記録媒体としての新聞
新聞紙面に写真版が登場するようになったのは明治三七年の日露戦争の新聞報道からだと言われている。以後、昭和二〇年八月の終戦に至るまでの新聞紙面に登場する写真を通覧すると、天皇、戦争、災害の報道がとくに眼をひく。これは二〇世紀前半の日本近代社会の関心事がどこにあったかを如実に示すものであり、また同時に新聞報道が「正史」とちがった歴史の証言物であることを物語ってもいる。
144.日刊紙『時事新報』
明治一五年三月福沢諭吉が慶應義塾出版社から創刊した新聞。政党新聞全盛の当時にあって、不偏不党の立場から時事を論じた。海外の報道にも力を注ぎ、明治二六年にはロイター通信と独占特約を結んでいる。本紙は「旅順大海戦公報」として、東郷連合艦隊司令官の報告が掲載されている。見出しは傍点で示されている。ほかに日露戦争ボンチ画報、前橋花相撲の勝敗、囲碁の結果などがある。
145.日刊紙『東京朝日新聞』号外
日露戦争戦況を伝える号外。よって片面刷りで、最下段には空欄もある。特派員電の次に公報がある。被弾遭難した佐渡丸の続報もある。大活字や傍点がふってあるもの以外は総ルビつき。
146.日刊紙『日本』
明治二二年二月一一日帝国憲法発布にあわせて創刊された。陸羯南を社長とし、国粋主義を掲げて、明治政府の欧化政策を批判する論陣をはった。日露戦争中の本紙には、論説として清国の保全(黙堂署名)が掲載されている。一月一日の旅順開城をうけてその雑報を記録する。また、ステッセル夫人が稲佐に上陸する光景を捉えた写真には、「夫人の傍らにあるは旅順戦没将士の孤児なり」とある。稲佐は長崎県のロシア村のあった場所。ステッセルは乃木将軍と戦い、のちに親交を深めたロシアの将軍で、当時は旅順司令官であった。
147.日刊紙『萬朝報』
明治二五年一一月黒岩涙香により創刊された。明治天皇崩御を報じる黒枠で囲まれた特別編集。病状から最後を伝える英文記事も併記されている。三面には皇太后(昭憲皇后)と皇太子(当時満十一歳の裕仁親王、後の昭和天皇)の写真が掲げられている。慶応義塾は先帝奉悼式のお知らせとともに、学生募集の広告を出している。また大喪による休業広告、さらには文芸消息、新刊書評、将棋の結果、王子製紙決算報告広告などもある。
148.日刊紙『大阪毎日新聞』
九月一三日に行われた明治天皇大喪儀の様子を詳細に報じる。紙面は全頁太い黒枠で囲まれており、第一面は安藤静也と山本英春の挿画、第四面と第五面の見開きは小杉未醒、森田恒友、星野空外の挿画で全面が埋められている。大喪儀の日に自殺した乃木大将夫妻の殉死についても報道されている。 149.日刊紙『大阪毎日新聞』第一号外
明治天皇大喪儀の葬列の様子が、岡田三郎助、結城素明、山村耕花、小山栄達らのスケッチと小川一眞他の写真で報じられる。
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