I
第二期の「黄金時代」を迎えた1950年代の日本映画には、世界映画の歴史でもごく稀な事態が起こっている。優れた映画作家の多くが、ほぼ十年ものあいだ、ほとんど同じスタッフに支えられて映画を撮り続けることができたのである。とりわけ、彼らのほとんどの作品が、同じ一人のキャメラマンによって撮影されていたのはほとんど「奇跡」に近い事実というべきかもしれない。小津安二郎(1903-1963)が、そうした「奇跡」を呼びよせることのできた幸運な映画作家の一人であることはあえていうまでない。彼は、撮影の厚田雄春を始め、編集、美術、照明などのスタッフに、たえず同じ顔触れを起用することができたからである。優れたキャメラマンである宮川一夫や玉井正夫の協力を得た溝口健二や成瀬巳喜男など、この時期の日本を代表する映画作家たちの場合も事情はほぼ同じだといってよい。そのことが、この時期の小津や溝口や成瀬の作品のスタイルに揺るぎない統一性を与えていたのは否定しがたい事実だからである。小津安二郎の『東京物語』(1953)、溝口健二の『近松物語』(1954)、成瀬巳喜男の『浮雲』(1955)など、この時期の日本映画の傑作は、いずれもそうした理想的な条件のもとに撮影された「奇跡」的な作品なのである。
では、こうしたいくつもの「奇跡」は、いかにして可能となったのか。それは、ことによると、当時、合衆国ではすでに崩壊し始めていた撮影所システムが、日本ではかろうじて維持されていたという歴史的な事実によって、ひとまず説明がつくかもしれない。実際、監督や俳優はいうまでもなく、キャメラマンも、美術監督も、照明技師も、編集者も、すべて同じ映画会社に所属する契約社員だったのである。だから、松竹の小津安二郎監督が次回作を準備すると決まるがはやいか、松竹大船撮影所には、撮影厚田雄春、美術浜田辰雄、録音妹尾芳三郎、編集浜村義康といういわゆる「小津組」が、たちどころに編成されることになるだろう。だが、そうしたスタッフ編成が十年ものあいだ続けられたのは、ほとんど「奇跡」に近い事態だというほかはない。そして、撮影所システムの崩壊のきざしが見えた1960年以降、こうした「奇跡」は起こっていない。
日本映画の歴史のある重要な側面は、いたるところで起こっていたこの日常化された「奇跡」に言及することなしには論じえない問題を含んでいる。小津や溝口や成瀬にとどまらず、木下恵介や渋谷実、あるいは稲垣浩のような作家までが、これほど一貫して同じスタッフの協力をえて何本もの作品を監督しえたからである。そんなことは、撮影所システム最盛期の1930年代のハリウッドでもほとんど想像しがたいことだった。実際、すべてがプロデューサーの意向を反映するかたちで機能していた当時の合衆国の撮影所システムにあっては、映画監督など、円滑に機能する歯車装置の部品の一つとして、いつでもとりかえのきく消耗品にすぎナカッタのだったのである。
事実、デヴィッド・O・セルズニック製作の『風と共に去りぬ』(1939)や『白昼の決闘』(1947)の場合がそうであるように、監督としてクレジットされているヴィクター・フレミングやキング・ヴィダーなどは、その撮影に動員された無数の一流監督たちの中のほんの一つの名前にすぎない。プロデューサーとの軋轢で監督が撮影中に辞任しても、会社直系の編集者が、代役の監督が撮ったショットを加えて、たちどころに一本の作品に仕上げてしまうからだ。それは、わが国の撮影所システムにあっては、まず起こることのない事態だったのである。
その意味で、アメリカの監督たちは、日本の一部の監督たちがそうであったほどには権威ある存在ではなかったといってよい。すでに大作家として遇されていた40年代後半から50年代のジョン・フォードにとってさえ、カラー作品の撮影に気に入りのウィントン・C・ホックをキャメラマンとして採用することぐらいが許された贅沢だったといってよい。しかも、その贅沢を享受しえた作品となると、『静かなる男』(1953)ほかほんの数本にすぎず、それはこの10年ほどのあいだに撮られた作品の半数にもみたない数なのである。一貫してロバート・バークスをキャメラマンとして起用し続けることのできたアルフレッド・ヒッチコックの場合など、1950年代のハリウッドごく稀な例外といってよい。しかも、この時期のヒッチコックは、アメリカ映画界においてはいささかも大作家と遇されていたわけではなかった。その事実に憤ったフランスの「カイエ・デュ・シネマ」系の批評家たちが、いわゆる「作家主義政策」の名のもとにヒッチコックの擁護にまわったことは、誰もが知っている歴史的な事実である。
