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1057 時事新報
第 7285 号、1 面、明治 37 年 2 月 12 日発行東京、時事新報社 530×370 The Jiji-Shimpo, No. 7285, p. 1, 12 February 1904, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 明治15年3月福沢諭吉が慶應義塾出版社から創刊した新聞。政党新聞全盛の当時にあって、不偏不党の立場から時事を論じた。海外の報道にも力を注ぎ、明治26年にはロイター通信と独占特約を結んでいる。本紙は「旅順大海戦公報」として、東郷連合艦隊司令官の報告が掲載されている。見出しは傍点で示されている。ほかに日露戦争ボンチ画報、前橋花相撲の勝敗、囲碁の結果などがある。【新聞展 cat.no.144】
1058 東京朝日新聞 号外
、頁未詳、明治 37 年 6 月 17 日発行東京、村山合名東京朝日新聞会社 540×415 The Asahi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 17 June 1904, Tokyo, Murayama-Gomei-Tokyo-Asahi-Shimbun-kaisha 日露戦争戦況を伝える号外。よって片面刷りで、最下段には空欄もある。特派員電の次に公報がある。被弾遭難した佐渡丸の続報もある。大活字や傍点がふってあるもの以外は総ルビつき。【新聞展 cat.no.145】
1059 日本
第 5583 号、1 面、明治 38 年 2 月 9 日発行東京、日本社 540×400 The Nippon, No. 5583, p. 1, 9 February 1905, Tokyo, Nippon-sha 明治22年2月11日帝国憲法発布にあわせて創刊された。陸羯南を社長とし、国粋主義を掲げて、明治政府の欧化政策を批判する論陣をはった。日露戦争中の本紙には、論説として清国の保全(黙堂署名)が掲載されている。1月1日の旅順開城をうけてその雑報を記録する。また、ステッセル夫人が稲佐に上陸する光景を捉えた写真には、「夫人の傍らにあるは旅順戦没将士の孤児なり」とある。稲佐は長崎県のロシア村のあった場所。ステッセルは乃木将軍と戦い、のちに親交を深めたロシアの将軍で、当時は旅順司令官であった。【新聞展 cat.no.146】
1060 萬朝報
第 6835 号、1 面、明治 45 年 7 月 31 日発行東京、朝報社 550×400 The Yorodzu-Choho, No. 6835, p. 1, 31 July 1912, Tokyo, Choho-sha 明治25年11月黒岩涙香により創刊された。明治天皇崩御を報じる黒枠で囲まれた特別編集。病状から最後を伝える英文記事も併記されている。3面には皇太后(昭憲皇后)と皇太子(当時満11歳の裕仁親王、後の昭和天皇)の写真が掲げられている。慶応義塾は先帝奉悼式のお知らせとともに、学生募集の広告を出している。また大喪による休業広告、さらには文芸消息、新刊書評、将棋の結果、王子製紙決算報告広告などもある。【新聞展 cat.no.147】
1061 大阪毎日新聞
第 10449 号、1 面、大正 1 年 9 月 13 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 10449, p. 1, 13 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 明治天皇大喪儀の模様「悲痛哀切」と伝える。五姓田芳柳挿画。
1062 大阪毎日新聞
第 10451 号、1 面、大正 1 年 9 月 15 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 10451, p. 1, 15 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 9月13日に行われた明治天皇大喪儀の様子を詳細に報じる。紙面は全頁太い黒枠で囲まれており、第1面は安藤静也と山本英春の挿画、第4面と第5面の見開きは小杉未醒、森田恒友、星野空外の挿画で全面が埋められている。大喪儀の日に自殺した乃木大将夫妻の殉死についても報道されている。【新聞展 cat.no.148】
1063 大阪毎日新聞 第1号外
、頁未詳、大正 1 年 9 月 15 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun 1st Special Number, , (p. ?), 15 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 明治天皇大喪儀の葬列の様子が、岡田三郎助、結城素明、山村耕花、小山栄達らのスケッチと小川一眞他の写真で報じられる。【新聞展 cat.no.149】
1064 大阪毎日新聞 第2号外
、頁未詳、大正 1 年 9 月 15 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun 2nd Special Number, , (p. ?), 15 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 大喪儀葬列の様子を伝える報道写真が中心。【新聞展 cat.no.150】
1065 大阪毎日新聞
第 10452 号、1 面、大正 1 年 9 月 16 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 550×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 10452, p. 1, 16 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 乃木将軍殉死の報道。
1066 大阪毎日新聞
第 10456 号、1 面、大正 1 年 9 月 20 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 10456, p. 1, 20 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 乃木将軍夫妻葬儀の写真報道。
1067 大阪毎日新聞
第 10459 号、1 面、大正 1 年 9 月 23 日発行大阪、毎日新聞社、個人蔵 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 10459, p. 1, 23 September 1912, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha Private Collection 「大喪儀紀念写真帖」発行告知。
1068 国民新聞
