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[かわら版の情報社会]


江戸出火(年不明、二月一九日)

江戸出火(年不明、三月一〇日) 江戸三度飛脚問屋尾張屋惣右衛門(在大坂)が配った江戸の火事についての摺物。木活字印刷によるものであることから、幕末期と推定される。小野コレクションには、こうした出火を知らせる飛脚屋の摺物が多数蔵されている。

図21 江戸出火
図21

江戸出火

二月十九日酉下刻江戸橋南つめより出火北
西風強四日市青物丁万丁音羽丁佐内丁平
松丁小松丁川瀬石丁南油町新右ヱ門丁箔屋町
岩倉町榑正町中橋埋地本材木丁壱丁目より
八丁目迄福島丁下槙丁大鋸丁夫より南伝馬
壱丁目東側半丁二丁目三丁目ぬし丁鞘丁
まさ木丁松川丁鈴木丁因幡丁ときわ丁柳
丁具足町竹川岸通不残川向白魚屋鋪金六
丁水谷丁不残八丁堀高なわ代地弁天横町
本八丁堀壱丁目二丁目不残南八丁堀壱丁
目本多様きわ迄焼翌辰之刻火鎮申候
又外に十九日夜戌刻佃島辺より出火同所
御屋敷とも不残焼失同夜子刻火鎮申候
同二十日午刻麻布市兵衛丁辺より出火同所二丁
余も焼失同日未中刻火鎮申候
二月二十六日
{押印}大阪船越町
江戸飛脚問屋
尾張屋惣右衛門
{押印}江戸
定飛脚仲間
三度

図22
図22

火之用心 大阪今昔三度の大火

文久三(一八六三)
文久三年の大阪大火の折、過去の二度の大火、享保九年(一七二四)の妙智焼け、天保八年(一八三七)の大塩平八郎の乱での市中の大火を合わせて多色刷り出版し、火の用心を促しすもの。過去の災害の併せて出版する例は、大坂のかわら版に見られる特徴である。

図23 火之用心 大阪今昔三度の大火
図23

火之用心 大阪今昔三度の大火

大阪今昔三度の大火
心得之為
世に火ハおそろしきものとハ
しりなから足にてふみけす人
多し大に心得ちかいなり
火ハ陽にして木火土金水の
司なり火は実ニ有用の随一
にして勿体なきものなり
たゞ大切にして火ニ礼をいふ
心得にて始末をすれバかゝる
火災をまぬがるべし
よくよく人々の心を合せて
火を用ひ為ふべし火災ハ
たた火を廉末にするもの
を天よりいましめ為ふなり
よくよく心得為ふべし
むかしより今年ニいたる迄
かゝる大火ハ三ケ度也ゆへに
今三ツを図して出すものなり
{下段}
文久三癸亥年十一月二十一日
夜五ツ時新町橋東詰北ニ入所より
出火いたし候所西風はげしく
して東へ一時に焼行夫より北西風ニ
なり巽へうつる又西南ニ風かわり
丑寅へやけゆく事はげしく夫より
上町へ飛火して火勢ますますはげしく
せんば上町とも一事ニもへあがり誠に
大坂中火となるやう相見へ候まことに
老若男女のおどろき筆紙につくし
がたし終にハ大坂東のはしまて焼失仕候
見る人大坂市中のそうどふさつし為ふべし
同月二十三日昼四ツ時ニ火鎮り申候
町数 百五十二丁
家数 四千七百余
竈数 二万五千余
土蔵 三百二十余
神仏八十余 死人四十六人
けが人数しれず
往古より大坂ニてハかゝる大火めづ
らしき事也依て後世咄しの種且ハ
火の元心得のためにもならんやと
一紙に図して諸人の見覧ニそなへ
たてまつる
天保八酉二月十九日朝五ツ時
天満より出火風はげしくして
所々へ飛火いたし上町御城辺まて
焼失北せんば長者町大家
処々焼失夫より南え本町まで
やけ然るに火事場にて何物とも
しれず御やしき風俗ニて大坂市中
あれ廻り人々の昆雑いわんかたなき
次第それゆへ諸国在々へ逃候もの
実に蜘の子をちらすがごとく
にて日本国中ニ其節ハ此大火の
噂サはかりなり
実ニ希代の大火大そうどふ也
町数 百十二丁
家数 三千三百八十九軒
かまど 一万八千五百七十八軒
土蔵 四百十一ケ所
穴蔵 百三十ケ所
寺社 三十六ケ所
死人怪我人数しらず
享保九年辰三月二十一日之ひる
九ツ半時南堀江橋通り弐丁目
金屋妙智といふ人の宅より出火いたし
南風はげしく新町へやけ出終に北野迄
焼抜西ハあミた池迄東ハ木綿はし辺
にて火鎮り西横堀北へ焼新博労町
北がハへ火移り夫より北ハ船場のこらず
焼失又天満へ飛火川崎迄中島
堂島西天満東天満のこらず焼失
二十二日朝北東風ニなり上町へ飛火致
追ゝ北風はげしく上町一面ニ成それより
高津へ移り島内一円それより道頓ほり
芝居へ飛火いたし火先いくつニも相なり
難波新地長町不残焼失す
其節大坂四百八十余町之内四百三十町余
実ニ大坂初マツテの大火ニて親子兄弟
はなれはなれとなり五畿内ハ勿論丹波
丹後伊賀伊勢江州播磨淡州等へ
にけ誠ニ其なんぎいわんかたなし
家数 弐万八千余
かまと 九万八千七百余
土蔵 弐千八百余
死人 凡三万余人
けが人 十二万余