II
映画作家の自律性を認めない厳格で苛酷な制度として機能した合衆国のそれにくらべて、日本の撮影所システムが比較的緩やかな制度であったことは、以上の指摘からも明らかである。それぞれの監督のまわりに「〜〜組」のようないくつものグループの形成を許した松竹の場合、1924年に撮影所長に就任した城戸四郎の採用した政策は、無声映画の末期から1930年代にかけて、「ディレクター・システム」という呼び方で知られていたものである。そうした配慮は、独自のスタッフを編成してそれぞれの分野での後継者を育てたのみならず、やがて監督になるべき人材を助監督として養成する機能も果たしていたのである。松竹と異なり、トーキー時代に入ってから成立した東宝の創始者の一人である森岩雄は、アメリカに滞在した経験を持ち、ハリウッドの事情に精通していた。彼は、日本にもプロデューサーを中心としたより強力な製作システムを樹立すべきだという構想をいだきつつ、トーキー撮影のための新たな会社を設立したのである。いわゆる「プロデューサー・システム」の名で知られている体制がそれであり、1950年代の東宝には、『ゴジラ』(1957)の製作で名高い田中友幸や、戦前に成瀬巳喜男と親交を持ち、戦後の彼の活動を支えた藤本真澄などを初めとする有能なプロデューサーが結集することになる。そのような伝統を持つ東宝においてさえ、そこに「天皇」として君臨して撮影期間を自由に設定しえた黒澤明はいうまでもなく、決まって同じスタッフを形成する成瀬巳喜男などの活躍する素地が存在していたのである。
戦前から溝口健二の盟友として『浪華悲歌』(1936)や『祇園の姉妹』(1936)を製作した経験を持つ大映の永田雅一社長の場合は、松竹の「ディレクター・システム」や「東宝」の「プロデューサー・システム」ほどの確固たる政策を持っていたわけではない。だが、東宝の争議の副産物ともいうべき黒澤明の『羅生門』(1950)の製作者としてときならぬ国際的な名声をえた1950年代の彼は、さしたる勝算もないままいきなりアラン・レネの『二四時間の情事』(1959)の合作を受け入れて成功するなど、この時期の彼の職業的な勘は冴えわたっていたといってよい。だから、『雨月物語』(1953)以降、他社の作品『西鶴一代女』(1952)でヨーロッパでの評価を確立した溝口健二を改めて国際的に売り出すのためなら、彼のどんな我が儘でも聞いてやる立場にいたのである。
「奇跡」は、このようにして多くの要素の幸福な競合によってそれぞれの撮影所に起こっていたのだといえる。ただ、ここで指摘しておかねばならないのは、1950年代の小津や溝口や成瀬の活躍を支えた会社の首脳部が、城戸四郎や永田雅一、あるいは藤本真澄のように、すでに30年代から彼らの才能に注目していたプロデューサーたちだったという事実である。また、撮影の厚田雄春を中心として「小津組」を初め、それぞれの監督たちのスタッフのほとんども、30年代から彼らの仕事ぶりを間近に観察することのできた人びとだったのである。 そうしたことがらから明らかになるのは、50年代という日本映画の第二の「黄金時代」が、戦後の日本社会の混乱にもかかわらず、監督たちはいうまでもなく、こうしたスタッフの一人ひとりに、戦前から撮影所で学んできた技術の粋をいっせいに開花させるにふさわしい理想的な環境として機能していたという事実である。日本の撮影所システムの基本的な部分は、1939年に欧州で勃発した第二次世界大戦のアジアでの戦局の推移と、1945年の日本の敗戦と、そしてその直後に起こった東宝の大規模な争議にもかかわらず、本質的な変化を蒙ることなく維持されていたのだ。
