はじめに

—江戸考古学をはぐくむ東京大学の遺跡—

西秋 良宏



 東京大学の本郷キャンパスは、文京区に数ある史跡の中でも江戸を身近に感じることのできる名所の一つである。そこには赤門と育徳園心字池(三四郎池)がある。いずれもキャンパスがかつての雄藩、百万石の加賀前田家本郷邸跡につくられていたことを今に伝える第一級の遺構である。

 東京大学に残る江戸の面影はそれだけではない。最大のものは、実は、その地下にある。歴史を刻んだ加賀藩本郷邸がキャンパスの地下に文字通り埋もれているのである。壮大な屋敷と、そこで繰り広げられた前田家の歴史と文化、その全容が近年活発におこなわれている考古学的発掘によってようやく姿を見せ始めた。発掘された遺品の数々は、すでに長さ六〇センチ幅四〇センチ深さ一五センチの標本箱一万数千に達している。それら掘り出された加賀藩ゆかりの遺物・遺構を一堂に集め、加賀藩本郷邸という巨大大名屋敷の構造と機能を考察してみたのが今回の展示である。それは、進展いちじるしい江戸考古学の成果と到達点を示す試みでもある。

 本郷キャンパスに埋もれた江戸を掘り起こす作業が始まったのは、それほど昔のことではない。発掘が本格化したのは一九八〇年代なかばになってからのことであるから、むしろ最近のことといってよい。

 もちろん、ここに文化財が埋もれていることは早くから気づかれていた。一八八五年頃には人類学教室の関係者が現経済学部南にあった小山(椿山)が古墳ではないかと考えて発掘を試みたという記録があるし、一九二四年には現理学部七号館付近(旧人類学教室倉庫跡)から石斧が発見されている。また、一九七五年には、弥生式土器最初の発見の地ではないかといわれる工学部浅野キャンパスで、弥生式土器が発掘されている(国指定史跡、弥生二丁目遺跡)。

 それらかつての発掘はどれも先史時代を扱ったものである。江戸時代が対象となったのは、近年の学内再開発がきっかけであった。発端は、一九八三年に実施された山上会館、御殿下グラウンド建設にともなう試掘調査である。試掘調査は弥生式土器が発見されるかも知れないとの予測をもっておこなわれた。ところが、見つかったのは加賀藩本郷邸の遺構群であった。しかもその保存状態が異例なほど良かったことから、埋蔵文化財保護の見地にたった本格調査が開始されたのである。以後、法文アネックス、理学部七号館、医学部病院など矢継ぎ早に続く建築ラッシュはそのまま藩邸遺跡の調査をともなうものとなり、今日にいたっている。これまでに発掘された地点は既に五〇をこえている。

 従来ほとんど関心をもたれていなかった江戸時代の遺跡が突如として調査対象となったのは、もちろん考古学・歴史学の視野がひろがってきたことを示すものだが、当時、江戸の埋蔵文化財に対する一般の見方が大きく変わりつつあったという世相をも反映している。すなわち、一九七〇年代後半以後バブル経済の隆盛とともに著しく活発になった都心再開発によって、江戸の遺構や遺物が各所で次々に我々の前に姿を見せ始めていた。巨大都市東京のビル群に破壊されつくされていたと思われた江戸が、地下にそっくり保存されていることにようやく人々が気がついたのである。それが、文献史学や美術史、建築史学、民俗学などの領域であった江戸学に何らかの寄与をなしうるに違いない、と研究者が考えたのは当然のことである。さらに、おりしも徳川家の江戸入城(一五九〇年)四〇〇周年をひかえ、近代日本文化の原点となった江戸時代再評価の動きが東京ではピークをむかえつつあった。東京大学の本郷構内で江戸の発掘が始まったのは、まさにそのころだったのである。発掘を担当してきた埋蔵文化財調査室の歩みは、わが国における江戸考古学の歴史とそのまま重なっている。

 縄文時代や弥生時代のように遠い過去をさぐる学問であるように考えられている考古学ではあるが、そもそも考古学に時間の制限はない。積極的な研究者の中には夢の島のゴミ山やタバコの吸い殻分布など同時代の物質資料を扱う研究すら、考古学に位置づけているほどである。とはいえ、江戸の考古学は先史考古学とはずいぶん異なった性格をもつ。発掘がほとんど唯一の研究手段である先史時代などとは違い、掘らなくてもわかっていることがすでに相当量に達しているからだ。江戸時代の文献史料や絵図は豊富である。また、今に伝わる工芸品や建物、そしてそれらを扱った研究蓄積が何と豊富なことか。江戸の文物の研究は、それこそ江戸時代から続いているといっていい。あまりにも深く豊かな実績をもつ江戸学に、新参者の考古学がいまさら何を付け加えられるのだろうとの疑問がわくかもしれない。

 しかし、そうした疑問は、たとえば、現代の犯罪捜査における現場検証の有効性を考えてみればすぐ消えるだろう。現場検証、つまり発掘が提示する証拠は、自白や目撃証言にたとえうる文献史料や絵図で得られる情報とは、独立した性質をもっているからである。犯罪捜査官がおこなうように、江戸の地面を実際に見つけ、そこに立ち、あるいは、はいつくばって物証を探し出して分析する考古学の発掘が新しい知見を提示できないはずがない。

