序 論

シュテファン・シュタイングレーバー


1 ローマ帝国以前の南イタリア、ギリシアおよび小アジア
Karte von Süditalien,Griechenland und Kleinasien in der vorrömischen Antike

 

 古代の民族や文化の多くが、それぞれの墓所、また死者や先祖を敬う祭礼に関しては、現代の大多数の人々よりもはるかに多くの時間、金、労力など、多大の資財をつぎ込んだことはよく知られる。言うなれば来世のための“出資”は、非常に多様なかたちをとって具現化された。その代表例とも言えるのが、モニュメンタルな墓建築、あるいは葬祭記念物であり、そのために用意された特別に人目をひく場所、構築物の外装や内装の豪華な仕上げ、彫刻やレリーフ、あるいは壁画による装飾、数多くの高価な副葬品、宴会、犠牲、スポーツ競技や奏楽などを伴う華やかな葬儀、死者のための記念祭や年祭など、詳しくは枚挙のいとまのないほどである。来世のため資財を投入した例証は、どの文化圏においても、皇帝、王侯諸侯、貴族、騎士階級などの一族、すなわち社会上層指導階級の葬祭に限られた。現代のわれわれにとっては信じがたいほど大掛かりな“死者のための出資”は、古代文化によっては、その都市や住宅、つまり生前の世界よりも、墓や死後の世界についてはるかに多くを知見するという結果を生み出した。ここで、中国の秦(前221−前206)や漢(前206−後220)の時代、また日本の古墳時代(後3−6世紀半ば)の豪華な副葬品の収められた大規模な墳丘や墓を想起すれば、これは、幾つかの点で古代の中国や日本についても当てはまる。考古学に関心のある日本人ならば、葬祭記念物、それも特に大阪や奈良周辺の巨大古墳について様々な知識を有するであろう。

 本展で取り上げる地中海地域においては、古代エジプト人が、前3千年紀以降、特に印象深いピラミッドなどの墓や葬祭記念物に莫大な資財を投じた。それらはまさに“来世のための出資”の証であり、高度に発達した古代文化の死者祭礼や来世観について多くの情報を伝えている。さらにメソポタミアなど古代オリエントの高度に発達した文化からも、正真正銘の宝物館にも等しい墓が発見されている。南ヨーロッパにおいては、特に前1600年から前1200年頃のミュケーネ人の、豪華な、一部はキュクロープス型(大型不定形の荒削りの切石を使った構築)のような巨大な墓室墓があり、それらの墓は多くの場合、“見せかけの”ドームで覆われている。前2千年紀の、ドルメン、メンヒル、また廊下型墓といった巨大な墓 — いわゆる巨石文化 — は、サルデーニャ島、南イタリアのプーリア地方、マルタ島など、地中海圏の様々な地域に現れた。前1千年紀、ローマ人が最終的に“われらが海−地中海”全域を支配する以前においては、墓や葬祭記念物の多様性、また例証の頻度から見て、特に小アジア、ギリシア、イタリアの各地域が特筆に価する。数多くの、一部においては非常に多様な民族や文化は、死者のための資財の投入、“来世への出資”を — 度合いの差こそあれ — それぞれ、積極的に進めた。