第 7537 号、1 面、大正 2 年 2 月 21 日発行東京、国民新聞社 540×405 The Kokumin-Shimbun, No. 7537, p. 1, 21 February 1913, Tokyo, Kokumin-Shimbun-sha 明治23年2月徳富蘇峰により創刊された。1段目の「東京たより」は門外漢の署名、山本(権兵衛)内閣成立の異例ぶりを紹介する。前内閣は桂(太郎)内閣であるが、このときの憲法擁護運動では『萬朝報』が中心になって桂内閣打倒の論陣をはり、『東京朝日新聞』、『時事新報』もこれに加わった。これに対し『国民新聞』は桂内閣を擁護し、襲撃をうけた。2段目以下は段抜きで神田大火の焼跡の大きな写真が掲げられている。【新聞展 cat.no.151】
1069 台湾日日新報 16日夕刊
第 5151 号、1 面、大正 3 年 1 月 17 日発行台北、台湾日日新報社 550×410 The Taiwan-Nichinichi-Shimpo, No. 5151, p. 1, 17 January 1914, Taipei, Taiwan-Nichinichi-Shimpo-sha 明治31年5月、台湾総督府の主導で『台湾新聞』と『台湾日報』の2紙が合併し誕生した新聞であり、台湾総督府の立場を代弁する日本語新聞。第一次世界大戦を報じる。ドイツ側戦報が中心で、飛行隊について書かれている。【新聞展 cat.no.152】
1070 大阪朝日新聞
第 11965 号、1 面、大正 4 年 5 月 22 日発行大阪、朝日新聞合名会社大阪朝日新聞発行所 550×410 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 11965, p. 1, 22 May 1915, Osaka, Asahi-Shimbun-Gomei-kaisha 第一次世界大戦戦況とイタリアの参戦を伝える。戦場となるイタリア=オーストリア国境付近の地図を記す。若き英国海相チャーチルについて詳述されている。【新聞展 cat.no.153】
1071 東京朝日新聞
第 10549 号、1 面、大正 4 年 11 月 23 日発行東京、村山合名東京朝日新聞会社 540×410 The Tokyo-Asahi-Shimbun, No. 10549, p. 1, 23 November 1915, Tokyo, Murayama-Gomei-Tokyo-Asahi-Shimbun-kaisha 明治21年7月、『大阪朝日新聞』の村山竜平が自由党系機関紙『めざまし新聞』を買収して創った新聞。本紙には大正天皇の即位礼を見た米人女性記者の感想が掲げられている。写真には「内宮御親謁」とある。連載は横田英夫の『日本農村』。【新聞展 cat.no.154】
1072 京城日報
第 3550 号、1 面、大正 6 年 8 月 4 日発行京城、京城日報社 540×410 The Keijo-Nippo, No. 3550, p. 1, 4 August 1917, Keijo (Seoul), Keijo-Nippo-sa 韓国統監伊藤博文によって創刊された。朝鮮鉄道と満州鉄道の統一が大きく報じられている。上部の写真は釜山桟橋、船と汽車の連絡地点。下部には在釜山の日本の商店の広告がある。【新聞展 cat.no.155】
1073 釜山日報 夕刊
第 3934 号、1 面、大正 7 年 10 月 12 日発行釜山、釜山日報社 550×405 The Fusan-Nippo (The Pusan-Nippo), No. 3934, p. 1, 12 October 1918, Fusan (Pusan), Fusan-Nippo-sa 第一次世界大戦中である。米国対独通告の見出しが躍り、米国国務長官を務めるランシングの動向を伝える。この翌月ドイツの降伏によって第一次世界大戦は終結する。【新聞展 cat.no.156】
1074 大阪時事新報
巻号未詳、1 面、大正 8 年 11 月 15 日発行大阪、大阪時事新報社 540×405 The Osaka-Jiji-Shimpo, Unknown Issue Number, p. 1, 15 November 1919, Osaka, Osaka-Jiji-Shimpo-sha 佐藤紅緑の小説『微笑』が連載されている。日本商工会議所会頭、東京株式取引所理事長などを歴任し、渋沢栄一没後の財界の大御所とされてきた郷誠之助のコレクションの大入札が報じられる。【新聞展 cat.no.157】
1075 大阪朝日新聞
第 14182 号、1 面、大正 10 年 6 月 16 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞発行所 550×405 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 14182, p. 1, 16 June 1921, Osaka, Asahi-Shimbun-sha 皇太子殿下御着英画報とある。昭和天皇は皇太子時代、英国をはじめヨーロッパ諸国を半年間外遊した。掲載写真によると、英国王ジョージ五世のヴィクトリア駅までの出迎えをうけている。【新聞展 cat.no.158】
1076 大阪毎日新聞 夕刊
第 14474 号、1 面、大正 12 年 9 月 20 日発行大阪、大阪毎日新聞社 540×410 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 14474, p. 1, 20 September 1923, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha 関東大震災で未曾有の受けた国民に対して、摂政宮(昭和天皇)が心情を述べ、自らの結婚の延期を決めたことが報じられる。【新聞展 cat.no.160】
1077 大阪時事新報 付録
、頁未詳、大正 14 年 5 月 25 日発行大阪、大阪時事新報社 540×405 The Osaka-Jiji-Shimpo Supplment, , (p. ?), 25 May 1925, Osaka, Osaka-Jiji-Shimpo-sha 5月23日に発生した北但馬地震の惨状を報じる。マグニチュード6.8で、死者428名を数えたという。付録とはいえ、発行年のないものは珍しい。【新聞展 cat.no.161】
1078 東京日日新聞
第 17655 号、1 面、大正 14 年 11 月 1 日発行東京、東京日日新聞発行所 560×405 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun, No. 17655, p. 1, 1 November 1925, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-hakkosho 明治5年2月、東京における最初の日刊紙として創刊された。震災前に撮影された東宮妃(香淳皇后)ご成婚直前の写真がようやく発見され、掲載。神宮競技の記録や写植機の誕生など興味の尽きない紙面である。【新聞展 cat.no.162】
1079 時事新報
第 15408 号、1 面、大正 15 年 5 月 25 日発行東京、時事新報社 550×405 The Jiji-Shimpo, No. 15408, p. 1, 25 May 1926, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 石狩硫黄山大爆発と見出しにはある。知床硫黄山はあるが、噴火記録がない。気象庁の記録によると、前日に噴火したのは十勝岳。情報が混乱していたのだろう。【新聞展 cat.no.163】