 実際、これまでの発掘調査は、従来の手法では知り得なかった多くの事実を明らかにしてきた。たとえば、一九世紀初頭、建造後二〇年ほどで撤去解体されたため幻の御殿ともいわれる梅之御殿の発掘(御殿下グラウンド地点)では、御殿建築に関する詳細な知見が提示されている。そこでは現存する絵図と発掘結果が詳細に照合され、柱の位置や部屋割りなどプランに関する情報は絵図にきわめて性格に描かれていること、一方で地下室や排水溝など床下の構造は考古学の知見なしには十分に知り得ないことが明らかにされた。同様のことは、能舞台の発掘(医学部教育研究棟地点)、あるいは溶姫御殿の台所の発掘(経済学部南、総合研究棟地点)の結果についてもあてはまる。また、絵図はもちろん文献記録の乏しい史実に新しい光をあてたのが、寛永期の徳川家御成に関する遺構の調査である(医学部附属病院地点)。宴会後の残飯、食器を捨てた穴と推測される遺構から出土したかわらけや木製品、動植物骨の分析は、文献記録では知り得ない宴会の作法や手順を生々しく提示してみせた。

 成果があがっているのは、このような史実の検証という分野だけではない。出土物の考古学的な分析も、江戸時代の技術や流通、消費の解明に寄与している。とりわけ出土品の中で最大量をほこる陶磁器の研究は貢献も大きい。その第一は発掘調査が陶磁器の年代を確定していることである。江戸時代の代表工芸の一つである陶磁器は伝世品として現代に伝わり、各地の美術館や骨董市場を彩っているが、年代があやふやなものも少なくない。発掘は年代の確実な基準資料を得る最上の方法である。出土品の大半は破砕しているから美術的価値には欠けるかもしれないが、どの時代にどんな陶磁器が使われていたのかを、それほど雄弁かつ確実に語る資料は他にない。幾度もの火災と整地で地層が封印された加賀藩本郷邸出土の陶磁器資料は、きわめて確かな年代の物差しを提示しているのである。また、陶磁器の産地研究に果たした発掘の役割も特筆される。「古九谷」という美術史分野で高い評価を得ているやきものが、初めて確実な江戸の地層から見つかったのも本郷キャンパスである。理化学分野の技術を利用したその胎土分析の結果は、その産地がどこであったかという論争に一石を投じている。

 東京大学の遺跡を舞台とした江戸の考古学が多くの成果をあげてきたのには、いくつもの理由がある。一つには、ここが明治期に大学用地となり以後の無秩序な開発にさらされなかったため、地下に江戸の痕跡が良好に保存されてきたことがあげられる。また、そこからは加賀殿という大大名の屋敷ならではの、質が高くかつ豊かな建造物、遺構、工芸品が出土すること。さらにまた、やはり大大名屋敷ならではの文献記録と絵図の豊富さ、そして、文献史学や建築史学はもとより分析化学の自然科学にいたるまで、異質な情報を交換し検討するための関連研究者に事欠かない大学という組織。本郷構内に総合的な江戸学を進める格好のフィールドが用意されていることは明らかである。発掘が始まった直接の契機は建設で破壊される文化財の記録保存という、学術とは別のところにあったけれども、こうした好条件が新しい学問をはぐくみつつあることはまことに幸いという他はない。また、それをさらに育てていくことは、これほどの恵まれたフィールドを与えられた者の責務でもあろう。

 本展は「加賀殿再訪」(かがどのさいほう)と名乗っている。

 勇壮な建築と豪華な内装、調度品をもって名の聞こえた本郷邸には江戸時代、いくにんもの人々が訪れている。最大かつユニークなのが、先にも述べた徳川将軍家の御成である。そのために特別な御殿をたて、また国元金沢から接待役をよび食材をとりよせ、数千人をもてなした未曾有の大宴会をともなう訪問であった。

 貴人だけではない。町人にも見学が許された。徳川家から溶姫を娶った前田斉泰の世継ぎ、後の十四代藩主慶寧誕生の際には、屋敷を町人にも開放したという。今からちょうど一七〇年前、文政一三(一八三〇)年五月のことである。屋敷に勤務する現地採用の使用人やその家族、さらには出入りの御用町人の家族らにも一週間以上にわたって屋敷が開放された。大名屋敷の公開見学会という異例のはからいは江戸市中の評判をよび、公開期間を延長したという記録が残っている。

 ここが東京大学に譲られて一二〇余年、長らく訪れることもあたわなかった加賀殿の御屋敷。江戸考古学の成果を借りてそれを復活させ、今一度訪れてみようというのが、展示タイトルにこめられた意図である。それは、屋敷の仕組みを見学するだけでなく、開発と江戸ブームにのって突然走り出した江戸の考古学が、本郷キャンパスを舞台にして、どこまで育ったのかを検証する機会となるであろう。

 今回の企画にあたっては、本郷キャンパスに今なお残る加賀藩ゆかりの構築物がどれくらいあるのかの再調査も実施した。周知の赤門や育徳園だけでなく、加賀藩・水戸藩の地境としての石垣、さらには山上会館別館龍岡門前の井戸など、数カ所で江戸の遺構がなお顔をみせていることが判明した。また、江戸の絵師が描いた本郷邸の絵画史料で現存するものの探索も試みた。これも二〇件近くが見いだされた。それらのリストも本書に収録している。加賀殿を訪れる際には、地上と地下双方の江戸に目をむけていただきたい。




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