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石器・土器・金属器

(日本)


6 銅鐸(岡地船渡1号銅鐸)


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日本
静岡県引佐郡細江町岡地船渡
弥生時代後期
高さ56.6cm
資料館人類・先史部門(12268(A2578))

この銅鐸は、静岡県引佐群細江町の岡地船渡において、1877年(明治10年)頃、別々の機会に発見された2点の銅鐸のうちの1点である(註1)。その後、柴田常惠氏により出土地点は都田川の堤防沿いであったと確認されたが(註2)、新たに現地踏査を行った梅原末治氏によれば、まず2号鐸が1880年(明治13年)8月15日の昼頃に発見され、その数日後に2号鐸よりも小さい本銅鐸(1号鐸)が発見されたとのことである(註3)。1号鐸は人を介して東京帝国大学理学部人類学教室に寄贈されて本館に収蔵されるに至ったが、2号鐸は国内を転々とした後に海外に流出し、調査した時点では「伝近江出土」としてベルリンの博物館に所在することが梅原氏によって推断された。当時ベルリン在住の寺田貞次氏から梅原氏に送られた実測図(挿図2)と、流出前に撮影された写真(挿図1)から、二号鐸の特色を窺い知ることができる。

6-1 岡地船渡2号銅鐸(ベルリン博物館蔵)
梅原末治 1937年「銅鐸の研究」図録第58(2)
6-2 岡地船渡2号銅鐸図
梅原末治 1937年「銅鐸の研究」
資料篇145頁、第41図(一部改変)

銅鐸は、いわゆるベル形の青銅器で、その起源は大陸製の小型類品にあったと推定されているが、大きさや形状、紋様構成などに見られる多くの特色は弥生時代の日本列島で独自に醸成された。大きくみて、元来はつり下げるために必要とされた「鈕」と、裾広がりの形状を呈する「身」からなる(註4)。銅鐸の型式変化の方向性は、この「鈕」に注目して合理的に説明することができる(註5)。すなわち、全体の大型化に併せて、つり下げるのに適し装飾紋様も簡素な「鈕」から、幅広・偏平で多くの連続紋様で飾られる「鈕」へと変化していった。その過程で、装飾効果を著しく高める「鰭」(「身」から「鈕」へ連なる偏平な張り出し)や「飾耳」(2つ1組の小突起)が作り出され、さらに、「鈕」および「鰭」の外周、紋様帯の区画などに突線が用いられるようになったのである。銅鐸は祭器の一種であったと考えられており、ほとんどは往時の居住地から離れた地点に意識的に埋納された状態で発見される。記録に残された発見状況から推して、岡地船渡1号および二号銅鐸もこのような一般的傾向を示している。

岡地船渡1号銅鐸は、全体的に鋳上がりの悪さが目につく。鋳損じ孔が少なからずあり、特に、「鈕」が取り付く「身」上部の平坦面(「舞」)の型持孔(内側の鋳型を支えるためにできる穴)の一方は孔としての形状を呈するに至っていない。また、両面とも紋様の不鮮明な部分が認められ、実測図では適宜復元して示した。突線に若干の歪みやズレが生じている箇所もある。裾部はかなり欠損しているが、中軸線に近い遺存部分ができるだけ接地するように若干起こして計測すると、全体の高さは56.6センチを測る。この銅鐸には三条一組の突線が用いられており、古・中・新の3段階のうち新段階三式(突線鈕三式)に該当し(註6)、弥生時代後期の所産である。また、「鈕」に「飾耳」が付加されない、縦方向の軸突線が1組だけ「身」の中央を貫く、などの特色から、三河や遠江に分布が集中するいわゆる「三遠式」の範疇に入る。1982年の集成(註7)によると、出土地が明らかな「三遠式」は31例で、出土地不明例や以後の新例を加えると確認総数はこれより若干増える。「三遠式」は、紋様構成や突線の用い方に独自の約束ごとをもち(註8)、分布状況と併せて「近畿式」に相対する地域色を発現させているため、当該時期の集団関係を探る上で重要な考古資料とみなせる。