1080 大阪朝日新聞 第2号外
、頁未詳、大正 15 年 12 月 17 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞発行所 550×410 The Osaka-Asahi-Shimbun 2nd Special Number, , (p. ?), 17 December 1926, Osaka, Asahi-Shimbun-sha 大正天皇の御容態が思わしくないことを報じる。照宮(第一皇女子照宮成子内親王)が両親宮に呼ばれ葉山御用邸へとある。葉山に向かう朝香宮ら3殿下の軍服姿の写真も。1週間後の25日に大正天皇は崩御された。【新聞展 cat.no.164】
1081 国民新聞
第 12654 号、1 面、昭和 2 年 4 月 2 日発行東京、国民新聞社 550×410 The Kokumin-Shimbun, No. 12654, p. 1, 2 April 1927, Tokyo, Kokumin-Shimbun-sha 上海騒乱を伝える。蒋介石の動静が報じれれ、4月12日に起こる上海反共クーデター直前の様子を窺わせる。【新聞展 cat.no.165】
1082 大阪毎日新聞 夕刊
第 15764 号、1 面、昭和 2 年 4 月 9 日発行大阪、大阪毎日新聞社 550×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 15764, p. 1, 9 April 1927, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha 上海で日本海軍陸戦隊が国民軍平服隊と交戦したことが報じられる。【新聞展 cat.no.166】
1083 東京日日新聞 夕刊
第 18331 号、1 面、昭和 2 年 9 月 11 日発行東京、東京日日新聞発行所 550×405 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun, No. 18331, p. 1, 11 September 1927, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-Hakkosho 9月10日午前4時42分内親王御誕生の報。昭和天皇第二皇女子久宮祐子内親王は翌年3月に逝去された。【新聞展 cat.no.167】
1084 名古屋新聞
第 11451 号、1 面、昭和 3 年 2 月 11 日発行名古屋、名古屋新聞社 550×405 The Nagoya-Shimbun, No. 11451, p. 1, 11 February 1928, Nagoya, Nagoya-Shimbun-sha 「紀元節」の日の若き昭和天皇皇后両陛下の肖像写真が掲載されている。写真は宮内省から御貸し下げされた。【新聞展 cat.no.168】
1085 大阪毎日新聞
第 16158 号、1 面、昭和 3 年 5 月 10 日発行大阪、大阪毎日新聞社 550×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, No. 16158, p. 1, 10 May 1928, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha 5月3日山東省済南で、居留民保護を理由に占拠していた日本軍と北伐で入城した国民軍が衝突し、いわゆる「済南事件」が起こり、8日には全面的な武力衝突に発展した。【新聞展 cat.no.169】
1086 大阪毎日新聞 号外
、頁未詳、昭和 3 年 5 月 14 日発行大阪、大阪毎日新聞社 550×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 14 May 1928, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha 済南事件の写真報道。特派員の撮影による。【新聞展 cat.no.170】
1087 名古屋新聞 夕刊
第 11565 号、1 面、昭和 3 年 6 月 5 日発行名古屋、名古屋新聞社 550×405 The Nagoya-Shimbun, No. 11565, p. 1, 5 June 1928, Nagoya, Nagoya-Shimbun-sha 明治39年11月小山松寿が『中京新報』を山田拮から譲り受け、改題して発刊した日刊紙。のちに、『新愛知』と合併して『中部日本新聞』(『中日新聞』の前身)となる。奉天(現在の瀋陽)発で伝えられる、張作霖乗車の列車が爆破さるの報。この紙面では張作霖が負傷し、犯人は国民党であるかのように書かれているが、張作霖は列車ごと鉄橋に押しつぶされ、張氏帥府にかつぎ込まれ、そこで死亡している。この「奉天事件」は張作霖の暗殺を狙う関東軍の謀略として知られる。【新聞展 cat.no.171】
1088 大阪朝日新聞 号外
、頁未詳、昭和 4 年 6 月 6 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞発行所 550×405 The Osaka-Asahi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 6 June 1928, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-Hakkosho 昭和天皇の大阪高等学校訪問を写真入りで速報。学業や運動の発表にはりきる学生達の様子が活写されている。【新聞展 cat.no.172】
1089 樺太日日新聞
第 6589 号、1 面、昭和 4 年 7 月 25 日発行樺太豊原(ユジノ・サハリンスク)、樺太日日新聞社 550×410 The Karafuto-Nichinichi-Shimbun, No. 6589, p. 1, 25 July 1929, Karafuto-Toyohara, Karafuto-Nichinichi-Shimubun-sha 明治41年8月、財部熊二郎により豊原で創刊された、樺太庁の公布式搭載新聞。昭和17年には『樺太時事』他と合併され、『樺太新聞』となる。本紙には大谷派本願寺法主大谷光暢が樺太別院遷座式のため豊原駅に到着とある。樺太(現在のサハリン南部)は日露戦争で日本に割譲されていた。【新聞展 cat.no.173】
1090 大阪朝日新聞 号外
、頁未詳、昭和 4 年 8 月 18 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞発行所 550×410 The Osaka-Asahi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 18 August 1929, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-hakkosho 世界一周の途上にある飛行船ツェッペリン伯号の来日を報じる。飛行船ツェッペリン伯号は全長235.5メートル、胴径が30.5メートルあった。8月7日にレイクハーストを出発。母港のフリードリヒスハーフェン、霞ヶ浦、ロサンゼルスを経て、8月29日ニューヨークに到達し、世界一周を達成した。【新聞展 cat.no.174】