 上層階級の豪華な墓の場合、その大多数が墓室型の墓であるが、複数の墓室から成り立つ例証が多く、石のブロック(木材はまれ)で構築されているか、岩盤から刳りぬかれた構造である。これらの墓は、いわば“死者の家”を具現したもので、しばしば一族の何世代にもわたる埋葬が繰り返された。しかしなかには、特別に重要な人物ひとり専用とされた墓もあり、ヘローン(英雄崇拝の場所)的性格を帯びることもあった。これらの墓室墓では内装が細部まで仕上げられたり、寝台、玉座、段床など、ある程度の調度が備えられたりした。滑らかにされた壁面は、ほとんどの場合漆喰が塗られ、頻繁に彩色装飾も施されたが、そのなかには画像モチーフや情景の描出も含まれた。レリーフや彫刻が墓の装飾に加わることもあった。碑銘によって、時には被葬者の氏名、経歴、年齢、重要性などが明らかにされる。埋葬は、死者が寝台の上や石棺の中に安置される土葬、あるいは様々な形状や素材の納骨容器に遺灰が収められる火葬が行われた。もともとこれらの墓室墓の多くには、彩色陶器、ガラス製品、青銅器、金製あるいは銀製の食器や装身具、象牙、骨、琥珀の各製品、武器や武具、鏡、フィーブラ、競技者用の備品、テラコッタ製品など、数多くの豪華な副葬品が収められていた。副葬品は、墓の年代比定に関してはもとより、被葬者の性別、年齢、役職や社会的地位についても重要な情報源となり得る。しかし悪質な盗掘の被害に遭い完全もしくは部分的に略奪されている墓はあまりにも数多く、貴重な歴史的コンテクストも永久に失われてしまっているのである。盗掘はすでに古代に始まり今日まで継続する現象であり、現状においてはまさに多くの国々に広がる悪弊であるが、国際的な美術品交易、また一部の博物館/美術館や収集家の買い付けプランにも責任があることは言うまでもない。大型の墓室墓は、新しい埋葬や先祖崇拝の祭礼がある際には再び部分的に開かれ、少なくとも近親者や祭司はなかに入ることが出来た。墓によっては、死者や先祖のための祭儀専用の墓室を備える例もあった。他方、被葬者がただひとり(重要人物であることが多い)という墓もあり、永久封鎖が意図されたため、後代の人の目に触れることのなかった例証も認められる。これまでに確認されることは次の通りである。これらの墓の、質的に優れた壁画や宴会用の高価な食器といった賛沢な装飾や装備は後商の楽しみのためではなく、あくまで死者専用に、象徴的には死者の彼岸への旅のために準備されたものであり、そこには被葬者の社会的地位や重要性を来世においても相応しいかたちで顕示するねらいがあった。宗教上の理由や威信を保持するために上層階級の家族は、先祖のため、すなわち来世のために多々注ぎ込んだのである。

 後世数百年はもとより時には数千年もの間、地下に埋もれることなく墓の所有者の名声を証し続けてきたモニュメンタルな葬祭記念物の場合はまた状況が異なる。これらの記念物は、丘の上や町からよく見える場所、また町から出て行く街道筋などの目立つ場所にあることが多く、人々の注目賛辞を期待したものであった。そのような古代葬祭記念物は、地理的/文化的領域、地質的状況、時代、あるいは所有者の社会的地位などにも基づき、それぞれ数多くのタイプに類別することが出来る。墓室墓であっても、他の墓型の記念物が上部を覆ったり飾ったりすることもあり、そのような場合は、上部の葬祭記念物が墓そのものよりはるかに重要であることが多く、費用もそれ相応に投入されたことは想像に難くない。このような傾向は、特にヘレニズム期(前4世紀末−前1世紀)にますます強くなる。比較的簡素な葬祭記念物には、円柱や角柱、墓碑やレリーフ、主に獅子などの動物の彫刻、チッピ(石製の墓標)など、さらに大掛かりな葬祭記念物には、墳丘(土や石を積み上げた)、祭壇、ナイスコス(小神殿を模した墓)もしくは神殿/住宅型の建造物、塔、ピラミッド、また岩に彫り出した神殿型あるいは柱廊型のファサードなどが装飾や建築要素として見られる。最大規模の葬祭記念物は、小アジアのいわゆるマウソレウム(霊廟)−特にこの名称の由来となったハリカルナッソスのマウソレウム(前4世紀半ば)−をモデルとした墓である。墳丘のなかには、中国や日本で時おり見られる例証ほどではないにしても、巨大な容積に達するものもあった。小アジアや近東、また南エトルリアの幾つかの地域で見られる岩窟墓/摩崖墓のしばしばモニュメンタルなファサードは、古代墓建築の最も強い印象を伝える遺産のひとつである。ローマ人は後にこれらの墓の類型や形状を踏襲し、その一部をさらに発展させていった。

