地中海域およびエトルリアの摩崖墓

シュテファン・シュタイングレーバー


  南エトルリアの内陸部には、いわゆる「摩崖墓/岩窟墓」(岩肌を到りぬいてつくられた墓)Pl.36-41Fig.105-122が群をなしている。墓にはいろいろなタイプがあり、質・量ともにイタリアにおいて他に例を見ない。とはいえ、摩崖墓は地中海域のさまざまな文化圏で一般的な墓建築であるため、その観点から見ればエトルリアの摩崖墓も決して珍しいものではない。

 摩崖墓が発達するには、前もって地理的・地質的な条件が揃っていなければならないのは言うまでもない。摩崖墓は、峡谷の絶壁に見られるのが普通である。地中海域の中部および東部では、摩崖墓は南エトルリア以外に小アジアのリュキアやカリア、パフラゴニアといった地方や、パレスチナ、古代ナバタイ王国(シリア)、キュレナイカ地方(リビア)に分布している。また、アナトリア東部のウラルトゥ、イランとイラクの国境を結ぶ地域であるクルディスタン、古代ペルシア王国のペルセポリス周辺、サウジアラビアのヘグラ、エジプトのベニ・ハッサンにもある。摩崖建築は、インドや中国のように全く異なる文化圏でも見られるが、普通は墓ではなく、石窟寺院である。

 地中海地域における摩崖墓の建設は、エジプト中王国時代(第12王朝、ベニ・ハッサン)に始まり、ローマ帝政期まで続いた。しかし、前6世紀までの例は少なく、ウラルトゥやフリュギアに見られるくらいである。前4世紀になるとその数は著しく増え、ヘレニズム時代およびローマ帝政初期には頂点に達する。

 摩崖墓のタイプや規模、装飾がさまざまであるのに対し、多くの場所で共通してみられる特徴が幾つかある。摩崖墓は、いわゆる「周辺」文化において発達した。多くの場合、交易によって景気が一時的に急上昇し、経済的に潤った時期にこぞって建設されたのである。また、A.シュミット=コリネは、Pl.42ナバタイ王国の摩崖墓に関する論文の中で以下のように述べている。「考古学的に解釈したとしても、岩を到りぬいてつくったこれらすべての死者の街の背景に、死せる者の住まいに永遠と壮大さを与えようとする努力がひしひしと感じられるのである。それは生ける者の住まいに対する感覚とは全く違っている。」


20 南エトルリアの岩窟墓地域
Topografie der sudetruskischen Felsgraberzone
(nach S.Steingraber,Etrurien,Munchen 1981)


 一般的に言って、摩崖墓の建築は内部ではなく外観に重点が置かれている。つまり、墓室や寝台、副葬品よりも墓の見た目が強調されるのである。墓の主が同時代の人々や子孫に自分を記憶にとどめておいて欲しいと望んでいたのは明らかである。したがって、これらのほとんどの摩崖墓は、墓の主の意向をそのまま表現しているのであり、称賛の的になるよう立派に建てられたのである。

 エトルリアの摩崖墓/岩窟墓は、南エトルリアの内陸部に集中している。この地域には今日でも牧歌的な風景が残されており、凝灰岩が豊富で、峡谷が切り立つ。また、台地には自然の要塞に守られて街が建ち、ときおりカルデラ湖が顔をのぞかせる。摩崖墓は、南はトルファ東部のスティリアーノ周辺から、北はトスカーナ南西部のソヴァーナ周辺にまで広がり、ブレーラや、サン・ジュリアーノ、ノルキア、カステル・ダッソ、ソヴァーナといった場所に存在する。

