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【全910件 】

写真番号 1064
撮影年 1912
地域 アイヌ
場所
写真の説明 拓殖博覧会展示の北海道アイヌの住居。右の女性は金田一京助の著作で有名な鍋沢コポアヌ媼。
掲載カタログ 第4部
プレート 53
カタログ補足説明
「乾板に刻まれた世界」掲載 111ページ 掲載番号 4-3-18
拓殖博覧会展示の北海道アイヌの住居。
右の女性は金田一京助の著作で有名な鍋沢コポアヌ媼。1912年(大正元年)10-11月撮影。
写真番号 1065
撮影年 1912
地域 アイヌ
場所
写真の説明 拓殖博覧会展示の樺太アイヌの住居と幣柵。
掲載カタログ 第4部
プレート 54
カタログ補足説明
「乾板に刻まれた世界」掲載 掲載番号
写真番号 1066
撮影年 1912
地域 アイヌ
場所
写真の説明 拓殖博覧会展示の樺太アイヌの住居。人物は左から木村チカマ、坪沢テル、影山チウカランケ、坪沢六助の各氏。
掲載カタログ 第4部
プレート 55
カタログ補足説明
「乾板に刻まれた世界」掲載 112ページ 掲載番号 4-3-19
拓殖博覧会展示の樺太アイヌの住居。
人物は左から木村チカマ、坪沢テル、影山チウカランケ、坪沢六助の各氏。1912年(大正元年)10-11月撮影。
写真番号 1081
撮影年  
地域 アイヌ
場所
写真の説明 北海道アイヌの倉。撮影時間・場所とも不明。
掲載カタログ 第4部
プレート 56
カタログ補足説明
「乾板に刻まれた世界」掲載 113ページ 掲載番号 4-3-20
北海道アイヌの倉。
撮影時期・場所とも不明。
写真番号 3002
撮影年  
地域 満州
場所
写真の説明 満州族の武人。
掲載カタログ 第4部
プレート 17
カタログ補足説明 撮影地点不明.銃を持った兵士を従えた満州旗人と考えられる.
「乾板に刻まれた世界」掲載 掲載番号
写真番号 3004
撮影年  
地域 満州
場所
写真の説明 村芝居。
掲載カタログ 第4部
プレート 21
カタログ補足説明 撮影地点不明.一連の3カットのうちの一枚.清末の村芝居のありさまがよくわかる.通常このような舞台は,廟宇に向かい合って北向きに作られている.一種の祭祀演劇としての地方戯の形態を保存しているのである.残念なことに鳥居は,このような漢族農民の民俗については,ほとんど書き残していない.
「乾板に刻まれた世界」掲載 掲載番号
写真番号 3006
撮影年  
地域 満州
場所
写真の説明 瀋陽の北陵。
掲載カタログ 第4部
プレート 12
カタログ補足説明 北陵は太祖ホンタイジの陵墓である.鳥居がこの時○陽で北陵に行ったことは,1928aによって確かめられる.この写真は隆恩門から北を望むアングル.正面は隆恩殿,その後方が陵墓にあたる.左右は角楼である.
「乾板に刻まれた世界」掲載 127ページ 掲載番号 5-3-6
奉天(○陽)の北陵
滞在中鳥居は東陵(清の太祖ヌルハチの陵墓)と、この北陵にも足を運んでいる。北陵は太祖ホンタイジの陵墓である。この写真は陵墓を囲む方城の正門、隆恩門から北を臨む。正面が隆恩殿、その後方が陵墓にあたる。
写真番号 3007
撮影年  
地域 満州
場所
写真の説明 興京から集安への山越え。
掲載カタログ 第4部
プレート 15
カタログ補足説明 この写真は一連の3カットのなかの一枚.人物の防寒着と,森林の様相から高冷地での寒期の撮影であることが推定される.3037に写っている鳥居の容貌から,第二回調査の時のものであると考えられる.旅程から考えて,興京から集安への山越えがこれに該当する.興京を出発する際,「この地駐軍川村将軍,高級副官三浦大佐」が護衛としての随員と,旅行中の車輛,食糧などを準備してくれたという記述が1953にある.この馬車と兵士がそれであろう.
「乾板に刻まれた世界」掲載 129ページ 掲載番号 5-3-8
興京から集安への山越え(その1)
この写真は、人物の防寒着と森林の様相から、高冷地での寒季の撮影であることが推定される。このときの旅程から考えて、興京から集安への山越えがこれに該当する。『ある老学徒の手記』(1953年)によれば興京を出発する際、「この地駐軍川村将軍、高級副官三浦大佐」が護衛としての随員と、旅行中の車輌、食料などを準備してくれたという。この馬車と兵士がそれであろう。
写真番号 3016
撮影年  
地域 満州
場所
写真の説明 遼陽陸軍兵站病院敷地内の発掘現場。
掲載カタログ 第4部
プレート 1
カタログ補足説明 遼陽滞在中,「伊東軍医」が突然訪れ「病院敷地内で磚が一列に敷かれたような跡があるので調べて欲しい」と言った.発掘してみると磚墓であった,というのが発見のいきさつである(1953).右が鳥居.左端の赤十字の腕章をした人物が「伊東軍医」か.
「乾板に刻まれた世界」掲載 122ページ 掲載番号 5-3-1
遼陽陸軍兵站病院敷地内の漢代磚墓の発掘現場(その1)
おそらく8月中に撮影されたと推定される。場所は遼陽城西門外2千メートル、ロシア人によって敷設されて間もない東清鉄道(後の満鉄)線路の西側。遼陽滞在中、「三等軍医伊藤壽氏」が突然訪れ「病院敷地内で磚が一列に敷かれたような跡があるので調べて欲しい」と依頼してきた。これが記念すべき満州における漢代墳墓の最初の発見につながった。右が鳥居。左端の赤十字の腕章が伊藤軍医か。
写真番号 3021
撮影年  
地域 満州
場所
写真の説明 遼陽陸軍兵站病院敷地内の発掘現場。右端が鳥居。
掲載カタログ 第4部
プレート 3
カタログ補足説明
「乾板に刻まれた世界」掲載 掲載番号
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