はじめに


 日本は海に囲まれ、南北に長く、南は亜熱帯、北は亜寒帯に連なり、かつ地形も複雑なため、きわめて多様な自然を目の当たりにすることができる。このような自然を反映して大地を被う植物相の多様さも世界有数である。また、日本ではほぼどの地域でも現状を放置すればやがて森になる。このような地域は世界でも数少ない。

 東京大学では明治一〇年の創設以来、多様な日本の植物を様々な角度から研究し、今日にいたっている。しかし、多様な日本の植物相の解明は容易ではない。その記載さえ未だ十分ではないのが現状である。その記載と解析には多量の標本がいる。自然史の研究分野においては不完全なコレクションからは決して優れた研究成果は生まれないといっても過言ではない。

 明治初期の東京大学創設期に植物学の教授を勤めた矢田部良吉と松村任三は、このことをわきまえていた形跡がある。彼らは標本を集めることに専心し、文献の収集に腐心した。矢田部と松村が創設に尽くした東京大学植物標本室と古典籍を数多く含む充実した図書室があったおかげで、日本は欧米の植民地であった国々のように自国の植物研究を欧米諸国に委ねることなく、自ら研究することができた。

 江戸時代にはケンペル、ツュンベルク、シーボルトに始まり、幕末のロシアのマキシモヴイッチ、フランスのサヴァチェ、アメリカ合衆国ペリー艦隊などが日本の植物を採集し、欧米で研究が行なわれた。すでに東京大学の創設前に日本植物の研究はかなり進展していたのである。矢田部や松村が創設後の短期間に欧米の研究者の業績を消化し、彼らの後を引き継ぐことに成功しなかったらと考えると寒気さえしてくる。

 創設後しばらくして、日本植物の研究という地域性のある研究だけではなく、普遍性の高い研究も開始された。画工から助手となった平瀬作五郎が、一八九六年に小石川植物園に古くから植栽されていたイチョウから、世界で初めて精子を発見した。これは種子で繁殖する種子植物には精子は存在しないという、当時の学説を覆す大発見であった。

 今年はこの精子発見から一〇〇年目に当たる。また、江戸時代、化政年間に来日し、黎明期の日本植物研究を推進したドイツ人フイリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold )の生誕二〇〇年でもある。東京大学総合研究博物館では、東京大学コレクションIVとして、この画期的な発見と注目すべき人物の生誕を記念すべく、特別展を企画した。

 東京大学には理学部附属の植物園がある。この植物園は小石川植物園と通称されるが、その歴史は一六八四年に徳川幕府が現在の植物園の地に設けた薬園にまでさかのぼる。小石川薬園は、江戸時代の植物研究である本草学研究の中心でも拠点でもなかったが、植物園となった明治初期に、ここで植物の調査研究を進めたのが、本草学者の伊藤圭介と賀来飛霞である。圭介と飛霞は、アメリカ合衆国で植物学を学び帰国した矢田部良吉と共に植物研究に励んだ。ここに日本の本草学の成果が集大成され、小石川植物園が本草学を植物学へと引き継ぐ装置としての役割りを果すことになったことの意義は大きい。

 本特別展は、主として小石川植物園と総合研究博物館が収蔵する植物標本、未出版の植物画、和洋,の本草学・植物学古典籍、その他の学術標本により、日本植物研究の軌跡、創設期の小石川植物園、近代植物学の系譜、東京大学植物標本室、小石川植物園の系統保存事業と公開について、その様相や歴史的発展などを通覧しようと試みたものである。

 本展示は副題の「小石川植物園三〇〇年の歩み」を直接示すことはしなかった。副題は薬園誕生から以後の三〇〇年という本草学・植物学の長い歴史の流れを垣間みることを意図している。図録では、展示した学術資料の学術上の意義、価値、特徴などをより具体的に理解するための手がかりとなるよう編集を試みた。

一九九六年十一月      総合研究博物館
 


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