 南エトルリアの摩崖墓は前6世紀前半に始まり、前2世紀まで建てられた。この墓建築は、アルカイック時代後期(前6世紀後半および前5世紀初め)、それからヘレニズム時代初期(前4世紀末および前3世紀前半)の2度にわたって盛期を迎えた。最初の盛期に建てられた摩崖墓は、Fig.107-108南のブレーラやサン・ジュリアーノ(エトルリアの大都市カエレの政治的な影響下にあった地域)Fig.105-106やトゥスカーニア(タルクィニアの後背地)に数多く分布しており、重要な墓の分布とも一致する。それに対し、2度目の盛期に建てられた摩崖墓で重要なものは、北のノルキアやカステル・ダッソ、ソヴァーナ(タルクィニアやヴルチの影響下にあった地域)Fig.109-110、112に見られる。エトルリアのクラシック時代には、摩崖墓はそれほど重要視されなかった。それは、一方ではこの時期にエトルリアに経済的な危機が訪れたためであり、もう一方では社会の平均化が進んだためである。

 摩崖墓が建設された南エトルリアの経済基盤は農業であったが、地域的な交易が行われたり、周辺の鉱山の開発もある程度は行われており、繁栄の一端を担っていた。また、エトルリアがローマ化されるようになると、ローマ国家は沿岸の大きな都市をなおざりにして、内陸部の小さな都市を援助する政策をとったのである。ローマとエトルリア内陸部とを結ぶクローディア街道の建設は、その政策を反映している。しかし、特に前2世紀半ばを過ぎると、南エトルリアの衰退は明らかになる。

 南エトルリアにおける摩崖墓の研究をたどると、主に3つの時期に分けられる。19世紀では、イギリス人のサムエル・ジェームズ・エインスリーとジョージ・デニスが研究者として挙げられる。それに対し、イタリア人のL.カニーナやF.オリオーリ、フランス人のH.ラブルストやA.レノワールは、摩崖墓の挿し絵画家として貢献した。第1次世界大戦後から第2次世界大戦開始までに、大々的な発掘調査が行われた。ドイツ人研究者のH.コッホやE.フォン・メルクリン、C.ヴァイケルトがブレーラを、イタリア人研究者のR.ビアンキ・バンディネッリがソヴァーナを、A.ガルガーナがサン・ジュリアーノを調査し、G.ローズィは南エトルリアにおける摩崖墓の建築に関する研究を行った。戦後は、1960年代になってようやく研究熱が復活する。スウェーデン王グスタフⅥ世の下でスウェーデン人研究者たちによる発掘が行われた(サン・ジョヴェナーレおよびルーニ・スル・ミニョーネ)。また、エトルリア学研究者のコロンナ夫妻(カステル・ダッソおよびノルキア)、A.マッジャーニ(ソヴァーナ)によって研究が行われた。さらに、S.クイリチ(ブレーラおよびトゥスカーニアの地誌)、JP.オレゾン(南エトルリアにおける摩崖墓の建築に関する研究)、R.ロマネッリ(南エトルリアにおける摩崖墓の分布地域に関する研究)の活躍も挙げられる。エトルリアの摩崖墓に関する研究の出版は、ローマのイタリア学術会議において組織化されたが、残念ながら数年前から停滞している。しかし、トゥスカーニアにおける最近の発見によって、摩崖墓に関する出版を今後も続行し、研究調査を行う必要があることを痛感させられるのである。

 南エトルリアの摩崖墓は、分布状況や建設年代、規模によって幾つかのタイプに分けられる。凝灰岩の岩を●りぬいたのみで、入り口には手の込んだ装飾もない穴のような墓があるかと思えば、神殿をかたどった見事な墓もある。「サイコロ形」と呼ばれる立方体型の墓は、アルカイック時代からヘレニズム時代にかけて最も一般的なタイプであった。他に有名なのは、家型の墓(前6−3世紀)、アルカイック時代における列柱廊タイプの墓(前6世紀後半、サン・ジュリアーノにおいてのみ見られる)がある。また、ヘレニズム時代の摩崖墓には、神殿・列柱廊タイプや、エディクラ(小礼拝堂)タイプ、円形建物タイプがある。Fig.107-112Pl.36-38,41

