリシアの中世に目を向けた第十三節も、短いながら異彩を放っている。このような節があえておかれたのは、濱田が既に古代から現代までが中世を介して緩やかに連続するイタリアの風土に馴染んでいたためであろう。また、第十四節の「月夜のパルテノン」の詩的な筆致には、ロマンティストとしての濱田の面目躍如たるものがある。

 なお、短い「雅典の附近」の章では、パウサニアスに敬意をはらうかのように冒頭でスニオン岬への小旅行が記され、ついで炎天下をエレウシスの聖域まで徒歩旅行したときの顛末が語られている。

 続く「クリート島への旅」は、十一節から成っている。五月一九日の昼にピレウス港を出発した濱田らは、翌朝カンディア(現在のイラクリオン)に上陸した。「カンヂヤの町は要するに東洋的の町、土耳古風の町である」と濱田は断言しているが、トルコからの解放が遅れたクレタ島は、当時なお東洋風の色彩を強くとどめていたらしい。近郊のクノッソスでは、一九〇〇年からエヴァンズ(A. Evans)がミノア文化の宮殿を発掘しており、その成果については濱田もイギリスで十分知悉していたようである。

 二一日には、濱田らは案内者をともなってフェストスやアイア・トリアダなどの遺跡があるメサラ平野をめざして出発した。興味深いのは、第八節で、折しもクサンスーディディスが行っていたプラタノス発掘現場への訪問が記されていることである。クサンスーディディスは、メサラ平野を中心として数多く営まれた共同墓である前宮殿時代のトロス墓の研究で名高いギリシア人考古学者であるが、濱田は、彼の厚意でプラタノス村の彼の仮寓に収蔵されている出土品を実見する機会を得ている。


ヘゲン墓碑[『希臘紀行』より]

 十七節から成る「ペロポンネソスの巡遊」は、濱田の『希臘紀行』のクライマックスであり、六月一日から二週間をかけてコリントスから時計回りにペロポネソス半島を旅行した際の印象が綴られている。

 第一節で、ウェイスとともにコリントスへ向かった濱田は、古代コリントス市の遺跡でウェイスから説明を受けた後、猛暑の初夏の午後であるにもかかわらず、二時間ほどをかけてコリントスのアクロポリスに登り、その頂上からの景観に感動している。この頃になると、到着早々にはヒュドール(水)のことをネローというのかと驚いていた濱田もようやく現代ギリシア語に慣れてきたのか、村娘と簡単な挨拶を交わしては満足し、翌日ミケーネを訪ねた際には、片言ながら村の子どもたちと堂々と会話を楽しんでいることが注目される。


雅典アクロポリスとオリムペイオン社[『希臘紀行』より]

 次に濱田はアルゴスのヘライオンを訪れているが、それはケンブリッジ滞在中にヘライオンを発掘したアメリカ人考古学者ワルドスタインと会って、その有名な報告書を京都大学に寄贈してもらうという経緯があったためらしい。第四節は、有名なエピダウロスの聖域訪問にあてられているが、濱田の慧眼は、その途中にあるカザルマの古典期の城塞や「アルカディコの橋」として知られるミケーネ時代の橋の遺構も見落としていない。

 濱田の旅は、ナフプリオンからスパルタ、カラマタ、オリュンピアへと続いていくが、その視線は必ずしも古代にばかり向けられていたわけではない。第五節では、ナフプリオンの住民が国王の命名日を祝賀するのに接して、大戦下のギリシアではドイツ寄りの国王の評判が悪いというイギリスやフランスでの風評は捏造であると断じ、第六節ではスパルタへ向かう暑苦しいバスのなかで、親ヴェニゼロス派と反ヴェニゼロス派が大政論を戦わしている様子を書き留めている。また、第十三節では、アンドリッツェナ村のような内陸の村にもアメリカ帰りの英語を話す者が少なからずいて、ギリシアからアメリカへの出稼ぎ労働者が多いこと、また、彼らが必ずしも成功者ではないことを記している。

