新たにもたらされた知見についてこれまで、この展示を思いついて実行に持っていくまでの記録を書きつづった。これを広義のフィールドワークとするならば、フィールドワークのいくつかの成果と、未解決の問題を紹介し、総括としたい。 先ず成果として2つの発見について紹介する。 獅子頭のルーツ渡辺が収集した被爆試料の大部分は、瓦や岩石、レンガなど、ごくありふれた試料である。どの試料も一見しただけでは、試料自身の個性を強く感じることはない。しかし、その中に強烈な個性を発揮している標本が1つあった。茶褐色の狛犬か獅子の外観をしている大きさが20cm弱の頭部の標本である。安山岩質の組織を有する火山岩で、表面には熔融してガラス状になった部分が見られる。実は、この標本については、平成8年8月6日に毎日新聞で報道されている。「広島護国神社には原爆投下前、3対の狛犬があった。このうち2対は原爆による破壊を免れ現在も境内に置かれている。残る1対は破壊され、散逸したと考えられてきた。被爆調査団のメンバーであった渡辺武男東大教授(当時)は、護国神社付近で狛犬を発見し岩石試料として持ち帰った。護国神社が入手した戦前の写真には失われた狛犬が写っており東京大学総合研究博物館にある狛犬の写真と照合した結果同じものと確認された。」その後、平成14年3月になって広島護国神社から狛犬の頭部の標本を見るために藤本、林の両氏が毎日新聞のコピーを手にして来られた。その時は、狛犬に対して何の疑問を持つ様子を示されずに何枚も写真を撮られて帰られたことを記憶している。しかし、後になってお話を伺ったが、東大を訪問された帰りの新幹線の中で、「サイズが小さい。」との感じを抱かれたそうである。 そのことも知らずに渡辺の残した試資料を整理していると、Leica と印刷されたネガトレーに収められている当時撮影されたネガの中に一連の浦上天主堂の廃墟の写真があった。その中に、広島護国神社の狛犬と言い伝えられてきたものに非常に似た像が写っているのを発見した。 それは、破壊された正面のアーチの両側にある獅子頭の柱飾りであった。長崎原爆資料館や浦上天主堂の方々、また被爆後に天主堂の廃墟を片づけた信者の西田秀雄氏に話を伺ったが、どなたも柱飾りの獅子頭については記憶がなく、直接的な証言を得るには至らなかった。 その後、数度にわたる長崎・広島の現地調査の結果、広島の狛犬は花崗岩か金属製であること、長崎の浦上天主堂の各種の柱飾りは(同じような獅子頭は残念ながら現存していない)安山岩(おそらくは熊本県石神山産)で、東京大学総合研究博物館に残された獅子頭も安山岩であること、広島護国神社の失われたとされる狛犬の写真は不鮮明ではあるが座像で、大きさも現存する狛犬より一回り小さい程度であるように見える、等の点で浦上天主堂の獅子頭の柱飾りではないかと考えるに至った。また、狛犬は一般的に巻き毛であり、護国神社のそれも巻き毛の特徴を示している。それに対して、博物館にある獅子頭は直毛である。これもこの獅子頭が広島護国神社の狛犬ではないと考えた根拠の一つである。 もう一つの根拠は、獅子頭の表面が熔融していることである。獅子頭の岩質が花崗岩と仮定しよう。渡辺の記述では、広島では花崗岩の熔融が観測されたのは爆心から150m離れた元安橋の花崗岩のみで、その他では熔融は観測されていない。護国神社は爆心から約300m離れており、しかも護国神社の同じ材質の鳥居や石灯籠で熔融は全く見られなかった。また、元安橋の花崗岩の熔融は顕微鏡下で有色鉱物が熔融しているのであった、獅子頭の頭部全体に熔融してできたガラスがこびりついている状態とは異なる。広島でも清病院の塀の安山岩はその表面に獅子頭に見られるのと同様な熔融ガラスで覆われている。 最近になって、広島在住のカメラマン井手三千男氏から、護国神社が官祭広島招魂社であったときの配置図と広島神社(基町1,10番地)の測量図及び護国神社への寄付物件一覧の提供を受けた。 その図面によると、神社拝殿前の広場に一対の狛犬が記入されている(拝殿広場への入り口には現存する狛犬がある)。