1091 大阪朝日新聞
第 17156 号、1 面、昭和 4 年 8 月 20 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞発行所 550×410 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 17156, p. 1, 20 August 1929, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-hakkosho 飛行船ツェッペリン伯号の霞ヶ浦への着陸を、釜石沖海上で自社機から撮影した電送写真とともに報じる。霞ヶ浦には4日間滞在し、その間に多くの見学者を集めた。甲子園大会の決勝戦の告示も。【新聞展 cat.no.175】
1092 国民新聞 夕刊
第 13747 号、1 面、昭和 5 年 3 月 25 日発行東京、国民新聞社 550×410 The Kokumin-Shimbun, No. 13747, p. 1, 25 March 1930, Tokyo, Kokumin-Shimbun-sha 震災からの復興なった帝都を巡幸する昭和天皇の姿を報じる。【新聞展 cat.no.176】
1093 東京朝日新聞
第 15767 号、1 面、昭和 5 年 3 月 27 日発行東京、東京朝日新聞社 550×405 The Tokyo-Asahi-Shimbun, No. 15767, p. 1, 27 March 1930, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 帝都の人出、市民公徳運動と見出しにある。写真から銀座通りの美しい景観が伝わってくる。【新聞展 cat.no.177】
1094 東京朝日新聞 第二号外
、頁未詳、昭和 7 年 2 月 5 日発行東京、東京朝日新聞社 550×405 The Tokyo-Asahi-Shimbun 2nd Special Number, , (p. ?), 5 February 1932, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 「多聞師団ハルビンへ」という大見出しとともに、特大写真が掲載されている。その上に写真の輸送経路が示されている。【新聞展 cat.no.178】
1095 東京朝日新聞 号外
、頁未詳、昭和 7 年 2 月 7 日発行東京、東京朝日新聞社 550×405 The Tokyo-Asahi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 7 February 1932, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 上海総攻撃とある。第一次上海事変である。ここにも写真の輸送経路があるが、数葉の写真の中央部に報告の中尉が同乗したという自社機の写真も載せている。【新聞展 cat.no.179】
1096 東京日日新聞 夕刊
第 20089 号、1 面、昭和 7 年 7 月 15 日発行東京、大阪毎日新聞社東京支店、東京日日新聞発行所 550×410 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun, No. 20089, p. 1, 15 July 1932, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-hakkosho 第10回オリンピック大会のためロサンゼルスへ向かう日本選手団のニュース。船上とホノルルの写真を掲載。この大会では陸上の三段跳びの南部忠平、馬術の西竹一、競泳の五種目の日本選手が金メダルに輝いた。【新聞展 cat.no.180】
1097 東京日日新聞 号外
、頁未詳、昭和 7 年 8 月 13 日発行東京、大阪毎日新聞社東京支店、東京日日新聞発行所 550×410 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 13 August 1932, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-hakkosho 第10回ロスアンゼルス・オリンピックが7月30日に開会したとの号外。この写真は「開会式直後ロサンゼルス出帆のモントレー号でホノルルまで急送、8月4日朝ホノルル著と共に同日午前出帆のエムプレス・オブ・ジャパン号に積換へ房総沖で海中投下、吊り上げ本社19号機で空輸、超特急の方法によって本社に急送したもの」とある。【新聞展 cat.no.181】
1098 東京日日新聞 号外
、頁未詳、昭和 7 年 8 月 23 日発行東京、大阪毎日新聞社東京支店、東京日日新聞発行所 550×410 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 23 August 1932, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-hakkosho ロスアンゼルス・オリンピックの結果を伝える号外。太平洋を越えて写真が送られてきた。シアトル発の郵船に乗せられた写真の横浜到着を待たず、犬吠崎沖で自社機につりあげ空輸との説明がある。水泳百メートルで宮崎康二の優勝、河名が2位と「ワン・ツー・フィニッシュ」。800メートル・リレーでも優勝。女子では前畑が平泳ぎ200メートル世界新記録で2位となる。【新聞展 cat.no.182】
1099 朝鮮新聞 号外
、頁未詳、昭和 8 年 5 月 17 日発行京城、朝鮮新聞社 550×405 The Joeon-Sinmun (The Chosen-Shimbun) Special Number, , (p. ?), 17 May 1933, Keijo (Seoul), Joseon Sinmun-sa ソウルに伝えられた「五・一五事件の全貌」である。朝鮮半島では事件直後から報道規制がなされ、丸1年して記事が解禁となった。【新聞展 cat.no.183】
1100 東京朝日新聞 第2号外
、頁未詳、昭和 8 年 11 月 9 日発行東京、東京朝日新聞社 550×405 The Tokyo-Asahi-Shimbun 2nd Special Number, , (p. ?), 9 November 1933, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 「五・一五事件」に判決が下る。第2面は多くが空欄のまま残されている。【新聞展 cat.no.184】
1101 読売新聞
