6シーボルト植物コレクションを集大成したミクェルF. A. W. Miquel: the first botanist to study the Siebold collections大場秀章・秋山忍
Hideaki Ohba and Shinobu Akiyama
シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』は2巻に分けて出版されたことはすでに述べたが,その2巻の表題は,以下のようになっている.
ミクェルはまずシーボルトとツッカリーニの遺稿の整理を通じて,シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』に関係するかたちで私たちの前にたち現われる.もっともミクェルが『フロラ・ヤポニカ』2巻でしたのは彼自身によって書かれたにちがいない先の表題に反して,たかだか45ページ,45ページから89ページにわたる第6から第10分冊と,22図版(第137図版を除く,第128図版から第150図版)の出版にかかわっただけに過ぎない.しかし,シーボルト・コレクションの今日を考えるときミクェルの貢献はきわめて大きい.それはライデンの王立植物標本館にあったシーボルトと彼の後継者たちが日本で収集した全標本を同定・整理し,集大成したのがミクェルだからだ. シーボルトと後継者たちの植物コレクションが20世紀そしておそらく21世紀においても重要な研究上の意義をもつ博物資源たらしめたのは,コレクションを形成したシーボルトらの力だけではなく,彼らのコレクションを第三者が利用可能な状態に分類整理した,現在の国立植物学博物館の前身である王立植物標本館(Rijksherbarium)の2代目館長となったミクェルである.ミクェルの努力なしには今日のシーボルト・コレクションのもつ学術的価値は半減していたであろう.本稿ではこのシーボルト・コレクションの学術的価値の生みの親ともいえるミクェルとその研究にふれてみたい. |
F.A.W.ミクェル(1811年〜1871年)
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ミクェルの生涯ミクェル(Friedrich Anton Wilhelm Miquel)は,1811年10月24日,現在はドイツに属するノイエンハウス(Neuenhaus,オランダ名はNienhuis)の著名な医者の家に生まれた.なお,ミクェル自身論文などで,しばしば F. A. G. Miquelと書くことがあるが,G.はGuilelmでWilhelmのフランス語での綴り方である.現在はオランダに属するフローニンゲンの大学で医学を学んだ後2年ほどをアムステルダムの病院に医師として務めた.1835年にロッテルダムの大学で医学を教える機会を得,10年ほどそこで過ごした後,1846年にアムステルダムの医師養成大学の植物学教授となったのである.ミクェルの植物学者としてのキャリアはこの時代から始まるといってよい.さらに1859年から1871年まではユトレヒト大学の植物学教授となったが,その間は,ライデンの王立植物標本館にも関係するところとなり,1862年からはその館長を務めたのである. ミクェルは植物学上のマレーシア地域を中心とする熱帯アジアの植物について優れた研究を行ったが,1862年にライデンの館長に迎えられると,ほとんど手づかずの状態にあったシーボルトと彼の後継者たちの日本植物のコレクションの研究を集中的に進めた.ミクェルが,シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』の未完部分をかなりの空白を置いて出版した意図は,日本植物研究のイニシアチブを確保しておきたいとするライデンの立場を反映するものである. ライデンのシーボルト・コレクションライデンにはビュルガーが採集したぼう大な量の日本植物の標本があった.ビュルガー(H. Bürger)はシーボルトの離日後も日本に残って植物調査を続行した.実のところ,「シーボルトと彼の後継者たちの日本植物コレクション」の中核をなすのは,シーボルトの採集品ではなく,ビュルガーの標本だといってよい.標本の数量ばかりでなく,標本の質の点でもビュルガーの標本は優れている.シーボルト自身のコレクションに匹敵する重要な意味をビュルガー標本はもっている.ライデンの植物学博物館に残されたシーボルトの書簡から,ツッカリーニはビュルガー・コレクションの一部をライデンから借りていったことが判る.しかし,『フロラ・ヤポニカ』やその後にシーボルトと共著として発表された論文を見る限り,シーボルトの共同研究者ツッカリーニはこのコレクションを十分に利用することはなかったと思われる. 多量のビュルガー・コレクションの分類学的研究が,日本植物研究でのイニシアチブ確保の上で重要だとミクェルは考えたのであろう.そればかりでなく,ミクェルは単にビュルガー・コレクションを分類整理するだけでなく,これに関連した研究を行うことで彼自身の日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)をつくろうと考えたと思われる.とはいえ,彼が意図したのは,シーボルトとツッカリーニによる植物画を伴うようなフロラ・ヤポニカではなく,純粋に学術を目的とするものであった.ミクェルの時代はもはや豪華なコーヒーテーブルブックの出版を競う時代ではなかった.ミクェルの時代,ロシアとアメリカに加えて,フランスのフランシェとサヴァチェが日本植物の研究上のイニシアチブを競っていたのである.その中で,ミクェルは『日本植物誌試論』(Prolusio Florae Japonicae )(1865−1867)という,フォリオ版で392ページというぼう大な著作を刊行したのである. |
ミクェルのProlusio Florae Japonicae(日本植物誌試論)の表紙.
