番外 パノラマ風景(清病院・・・爆心から0m、商工経済会ビル・・・爆心から約260m、照円寺・・・爆心から1300m) |
広島に現地入りした10月11日、爆心付近の清病院で溶融が著しい瓦の様子をカメラに収めたあと、東方向から西方向に向けて少しずつ角度を変えて連続写真を撮る。 ——「爆心附近ヨリ東方ヘムケテ continuous photo 4枚 H17, H18, H19, H20」 その直後、内部は焼き尽くされたが外の構えは残る広島商工会議所ビル(※筆者注)に登る。全景をパノラマ写真として留めようと、5回シャッターを切る。 ——「photo building商工会議所ノ上 panoramamic view H21, H22, H23, H24 A・B 道路 H26商工会議所ヨリ東方」 10月17日、照円寺近くの墓地で昼食を摂る。小高い丘で見晴らしがよい。せっかくなので南東方向、浦上駅と爆心を臨んでパノラマ風景をスケッチした。方向は南から30°東向きである。 ——「S30°E向キ」 渡辺は、広島ではパノラマ写真を2ヶ所で撮影している。一つは爆心近くの清病院前付近から撮影したもので、もう一つは相生橋のたもとにある広島県商工経済会(現・広島商工会議所)ビルの上から撮影したものである。 パノラマ写真を撮りたいと思うときの心境は、「今、自分の目に映っているこの場所から見える全風景を記録に留めたい」であるはずだ。そのように考えると、パノラマ写真を通してわれわれが追体験する風景が、渡辺の心にもっとも訴えた被災地の風景ということができるだろう。 島病院からのパノラマ写真は、爆心ということを強く念頭において試みたものであろう。爆心に関する、ありとあらゆる記録の一環として撮影したに違いない。メモには東方向に向けてとあるが、東から南周りに西方向の元安川・産業奨励館(現・原爆ドーム)方面まで次々にシャッターを切っており、180°近くのパノラマ写真になっている。 その後、渡辺は即座に商工会議所の屋上に登っている。爆心から一望する際、構えが残るひときわ高いこのビルを見つけたのだろうか。そして、さらなるパノラマ写真の撮影に意欲を湧かせたのだろうか。島病院でのパノラマ写真は原爆ドームの姿を捉えて終わっているので、もしかしたらこの建物に興味を持ち、全景を撮りたくなったのかもしれない。 当時の商工経済会ビルの屋上からから撮影されたパノラマ写真としては、渡辺が参加した文部省(現・文部科学省)の原爆災害調査団の写真家として動向し約700コマを撮った林重男氏が撮影した360°のパノラマ写真が有名であるが、渡辺のパノラマは相生橋から本通りまでの180°である。その紙焼き写真には、渡辺自らが残っている建物の名前をペンで記入している。 一方、長崎では、渡辺はパノラマ写真を一度も撮影していない。しかしその代わりに、10月17日に照円寺近くの墓地で昼食を摂った際に、南東方向に向かって広島では行わなかったパノラマスケッチを試みている。もっとも、このスケッチは調査の一環として行ったというよりは、小高い丘での昼食時の気分転換、あるいは開放感から絵心を出したのであろう。 現在の広島で、渡辺のパノラマ写真を追体験しようとした。しかし、島病院の前からは、狭い路地の隙間から原爆ドームを臨むのも困難だった。
次に、「今はマスコミ関係者にしか、屋上の開放には応じていない」という広島商工会議所ビルに登らせてもらい、渡辺と同じアングルでパノラマ写真を撮ってみた。屋上には高く鉄骨の柵が張り巡らされ、その隙間からの撮影となった。しかし、50年の月日を経て、廃墟と近代的な市街地という差はあれど、カメラが捕らえる川や橋は同じもので50年前に思いをめぐらすには十分であった。もっとも、現在の商工会議所ビルは、被爆当時のビルから場所を若干移動して1964年に再建されたもので、被爆建造物ではない。 この1年間、渡辺の調査を何度か追体験してみた。その中で気づくことがいくつかあった。 まず、感じたのは、渡辺の調査方針は決してぶれなかったということだ。歩いて、見て、クリノメーターで計って、というのを、爆心から四方向、それぞれ一定距離の間を愚直なまでに観察し続けてデータを集めている。動線にはほとんど無駄がない。何をやっていいのかわからない被爆したサンプルに対し、渡辺の場合は結局、基本にかえって、自分の体に染み付いた手法で、石と瓦という慣れ親しんだ試料を同種で距離に応じて比較していくという、ありふれた調査方法を採用したのだ。そしてその方法に、全く疑いを持たなかったのである。 次に感じたのは、渡辺が浦上天主堂から受けた衝撃だ。天主堂の廃墟の詳細なスケッチは、渡辺の調査には必ずしも必要ではない。原爆の威力の刻印を目の当たりにした渡辺は、調査の土地を広島から長崎に移した初日に出会ったこの宗教建造物を前にして、研究者である以前の素の心で対峙する気持ちになったのかもしれない。 最後に感じたのが、ヒロシマとナガサキの違いだ。戦前は、大本営がおかれた軍の要の基地と、鎖国下唯一の貿易港であった流れをくむ異国情緒の町だった両都市は、原爆投下後、一瞬で焦土となり、同じ「原爆被災地」になった。しかし、現在はそれぞれの復興を遂げて、再度個性が現れてきている。 広島では、爆心から平和記念公園にかけて、複数のカメラを構えた外国人のグループに会った。彼らに声をかけると、「日本に行くならば、まずヒロシマを見なければ」と答えた。一方、長崎の平和公園一帯は、休日にもかかわらず想像以上に静寂だった。しかし、浦上天主堂は、ミサに集まる地域の親子連れでにぎわっていた。 渡辺が見た12景は、現在、もちろん姿を変えている。しかし、残る痕跡と、姿を変えたこと自体も含めて、今なお、その原風景を我々に訴えかけていた。 |
※筆者注:広島商工会議所は、1943—46年に広島県商工経済会と名前を変えていた。が、渡辺は45年当時も「商工会議所」と呼んでいる。[本文へ戻る] |
主要参考文献原子爆弾災害調査報告書・総括編 日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編、日本学術振興会発行、1951年
原子爆弾災害調査報告集・第一分冊 日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編、日本学術振興会発行、1953年
広島原爆戦災誌 第1巻〜第5巻 広島市役所編・発行、1971年
広島の被爆建造物は語る 被爆建造物調査研究会編、広島平和記念資料館発行、1996年
長崎原爆戦災誌 第1巻〜第5巻 長崎市役所編、長崎国際文化会館発行、1977-83年
原爆被爆記録写真集 長崎原爆資料館編、長崎平和推進協会発行、1996年
神の家族400年・浦上小教区沿革史 西田秀雄編、浦上カトリック教会発行、1983年
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