西アジアにおける土器の起源と展開


■更なる発展

 土器製作技術の最初期の試みの後には急速な発展が続き、それ以来千年のうちに土器工芸は様々な経路を辿って豊かで洗練された規格的な生産へと至ったのである。

 土器の全般的な拡散は前7千年紀の前半に起こった。その結果、およそ前6,500年頃に位置づけられる全ての遺跡で土器が出土するようになる。これは西アジア全域でのことであったが、シリア砂漠と南レヴァントは例外で、土器出現は200〜300年後のことになる(図6)。

図6 土器の拡散

 土器は量の点でも拡大した。とりわけテル・セクル・アル・アヘイマルの先土器層のようにトレンチを拡張してようやく土器を出土する層であると判明した程乏しかったのが、今や土器は非常に豊富になった。このことはこの新たな製品が広く用いられたことを示している。

 土器の拡散は、その特色が多様になったことからもわかる。

 最初期の土器はおよそ同種の特徴を有しており、大型の鉱物混和土器で表面が磨研されるものである。次第に新たな種類の土器が登場し、それらは様々な混和材(大小の植物や鉱物)を持ち、様々な器面調整(ナデ、磨研(ミガキ)、化粧土)が組み合わされた。そして土器アセンブリッジは、プロト・ハッスーナ期のテル・セクル・アル・アヘイマルやテル・カシュカショクで見られるように、数種の土器で構成されていた(図7)。

図7 拡散期の様々な土器。
(a)テル・セクル・アル・アヘイマル出土。 (b)テル・コサック・シャマリ出土
a
b
図8 拡散期の土器のサイズは、大型の鉢からミニチュア土器まで多岐にわたる。

 器形に関して言えば、最初期の土器の、胴部半部が内傾したり垂直に立ち上がる無頚のものや器壁が張り出したり、まっすぐのものなどに加えて、開いた器形や竜骨型の器形、あるいは有頚で様々な頚部を持つ器形、独特な口縁形態、外反する器壁などが見られる図10-12)。

 多様性は寸法にも現れており、ミニチュア壺から深さ1メートル近くにまで達する大型の容器(テル・セクル・アル・アヘイマルで出土している)までの幅を持つ(図8)。

 最後に、装飾は極めてまれではあるが、徐々に技術が発展している。それらは彩文、押捺文、刻文、貼付文などで、単独ないし複合して用いられた。そしてデザインの点では当初は単純な幾何学文であったのが、より複雑になり、図像も含まれるようになる(図10-12)。

 土器は大きな多様性ばかりではなく、大きな流動性も示している。ほとんどの場合において、胎土、器形、装飾の全ての特徴は互いに関連し合っており、独立した特徴はほとんど存在しない。そのため粗製と精製という通常のカテゴリーの区別は明確には行うことができない。例えば装飾やより手の込んだ器形は精製土器に限定されるわけではない。

 こうした発展は、部分的には技術的進歩によるものだと思われる。だが、この多様性は明らかに土器が、木、石、獣皮、あるいは石灰や石膏が張られた籠など、それ以前に用いられていた他の製品と競合しながら、様々な目的に用いられたことを示している。

図9 土器の地域性。拡散期には、ザグロス、プロト・ハッスーナ、プレ・ハラフという大きく三つの土器グループが出現する。

 土器の拡散は、あらゆる点で地域性の出現に通じており、その地域性によりいくつかの分布域に分けられる(図9)。ザグロス地域特有の特徴は丸底で竜骨形の器形と器面全体を覆う対角線上に配された彩文モチーフである(図10)。北メソポタミアでは、テル・セクル・アル・アヘイマル、テル・カシュカショク、テル・サラサートが所在しており、無頚で胴部半部が内傾する竜骨形の器形で屈曲部の上下の器壁が外反するもの、貼付文やいわゆるプロト・ハッスーナによって特徴付けられる(図11)。北シリア・キリキアは、コサック・シャマリが位置しており、内反する有頚の器形、押捺文や刻文、いわゆるプレ・ハラフによって特徴付けられる(図12)。しかし、こうした地域性はおそらく、土器が発展して多様化したというより、この新たな工芸がわずか200〜300年のうちに各地域の物質文化に十分に統合され、異なる文化地域の間の差異を示すようになったことを反映しているのであろう。そうした文化地域は既に長い時間にわたって、石器インダストリーその他の文化要素によって示されていたのである(Aurenche, Kozlowski and Le Miere 2004)。ティグリスからユーフラテスまで非常に類似していたジャジラの初期の土器が、後にジャジラの東部はプロト・ハッスーナヘ、西部はプレ・ハラフヘというように、異なる種類の土器へと発展したことは、それぞれの地域で長い期間にわたって培われていたこの文化伝統により説明できるだろう。

 
図10 ザグロス・グループの様々な器形と装飾
図11 プロト=ハッスーナ・グループの様々な器形と装飾

図12 プレ=ハラフ・グループの様々な器形と装飾

 上述のように、土器の流通は既に初期鉱物混和土器の時点からあったのではないかと推測できるが、土器の拡散にも流通が関係している。土器の流通は様々な遺跡から得られた資料の化学分析によって跡付けることができ、一般的な現象であったようだ。粘土は黒曜石のように希少な素材ではなく、どこででも入手可能である。したがって、土器の流通は全方向的で、短距離・長距離いずれも考慮できる。後者の例としては、ハブール川流域(なかでもテル・カシュカショク)やシンジャールにおける暗色磨研土器の存在が挙げられる。この土器は、もともとの製作地である北シリアの海岸部から南タウルス山脈にかけての緑色岩地帯から数百キロも離れたところまでもたらされたのである。複数の遺跡から得られた資料の化学組成を調べたところ、土器の流通は場当たり的なものばかりでなく、ある程度恒常的な関係に基づいていたこともわかっている。一遺跡から出土した時期が異なる資料に、同じ起源地が認められるからである。またこの恒常的な関係は、一遺跡において量的に多数を占める土器グループの場合もある。