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ミクェルの『日本植物誌試論』ミクェルの日本の植物に関する論文は,シーボルトとツッカリーニの『フロラ・ヤポニカ』の最終配本である2巻6−10分冊(1870年)のほかは,上に述べた『日本植物誌試論』(Prolusio florae japonicae )が大きなものである.この論文はほとんどの部分が,ミクェル自身が編集したAnnales Musei Botanici Lugduno-Batavi(ライデン王立植物標本館紀要)の2及び3卷(1865−1867年)に断続的に連載されたもので,1867年にページを改めて合本され,同時に新たに加わった374−392ページと,i−viiのページをもつ前つけの部分が出版された.通常,この本の出版年は「紀要」での出版年をもって引用されるので,1865年から1867年となる. 『日本植物誌試論』は原題をProlusio Florae Japonicae といい,当時の習慣に従ってラテン語で表されている.Prolusioは,「遊ぶ」とか,「踊る」あるいは「演技する」という意味のludoという動詞から派生したlusioに,proという前置詞を組み合わせた語で,「練習」とか下「稽古」,「ためし」などという意味をもつ言葉で,ここでは「試論」とした.やがて書かれるFlora Japonica のための練習あるいは試みという意味合いであるが,そのやがて書かれるFlora Japonica がミクェル自身によって意図されていたかどうかは定かではない. 『日本植物誌試論』は分類体系に従って,科ごとにシーボルトらのコレクションを整理したカタログの色彩が強い.各科では属ごとにそれに属する種を配置し,各種については異名を列挙するとともに関連する文献を逐一あげている.ミクェルはこの試論を書くにあたって,それまで日本や近接地域の植物について行われてきたぼう大な研究論文を参照し,それぞれの論文が対象とした種について論評したのである.こうした研究と並行してシーボルトらのコレクションの分類が進められたのである. ライデンにあるシーボルトらのコレクションをみると気づくことはほとんどの標本にミクェルの手になる同定ラベルが貼られていることである.そしてこのラベルのある標本は基本的にはすべて『日本植物誌試論』に引用されているといってよい.ミクェルは単に同定結果を記入しただけではなく,シーボルトの採集した標本ではそれがシーボルト採集の標本であることを示すSieboldという名も同時に記入するなど,標本自体の整理をも同時並行的におこなっていたと推測される.シーボルトらの標本には複数のラベルが貼られていることが多いが,採集者のラベルとならびミクェルの手記がとくに重要なものである.『日本植物誌試論』を合わせ参照することで,標本に関連したぼう大な情報を手にすることができるわけである. ところで『日本植物誌試論』は,先にあげた2人の日本植物の研究者,ハーバード大学教授のエーサ・グレイ(Asa Gray)とサンクト・ペテルブルクの科学アカデミー会員マキシモヴィッチ(C. J. Maximowicz)に献呈されている.ミクェルがいかに日本植物研究の状況を正しく掌握し,その中で独自の活路を見出すことに腐心していたかを知らされる思いがする. 『日本植物誌試論』でミクェルが扱った標本は9種類あると前書きに断っている. ミクェルが書いている順にその大意を記してみよう.