なるほど、城戸四郎や森岩雄は、松竹や東宝の中心人物として軍国主義的な作品の製作に加担したという口実で、占領軍から公職追放の処置を受けてはいる。だが、彼らが現場に復帰したとたんに、映画は「黄金時代」を迎える。とするなら、この皮肉な現象もまた、50年代の日本映画に「奇跡」をもたらす一つの要因だったのかもしれない。
キャメラマンのみならず、他のスタッフをもほぼ同じ顔触れで編成したという1950年代の小津安二郎の撮影形態は、溝口や成瀬がそうであるように、世界的にもごく稀な事態である。その稀な事態を「奇跡」として招き寄せたものが、日本の撮影所システムの堅固な持続性だということは、いま見たとおりだ。とはいえ、溝口健二のこの時期の真の傑作というべき『西鶴一代女』は、東宝争議の副産物として生まれた新会社の新東宝の作品であり、美術の水谷浩はいつもの「溝口組」のスタッフとしてついているが、撮影を平野好美が担当しているように、そこには、例外的な要素がかなり色濃く影を落としている。この作品が、宮川一夫の撮影とはいささか異なる画調におさまっているのは、そうした理由による。
成瀬巳喜男についていうなら、『女が階段を上がる時』(1960)を最後として玉井正夫との協力関係が終わり、以後、安本淳がそのキャメラを担当することになる。その結果、たんなる画調の問題を超えて、その演出にも微妙な変化が生じているのは確かだが、いまはそれについて論じるべき場合ではない。また、1950年代の黒澤明をとってみると、東宝作品においてさえキャメラマンは必ずしも一定しておらず、『生きる』(1952)から『蜘蛛巣城』(1957)まで撮影を担当した中井朝一がその後もキャメラを握らなかったことがいささか惜しまれぬでもないが、それもまたここでの話題ではない。
小津安二郎の場合、事態はあくまで一貫している。新東宝作品の『宗方姉妹』(1950)、大映作品の『浮草』(1959)、東宝作品の『小早川家の秋』(1960)の三作をのぞき、松竹で仕事をする限りきまって同じスタッフを編成することができたからだ。実際、戦後の『風の中の雌鶏』(1947)でほぼかたまった「小津組」のスタッフ編成は、遺作となった『秋刀魚の味』(1962)まで11本も変わりなく維持されている。しかも、1937年の『淑女は何を忘れたか』からクレジットされている撮影の厚田雄春は、小津の第八作『若き日』(1929)いらい、ほんの一部の例外をのぞいてほぼ一貫してキャメラマン茂原英雄の撮影助手をつとめており、その協力関係は35年にも及んでいたことになる。その間、小津は厚田の「眼」を一貫して信頼し続けていたのであり、厚田もまたその信頼に応え、モノクロームからカラーへの移行期においても、多くの監督がフジ・カラーかコダ・カラーに満足していたときに、率先してアグファ・カラーを採用し、色彩における小津調の確立に成功したのである。
ここで忘れてならないのは、1923年に松竹蒲田撮影所に入社した小津安二郎その人が、演出部に配属される以前に、まず撮影部で助手として働いていたという事実である。彼が演出部に移るのは1926年のことで、その間兵役にもついているので撮影部で過ごしたのは短い時期に限られているが、しかしこの伝記的な事実は無視さるべきものではない。というのも、この時期の日本映画における撮影は、写真館での撮影や現像に詳しいキャメラマンたちによる手仕事的な側面が残されており、ハリウッド流の近代的な撮影技術がかろうじて定着しようとしていたのは、ほぼ松竹だけといってよい状況だったからである。
では、撮影技法において、なぜ松竹がそうした体制をとることができたのか。
III
歌舞伎を初めとする伝統的な演劇の興行で知られていた松竹が映画の製作に踏み切ったのは、1920年のことである。撮影技師長に任命されたヘンリー小谷は、日系移民の子としてハリウッドで映画界に入って成功し、ラスキー撮影所で将来を嘱望されていた若手キャメラマンだった。彼の松竹招聘には、同撮影所の創設者の一人であるセシル・B・デミル監督の強い推挙があったという。すでに1913年からトマス・H・インスの撮影所で役者として働いた経験もあるヘンリー小谷は、松竹蒲田第一回作品『島の女』(1920)のキャメラを担当し、それまでの日本映画には見られぬ巧みな光線処理や編集のリズムで見るものを驚かしたという。