 この展覧会の中心をなすのは葬祭絵画である。この葬祭美術は、東アジア、つまり主として中国、朝鮮、日本においては時代的にはもっと下るとはいえ、非常によく知られる現象である。日本の墓室墓の場合、特に古墳時代後期(5−6世紀)および飛鳥時代(6−7世紀)には壁画装飾の施された例証も見られる。地中海圏においては、エジプトの他、それより少数ではあるが近東とミノア文化時代のクレタ(ただしここでは、絵画装飾はほとんど宮殿や宗教建造物に施された)に先例が現れた後、主として前7/6世紀からは、特にエトルリアと小アジアの幾つかの地域(リュキア、リュディア、フリュギアの各地方)に集中したが、さらに時代を下って主に前4世紀からは、南イタリア(カンパーニア、ルカーニア、プーリア/アプリアの各地方)、マケドニア、トラキア、南ロシアとアレクサンドリアでも例証される。墓室墓に限らず他のタイプの墓も、普通、多くはフレスコ画法を用いて彩色されており、イコノグラフィーは文化圏によって異なる場合もあったが、構築的モチーフ、植物/装飾文モチーフ、または画像モチーフのどれかに重点がおかれた。画像モチーフは、それぞれの民族や文化風土の、日常生活、家具や調度、宗教、また死者祭礼について最も重要で有益な情報を提供するだけではなく、墓の所有者あるいはその一族の身分や“イデオロギー”についても解明の鍵を与える。葬祭壁画はほとんどの場合、各地域の上層階級の墓に限って見られる現象で、一般の墓の中では例外、ほんの一部の例にすぎなかった。前4世紀末頃に始まるヘレニズム期、つまりアレクサンダー大王の死後には、地中海圏の東部および中央部の広範な地域にわたる美術的・文化的コイネー(共同体)の形成がますます進み、その影響は記念物の数多くのジャンルに反映していった。葬祭絵画の分野においても、同一あるいは類似の、図像モチーフ、様式、画法、そして“イデオロギー”が採用されるなど、共通化/融合化が明らかである。ちょうどヘレニズム初期(前4世紀末−前3世紀)に、壁画や記念絵画は、葬祭関導の分野を中心に — モニュメンタルな墓室墓建築と同様に、またそれと並行して — 地中海圏の数多くの地域で全盛した。ギリシア圏において名声を博し、古代の著述家達から絶賛されたかつてのタブロー画や、宮殿、別荘、神殿などを飾っていた絵画がほぼ全て消失したに等しい状態にある今日、相当数の例証が残された葬祭絵画のもつ意義と証言力は、評価しても余りあるであろう。

 本展は、エトルリア(特に主要都市タルクィニア)を中心に、南イタリア(主としてルカーニア地方パエストゥムとプーリア地方北部アルピ)、マケドニア(ヴェルギナ、レフカディア、ディオン、アギオス・アタナシオス)、またトラキア(カザンラク、シプカ、ズヴェシュターリ、マグリッシュ)出土のネクロポリス、墓、葬祭記念物および葬祭絵画に焦点を当てたドキュメンタリー展である。主要部分を占めるのはエトルリアであるが、この地方では葬祭絵画の現象は、すでに前7世紀前半、すなわち大型記念墓建築の発生直後に現れた後、ヘレニズム盛期(前3世紀後半−前2世紀前半)にいたるまで継続していった。前6世紀から前3/2世紀にわたる期間を通じてエトルリア葬祭絵画の“首都”であったのは、南エトルリアの富裕な沿岸都市タルクィニアに他ならない。この町の地下の墓室墓に大部分がそのまま残されているオリジナルの壁画を展示することは出来ないが、その代わりに、本展では質的に優れた壁画の原寸大写真多数、またローマのドイツ考古学研究所古文書資料室所蔵の、一連の複製画ならびに透写図が一覧に供される。写真は、日本の名写真家、岡村崔氏の作品であり、ローマからの複製画や透写図は、19世紀にタルクィニアの墓室内で当時の画家や線描家達によって製作されたものであるが、日本ではもとより、ヨーロッパ外での初めての一般公開となる。また北エトルリアの幾つかの広大なネクロポリスや王侯貴族の墓(特にポプローニア)の記録も合わせて展示される。