また寄付物件一覧には石狛犬(高6尺5寸、花崗岩造)、石狛犬(高16尺、花崗岩造台三重石檀)、唐銅狛犬(高6尺2寸、狛犬唐銅造台土角形花崗岩造)とある。三重の台に乗ったおよそ5mの花崗岩製狛犬は、拝殿広場への入り口にあった現存する狛犬に対応するであろう。また唐銅狛犬は、もともとは参道の入り口にあって、現在は神社の入り口にある金属製の狛犬に対応する。従って、失われた狛犬は、花崗岩製で高さ2m弱(地表からの高さ)の狛犬と思われる。 写真では、失われた狛犬は、現存する花崗岩の狛犬と違って座像である。頭部の大きさがどのくらいになるかははっきりしないが、写真から概測すると30〜40cm程度(全体の高さを2mとして、頭部は約1/6)である。それに材質が、何よりも花崗岩と記述されていることからも、博物館が所蔵する頭像とは異なると思われる。 では、何故に「渡辺先生が広島で採集した」と伝わったのであろうか。渡辺の弟子である富山大学の清水正明によると、渡辺から直接「広島で拾った」と聞いたとのことである。ところがメモ魔の渡辺にしては不思議なほどに記録がない。広島の護国神社を10月12日に詳細に調査しており、メモとスケッチを残している。しかし、そのスケッチには拝殿前の狛犬(その台は残されていたことが、林重男撮影の写真でわかる)についてはメモも写真もスケッチもない。また、採集した試料のリストにも入っていない。また、長崎においては、上で述べたように、渡辺が浦上天主堂を訪れているのは、昭和20年10月15日、昭和21年5月13日の2回である。その内で、浦上天主堂での試料採集を詳細に記述しているのは昭和20年10月15日で、記述の詳細さやスケッチの見事さは、「メモ魔渡辺」の面目躍如である。しかし写真記録を見ると、N7から17の当日には獅子頭の写っている場面はない。また昭和21年5月13日の記録は 156)浦上ノ church と、誠に素っ気ない。ところが、何の詳しい言及もないphotoとして5枚の写真が残されている。その写真は現代のズームレンズで撮影したかの様に天主堂正面を次々にアップして最後は獅子頭の部分だけ撮影している。 この時、天主堂廃墟の他の部分は一切撮影していない。このことこそ、渡辺が獅子頭を採集して、それが柱飾りである証拠を残したとしか考えられない。これほどの意味ある標本と写真に関して渡辺が一切触れていない上に、広島で拾ったなどとどうして言ったのだろうか。もし、獅子頭の試料番号が156で「中田氏ニ会ヒオ願ヒス」が、教会の大切な飾り物を試料として収集することを「お願い」し、証拠写真を撮ったと考えれば、全体として辻褄は合う。但し、渡辺自身が「広島で拾った」と言った真意は不明のまま残されている。 さかひ橋の場所渡辺の広島・長崎調査を解明するには、調査の足取りを再現しなければならない。今回の展示を前にして、渡辺の足跡を追うために広島・長崎で渡辺のフィールドノートに記述された場所を特定するフィールドワークを行った。その中で、最後まで地点の特定に苦心した場所に「さかひ橋」がある。 渡辺は長崎に入った初日に浦上駅から爆心に向けて調査を始めた。浦上駅から爆心近傍の「御大典記念碑」から「松山橋」、爆心、「さかひ橋」、天主堂と調査を行っている。「さかひ橋」を除く全ての場所は特定できたが、「さかひ橋」の存在を確認できなかった。「さかひ橋」はどこであろうか。フィールドノートの記載の順番に歩いていることは間違いない。手掛りは、その順番とフィールドノートに残されているスケッチに描かれている「さかひ橋」のメモだけであった。フィールドワークの前に長崎原爆資料館に調査を依頼した。「長崎手帳No.30」の長崎橋名録には、「さかひ橋」の記載はない。「長崎手帳No.30」の長崎橋名録は、昭和36年4月現在の長崎市内の市橋・県橋を市、県の橋梁台帳と照合して記載してあるものである。現地では地元の古老にインタビューを試みたが誰も「さかひ橋」を知らなかった。現地での調査には限界を感じた。 そこで、調査の原点に戻り、ただ一つの手掛りである渡辺の残したスケッチとそこに記されている写真撮影を行ったというメモからスタートした。渡辺の撮影した100余枚の写真を全て紙焼きして1枚ずつ並べてみた。ネガはネガシートに収められているが、ネガ同士の前後関係はわからない。そこで、まず明らかに広島のネガと長崎のネガ、そして何処であるか同定できない不明ネガの三種類に分けた。渡辺の当日の写真撮影は、