大洪水細見図 慶応四年(一八六八)

慶応四年、つまり明治元年、近畿地方は大洪水に見舞われた。これが、翌年、維新政権の成立を危うくさせるほどの凶作を引き起こした。こうした最中であっても、かわら版には、災害を伝える情報のみが掲げられている。

図24 大洪水細見図
図24

大洪水細見図

慶應四
    大洪水細見図
戊辰年
此外近江丹波播州阿州讃岐伊豫土佐紀州勢州
所国路山城大和美濃尾州関東すしにいたるまて諸国
一円の大洪水のよしなれ共不便ニてくわしくハしるしかたく略之
{上段}
四月中旬より閏四月中旬迄雨天多く閏月十五日
入梅ニ相成候て七八日続て御天気の所二十日過より
五月八日迄大体雨天斗り九日十日天気十一日より十五日
明方迄昼夜降通し候ゆへ堺大和橋より二三丁斗り
川上にてうりの村南の方の堤十三日申之刻凡巾
四十間余切れ込其水勢三尺斗りの波打うづ巻立て
水先戌の方へ押行其おそろしさ見る物目のまハることく
またたく間ニ押流れ死人夥敷同所中程より北東にはや
松ハ申に不及住吉鳥居前より壱丁余北まて
往来ニて四五尺の水ゆへ舩ニて見舞いたし候誠に
愁至極目もあてられぬ次第ニ候○又淀川筋ハ淀の
小橋落候ゆへ其材木天満橋へかかり十二日夜七ツ時
天満橋中ほど丗間余流れ落候天神橋浪花橋ハ
いまた無難なれ共十三日より往来とまり候又川上ハ平左と申
所ニて切れ込ミ候ゆへ中ノ嶋郷ハ江口三番新家新庄玉じま
宗禅寺馬場其外村々一円家根迄水漬りニ相成候○
中津川ニてハ横せきと申所切れこミ三番村十三村ゑび口■
島浦江其余村々北野辺迄一円大洪水○東ハとくあん堤
の辺ニ而切れ込ミ候ゆへこ■みのどう辺より東の山ぎハ申に
不及大坂より東の在一円のこらず白海のことくニ有之候
○西ハ福嶋野田村伝法等ニ而堤小川所々切レこミ何れも
大水ニ御座候○大坂市中ニ而ハ北の新地三丁目より
西ハ往来にて深き所ハ壱尺四五寸水下タばら之内ハ
床の上にて二尺三尺の水なり堂嶋の下モ中の嶋
の下モ其ほかすべて川々の水下場所ニてハ川水ニ
往来と一流ニ相成候所有之候又往来ニて所々より
壱尺或ハ二尺往来之穴あき候も有之死人けが
人等ここかしこに在之候誠ニ八九十年来の間未聞の
大洪水にて中々筆紙と尽しがたくいまだ高水ニて
諸方の往来とまり候ゆへ此外遠方之儀ハおいおい
相知れ候ハんあゝ誠ニ古今の大洪水なれかし
{枠袖右}極本細しらべ
近在難渋人大坂町内中より施行致候事誠ニおびただしく筆記かたし


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