一方で、岡地船渡1号銅鐸は、「三遠式」の定型とは異なる特色をもつ。「三遠式」の「鈕」や「鰭」は、内側に頂点を向け斜線が充填された三角形の連続紋様、すなわち内向鋸歯紋で飾られ、定型例は頂点を上に見て右下がり斜線と左下がり斜線の三角形が交互に配される。岡地船渡1号銅鐸は両面とも、交互ではなく各々が連続的に配された箇所が多い。これが第一の特色である。また、横走する軸突線とその上下の紋様帯を1組にして捉えると4段構成(上から「第一〜四横帯」)となり、「第四横帯」の下には先の内向鋸歯紋が巡らされる(「下辺横帯」)のが一般的である。例えば、長野県塩尻市柴宮出土例(挿図3)では、内向鋸歯紋の基本的な配列原則は守られていないが、「第一横帯」と「第四横帯」には斜格子紋、「第二横帯」と「第三横帯」には左右から縦の軸突線に向かう綾杉紋が用いられ、「第四横帯」と「下辺横帯」との区分は明瞭である。これに対して岡地船渡1号銅鐸(A面)は、「第四横帯」を構成するはずの下段の斜格子紋が欠落しており、あたかも「下辺横帯」を取り込んで新たな「第四横帯」が創出されたかのようである。これが第二の特色である。このように、「横帯」区分の原則が崩れた例としては、例えば、愛知県小坂井町から出土した伊奈2号および3号銅鐸などがあり、これらが後出の突線鈕四式に属することから岡地船渡第1号銅鐸の突線鈕三式における年代的位置づけを推し量ることができる。また、この区分原則の崩れは岡地船渡1号銅鐸のもう一方の面(B面)でも認められ、そこに第三の特色を指摘することができる。すなわち、B面では「下辺横帯」を作り出す要素であったはずの内向鋸歯紋はみられず、最下段には斜格子紋が施されている。このように「第四横帯」と「下辺横帯」の区分認識に関わる形で、A・B両面の紋様構成に違いがみられるのである。ちなみに、同一個体で表裏の紋様構成を異にする例として、岡地船渡1号銅鐸と同じく細江町から出土した七曲り2号銅鐸がある(挿図4)。こちらは「鈕」の紋様構成を異にしており、また、定型「三遠式」の原則が遵守されていることから、岡地船渡1号銅鐸の場合とは別の説明が必要であろう。なお、岡地船渡2号銅鐸は、参考写真によれば基本原則が遵守されたタイプの「三遠式」である。

6-3 長野県塩尻市柴宮出土銅鐸
長野県市観光会 1988年「長野県史・
公庫資料編・遺構・遺物」の
865頁、第603図(一部改変)
6-4 静岡県引佐郡細江町滝峰七曲り2号鐸
柴田文雄 1982年「静岡県引佐郡細江町滝峰七曲り2号鐸」
『考古学雑誌』第68環第1号、
154頁、第2図および155頁、第3図(一部改変)

「三遠式」銅鐸は、基本的な約束ごとが明瞭であるだけに、細かな差異にも目を向けやすい。これらの差異は、製作年代の違いという時間的側面、使用ないし保有した集団から工人集団、場合によっては製作者個人まで様々なレベルの集団的側面、さらに技術的側面などが複雑に絡み合って発現した可能性がある。「生きた分布」をふまえた巨視的枠組みの構築と、個別資料の綿密な観察および比較検討の中に、さらに探究されるべき重要な問題が潜んでいるように思われる。

(倉林眞砂斗)

註1 ——、1887、『東京人類学会雑誌』第18号、290頁の雑記
註2 柴田常惠、1905、「遠江に於ける銅鐸の発見地」『東京人類学会雑誌』第228号
註3 梅原末治、1937、『銅鐸の研究』資料篇・図録、大岡山書店
註4 以後、銅鐸各部の名称は、難波洋三、1986、「銅鐸」(『弥生文化の研究』第6巻、雄山閣出版)による。
註5 佐原眞、1960、「銅鐸の鋳造」『世界考古学大系』第2巻、平凡社
註6 神戸市立博物館の特別展図録『銅鐸の世界展』(1993年)による。
註7 佐原眞・春成秀爾、1982、「銅鐸出土地名表」『考古学ジャーナル』第210号
註8 芝田文雄、1969、「三遠式銅鐸の成立(上)」『遠江考古学研究』三
挿図1 註3文献、資料篇145頁、第41図(一部改変)
挿図2 註3文献、図録第582
挿図3 長野県史刊行会『長野県史 考古資料編 遺構・遺物』(1988年)の865頁、第603図(一部改変)
挿図4 芝田文雄「静岡県引佐郡細江町滝峯七曲り二号鐸」(『考古学雑誌』第68巻第1号、1982年)154頁の第2図および155頁の第3図(一部改変)。


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