2—『徳川盛世録』より「将軍の姫君登城途中の図」








明治22(1889)年、東京大学史料編纂所所蔵『徳川盛世録』(博文社、1889年)は市岡正一が「旧記と某の討憶と」をもとに江戸時代の武家社会の諸制度について書き記した全二巻からなる和綴本である。当書には多色刷りの挿絵(作者は不詳)が多数おさめられるが、「将軍の姫若登城途中の図」もその中の一つである。この図と対応する本文を抜粋する。
 
 姫希年始登城 将軍家の女子は三家・三卿および諸大名等へ婚嫁ののちも臣下の礼を用いず。すべて将軍家族の扱いなり。邸内、別に門戸を設けて御守殿(三家・三卿において称す)、御住居(他諸大名において称す)という。その御守殿、御住居等の向は三月年始として登営あり。この時幕府より徒一組(25人なり)をして途中警衛として差向さしむけられ、行列を先導し途中を戒厳す。また留守居役一人を送迎し、姫の乗輿に従い、これが開閉の事を掌る(乗物に錠を卸し、その鍵を明くる等みな留守居の役なり)。
すなわちこの図は大名家に嫁いだ将軍の娘が、「三月年始」として登城する様子を示したもので、その一例として加賀藩前田家に嫁いだ溶姫の行列の場面が取り上げられている。赤門(御守殿表門)から本郷通りへ出た行列が江戸城に向かって進んでいく様を描いているが、この図に示される加賀藩邸の景観描写には不正確な部分がある。すなわち、大御門(表門)が実際に溶姫がいたころの形式と異なっており、当図中のものは『青標紙』(1840年刊)に「往古」の加賀藩邸表門として挙げられている形式を示す。このような形式の門があったのは享保15(1730)年の火災以前のことと思われる、なお、当図において大御門北側の角に見える物見所は幕末(1863年頃)にそれまであった御土蔵の南側の部分を取り払って建てたものである。明治16(1883)年の地図(五千分一東京図測量原図)でも存在が確認できるので、『徳川盛世録』が出された頃にもまだ残っていたのではないかと思われる(松本裕介)。(U)