長崎6景11.爆心地と長崎刑務所浦上刑務支所 〜情熱を抱かない爆心〜(現・長崎市松山町・・・爆心より0m、現・長崎市松山町、橋口町、岡町・・・爆心から100m) |
16日、長崎医科大で昼食後、爆心地に行く。本調査団が立てた「爆心」の標柱がある。記念撮影する。 ——「Center of explosion photo N26、N27」 10月17日、晴。今日は、まず爆心地近くの刑務所跡に行く。入口に向かう道にコンクリート製の門柱があり、「調査団 保存頼む」と書かれている。スケッチを試みる。縦横40cm、北から35°東方向、傾斜角は80から82°だ。 ——「刑務所入口二至ル道 門柱(人造石 調査団保存タノムトカカレタモノ)」「N35°E 40cm photo N29 dip 80-82°」 刑務所の本館入口につく。建築の基礎部分を残して皆なくなってい乱写真を南北65度方向から撮る。見えている部分は方解石張りのコンクリートで、白く飛んでいる。熔融は顕著でない。 ——「刑務所本館入口 N-S65°dip photo」「calciteバリ 白クトブ 人造石 melt著シカラズ」
長崎の爆心地は松山町171番地にあった「高見別荘」のテニスコートで、その上空約500mで原子爆弾が炸裂した。ここは被爆寸前まで長崎の富豪、高見和平氏が所有していたが、三菱長崎造船所が女子挺身隊の宿舎にする計画で買収したばかりで無人だった。現在は平和公園内の通称・原爆公園内に、原爆落下中心地を示す碑が置かれている。 長崎刑務所浦上刑務支所は、爆心地に一番近かった主要建造物である。敷地面積が約2万平方メートル(6060坪)、庁舎面積が1万3000平方メートル(3940坪)あったが、木造庁舎は爆風と火災で炊事場の煙突一本を残して13棟全施設が全壊全焼した。刑務所にいた受刑者48人、刑事被告人33人、職員18人、家族35人の計134人が即死した。周囲をめぐらした塀は高さ4m、厚さ25cmの頑丈な鉄筋コンクリート造だったが、基礎部分を残して倒壊した。現在、平和公園には第一舎、第二舎の一部が遺構として保存されている。 広島ではあれほどの情熱を持って調査した爆心地であるが、長崎では渡辺にその情熱はない。それも無理がないであろう。爆心地はテニスコートであり、たくさんの瓦礫があったとしても周囲から来たもので爆心そのものの試料ではない。刑務所にしても、木造の庁舎、鉄筋コンクリート造の塀であれば、所内に石が落ちているわけでも瓦で葺いてあるわけでもないので、渡辺の出番は難しい。刑務所ではいくつかの試料を収集しているが、爆心地にいたっては調査団が建てた爆心の標識前で記念撮影をするのみであった。
爆心地から川を隔てた場所に平和記念公園が整備されている広島とは異なり、長崎では爆心地一帯そのものが平和公園となっている。復興と平和を、未来に世界にアピールするような、ある種の華やかさを感じる広島とは異なり、長崎のそれには静かな印象を受ける。付近一帯の町並みと相まって、鎮魂と平和への祈りを感じる施設である。 もっとも、平和公園の地下駐車場建設の際に掘りおこされた大半の構造は、結局埋め直されてしまったという。爆心地近くの刑務所跡は、今でも様々な問題を問いかけている。
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