 エトルリアにおける摩崖墓/岩窟墓の建築の流れを見てみると、次第に墓の正面部分が重要性を帯びてくるようになり、それに伴って内部の墓室や埋葬場所がおろそかにされていく点が特徴として挙げられる。前4世紀以降、墓室は正面部分の下につくられるようになり、なおざりにされていくのである。墓の正面部分は、全体もしくは一部が彩色されているが、碑文や浮彫りのある例は珍しい。特に立方体型の墓に見られるのは、いわゆる「ドーリス式の扉」である。かつては墓室の実際の入口であったが、前4世紀になると単なる見せかけの扉になってしまう。おそらく象徴的な意味を持っていたのであろう。

 立方体型の摩崖墓では、上方の到形の上に平らな屋上が設けられ、脇には階段がついている。屋上は供養を行うのに使われた。屋上部分は祭壇であるとともに、さまざまな形状の墓標を置くのにも利用された。正面部分の下には、少し突き出した「正面下部の間」と呼ばれる空間があり、ベンチがついている。ノルキアやカステル・ダッソにおけるヘレニズム時代の「サイコロ形墓」では、そこで死者を偲ぶ饗宴が行われていたのであろう。

 一般的に、摩崖墓は凝灰岩の表面を上から下まで刳りぬいてつくられる。また、部分的に岩のブロックを用いる場合もある。サイズの規格はなかったようである。特に摩崖墓の最盛期には、単純作業を行う石工が多数おり、それと同時に細部に手を入れて彫刻したり、おそらく設計にも携わっていた職人がいたのであろう。  摩崖墓/岩窟墓にはさまざまなタイプや装飾があるが、エトルリア固有のものと外来のものとが認められる。立方体型の墓はエトルリアに特有のタイプであり、多少のヴァリエーションが存在する。それに対し、ヘレニズム時代につくられた壮観で高価な神殿・列柱廊タイプは、外からの影響を受けていると考えられる。このタイプの墓を見ていると、小アジアに伝統的な墓廟や死者を奉る礼拝所が思い出されるのである。一方、装飾や浮彫りは南イタリア、とりわけアプリア(現プーリア)地方の影響を受けている。Fig.112

 摩崖墓の墓地をみると、墓が偶然に集まって墓地となったのではなく、墓地をつくる際に意図的に空間を利用したり、新しい都市計画の傾向を採り入れていたのがわかる。摩崖墓はしばしば上下左右に並んでつくられ、小径や階段でつながっていた。墓地は都市の出入り口となる道路に沿っているか、四角い広場を囲んでいた。似通った傾向を持つのは、前6世紀後半に建てられたカエレ(現チェルヴェテリ)やオルヴィエートの墓地で、墓が平行して何本も走る通りに沿って並ぶ。また、マルツァボットにあった古代都市は、前500年頃の都市計画を採り入れており、通りが直交するよう設計されていた。

 家型の摩崖墓は、問取りや細部などエトルリアの住宅建築をある程度再現している。ふたつあるいは3つの部屋が横に並び、切妻屋根や寝台(ベッド)といった要素が加わる。一般的に、墓建築と住宅建築との違いは、時代が下がるにつれて大きくなり、ヘレニズム時代後期に明確になる。


21 カステル・ダッソ:立方体型岩窟墓の復元図
Rekonstruktionszeichnung eines Felswurfelgrabs in Casteld'Asso
(nachE.Colonna di Paolo,Necropoli rupestri del Viterbese,Novara 1978)