第二回作品は村田実監督の『光に立つ女』(1920)でキャメラを担当したのは、日活向島撮影所から松竹に移籍した水谷文二郎である。その助手についた碧川道夫は、作品が完成したとき、前者との画調の違いに驚き、師水谷のもとを離れて即刻ヘンリー小谷に弟子入りしたという。いずれの作品も残されていないので両者の比較は不可能だが、初期の松竹蒲田撮影所のキャメラマンに、ハリウッドのラスキー系と日活の向島系という二つの撮影技術の系譜が存在していたことは興味深い事実だといえる。前者の系譜につらなる技法は新人たちの早撮り作品に向いており、後者の技術は時間がかかり、採算を無視した芸術的な野心作に向いていると思われたようだ。
やがて日活に移って内田吐夢監督のキャメラを担当する碧川道夫は、ヘンリー小谷の系譜につらなるハリウッド流の撮影技法を追求することになる。小津が松竹蒲田の撮影部に入ったとき、先輩として彼を指導した一人がこの碧川にほかならず、それを通じて、彼は無意識のうちにハリウッド流の画面作りを体得することになるだろう。それは、1917年にトマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1916)を見て映画監督になる決意をかため、1924年に見たエルンスト・ルビッチ監督の『結婚哲学』(1924)でショットと編集の何たるかを体得し、1927年にジョージ・フィッツモリス監督の『文明の破壊』(1922)の翻案によって処女作の『懴悔の刃』(1927)を撮りあげようとしてた小津安二郎にいかにもふさわしい事態だといえよう。
それとほぼ同じ時期に見習いとして松竹に入社した厚田雄春が関東大震災後に念願の撮影部に配属されたとき、そこに支配していたのは、キャメラを通して演じられるハリウッド的な系譜と日活的な系譜との拮抗関係だったのである。ユニヴァーサル社の連続活劇を浴びるほど見ていた青年厚田の選択が前者に落ち着くことになるのは、ごく自然の成り行きだろう。助手になったばかりの彼は、先輩の碧川道夫の仕事ぶりを間近に観察し、まだ露出計のない時代に絞りとシャッター・スピードとの関係など、先輩がすぐには明かしてくれない撮影技術の勘所を、日々の作業を通じて身につけてゆく。他には類を見ない監督とキャメラマンとの緊密な共同作業によって50年代の日本映画の「黄金時代」を支えた小津安二郎と厚田雄春とが、ともに碧川道夫経由でヘンリー小谷のハリウッド的なの撮影技法の系譜につらなる撮影助手として映画の現場に足を踏み入れていたことになる。碧川の二人への影響は、画面の手前に人物の肩を入れたり小道具を置いたりして構図を引きしめるいわゆる「ミドポジ」の多用として、後期の作品にまでその影を落としている。われわれは、写真という複製技術?に深い興味をしめしていた小津と厚田の二人が、少年時代から父親のカメラをもてあそんでいたことを心から祝福せずにはいられない。実際、初期の松竹でごく曖昧に映画への接近を試みた小山内薫のように、彼ら演劇といった既製のジャンルに対する芸術的な野心などいささかも持ち合わせてはいなかったことを、映画にとって「奇跡」のような僥倖として受け止めるべきなのだ。
小津安二郎の第一作の時代劇『懴悔の刃』は、後の「小津組」とはいっさい無縁のスタッフによって撮り上げられた。厚田雄春もその師にあたるキャメラマンの茂原英雄も兵役についていたからである。真の意味での「小津組」が形成されるのは、すでに述べたように第八作の『若き日』からにすぎない。もっとも、監督部に移って、二巻か三巻の喜劇を三日ほどで撮りあげる義務を課されていた新人時代の小津には、スタッフとしてキャメラマンとその助手がいただけにすぎない。専属のキャメラさえ与えられぬという撮影現場では、小津に抜擢された大部屋の役者たちが進んで裏方を兼ねるといったものだったという。そうした役者の一人が、後に優れて小津的な人物を演じることになる笠知衆だったのである。
