前衛芸術としての新聞
26. 週刊紙『ノイエ・ユーゲント(新青年)』(複製)
一九一六年ヴィーランド・ヘルツフェルドとジョン・ハートフィールドの兄弟は雑誌『ノイエ・ユーゲント』の編集権を買収し、反戦と自由思想の拠点とすることにした。兄弟の手になる巻号は、したがって一九一六年一〇月の第一年第七号からスタートし、以後の全五冊で第一期を終える。この間は小型の四つ折りで中綴じ。詩や評論など表現主義の文芸が中心であったが、第五冊目からはジョージ・グロッスの挿画の比重が高まる。一九一七年二/三月号が発禁処分を受け、発行名義人バーガーが編集権を取り戻そうとしたため、兄ヴィーランド・ヘルツヘルドはエルゼ・ラスカー・シューラーの連載小説の題名に名を借りた出版社「マリク書店」を興し、同年六月に第二期の新聞紙判四頁の週刊紙を創刊する。本紙はこの第二期の第一号で、金赤と墨の二色刷り。タイポグラフィは弟ジョン・ハートフィールドによる。この号はニーチェの超人思想にかぶれたリヒャルト・ヒュルゼンベックのダダ散文詩宣言「新しき人」のゆえに特筆される。 27.グロス小版画集予告紙『ノイエ・ユーゲント(新青年)』(複製)
本紙は片面緑色を加えた三色刷り。もう片面は青・赤の二色刷り。グロッスの版画集「小画帖」の予告号と銘打たれており、コラージュ、タイポグラフィー、色使いなど、数多ある前衛出版物のなかでも、もっとも大胆にしてモニュメンタルな印刷物となった。ヒュルゼンベック、グロッス、フランツ・ユンク、マックス・ヘルマンが寄稿している。
28.不定期刊文芸紙『ダダ』
第一次世界大戦のさなかにチューリッヒで興った前衛運動ダダの機関紙で、通巻八号全七冊が発行されている。この第六号は「ビュルタン・ダダ」と命名されている。パリでアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、フィリップ・スポーら雑誌『リテラチュール(文学)』を興した文芸グループは、チューリッヒ・ダダの主導者でルーマニア人の詩人トリスタン・ツァラをパリに招く。一九一九年一月ツァラはパリのピカビアの許に身を寄せ、ブルトン・グループとともに、以後三ヶ月間にわたって反伝統・反芸術を標榜する過激な宣言集会を繰り広げる。この、いわゆる「パリ・ダダ」の絶頂期に発行された本紙は、タイポグラフィーの常識を超えたレイアウトで紙面が構成されており、ダダの発行物のなかで独特の輝きを放っている。ツァラがチューリッヒから携えてきたダダ的批判精神と、ピカビアが個人紙『三九一』で実験してきた独創的な視覚構成の結託があってはじめて実現した奇跡的な出版物といえる。本紙は紙面に広告されているシャンゼリゼのグラン・パレでの宣言集会で配布されたという。
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