となっていて、N5,N6が「さかひ橋」での撮影した写真に当たる。護岸の石垣とそのアップである。 フィールドノートは
となっており、渡辺は、下の川橋、御大典記念碑、Atomic Field(松山町交差点)から「さかひ橋」に至っている。フィールドノートのスケッチには川が2つに分かれ、その分流付近に橋が描かれている。この付近の可能性のある川は下の川だけであり、「さかひ橋」は下の川に架かる橋と断定して良い。近傍の川として浦上川があるが、調査方向とは反対方向であり、考慮の対象外に一応置いておいた。スケッチに見られる川の分流地点は、その川が下の川であると仮定すると、天主堂の下の分流地点が唯一の可能性のある地点である。フィールドワークで調査して特定したその付近にある橋は、中原橋、中里橋、国川橋、天守橋、本尾橋であり該当する橋名はない。スケッチと対応して一番可能性のある配置にあるのは中里橋である。そこで、調査範囲を浦上川まで広げた。川の分流として(顕著なもの)可能性のあるのは、浦上川と下の川の分流か、岩屋橋での浦上川の分流である。しかし、両地点ともスケッチを満足させる様子もなく橋の名前も全く異なっていた。全く暗礁に乗り上げてしまった「さかひ橋」の場所の特定は、思わぬことから解決した。 キーとなったのは、長崎平和推進協会発行「原爆被爆記録写真集」の28、29頁に掲載されている林重男氏が昭和20年に撮影した「山里町の高台より爆心地を中心として、約180度のパノラマ展望」とタイトルが付けられている1枚のパノラマ写真であった。その写真の中央部に写っている下の川の護岸石垣が渡辺が撮影した「近傍の川」に写っている石垣と酷似しており、そこに映し出されているのは落下したと思われる橋の根本の部分であると気づいたことから、一気に進展したのである。その見方で渡辺のスケッチを見ると、下の川に架かる「さかひ橋」は、川を跨いではいない。川の両側で止まっているように描かれている。しかも、写真に見られるように、橋のたもとに描かれた2本の柱のうち1本は正立し、1本は倒れている。その傍らには水槽(防火用水)もある。また、川の分流と言うよりは、遙かに小規模な排水溝程度のくぼみがあるように見える。このような観測事実の積み上げから、「さかひ橋」は下の川に架かる橋で、原爆によって落下したと判断した。その場所は現在下の川に架かる橋よりもやや上流である。長崎市発行の被爆復元地図にもその橋は記載されていた(名称は記載されていない)。このようにして、最後までわからなかった「さかひ橋」を特定することができた。 最後に、どうしても渡辺の足跡で辿ることの出来なかった場所を記述して、この節を終えたい。 1) 杉本中佐像(広島) 10月17日のフィールドノートに記述された渡辺の調査経路は
となっている。このうち杉本中佐像については所在を確認できなかった。 広島平和記念資料館から示唆された可能性として:
2) 浦上天主堂忠魂碑 爆心を決定するためには、原爆の熱線によってつけられた陰の方向を測定する。長崎原爆戦災誌によれば浦上天主堂では浦上天主堂忠霊碑と浦上天主堂前の記念碑に刻まれた熱線の陰が測定された。渡辺のフィールドノートには忠魂碑(明治37−38年戦役碑)となっている。陰の方向はN60Eであった。天主堂で陰の方向が測定されたのは忠魂碑だけである。この忠魂碑が忠霊碑であるかどうかはわからない。また長崎原爆資料館からも長崎原爆戦災誌に記述された浦上天主堂忠霊碑の存在を確認することはできなかった、とのことであった。 |
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