「小津組」の厚田が助手としてついた茂原は、松竹の蒲田撮影所が育てたキャメラマンの第一期生にあたり、ハリウッド系と日活系の抗争を身をもって体験している。彼は、小津とも厚田ともほぼ同年配だったのだが、そのことから、いま一つの「奇跡」が生まれ落ちる。トーキーへの興味から録音技術の開発をめざしていた茂原が撮影を放棄するまで、厚田は、15年もの間、後輩の助手がキャメラマンに抜擢されるのを横目で見ながら、ひたすら忠実に撮影助手の役目をはたしていたのである。その結果、彼は、しかるべき場面の撮影にあたって監督が何を要求しているのかをほとんど本能的に察知し、それにふさわしい画面を頭の中に思い描くことさえできたはずなのだ。それでいながら、自分はキャメラマンではなく、キャメラを番しているだけの「キャメラバン」だと厚田はことあるごとにくり返している。もちろん、その言葉には何の誇張も含まれてはいない。実際にキャメラマンに昇格してからも、彼は小津のように思考し、小津のように感じ、小津のように見ることに徹していたのだといえる。それが『東京物語』を初めとするあの50年代の揺るぎない「小津調」の画面を可能?にしたのである。
撮影監督として自立した厚田雄春は、小津安二郎がとりわけ固執したローアングル用の特殊なトライポートを器用に作り上げ、それに好みの色彩である赤のエナメルを塗って「蟹」と名付ける。かと思うと、お気に入りのライカを手にひたすら歩きまわる苛酷なロケーション・ハンティングでは、監督が立ち止まりそうな場所をあらかじめいくつも見当をつけておき、いざとなったらいつでも提案できる用意をしておく。ロケの撮影では、不意に地面に寝転んでアングルを決める監督のためにいつでもゴザをまるめて抱え、ショットのコマ数まで正確に表示する特製のストップウォッチを肌身離さず持ち歩いている。また、誰もが緊張しがちなステージ撮影では、ふと剽軽な言葉を口にして雰囲気をなごませもするだろう。俳優の度かさなる失敗で撮り直しが続けば、それをキャメラの調子の悪さだといってその場を救おうとしたことも一度や二度ではない。そうすることで、あのディレクター・チェアーには一度として腰をおろしたことのない監督小津安二郎に、撮影現場での快適さを保証していたのがカメラバン厚田雄春なのである。
そうしたことがらは、ヴィム・ヴェンダース監督の記録映画『東京画』(1985)や蓮實重彦との共著『小津安二郎物語』(筑摩書房)などで、厚田雄春自身の口から語られれいるものだ。それを目にしたり読んだりしていると、われわれは、ふと、この厚田雄春という存在がキャメラマンでしかなかったことが訝しく思わずにはいられなくなる。実際、小津に対して彼が演じて見せた役割は、人びとがキャメラマンという言葉から想像するものよりも遥かに大きなものに見えるからだ。それは、作品をそっくりと包みこみ、映画そのものの限界と触れ合うところまで拡がりだしかねない定義しがたい大きさというほかはないものだ。
実際、小津安二郎の作品のクレジット・タイトルに「撮影厚田雄春」という六つの文字を読むたびに、われわれは、それを「奇跡」の二文字に読みかえたい誘惑にかかれる。もちろん、厚田雄春は、その存命中に小津安二郎の作品ばかりを撮っていたわけではない。小津がまず要求することのないロー・キーの画面や黒白のコントラストの強い画面、あるいは俯瞰や移動撮影などを、野村芳太郎、大庭秀雄、中村登、佐々木康といった監督たちの作品で、彼は大胆に試みている。いま、厚田雄春の撮った美空ひばりのダンス・シーンや高峰三枝子の歌唱シーンなどを見直すことは、何とも感動的な体験である。いずれの画面も見事な出来栄えで、これが優れたキャメラマンの仕事だと誰もが思わずつぶやかずにはいられない。
だが、小津安二郎監督作品における彼の仕事では、一つひとつの画面から「優れたキャメラマン」の素晴らしい仕事ぶり以上のまばゆさがあたりに放射されている。それは、途方もなく大きなまばゆさの拡がりである。それでいながら、そのまばゆさの拡がりは見るものの素肌に生なましくまといつき、いっときも地上を離れることがない。実際、小津の映画ほど聖なる至高性の概念から遠いものはまたとあるまい。間違っても天空にかけのぼることがなく、もっぱら大地に接し続けているこの何かこそ、映画の歴史には二度と起こることのない「奇跡」なのである。その日常化された「奇跡」に、人はなお驚き続けることになるだろう。