第2章 プロジェクト「安田講堂展示設計」


 本郷キャンパスのほぼ中央に位置する大講堂、別に「安田講堂」とも通称される建物は、もともと講演会や学会、講義や式典など特別な行事に使うための講堂として建てられたこともあり、これを展示施設として利用するには大がかりな仕掛が必要となる。もちろん、歴史的な価値を有する建築物であるため、建物それ自体を傷めないというのが大前提ではあるのだが。

 安田講堂が、その調和のとれた建築様式の点でも、使われている素材の質や色においても、展示施設としてほとんど申し分のない建物であるということを、本プロジェクトを通して実証してみる。


 展示計画の実現にはいくつかの解決すべき課題があった。絵画などの平面的な事物を展示するための壁面が極端に少ない、古い建物であるため照明設備が極端に不足している、展示品を陳列するケースがまったく存在しないなどの点がそれである。

 壁面の確保については、講堂のなかに躯体を仮設し、それをもって展示に充てることにした。建築設計に携わった建築家セルジオ・カラトローニと協議の末、現状の端正な内装デザインに神殿建築を想起させる純白の構造物を組み合わせることにした。講堂中央部には高さ3メートルの方形ブースが設置され、講堂外周を取りまく周歩廊との開口部には2枚1組の仮設躯体が放射状に展開する。また照明については、天井部の強度に保証が得られなかったため、懸架型の照明を施すことができなかった。代案として、大講堂については照明用のブースの設置を、廊下と周歩廊についてはスタンド型照明からの散光による間接照明で解決することにした。形状も材質も様々な学術標本の展示に叶うものかどうか保証の限りではない。(西野)


大正11(1922)年12月25日着工、大正14年6月30日竣工。大講堂建築実行部建築掛長(兼任)内田祥三、東京帝国大学営繕課技師岸田日出刀設計。鉄筋コンクリート造4階建、ドーム屋根鉄骨、塔屋8階。

 大学の校舎として安田講堂ほど知られた建物はない。現在でも東京大学を象徴する建築であり続けている。量塊的なフォルムにゴシックを基調とする垂直性を強調した外観デザインを与えた、独特な表情を持つ、同時期を代表する建築である。

 安田講堂の通称は安田善次郎の寄付によって建てられたことに由来する。当時、東京帝大には天皇行幸に際する正式な便殿がなかった。文学部教授村上専精からそのことを聞きつけた安田善次郎は、大講堂と便殿の建設資金として100万円の寄付を申し出た。大学では大講堂建築実行部を組織し、工学部2号館(現存)の工事で評判を得ていた工学部建築学科教授の塚本靖、内田祥三に計画を依頼した。大正11年2月28日、内田は大講堂建築実行部建築掛長を嘱託されている。

 敷地は正門の正面奥の急な崖下。崖の高低差を利用して大講堂は崖上の3、4階部分とする。崖下に1、2階の軸部を造り、懸案事項であった大学の中央事務室の集中を予算外ながらも強引に計画している。基礎工事のさなかに関東大震災が起こり、構造の強化とともに予算の増額がなされ、なんとか上記の計画を実現する運びとなった。


 基本設計は内田が行った。着工後の大正12年7月9日内田は大学の営繕課長事務取扱を嘱託され、建築設計の実務を大学講座の一部として行うことを条件に、それを引き受けている。大学院生や若手技師の登用が可能となったことから、営繕課人事の大幅な刷新を行うことができた。大講堂の基本設計から実施案に至る間には、こうした若手建築家のデザイン参加があり、ために計画に大幅な変更が加えられることになったのである。

 内田による基本設計の内容は残されている図面からも明らかである。半円形平面の講堂を崖下の1、2階の上に乗せ、外周には高さ一定の壁面をめぐらせる。壁面にはピナクルが壁面最上部のコーニスより突き出す、上昇性の強いバットレスを配す。この壁面の表現は内田が学内で展開していく独特のネオ・ゴシック様式を先駆ける。正面中央には高さ約30メートルの、四隅に閉鎖的な八角柱を配したゴシックの塔を建て、エントランスに大振りなポルティコを設ける。典型的なゴシックの外観を持ち、現状とはかなり印象が異なっていた。

 内田のの基本設計を基に若手営繕課技師岸田日出刀が大幅に手を入れたものが実施案である。営繕課内でコンペを行い、岸田の案が採用されたらしい。岸田案は内田案を継承しつつ、表現主義的なデザインを加味してまとめ上げた翻案である。岸田は同時代のヨーロッパの建築家メンデルゾーンに傾倒していたらしく、内田よりも先鋭的な状況に敏感であったのだろう。複数の量塊がぶつかりあうような構成で、まず、垂直線を強調したゴシック風の造形は残しつつも、ピナクルやコーニスなどの細部を大胆に簡略化し、全面をチョコレート色のタイルで覆い尽くして表面の連続性を出す。そして、外壁は一定の高さにせず、中央の塔へと盛り上がっていくような講成にし、塔自体も高くされる。内側から溢れ出すようなコーニスのデザインに端的に現れているように建築の表面のデザインよりも立体的な造形を主題とする表現と言ってよい。

 建物内部も岸田によりデザインされた装飾的なトップライトを持つ、表現主義的なデザインになっている。そして中央舞台背景にあるアーチのスパンドレルには小杉未醒による壁画がほどこされている。

 昭和40年代には大学紛争の攻防の舞台となった。その後の封鎖を経て、昭和63(1988)年から平成6(1994)年にかけて修復され、平成8(1996)年12月には第1回の登録有形文化財として登録されている。(清水)


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展示空間素案
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展示ブース雛形(20分の1)

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「安田家寄付東京帝国大学大講堂新築設計図(第1階及第2階平面図、縮尺100分の1)」、大正11年11月25日製図、東京帝国大学大講堂建築実行部設計、縦95.5cm、横68.8cm、本部施設部
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「東京帝国大学大講堂新築設計図(南側立面図及縦断面図、縮尺100分の1)」、東京帝国大学大講堂建築実行部設計、縦93.0cm、横67.0cm、本部施設部
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展示設計イメージ・ドローイング
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安田講堂雛形(100分の1)
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