第 20218 号、1 面、昭和 8 年 5 月 30 日発行東京、読売新聞社 560×405 The Yomiuri-Shimbun, No. 20218, p. 1, 30 May 1933, Tokyo, Yomiuri-Shimbun-sha 三原山火口底を究めるという記者による「世界的大探検」の成功を報じる。特別編集となり、1面に広告が満載されることとなった。【新聞展 cat.no.185】
1102 大阪毎日新聞 号外
、頁未詳、昭和 8 年 6 月 1 日発行大阪、大阪毎日新聞社 540×410 The Osaka-Mainichi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 1 June 1933, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha 5月31日国民政府と日本の間で塘沽停戦協定が結ばれた。これにより中国は満州国の存在を事実上認めたことになる。この写真は大連と大阪のあいだを空輸された。【新聞展 cat.no.186】
1103 国民新聞 号外
、頁未詳、昭和 9 年 3 月 1 日発行東京、国民新聞社 550×410 The Kokumin-Shimbun Special Number, , (p. ?), 1 March 1934, Tokyo, Kokumin-Shimbun-sha 満州帝国大典の見出し。3月1日満州国が帝国になり、溥儀が皇帝に即位した。 関東軍自作自演の昭和6年9月柳条湖鉄道爆破事件を言いがかりに満洲事変が勃発。満州国を成立させ、ラストエンペラー溥儀を執政とした。この大典で、満州国は帝政へ移行。しかし、実際は日本の植民地であった。この写真は当日朝新京を飛行機で出発し、福岡から東京に電送されたもの。【新聞展 cat.no.187】
1104 東京日日新聞 夕刊
第 20768 号、1 面、昭和 9 年 5 月 31 日発行東京、大阪毎日新聞社東京支店、東京日日新聞発行所 550×405 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun, No. 20768, p. 1, 31 May 1934, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-hakkosho 日露海戦の英雄であり、昭和天皇の教育掛でもあった東郷平八郎元帥の訃報を伝える。国葬の次第もある。この記事によると、国葬は皇族以外では岩倉具視、島津久光、三条実実、毛利元徳、島津忠義、伊藤博文、大山巌、山県有朋、松方正義に次いで、10人目にあたる。【新聞展 cat.no.188】
1105 大阪朝日新聞
第 19190 号、1 面、昭和 10 年 4 月 2 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞社 550×405 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 19190, p. 1, 2 April 1935, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-sha 4月6日満州国皇帝溥儀が来日する。この記事はその新京出立を報じている。【新聞展 cat.no.189】
1106 大阪朝日新聞
第 19386 号、1 面、昭和 10 年 10 月 11 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞社 550×405 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 19386, p. 1, 11 October 1935, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-sha 10月3日イタリア進攻によって第二次エチオピア戦争が始まった。 10月7日国際連盟理事会はイタリアのエチオピア侵入を侵略と断定し、10日にイタリアへの経済制裁を決議した。【新聞展 cat.no.190】
1107 福岡日日新聞 特別号外
、頁未詳、昭和 11 年 2 月 27 日発行福岡、福岡日日新聞合資会社 570×410 The Fukuoka-Nichinichi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 27 February 1936, Fukuoka, Fukuoka-Nichinichi-Shimbun-Goshi-kaisha 陸軍皇道派将校が約1400名の兵を率いて首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害した二・二六事件である。記事は翌日に解禁となった。福岡発行の本紙には、悲しみにくれる高橋是清邸他の各邸の写真が、雪景色とともに掲載されている。【新聞展 cat.no.191】
1108 東京朝日新聞
第 17913 号、1 面、昭和 11 年 2 月 28 日発行東京、東京朝日新聞社 550×410 The Tokyo-Asahi-Shimbun, No. 17913, p. 1, 28 February 1936, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 2月26日東京全市に戒厳令が布告される。【新聞展 cat.no.192】
1109 東京朝日新聞 夕刊
第 17915 号、1 面、昭和 11 年 3 月 1 日発行東京、東京朝日新聞社 560×405 The Tokyo-Asahi-Shimbun, No. 17915, p. 1, 1 March 1936, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 二・二六事件続報。横断見出しの文字に注目。【新聞展 cat.no.193】
1110 大阪朝日新聞 8日夕刊
第 20012 号、1 面、昭和 12 年 7 月 9 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞社 550×410 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 20012, p. 1, 9 July 1937, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-sha 7月7日夜、北京南西郊外の蘆溝橋附近で数発の銃声がとどろき、日中両軍の武力衝突が始まった。4日後に停戦が実現するものの、28日には日本軍による総攻撃が行われ本格的な日中戦争の幕開けとなった。【新聞展 cat.no.194】
1111 読売新聞
第 21733 号、1 面、昭和 12 年 8 月 4 日発行東京、読売新聞社 550×405 The Yomiuri-Shimbun, No. 21733, p. 1, 4 August 1937, Tokyo, Yomiuri-Shimbun-sha 7月29日中国河北省通洲で、日本軍留守部隊と民間人(多くは日本籍朝鮮人)が保安隊に襲われ、260人の犠牲者が出た。これを「通洲事件」と呼ぶ。【新聞展 cat.no.195】
1112 読売新聞