ミクェルが『日本植物誌試論』で発表した日本産新植物ミクェルは未整理の標本を整理する過程で,学会には未知の植物が多数存在することを知る.その一部は『日本植物誌試論』とは別の論文中に発表されたが,ほとんどは『日本植物誌試論』中で新種として発表された.『日本植物誌試論』以外での発表としては次に述べるいくつかのものがある. そのひとつは,1868年に刊行されたOver de verwantschap der flora van Japan met Aziè en Noord-Amerika と題した論文中である.この論文はアムステルダムで出版されていたVerslagen en Mededelingen van de Afdeeling Natuurkunde 誌の第2シリーズ,2巻,65から89ページに発表されたもので,日本とアメリカの植物相についての考察を主体にした論文であったが,83から89ページは新しく見出された種の記載に当てられた.なお,この雑誌の出版年代は文中に書いたように1868年であるが,1866年にはその別刷りが印刷され,ハーバード大学のグレイ教授に送られていた.そのため,この論文は1866年刊として引用されている.ここで発表された新種は1867年から刊行された『日本植物誌試論』に再録されているが,通常は雑誌論文をその初出としている.蛇足だが,この論文のフランス語版は1867から68年にかけて出版されたフランスのAdansonia誌の8巻と1867年刊のオランダのArchives Nèerlandaises des Sciences Exactes et Naturaelles 誌2巻に掲載された. 他の論文は『日本植物誌試論』が掲載された同じミクェルの王立植物標本館紀要(Annales Musei Botanici Lugduno-Batavi )に発表された.『日本植物誌試論』は同誌の2巻からであるが,ミクェルはその1巻に,『ウコギ科新種と〔東〕インド産種補遺及び校訂』(原題はAraliaceae novae, adiecta aliarum specierum praesertim Indicarum revisione,1から27ページ),『日本産ツツジ科』(Ericaceae Japonicae,28から35ページ), 『〔東〕インドと日本産ブドウ科新種および補遺』(Ampelideae novae, adiecta specierum praesertim Indicarum et Japonicarum epicrisi,72から101ページ)という論文を書き,その中で日本からの新植物を記載した. この1863年に刊行された王立植物標本館紀要第1巻掲載の論文はミクェルの『日本植物誌試論』が構想されていく過程を考えるうえで興味がもたれる.というのは,はじめから現在あるような『日本植物誌試論』が構想されたのではなく,シーボルト・コレクションの整理中に見出された新植物は,必ずしも日本に限定することなく,同時に進められていた現在のマレー地域などの植物についての新見解と合わせて分類群毎に発表することを考えていたのではないかと思われるからだ.それがシーボルト・コレクションの整理と分類が進行する中で,未記載種がぼう大な数に上がることが判り,現在みるような『日本植物誌試論』という日本植物をすべて網羅した論著に収束していったのではないだろうか. ミクェルが新植物ならびに新学名とした植物を表1にまとめて示した.これはミクェル自身が『日本植物誌試論』に掲載しているものから収録した.上にも述べたように,ミクェルが日本から新植物として記載したのは『日本植物誌試論』中だけではない.また学名の初出の引用では『日本植物誌試論』ではなく,その論文が掲載された王立植物標本館紀要の巻数とペ−ジ,発行年をもって行なわれるのが普通である.それは『日本植物誌試論』が初出の王立植物標本館紀要とは異なるページ付けをされて出版されているためでもある.『日本植物誌試論』には王立植物標本館紀要には掲載されていない部分(i—viiおよび 374—392ページ)がある.そのうちiからviiページは前書きに当たる部分であり,374から392ページは分類体系に則した種名一覧である. シーボルトのコレクションはシーボルトとツッカリニーが『フロラ・ヤポニカ』に利用するなど,その時点で学術的価値が与えられたが,シーボルト以後ライデンにもたらされたぼう大な日本植物のコレクションに学術的に重要な価値を与えたのはミクェルの功績である.ただ単に収集されただけのコレクションは潜在的な価値はあるものの学術上の価値は皆無といってよい.ミクェルの『日本植物誌試論』ならびに他の諸論文こそは今日におけるシーボルト・コレクションに植物学的価値をもたらした源泉である.一般には専門的過ぎる向きもあるが,ここに詳述したのはそれがゆえでもある. おおば・ひであき 東京大学総合研究博物館教授
あきやま・しのぶ 国立科学博物館植物研究部主任研究官
(Hideaki OHBA: Professor, University Museum,
University of Tokyo; Shinobu AKIYAMA: Curator,
Department of Botany, National Science Museum)
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『日本植物誌試論』の本文.
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