 土器が多様化する時期は長くは続かなかった。既に前7千年紀末の数世紀には、技術の多様性が徐々に減少し、やがて土器アセンブリッジは明瞭に互いを区別される粗製土器と精製土器を含むようになる。また器形はそれぞれの種類の土器ごとに異なり、粗製土器はもはや装飾を持たなくなる。このことは各タイプの土器に特定の用途が備わっていたことを反映している。そして土器製作は、固有の胎土、器形、装飾技術やデザインに関してきちんと定まったタイプの登場を伴う規格化によって特徴付けられるようになる。ハラフ土器がこの発展段階に相当する。ハラフのアセンブリッジでは精製土器は土器の80%を占め、その90%が彩文を持ち、それ以前のアセンブリッジとは対照的である。それ以前のアセンブリッジでは、装飾を持つ土器は、例外的に、アセンブリッジ全体の中で30%に達することもあったが、たいていは5-10%の間にすぎなかった。ハラフ彩文土器は非常に洗練された装飾を示し、幅広いデザインと、それらを構造化する複雑な構成を持つ。このような彩文土器の発展は、昇焔式の窯の使用を伴う焼成温度の管理技術の進展が後押ししたようにみえる。ただ、それだけではなく、土器の位置づけに何らかの変化があったことも確かなようだ。

■結論

 土器は世界のほかの場所では西アジアで出現する以前から存在していた。すなわち、日本では前1万3,500年頃、北アフリカでは前8,500年頃である。しかし、土器技術が西アジアに輸入されたことは証明されていない。日本に関しては、距離がかなり離れており、この発明がある地域から別の地域へと運ばれたという証拠は何一つない。北アフリカに関しては、土器技術が西アジアへ運ばれたとすればその有力候補となろう。しかし、二つの地域を繋ぐ「道の途中」にある南レヴァントでの土器の出現が遅れるため、これは疑わしい。それゆえ、そして入手可能な技術データによって示唆されるように、西アジアにおいて土器は独自に発明されたと仮定することができよう。

 冒頭で述べたように、土器は概して新石器化のその他の要素と強い結びつきを持たないようである。とはいえ、西アジアにおいて、土器が新石器化の変化や変革の最後に現れる要素として年代的に位置づけられるということから、この両者に何らかの関連性を留保しておく必要だけはある。調理の問題に関していえば、従来はしばしば植物の栽培化と関連があるとされてきたが、最初期の土器が調理と関係していたという明確な証拠はない。というのも、初期の調理用土器が急速に消えゆく背景には、調理に土器がそれほど必要とされていなかったことがあると思われるからである(上述参照)。また、土器の始まりは、遊牧の発展とともに開始された初期の乳利用と関連があるとも言われてきた。遊牧は、家畜化がさらに発展した形態であり、先土器新石器時代末と土器新石器時代初頭に始まった。しかし最近の研究によると、実際には乳利用は家畜化の当初から始まっており、動物が家畜化された主な理由でさえあったかもしれないのである(Helmer et al. in press)。動物の家畜化は土器が出現する千年も前に始まっているので、たとえ土器が乳製品に用いられたことが化学分析によつて証明されたとしても、その関孫は直接的なものではない。遊牧とともに新たな乳製品が出現した可能性はあるが、それを分析によってミルクと区別することは今のところ不可能である。分析では単に乳製品を肉のような動物性脂肪製品と区分するに過ぎない。このような可能性を証明するには、更に分析技術が改善されるのを待たねばならないだろう。

 土器出現の理由が何であったにせよ、その最初期の試みから千年のうちに土器工芸は新石器文化の主要な要素となった。土器の重要性を評価しようとするあまり、朽ちやすい動植物性の素材で出来た容器を見過ごしてしまうことはあるかもしれない。ただ、加熱調理に適しているという利点に加えて、以前は他の素材で作られていた多種多様な容器が土器で代替されるようになるほど、土器には何らかの長所があったのだろう。これは、土器の発展が新規に開始された活動と何ら関連していないようにみえるところからも示唆される。土器が果たした様々な役割において、最も明白なのは貯蔵、運搬、そして食事の用意、配膳、飲食である。土器が経済や社会に果たした重要な役割は、土器の流通にも見ることができる。土器自体が交換の対象でもあっただろうが、その他にやり取りされる物品の容器としても用いられたことだろう。土器の流通が単に場当たり的なものでも数量的に限られたものでもなかったことは明白である。したがって、余剰生産が生み出されたことは十分にあり得ることだし、それゆえに土器工芸の専業化も視野に入れておく必要がある。

 ハラフの洗練された彩文装飾は、土器の象徴的役割を究明する大きな可能性を切り開く。ハラフ以前、土器は単にその他の物質文化の要素によって示された文化的差異を反映するだけであった。しかし、ハラフ土器の象徴的役割は、ハラフ文化の中で土器が最も代表的な要素の一つであるという事実とともに、土器が獲得した重要な地位、そして土器の発展がいかに急速なものであったかということを物語っている。

木内智康訳