 南エトルリアの摩崖墓を建設する際、凝灰岩があるという条件ばかりが問題にされるのではなく、当初から見栄えや評判にも注意が払われていた。たいていの場合、墓の正面が都市の方を向いているのはそのためで、生者の領域と死者の領域とを視覚的に結びつけようとする意図があっためである。摩崖墓の建築では、初めから正面部分が強調されていたのは確かであるが、かつては外側の正面部分と内側の墓室との関係は緊密であった。それが前4世紀から両者の関係は希薄になっていく。正面部分は墓室に直接通じるのではなく、見せかけの入口となり、墓室は地下へ隠されてしまう。土地の支配者階級の豪族たちは、墓の外観を立派にすることによって己を誇示し、子々孫々にまで語り継がれようとしていたのである。

 墓は代々受け継がれていき、最終期には1基の墓に埋葬されていた死者の数は70人にもおよんだ。墓には何世代にもわたる副葬品が残されており、その内容から摩崖墓の主が貴族であったことはわかっている。しかし、未開封の状態で発見される墓は例外的で、そのため多くの墓の年代比定が困難になっている。

 エトルリアにおけるアルカイック時代の摩崖墓の起源が何であったのかは、まだあらゆる点で明らかにされておらず、研究者の間でいまだに論議されている。この件に関しては、トゥスカーニアのピアン・ディ・モーラの西斜面に広がる摩崖墓群が参考になる。この摩崖墓群は、1984年から1989年にかけて南エトルリア考古文化財監督局によって発掘され、最近その一部が修復された。A.M.ズグビーニ・モレッティによる論文が幾つか発表されている。この墓地には通りに沿って何基かの墓があり、古代都市の方を向いている。また、ペスキエラ墓地とも向き合っている。Fig.105-106

 摩崖墓群の中央には、大きな家型の墓があり、前面から背面までほとんど凝灰岩を割りぬいてつくられている。前方にある列柱廊は、茶褐色の凝灰岩と灰色がかったペペリノ(火山砕屑岩)のブロックと石板を使ってできており、色彩の効果も配慮されている。ブロックの組み方も質が高い。この家型墓のサイズは、幅24.2メートル、奥行き20.4メートルである。

 屋根は両脇に破風がついた切妻屋根で、頂部の横に伸びる棟の上にはさまざまな彫刻が載っていた。そのうち、スフィンクス像2体とライオン像1体が残されている。破風はもともと彩色されており、棟と平行に伸びる桁の先端部分、中央の垂直に立つ束柱、その下にわたされた梁が彫刻されていた。束柱の上には円盤形の飾りがつき、かつては彩色されていた。墓の正面には入口が3つあるが、中央が実際の入口で、両脇は見せかけである。すべてドーリス式の扉になっており、両脇の偽扉は4枚の板飾りが彫られていた。中央の入口は石のブロックを重ねて塞いであったが、ブロックには両脇の偽扉のように板飾りのある扉が彫刻されていた。また、墓の正面には基部も彫られ、上部はさまざまな剖形で装飾されている。

 列柱廊の両端には壁があり、前方部分は正面から見ると角柱がついているように見えた。その間に立つ4本の円柱はトゥスキア式で、到形のついた柱礎が残っている。列柱廊の上部はイオニア式で、前方には傾斜が見られる。屋根は平らになっていて、下面は木造の梁を模倣している。この墓からは、棟飾りの彫刻とは別に、うずくまるライオン像が発見されている。おそらく屋根の前方部分を装飾していたのであろう。また、列柱の向かって左には階段がついており、列柱廊の平らな屋根に通じている。立方体型の墓のように、屋根の上では供養が行われていたのであろう。

 墓の内部では、3部屋の墓室が横に並んでいる。部屋の平面は、完全な長方形ではない。中央の墓室の天井は平らで、梁が彫られている。奥壁の前には丸い脚のついた寝台があり、頭の部分には枕がふたつ彫られている。両脇の墓室にはかなり簡素な石造の寝台が3つあり、天井の隅は傾斜している。墓からはエトルリア陶器やギリシア陶器の破片、ファイアンス焼き、ブロンズ製の小さなライオン像(大釜の装飾の一部)が発見されている。これらは前6世紀の第2四半期から6世紀末のもので、3世代分の副葬品である。