 『希臘紀行』のエピローグにあたる「北希臘へ一歩」は、ピレウス港から再びイタリアをめざす部分も含めて六節から成っており、デルフィ、オルコメノス、カイロネイアなどの遺跡について述べられている。



3


野外考古学者の目と美術史家の目

 濱田耕作の人となりや研究スタイルに関してはかなりの量の証言が残されており、とりわけ直弟子のひとりである藤岡謙二郎による『濱田青陵とその時代』(学生社、一九七九年)や、やはり直弟子のひとりである角田文衛が編纂した『考古学京都学派』(雄山閣、一九九四年)に収められた文章からは、京都大学における濱田の活躍ぶりについて(そして濱田の思いがけない早世のために後継者や教え子たちのあいだで繰り広げられることになった生々しい確執などについても)多くを学ぶことができる。『希臘紀行』にかいま見ることのできる濱田の人となりには、当然のことながら、そのような証言と符合するところが少なくない。

 たとえば、当時のギリシア各地の宿の寝床に巣くっていた南京虫との戦いについては、『希臘紀行』の随所で語られているが、濱田のユーモラスな筆致からは、むしろそれを楽しんでいるような風情さえ感じられる。梅原末治をはじめとする後の世代の考古学者に較べると文人肌と評されることの多い濱田であるが、フィールドへの適応性の高さに集約される野外考古学者としての才能は、このように些細なエピソードひとつをとっても明らかであろう。現地語の速やかな習熟や同時代の社会への関心もまた、野外考古学者には通有のものである。

 しかし、この『希臘紀行』には、濱田が、その本質的な部分において、狭義の考古学者というよりはむしろ美術史家としての性向を強く保持していたことを物語る部分もあることは、見逃されてはならないであろう。そのことをもっともよく示していると思われるのが、アラン・ウェイスとのいきさつである。

 濱田が訪れる前の年にBSAの所長に就任していたウェイスは、一九一二年にギリシア北部における新石器文化研究の基本文献となった『先史時代のテッサリア』をトンプソン(M. Thompson)とともに公刊していた[9]。バルカン遊牧民の民俗誌的研究でも知られる彼は、後述するように、その頃アメリカの考古学者ブレーゲン(C. Blegen)とともにギリシア先史文化の編年的な枠組みを構築する作業にとりくんでおり、大戦後の一九二〇年代にはミケーネ遺跡の発掘を行って、ミケーネ文化研究史の上に大きな足跡を残すことになる。


全希臘博物館及発掘地自由観覧証[『希臘紀行』より]

 ところが、濱田の記述には、不可解なことに、このエーゲ海考古学の立役者のひとりであるウェイスとの交渉についてはあまり触れられていない。「雅典の都」の第十節には、ウェイスからBSAに宿泊して良いとの厚意を伝えられたが、その申し出を断った旨が簡潔に記されているだけであり、BSAでは濱田はもっぱらハスラック(F. W. Hasluck)と親交を暖めていたようである。このハスラックは、一九〇一年からBSAの研究員(student)となり、一九〇六年からは副所長(assistant director)の任にあった[10]。濱田がハスラックのことを「司書」としているのは、当時は大戦の影響でBSAの活動が停滞しており、ハスラックもウェイスとともに暇を利用して本の登録などにいそしんでいたためであろう。

 さらに、上述したように、濱田はペロポネソス旅行の途につくにあたってアテネからコリントスまで同道し、コリントスではウェイスによって古代コリントス市の遺跡を案内されている。ところが、この部分でも、濱田とウェイスのあいだで交わされたであろう会話そのものについては、何も述べられていない。それどころか、ウェイスがコリントスへ向かった理由について濱田が「コリントの米国学会の発掘を助ける為に出かけるといふ」と記していることは、両者のあいだにあまり考古学的に立ち入った話が交わされなかったことを示唆している。