第 21734 号、1 面、昭和 12 年 8 月 5 日発行東京、読売新聞社 540×410 The Yomiuri-Shimbun, No. 21734, p. 1, 5 August 1937, Tokyo, Yomiuri-Shimbun-sha 「皇軍破竹の勢い」という見出しが踊っている。8月8日には中国駐屯軍が北平(現在の北京)を占領する。歌舞伎座の広告には出し物が「軍国民」とある。【新聞展 cat.no.196】
1113 大阪朝日新聞 号外
、頁未詳、昭和 12 年 8 月 14 日発行門司、大阪朝日新聞九州支社 255×410 The Osaka-Asahi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 14 August 1937, Moji, Osaka-Asahi-Shimbun-Kyushu-shisha 二・二六事件の首謀者青年将校に思想的影響力があったとされる北一輝らに判決くだる、という速報。【新聞展 cat.no.197】
1114 都新聞 号外
、頁未詳、昭和 12 年 12 月 22 日発行東京、都新聞社 410×260 The Miyako-Shimbun Special Number, , (p. ?), 22 December 1937, Tokyo, Miyako-Shimbun-sha 明治17年9月に仮名垣魯文を主筆として創刊された夕刊紙『今日新聞』を母胎とし、『みやこ新聞』を経て『都新聞』となる。昭和17年10月の新聞統合で『国民新聞』と合併し、『東京新聞』となる。12月15日日本無産党などの幹部らが一斉検挙される(第一次人民戦線事件)。加藤勘十、山川均、荒畑寒村、鈴木茂三郎らの名前が挙がっている。22日に結社解散命令が出され、午前11時に記事掲載禁止が解除された。【新聞展 cat.no.198】
1115 東京朝日新聞 号外
、頁未詳、昭和 12 年 12 月 22 日発行東京、東京朝日新聞社 410×275 The Tokyo-Asahi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 22 December 1937, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 「第一次人民戦線事件」の号外。検挙者の経歴、顔写真入り。【新聞展 cat.no.199】
1116 読売新聞 第一夕刊
第 21874 号、1 面、昭和 12 年 12 月 23 日発行東京、読売新聞社 560×405 The Yomiuri-Shimbun (Evening Edition), No. 21874, p. 1, 23 December 1937, Tokyo, Yomiuri-Shimbun-sha 「第一次人民戦線事件」を報じる。【新聞展 cat.no.200】
1117 報知新聞 第一夕刊
第 21911 号、1 面、昭和 12 年 12 月 23 日発行東京、報知新聞社 550×410 The Hochi-Shimbun (Evening Edition), No. 21911, p. 1, 23 December 1937, Tokyo, Hochi-Shimbun-sha 明治4年6月『郵便報知新聞』として創刊された。大正年間には最大部数を誇ったが、この頃には講談社の野間清治に経営権が移っている。「第一次人民戦線事件」を報じる。【新聞展 cat.no.201】
1118 東京日日新聞 時事新報合同号外
、頁未詳、昭和 13 年 7 月 28 日発行東京、大阪毎日新聞社東京支店、東京日日新聞社 550×410 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun Special Number, , (p. ?), 28 July 1938, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-sha 帰還兵士の写真。どこから帰還したのであろうか。写真について「当局許可済み」の断り書きがある。【新聞展 cat.no.202】
1119 満州日日新聞 夕刊
第 11631 号、1 面、昭和 13 年 8 月 3 日発行奉天、満州日日新聞社 560×405 The Manshu-Nichinichi-Shimbun (Evening Edition), No. 11631, p. 1, 3 August 1938, Hoten, Manshu-Nichinichi-Shimbun-sha 明治40年10月星野錫により大連で創刊された。満鉄の機関紙的といって良い。昭和2年11月『遼東新報』を合併し、『満州日報』なるが、昭和10年8月再び『満州日日新聞』に復題した。「ノモンハン事件」は昭和13年5月に始まり、9月に終わる日本軍対ソ・外蒙軍との国境線を巡る戦い。省境の山頂に日章旗が翻るとある。関東軍の発表は、関東軍が越境のソ連機を撃墜したと報じている。【新聞展 cat.no.203】
1120 大阪毎日新聞
巻号未詳、1 面、昭和 14 年 3 月 31 日発行大阪、大阪毎日新聞社 540×405 The Osaka-Mainichi-Shimbun, Unknown Issue Number, p. 1, 31 March 1939, Osaka, Osaka-Mainichi-Shimbun-sha 決死の勇士と題された写真は、特派員の撮影になる。【新聞展 cat.no.204】
1121 毎日新報 夕刊
第 11382 号、1 面、昭和 14 年 5 月 6 日発行京城、毎日新聞社 560×405 The Mainichi-Shinpo (Evening Edition), No. 11382, p. 1, 6 May 1939, Keijo (Seoul), Mainichi-Shimbun-sha ハングル表記の新聞である。独伊同盟を報じる。5月22日独伊軍事同盟締結。この年の初めからナチス・ドイツは近衛内閣に日独伊軍事同盟要求。9月27日にベルリンで日独伊三国同盟が調印される。平沼首相が物価統制令を承認したとの報も眼を惹く。【新聞展 cat.no.205】
1122 京城日報
第 11318 号、1 面、昭和 14 年 5 月 12 日発行京城、京城日報社 550×405 The Keijo-Nippo, No. 11318, p. 1, 12 May 1939, Keijo (Seoul), Keijo-Nippo-sa ドイツ新聞使節団歓迎とある。2色刷りの日章旗とハーケンクロイツ旗が掲げられる。学童らによる伊勢神宮参拝のニュースも。【新聞展 cat.no.206】
1123 大阪朝日新聞 夕刊
第 21009 号、1 面、昭和 15 年 4 月 10 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞社 550×405 The Osaka-Asahi-Shimbun (Evening Edition), No. 21009, p. 1, 10 April 1940, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-sha ナチス・ドイツがコペンハーゲンを占領し、デンマークを支配下に治めたとある。これを受けてノルウェーが宣戦を布告した。【新聞展 cat.no.207】