 この墓の北側(A区)と、特に南側(B区)にも家型の墓があるが、簡素な造りで列柱廊はついていない。しかし、棟は墓標で装飾されている。墓室は十字に交差しているか、2部屋が前後に並ぶプランを持つ。墓の上部には刳形があり、脇の破風には束柱や桁の先端部がついているものもある。これらの墓からは断片になった副葬品が発見されており、墓が前6世紀第2〜3四半期のものであるとわかっている。

 先に挙げた大きな家型墓よりも少し古いものに「井戸」タイプの小さな墓がある。骨壷にはアッティカ製陶器のクラテール(混酒器)が使われており、墓の上には円盤形の屋根飾りがつき、彩色された家型の墓標が置かれていた。家型の墓を小さくしたような形である。

 ピアン・ディ・モーラの大きな家型墓や脇の摩崖墓群(とくにA区)は、政治的にも経済的にもトゥスカーニアを支配していたある名門貴族の墓であったに違いない。残念ながらこの貴族の名は知られていない。しかし、家型の墓が土葬であるのに対し、さして年代に差のない「井戸」タイプの墓が火葬であるのには、家系や「イデオロギー」の違いが明らかに関係しているのであろう。つまり、繰り返しになるが、南エトルリアの内陸部の墓建築では、墓の内部よりも外観の見栄えによって社会的地位が反映されるからである。この傾向は、時代が下がるにつれて大きくなっていく。

 トゥスカーニアで発見されたこの列柱廊付き家型墓は、地中海域の摩崖墓では最も古い墓のひとつである。しかし、構造的には他の同時代の墓と純粋に同類というわけではない。さらに古い摩崖墓や摩崖建築はウラルトゥやフリュギアに見られるが、それらがトゥスカーニアの墓の原型であるとは考えられない。エトルリア以外に岩を彫ってつくった列柱廊付きの墓の例を探すと、ペルシアやキュレナイカ(バルカ)、パフラゴニアに見いだせはするものの、年代的に少なくとも数十年は後になる。リュキアにおける最古の家型墓も新しく、タイプ的に見ても比較の対象にはならない。リュキアやカリアの神殿タイプの墓はさらに新しい。つまり結論として、トゥスカーニアの列柱廊付き家型墓は、おもにエトルリアの住宅建築から影響を受けているのであり、神殿やエトルリア以外の墓との関連によるものではないといえるのである。

 もうひとつ問題がある。小アジアにルーツのある摩崖墓は、エトルリアにおいて摩崖墓が建築されるにあたり、細かいタイプの話ではなくもっと一般的な意味で何らかの刺激となったのではないかという疑問が残るのである。エトルリアでは、前6世紀第2四半期に摩崖墓がはじめてつくられるようになるが、エトルリアにおいてその下地がしだいに形成されていったのではなく、突然つくられるようになり、それが発展し立派になっていった。それを考慮すれば、今の疑問は信憑性を帯びてくる。エトルリアの沿岸都市とギリシア東部および小アジアとは、前8世紀、とくに前7世紀からさまざまな関わりがあった。エトルリア、なかでも特にカエレでは前7世紀前半に壮観な墳墓が突然つくられるようになるが、そこに小アジアからの影響を考えないわけにはいかない。最近、F.プライオンがこの点を指摘し、参考例としてリュディアの大墳墓を挙げている。大墳墓の内部は彩色されており、墓室の一部は岩を彫ってつくられている。すでに明らかにされているように、前7世紀にエトルリアの葬祭彫刻が立派になっていくのには、東方からの影響、とりわけシリア北部の影響があった。G.コロンナとF.W.フォン・ハーゼは、チェーリで発見された前7世紀第2四半期の「彫像の墓」に関する論文でその影響について詳しく述べている。    (訳:今井桜子)

(東京大学総合研究博物館)
Stephan Steingraber


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