 というのも、濱田の記述を読む限り、ウェイスは古代コリントス市の発掘を手伝うためにコリントスへ赴いたかのようにとれるが、それはおそらくあたっていない。なぜならば、このとき、新コリントス近郊では、後にトロイやピュロスの発掘で大きな成果をあげることになるブレーゲンがコラクウ遺跡の調査に着手しており、ウェイスが手伝おうとしていたのはこちらの調査であった可能性が高いのである。実際、大戦後の一九一八年には、コラクウ遺跡からの知見に基づいて、ウェイスはブレーゲンとともにギリシア青銅器時代の土器編年の基本的な枠組みを初めて提示した共著論文「ギリシア本土における先ミケーネ時代の土器」を発表している[11]。もし、濱田とウェイスとのあいだに遺跡調査などの考古学的な問題に関する会話が交わされていれば、コラクウのことが話題にのぼらなかったはずはないであろう。

 ウェイスとのいきさつに限らず、『希臘紀行』を一読して不審に思われるのは、その全編を通じて、一度たりとも目の前の遺跡を自らの手で調査したいという、考古学者ならばごく自然な感情を伝える記述に出会わないことである。換言すれば、ギリシアの遺跡を前にした濱田の視線は、発掘という行為を通じて対象に深く分け入ろうとする考古学者のそれではなく、対象をあるがままに受け入れて鑑賞する美術史家のそれになっている。クサンスーディディスによるメサラ平野のトロス墓発掘現場でも、発掘の方法などについての言及がほとんどないのは、そのためでもあろう。それは、後に自らの手による調査に際して必要な研究所の設置を熱心に説き、ついにはイタリアに自らが主宰する古代学研究所の拠点を設置するようになる教え子の角田文衛の場合とは、対照的でさえある。



4


『希臘紀行』と現代

 濱田がギリシアの遺跡に対して考古学者としての視線を向けなかった理由、さらには、『希臘紀行』という旅行記が我が国におけるギリシア考古学の隆盛を招かなかった理由は、さまざまに考えられる。しかし、バランスのとれた教養人としての濱田の学風を考慮すれば、その理由を単に当時の知的状況や濱田の美術史家的な性向にだけ求めることは、的を射ていないであろう。むしろ、イギリスで得た幅広い教養があったからこそ、濱田はギリシアの遺跡に対して考古学者としての視線を向けることがなかったのだと考えることもできるのではないだろうか。

 おそらく、イギリスにおいて濱田は、ギリシア考古学が古典学という全体の内に包摂され、そのなかで古代世界が投げかけるさまざまな問題を考察していく上でのひとつの方法として成熟しつつあることに漠然と気がついていたのであろう。「雅典の附近」の第四節で、苦しい徒歩旅行の後にようやくエレウシスにたどりついた濱田は、遺跡の景観の平凡さに対する失望を隠してはいないが、それでも「併しエレウジスの面白いのはその神秘の由来と祭事とにあるのであるから仕方がない」とさりげなく書き添えている。濱田は、遺跡の意義は目を奪うような規模や特殊性にあるのではなく、それが果たした歴史的な役割にあるのだという、ある意味ではあたりまえのことを、十分に認識していたのである。

 しかし、ある遺跡の歴史的な役割を見定めるには、確固とした歴史観と幅広い教養が必要とされる。しかし、それは、あくまでモノに固執することをもって是とし、それをレゾン・デートルとして発展してきた日本の考古学の伝統のなかでは、二次的な意義しか持つことができなかった。たとえば、この伝統の確立に貢献のあった梅原末治は、濱田の十二年後にやはりギリシアを訪れているが、後年の回想録のなかで、短期間の滞在であったにもかかわらず「古代ギリシャ文明の遺跡をくまなく巡覧し、……」と述べている[12]。言葉尻をとらえるようではあるが、このような表現は、濱田ならば決してしなかったのではないだろうか。

