記録媒体としての新聞
211.日刊紙『朝日新聞』
四月九日日本軍がフィリピンのバターン半島を制圧する。バタアン完全攻略のニュース。リスボン発で米国が敗戦発表とある。コレヒドール島まで退いた。その間に五千人の捕虜が命を落とした。「バターン死の行進」として知られる。
212.日刊紙『朝日新聞』
二色刷り日の丸のもと、宣戦一周年を告げる。「開戦の詔書」が掲載されている。戦果の表もある。ニュースソースは大本営発表、掲載の写真は海軍省提供とある。昭和一二年一一月一八日の「大本営令」が公布から、外電や特配員電は大本営発表となり、写真も特派員撮影から許可制、陸軍省提供へと変わっている。
213.日刊紙『読売新聞』(復刻)
昭和二七年六月五日発行の『文芸春秋』(第三〇巻第九号)臨時増刊号付録。 昭和二〇年八月十五日正午、天皇のポツダム宣言受諾の詔書がラジオ放送された。このいわゆる「玉音放送」の内容は、前日内々に新聞各社に伝えられていたが、新聞の発行は当日の午後まで控えられた。第一面には最後の御前会議の様子をはじめ、ポツダム宣言受諾に至った経緯の説明などが掲げられているが、第二面には「空母、巡艦を大破す」など帝国陸空軍の勇ましい戦闘がいまだ継続中であるとの記事が見える。また、広島と長崎に投下された爆弾を「新型爆弾」と主張する軍部調査班の見方をうち消すように、中立国スイスのチューリッヒからの特電がそれらをすでに「原子爆弾」としているのも注目される。日本近代史の大きな転換点となった一日の本紙面には天皇の詔勅と並んで、生活財としての塩の効能や握り飯の挿話、あるいは日銀の人事異動など、細々とした話題もまた掲載されていたのである。
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