1124 読売新聞
第 22776 号、1 面、昭和 15 年 6 月 20 日発行東京、読売新聞社 540×400 The Yomiuri-Shimbun, No. 22776, p. 1, 20 June 1940, Tokyo, Yomiuri-Shimbun-sha 6月14日にドイツ軍がパリに入城し、2日後にペタン内閣が成立。ドイツに降伏を申し入れる。これを受けて、日本にとっての仏印情勢が報じられる。ヒトラーとムソリーニの写真。米海軍の増強も伝えている。【新聞展 cat.no.208】
1125 大阪朝日新聞 夕刊
第 21139 号、1 面、昭和 15 年 8 月 18 日発行大阪、朝日新聞社大阪朝日新聞社 550×405 The Osaka-Asahi-Shimbun, No. 21139, p. 1, 18 August 1940, Osaka, Osaka-Asahi-Shimbun-sha ドイツ空軍によるロンドンの空爆。作戦戦局地図が掲載されている。ベルリン、ニューヨーク、ローマ、アテネからの特電。「生鮮食糧統制の応急対策決す」の記事もある。【新聞展 cat.no.209】
1126 朝日新聞
第 20077 号、1 面、昭和 17 年 2 月 16 日発行東京、朝日新聞東京本社 550×405 The Asahi-Shimbun, No. 20077, p. 1, 16 February 1942, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 2月16日山下奉文司令官率いる第二五軍が英領シンガポールを占領する。シンガポール島プキテマ高地北部のフォード自動車工場事務所で、山下奉文中将がマレー英軍司令官パーシバル中将に全面降伏を迫った。シンガポール陥落の大見出し。「大東亜戦の大局決す」とある。【新聞展 cat.no.210】
1127 朝日新聞
第 20133 号、1 面、昭和 17 年 4 月 14 日発行東京、朝日新聞東京本社 500×410 The Asahi-Shimbun, No. 20133, p. 1, 14 April 1942, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 4月9日日本軍がフィリピンのバターン半島を制圧する。バタアン完全攻略のニュース。リスボン発で米国が敗戦発表とある。米軍はコレヒドール島まで退き、脱出した5000人の捕虜が命を落としたことは「バターン死の行進」として知られる。【新聞展 cat.no.211】
1128 朝日新聞
第 21975 号、1 面、昭和 17 年 12 月 8 日発行東京、朝日新聞東京本社 560×405 The Asahi-Shimbun, No. 21975, p. 1, 8 December 1942, Tokyo, Tokyo-Asahi-Shimbun-sha 2色刷り日の丸のもと、宣戦1周年を告げる。「開戦の詔書」が掲載されている。戦果の表もある。ニュースソースは大本営発表、掲載の写真は海軍省提供とある。昭和12年11月18日の「大本営令」が公布から、外電や特配員電は大本営発表となり、写真も特派員撮影から許可制、陸軍省提供へと変わっている。【新聞展 cat.no.212】
1129 読売新聞(復刻)
第 24646 号、1 面、昭和 20 年 8 月 15 日発行東京、読売新聞社 550×410 The Yomiuri-Shimbun (replica), No. 24646, p. 1, 15 August 1945, Tokyo, Yomiuri-Shimbun-sha 昭和27年6月5日発行の『文芸春秋』(第30巻第9号)臨時増刊号付録。【新聞展 cat.no.213】 *第24646号(第2版), No.24646 (2nd Edition)
1130 読売新聞 附録
第 2318 号、1 面、明治 15 年 10 月 10 日発行東京、日就社 345×245 The Yomiuri-Shimbun (Supplement), No. 2318, p. 1, 10 October 1882, Tokyo, Nisshu-sha 東京大学医学部入試案内、金庫(弗匣)、入れ歯広告、他
1131 時事新報
第 1007 号、4 面、明治 18 年 6 月 29 日発行東京、時事新報社 550×405 The Jiji-Shimpo, No. 1007, p. 4, 29 June 1885, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 香油値下げ広告、古本買い入れ広告(天地逆版)、ラーゲビール、他
1132 時事新報
第 1094 号、4 面、明治 18 年 9 月 25 日発行東京、時事新報社 550×405 The Jiji-Shimpo, No. 1094, p. 4, 25 September 1885, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 文学社『英和字彙』、『官報全誌』、ヤマサ醤油、チャスタル石油、他
1133 時事新報
第 1495 号、1 面、明治 20 年 1 月 26 日発行東京、時事新報社 550×405 The Jiji-Shimpo, No. 1495, p. 1, 26 January 1887, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 文学社『英和字海』、上田重三郎商店(土佐紙)、同盟社『絵本 通俗日本外史』他
1134 郵便報知新聞
第 5448 号、頁未詳、明治 23 年 12 月 29 日発行東京、報知社 560×380 The Yubin-Hochi-Shimbun, No. 5448, (p. ?), 29 December 1890, Tokyo, Hochi-sha 錦城学校、民報社「日刊 民報」、民友社『国民之友』、他
1135 郵便報知新聞
第 5540 号、頁未詳、明治 24 年 4 月 1 日発行東京、報知社 560×380 The Yubin-Hochi-Shimbun, No. 5540, (p. ?), 1 April 1891, Tokyo, Hochi-sha 『外科手術書』、岸田吟香「精水」、北海道石炭、他
1136 日本
第 784 号、6 面、明治 24 年 7 月 28 日発行東京、日本社 550×400 The Nippon, No. 784, p. 6, 28 July 1891, Tokyo, Nippon-Shimbun-sha 経済雑誌社『史海』、薬用葡萄酒、万国博覧会受賞「ベルモト酒・機那葡萄酒・鳳梨酒」他
1137 都新聞
第 2094 号、6 面、明治 24 年 12 月 26 日発行東京、都新聞社 560×400 The Miyako-Shimbun, No. 2094, p. 6, 26 December 1891, Tokyo, Miyako-Shimbun-sha 探偵事務所、花王石鹸、大野屋洋酒店、春木座、他
1138 郵便報知新聞
