明治37年の坪井正五郎

人類学教室標本展覧会をめぐって


西野嘉章 東京大学総合研究博物館



 国内における人類学の起こりは明治17(1884)年に遡る。東京帝国大学に改組されてからは、明治25年に教授職が置かれ、翌年の1893年のシカゴ万博、さらに1900年のパリ万博にはそれぞれ学術資料を出品し褒状を得ている。明治期の人類学教室の国際的な業績を確かなものにしたのは、人類学教室の助手として西欧へ留学し、とくに人種博覧会の色彩が濃厚であった1889年パリ万博を実地体験した坪井正五郎であった。帰国後、人類学教室の初代教授となり、学会を組織するなど、国内に人類学・考古学の基礎を築いた坪井の功績は絶大である。

 明治30年代半ばから帝大では、「大学内部でも科を異にする人々や又は大学以外の人々に向かって各学科の仕事の大要を知らせる」ことを目的に、各教室単位で学術的な展覧会を行うことがしばしばあった。坪井の率いる教室でも、人類学は「如何に材料を集め如何に之を研究して居るか其結果は如何と云ふが如きを示す」ための「人類学標本展覧会」を、法科大学第32番教場を使って明治37年の6月3日から5日まで開催している。初日の金曜日は学内関係者への内覧会、4日の土曜日と5日の日曜日は一般にも公開された。会期はわずか3日間であったが、女子803人を含む芳名録記帳者数は5271名。実際には6000人を超える人々が会場に押しかける大盛況であったことが各種の記録から確かめられる。芳名録にもその状況が如実に映し出されており、各界・会の重鎮は言うに及ばず、医学系、美術系、理学系、歴史系など、多様な分野の研究者・学生がそこに名を連ねている。

 同月の『東京人類学会雑誌』(第209号)は事実上の展覧会特集号となっており、そのなかで坪井は展覧会の梗概を企画趣旨、内容構成、配置図、陳列品リストなど詳細に至るまで懇切丁寧に報告している。参観案内には次のようにある、「第一室に於ては人類学とは如何なるものかと云ふ事の大概を示し、第二室に於ては諸人種の現状及び日本種族の状態並びに日本古代住民に関する諸事項を示す。第二室中央部の諸標本は東西を通じて見れば同一地方の事実を明かにする益が有り、南北を通じて見れば彼此比較の便が有る」。東西方向の縦列には写真、身体装飾及び衣服、諸器具、利器の4つの経が設けられ、南北方向の横列には台湾、マレー、南方、ニューギニア、アイヌの諸人種の5つの緯が設けられ、全体として20台の机が用意された。これらの展示品は、日本の石器時代、上代の遺物と対照的に眺められるように仕組まれており、この後者の机の呼び物は、「坪井博士が本郷弥生ヶ岡で発見せられた新土器」すなわち弥生式土器であった。

 この展覧会が内容の点ですでに時代遅れのものであることは言うまでもないが、しかし、学術理論的な整合性に徹底して拘り、かつまたそのことを展示に供された文字・図表資料や同時期の出版物を以て市井の人々に理解させようとする姿勢において、坪井の努力には瞠目すべきものがある。この点について、松田京子氏は展覧会の前年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」での苦い経験があったのではないかと見ている。1889年のパリ万博でのそれに倣い、「人種」の生きた実例を人類学研究の材料として生活や風俗を含めて展示する場所として計画されていた「人類館」は、「単に人類館とありては人間の観世物の如く思ふ人もあるべければとて」(『大阪朝日新聞』、1903年3月9日)開館直前に「学術人類館」と名称変更されている。ばかりか、展示が始まってからも、坪井が「種族容貌の異同を示す方法」として考案した「人類分類地図」や「生身」の展示は民族差別以外の何物でもないとの指弾を社会から浴びる結果となり、人類学の学術的な意義を十分に一般へ伝達し得ぬ、不満足な結果に終わった。坪井が大学での展覧会の意図を説明するにあたって「人類学とは如何なるものか」を開陳してみせると正面切って言う背景には、こうした経緯が隠されていたのである。



