第一部

学問のアルケオロジー


実学の黎明—東京医学校と工部大学校

幕末医学「経穴図の胴人形」 幕末医学「人頭解剖模型」
幕末医学「経穴図の胴人形」

鍼灸治療の教育に用いられた胴人形。胴人形という名称は中国の「銅人形」に由来する。胴内は中空で、そこには内臓模型が、頭部と四肢には革袋がそれぞれ収められ、革袋に水銀が充填されていた。体表には経絡(けいらく)経穴(けいけつ)説に基づき、365の小孔が穿たれ、14の経路が示される。医師の試験に用いられた。これは中国からもたらされた模型を基に、慶長年間(1600年前後)に紀州藩の藩医岩田道雪が製作したもの。
【慶長年間(1600年前後)/紙塑製/医学部標本室】
幕末医学「人頭解剖模型」

寛政6年5月和蘭陀商館長から贈られたフランス製蝋細工模型を幕府官医桂川甫周(1754-1809)が職人鈴木常八を使って模造させたもの。檜材を寄せ木し、胡粉の地塗りの上に岩絵の具で彩色が施してある。両眼には仏像に使われる玉眼が用いられている。頭の表皮を剥ぎ、浅層筋と静脈を表現している。明治初年に桂川家を出て、後に東京大学へ寄贈された。
【寛政6(1794)年/檜材に胡粉、彩色/桂川家旧蔵/医学部標本室】
幕末医学「眼球解剖模型」 西洋医学所「オランダ人頭蓋骨」(医学部1号標本)
幕末医学「眼球解剖模型」

安政4(1858)年11月伝習を終えた軍医ポンペ・ファン・メールデルフオールト(1829-1908)の帰国に随伴し、日本人として初めてオランダへ渡った伊東玄伯(1831-1898)が留学先で購入し、明治元(1868)年に持ち帰ったもの。 左眼球と眼筋の構造が示されており、大きさは実物のおよそ10倍である。当時のものとしては現存唯一。
【文久3(1863)年/フランス製/紙塑に彩色/総合研究博物館医学部門】
西洋医学所「オランダ人頭蓋骨」(医学部1号標本)

東京大学医学部解剖学教室の『解剖学標本台帳』の台帳の第1号標本は「オランダ人頭蓋骨」で、その備考欄には
「軍医総監松本良順氏の寄贈」と記録されている。松本良順(1832-1907)は長崎でオランダ軍医ポンペについて西洋医学を修めた。ポンペは解剖学の講義で、オランダ人頭蓋骨を用いて授業していたが、良順が長崎を離れるときに、この頭蓋骨を記念に贈った。江戸に戻った良順は、西洋医学所でこの頭蓋骨を用いて教育にあたった。
【年代未詳/軍医総監松本良順寄贈/総合研究博物館医学部門】
工部美術学校彫刻学科 大熊氏廣モーセ像 工部省工学寮「水準器」
工部美術学校彫刻学科「大熊氏廣『モーセ像』」

大熊氏廣(1856-1924)は、工部美術学校の開校とともに入学し、ラグーザの下で彫刻を学んだ。在学中に制作した石膏像二点が現存する。一点の背後には「明治十二年二月□□終 ミツシエラン□□ 大熊氏廣」と記されており、ミケランジェロの『モーセ像』の模刻と思われる。もう一点は卒業製作の『破牢』。こちらは、19世紀のイタリアの彫刻家ヴィンツェンツォ・ヴェーラの『スパルタクス』を模刻したもの。
【明治12(1879)年/石膏/人文科学系研究科】
工部省工学寮「水準器」

工学寮は欧米の工業技術を確立するのに必要な人材を養成するため、明治4年8月に工部省の一等寮として設立された。工学寮を率いたのは工部省の設立を建白した工部大丞山尾庸三。寮舎は虎ノ門の旧延岡藩邸にあった。「工学寮」時代の遺品は数が少なく、明治9(1876)年の年記のある本品は貴重である。
【明治9(1876)年/工学寮測器所製造/工学系研究科産業機械工学科】
工部大学校「玉座の天蓋」 工部大学校「ヘンリー・ダイヤー肖像」
工部大学校「玉座の天蓋」(部分)

【明治11(1878)年(?)/木、布、銅、紙製/工学系研究科】

工部大学校「ヘンリー・ダイヤー肖像」

英国グラスゴー出身のヘンリー・ダイヤーは、明治6年6月25歳の若さで都検として工学寮に赴任した。彼が工部
大学校の設立と運営になした寄与は大きく、また彼の考えた、土木、機械、造家、電信、化学、冶金、鉱山の七工学科目の理論教育と実践教育をともに行う総合的な工科大学構想は、欧米でもいまだ前例のない画期的なものであった。ダイヤーの貢献は教育プログラムの策定に始まり、諸々の教育制度の確立、さらには工部大学校の虎ノ門校舎の建設まで多岐にわたる。
【明治15(1882)年/工学系研究科建築学専攻】
工部大学校「エドワード・ダイバース肖像」 工部省工学寮「W・E・エアトンの机」
工部大学校「エドワード・ダイバース肖像」

【明治19(1886)年/工学系研究科建築学専攻】

工部省工学寮「W・E・エアトンの机」

イギリス人W・E・エアトンが設計し、日本の大工に製作させたもの。製作費は40円。彼は明治政府の招聘により、明治6(1873)年から11年まで工部省工学寮電信科で教鞭を執り、電気工学の基礎を築いた。明治11年3月25日虎ノ門の工部大学校において電信中央局開局の祝宴が開催されたが、この時にエアトンは第三期の生徒であった藤岡市助、中野初子、浅野応輔らを指揮し、わが国初の電気灯(アーク)を点燈させた。「電気記念日」はこれに由来する。
【工学部8号館】

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