第 5848 号、3 面、明治 25 年 4 月 19 日発行東京、報知社 540×400 The Yubin-Hochi-Shimbun, No. 5848, p. 3, 19 April 1892, Tokyo, Hochi-sha 『日本全国商工人名録』全面広告
1139 読売新聞
第 5349 号、4 面、明治 25 年 5 月 29 日発行東京、日就社 510×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5349, p. 4, 29 May 1892, Tokyo, Nisshu-sha 加藤商店大売出し、金蘭社広告部、対松館写真、他
1140 読売新聞
第 5428 号、4 面、明治 25 年 8 月 30 日発行東京、日就社 510×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5428, p. 4, 30 August 1892, Tokyo, Nisshu-sha イタリア公使館「たずね猫」、『早稲田文学』、「五臓丸」他
1141 郵便報知新聞
第 5994 号、4 面、明治 25 年 10 月 7 日発行東京、報知社 560×380 The Yubin-Hochi-Shimbun, No. 5994, p. 4, 7 October 1892, Tokyo, Hochi-sha 日本郵船、青年文学社『天談集』、森嶋商店「退鼠剤」他
1142 大日本
第 13 号、6 面、明治 25 年 10 月 7 日発行東京、大日本新聞社 560×410 The Dainippon, No. 13, p. 6, 7 October 1892, Tokyo, Dainippon-Shimbun-sha 天賞堂、富山房書店『明治政史』他
1143 日本
第 1225 号、4 面、明治 25 年 11 月 4 日発行東京、日本新聞社 550×400 The Nippon, No. 1225, p. 4, 4 November 1892, Tokyo, Nippon-Shimbun-sha 「萬朝報」、春陽堂「花相撲小説」、民友社『国民之友』他
1144 よろづ朝報
第 35 号、4 面、明治 25 年 12 月 15 日発行東京、朝報社 550×400 The Yorodzu-Choho, No. 35, p. 4, 15 December 1892, Tokyo, Choho-sha 天賞堂、他
1145 いさみ新聞 附録
第 1 号、8 面、明治 26 年 3 月 24 日発行東京、いさみ新聞社 510×365 The Isami-shimbun (Supplement), No. 1, p. 8, 24 March 1893, Tokyo, Isami-Shimbun-sha 富山房書店『日本小歴史初歩』等、『小説 破太鼓』、「滋強丸」他
1146 改進新聞
第 3077 号、4 面、明治 26 年 5 月 10 日発行東京、三益社 525×390 The Kaishin-Shimbun, No. 3077, p. 4, 10 May 1893, Tokyo, Saneki-sha ぜんそく薬「鎮嗽液」、滋養飲料「ヘルス」、三越洋服店、他
1147 読売新聞
第 5738 号、4 面、明治 26 年 7 月 13 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5738, p. 4, 13 July 1893, Tokyo, Nisshu-sha 星野与兵衛商店・武田長兵衛商店「人造麝香」、日本鉄道会社、他
1148 読売新聞
第 5747 号、4 面、明治 26 年 7 月 22 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5747, p. 4, 22 July 1893, Tokyo, Nisshu-sha 東京物理学校、民友社『カーライル』等、他
1149 読売新聞
第 5758 号、4 面、明治 26 年 8 月 2 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5758, p. 4, 2 August 1893, Tokyo, Nisshu-sha 石崎商店「清酒 澤之鶴」、博文館『初年雑誌』、「甲斐産葡萄酒」他
1150 読売新聞
第 5789 号、4 面、明治 26 年 9 月 2 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5789, p. 4, 2 September 1893, Tokyo, Nisshu-sha 有正館『修身訓』、春陽堂『夜嵐』、学齢館『小国民』他
1151 読売新聞
第 5798 号、4 面、明治 26 年 9 月 11 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5798, p. 4, 11 September 1893, Tokyo, Nisshu-sha 金港堂書籍『素人芝居』、守田治兵衛商店「奇應丸」、『家庭雑誌』他
1152 東京日日新聞
第 6570 号、5 面、明治 26 年 9 月 13 日発行東京、東京日日新聞発行所 490×355 The Tokyo-Nichinichi-Shimbun, No. 6570, p. 5, 13 September 1893, Tokyo, Tokyo-Nichinichi-Shimbun-hakkosho 490 x355 金港堂書籍『女子家庭訓』、侯爵 細川護久死亡広告、『市町村雑誌』他
1153 読売新聞
第 5804 号、4 面、明治 26 年 9 月 17 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5804, p. 4, 17 September 1893, Tokyo, Nisshu-sha 札幌ビール、資生堂「神薬」他
1154 読売新聞
第 5843 号、4 面、明治 26 年 10 月 26 日発行東京、日就社 500×370 The Yomiuri-Shimbun, No. 5843, p. 4, 26 October 1893, Tokyo, Nisshu-sha 大倉書店美術書、大谷大次郎商店アルコール、他
1155 時事新報
第 4305 号、1 面、明治 28 年 6 月 13 日発行東京、時事新報社 550×405 The Jiji-Shimpo, No. 4305, p. 1, 13 June 1895, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 伊勢新、金庫製造竹内善次郎商店、時計販売安田商店
1156 時事新報
第 4984 号、12 面、明治 30 年 8 月 13 日発行東京、時事新報社 530×380 The Jiji-Shimpo, No. 4984, p. 12, 13 August 1897, Tokyo, Jiji-Shimpo-sha 内田靴店、ジンファンデル、田中販売店、日本興業銀行、他 |
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