【参考文献】

坪井正五郎「人類館と人種地図」、『東洋学芸雑誌』第20巻第259号、明治36年4月。
坪井正五郎「人類学標本展覧会開催趣旨設計及び効果」、『東京人類学会雑誌』第19巻第219号、明治37年6月、333—371頁。
松村瞭「大阪の人類館」、『東京人類学会雑誌』第19巻第220号、明治37年7月、289—292頁。
松田京子「パビリオン学術人類館」、『日本学報』(大阪大学文学部)、
第15号、平成8年3月、47—68頁。




148 『人類学教室標本展覧曾来観者名簿』
(明治37年6月開催)、明治37年6月4—5日、和装三冊帙入、縦20.0cm、横53.0cm、総合研究博物館人類先史部門


149 「坪井正五郎先生肖像」
写真、総合研究博物館人類先史部門


[東京帝国大学理学部人類学科]


138 人類学レファレンス・コレクション
(ピーボディ博物館との交換標本を中心とする)、総合研究博物館人類先史部門


138-2 の記載あり


138-3 の記載あり


138-4 の記載あり

北米大陸で発掘された先史人類の遺物の参照標本群。石器、骨格器、貝、石斧、土偶など、いずれも典型的な人類学標本がそれぞれ系統だって分類整理された小箱が、総数にして約200個存在する。標本ラベルのなかにマサチューセッツ州セーラムのエドワード・S・モース教授が「東京大学(Univ. of Tokio)のために(贈った)」と記されているものがあり、また、S・S・ヘルドマン、J・T・バーン、C・A・バーバー、クハラ博士といった採集者名とともに、明治13(1880)年の年記のあることから、明治10年代後半にはセーラムのピーボディ博物館から東京大学へ寄贈されていた可能性が高い。モースは法理文学部綜理加藤弘之に働きかけ学部附属博物場を設置させた上でいったん帰国し、明治15年6月に再来日しているが、場合によると博物場での展示品としてわざわざ米国から携えてきたものかもしれない。黒塗りの鉄製枠にガラスを填めた小箱による標本保存法は、もちろん今日では見られなくなっているが、誠にコンパクトにして瀟洒、かつ耐久性のあるものであったことが判る。(西野)


142 チンパンジー(メス)の交連骨格標本
(ガラスケース入)、縦60.0cm、横45.0cm、高140.0cm、総合研究博物館人類先史部門


143 オランウータンの乾燥標本
(ガラスケース入)、縦75.0cm、横43.0cm、高110.0cm、総合研究博物館人類先史部門


144 人体の交連骨格標本
(ガラスケース入)、大正2(1913年8月以前、理学系研究科生物科学専攻・生物学科

大正2年8月に木川の撮影した写真から坪井時代の標本であることが確認できるが、それ以外のデータは不明。この骨格標本は現在でも人類学の授業に使われている。(西野)



145 「世界人類風俗人形」
(坪井正五郎・松村瞭選定)、明治43(1910)年—大正2(1913)年、博多人形、素焼き陶土に彩色、井上清助製作、高16.0—18.8cm、総合研究博物館先史人類部門


146 「坪井追悼会会場風景(山上会議所)」
大正2(1913)年10月2日、木川撮影写真、総合研究博物館先史人類部門(乾196)

明治23(1890)年の第3回内国勧業博覧会と明治33(1900)年のパリ万博に出品され「博多人形」の名前は国内のみならず、海外でも良く知られるようになった。その元祖井上清助は東京帝国大学の人類学教授坪井正五郎をはじめとする第一級の学者を監修者に仰ぎ、服飾の歴史や民族の差異をわからせる教育用教材人形「井上式地歴標本」を開発した。同種のものとして他にも「日本帝国人種模型」などがあり、これらは人種の識別用に使われた。福井敏隆氏の推定によると、当時の売価は1体あたり1円50銭ほどで、これは米10キロの標準価格に近い値段である。(西野)


147-6 教育用諸民族図譜「日本」
明治末期、洋紙に多色石版(裏打ちあり)、フランス製、縦57.7cm、横80.5cm、左下に版上印章、理学系研究科生物科学専攻・生物学科



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