 確かに、モノに固執するという道が、その普遍性において優れていることは、認めなくてはならないであろう。しかし、「日本の考古学ができれば世界に通用する」ということがしばしば日本の考古学に携わる人自身の口から語られ、それが実際に技術面においてそうであるとしても、通用した結果としてどのような成果が得られるのかというところまで踏み込んで考えるならば、そのような道が至るところは必ずしも明らかではない。たとえ優れた調査技術を誇ることができたとしても、ある遺跡に対して「最古級」や「最大級」という評価しか与えることのできない貧弱な歴史観が世界に通用すると考えるのは、思い上がり以外のなにものでもないであろう。

 このように考えてくると、『希臘紀行』において濱田が美術史家の視線を考古学者の視線に優先させた理由は、おのずと明らかであろう。考古学者としての視線を向けるために登らなくてはならない古典学の高峰が前途に幾重にもそびえていることを認識していた濱田は、まず、いわば傍観者としてギリシアに向かったのである。それは、我が国におけるギリシア旅行記の先駆けとしては、やむをえないことであったに違いない。そして、このような旅行記の蓄積のなかから、我が国においても調査すべき遺跡の歴史的な役割を見定めるための歴史観が誕生することを、濱田は望んでいたのではなかっただろうか。

 しかし、日本におけるギリシア考古学の展開は、その後の我が国が歩んだ現代史に翻弄されるかたちで、旅行記の積み重ねから歴史的な研究及び調査へというあるべき道をたどることができないまま現在にいたっている。その大きな理由としては、研究の精緻化・細分化にともなって、旅行記が対象とするような漠然とした印象から個別研究テーマまでの隔たりがきわめて大きくなっていることが、まず指摘されよう。しかし、冒頭で述べたように、昨今の地域研究の興隆は旅行記の再評価を促しており、それはそこに書かれた情報ばかりではなく、旅行記という視点そのものが無尽の可能性を秘めていることを示している。しかも、数少ないとはいえ、我が国にも『希臘紀行』に続く優れたギリシア旅行記が存在しないわけではない[13]

 濱田耕作の『希臘紀行』は、紀行文として文学的にもまさに第一級の作品であるが、そこにはまた、その後の日本におけるギリシア考古学がたどることになるギリシアまでの遠い道が暗示されているのである。




【註】

[1]パウサニアス『ギリシア案内記』(上)、馬場恵二訳、岩波文庫、一九九一年、二九三頁[本文へ戻る]

[2]その先駆者となったアンコーナのキリアコスについては、樺山紘一『異境の発見』(東京大学出版会、一九九五年)に言及がある。[本文へ戻る]

[3]パウサニアス、前掲書、三〇二−三〇三頁[本文へ戻る]

[4]Dodwell, E., A Classical and Topographical Tour through Greece during the Years 1801, 1805, and 1806, vols 1-2, London, 1840; L. Ross, Inselreisen I/II, Stuttgart, 1840.[本文へ戻る]

[5]Commercial Bank of Greece, Greek Landscapes after the War of Independence, Athens, 1978.[本文へ戻る]

[6]濱田耕作先生著作集刊行委員会編『濱田耕作著作集』六、同朋舎出版、一九九三年、一六三頁[本文へ戻る]

[7]同、二六七−四一四頁[本文へ戻る]

[8]角田文衛「シュリーマンの邸宅」「シュリーマンの霊廟」『転換期の考古学』、雄山閣、一九九三年、一一〇−一三一頁[本文へ戻る]

[9]Wace. A. J. B. and Thompson, M. S., Prehistoric Thessaly, Cambridge, 1912.[本文へ戻る]

[10]Waterhouse, H., The British School at Athens, The First Hundred Years, London, 1986 p.20.[本文へ戻る]

[11]Wace, A. and Blegen, C., “The Pre-Mycenaean Pottery of the Mainland,” BSA 22, 1916-18, pp.175-189.[本文へ戻る]
[12]梅原末治『考古学六十年』、平凡社、一九七三年、八八頁[本文へ戻る]

[13]村田数之亮『史蹟の希臘』(大八洲出版、一九四七年)、村川堅太郎『地中海からの手紙』(中央公論社、一九七五年)など[本文へ戻る]




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