 南イタリアの葬祭絵画は、アルカイック後期とクラシック期に散発的に先例が現れた後、特に前4世紀後半から前3世紀にわたって最盛期を迎えた。ギリシア植民都市から後にルカーニア地方の土着文化の中心地となったパエストゥムでは、壁画装飾が施されたカッソーネ型の墓(石板で組みたてた矩形の墓)や墓室墓が数多く出土しており、豊富な画像モチーフのレパートリーが知見される。本展では、パエストゥムの葬祭絵画からも極めて興味深い例証を原寸大の写真で公開する。またプーリア地方の幾つかの地域でも、ティレニア海側のカンパーニア地方やルカーニア地方に比べると画像モチーフの例証は少ないとはいえ、彩色装飾墓が数多く知られる。最近プーリア地方北部のダウニア地方では、主要都市アルピ、カノーサおよびサラーピアからの出土が相次いだが、ここでは特に、アルピの前3世紀の大型記念墓でマケドニアからの強い影響が見られる“メドゥーサの墓”を写真や石膏型を通して紹介する。

 マケドニアは、ここ20数年間における地中海域の出土地の中では、考古学上最も重要で最大の関心を集めた例証に数えられる。フィリップII世とアレクサンダー大王の故郷、言うなれば初めての世界帝国発祥の地として、この地域からは新しく登場した権力とその"著侈"が鮮やかに映し出された、前4世紀後半から前3世紀にわたる特色豊かで豪華な造りの王侯貴族の墓のほか、宮殿や別荘の遺構などが発見されている。20年余り前にヴェルギナ(古代名アイガイ)において、ギリシアの著名な考古学者マノリス・アンドゥロニコスは、前336年に暗殺された王フィリップII世のものとほぼ確実視される墓と、盗掘されることなく残されていた、信じがたいほど豪薯な副葬品を発掘した。これに止まらずその後も、ヴェルギナ、レフカディア、テッサロニキ周辺、またその他の地域で数多くの重要な発見が引き続いた。マケドニアの墓型は、イタリアのプーリア地方やカンパーニア地方、トラキア、南ロシアさらにはアレクサンドリアといった地中海圏の様々な地域で手本として役立てられた。この展覧会では、マケドニアの幾つかの有名な墓を写真資料で展示し、その葬祭絵画の画法および彩色についても紹介する。

 地理的には今日のブルガリアにほぼ相当するトラキアは、古代においては、かの武勇に長けた富裕な民族ゆえに名声を博したが、その富は、特に領土一帯に散在する約15.000基もの墳丘はもとより、金、銀、エレクトロンなどの軍金属で製作された豪華極まりない宝物や副葬品にも反映している。トラキアは、隣国マケドニアのフィリップII世の治世より、政治的にも文化/美術的にもますます同国の強い影響下におかれるようになるが、それは墓建築や葬祭絵画に現れる変化からも確認される。前4世紀後半から前3世紀にわたるトラキア壁画装飾墓の中では、カザンラクの“偽似ドーム”の墓(世界遺産)、シプカのオストゥルシャ墳丘内の墓、またズヴェシュターリの大型カリュアティデス(人像柱)の墓が傑出している。これらの墓を中心に写真資料を展示する。

 特に前6世紀から前1世紀まで、地中海圏の数多くの地域で普及した岩窟墓/摩崖墓についても、写真と参考資料を若干展示に加えた。これらの岩窟墓のモニュメンタルで豪華な装飾の施されたファサードには、墓の所有者の重要性を後世まで顕示する明確な意図が込められていた。

 かつて多くの墓は、多種多様な副葬品、石棺、納骨容器などによってしばしば非常に豪華に装備されていた。それらの遺品については写真資料のほか、日本にあるコレクションから実例として、古代ギリシア、南イタリア、エトルリアの彩色陶器やエトルリアのレリーフ装飾付き納骨容器を20数点展示に加えた。すべて副葬品であったことは確実であり、主にエトルリアと南イタリアからの出土である。

 この、日本では新しい企画の展覧会の目指すところは、エトルリア、南イタリア、マケドニア、トラキアといった地中海周辺の数多くの古代文化圏において、特に社会上層階級の人々が、墓建築と葬祭絵画の分野で彼らの死者達/先祖のためにいかに多くの資財を投入したのか、またその際、文化圏によってどのような共通性あるいは相違点が見られるのかを明らかにすることである。しかしながらここですべての文化圏に共通するのは、“来世への出資”はかくも重要であり必然性すら帯びていたという事実である。古代人はその行為によって、現世で得た名声、重要性、あるいは社会的地位を来世においても引き続き保持出来ると信じていたのであろう。    (訳:大槻泉)

(東京大学総合博物館)
Stephan Steingräber


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