広島6景

3.広島県護国神社 〜もっとも心惹かれた場所〜

(現・中区基町・・・爆心より約370m)




 12日。己斐地区から、爆心付近の護国神社にまわり、詳細をスケッチする。社務所の瓦は菊間。玉砂利は焼けている。鳥居は北から10°東、北から5°西方向に立ち、石灯籠に焼きついた影の方向は南北方向(北から10°西)で、傾斜角は62°。前にある石灯籠、狛犬の台は徳山産の花崗岩で、狛犬の中の台は香川県庵治産の花崗岩である。

——「瓦 菊間」「 peddle ヤケ」「カゲ方向N-S, N10°W dip62°」「護国神社 鳥居 N10°E, N5°W 前トウロウ 徳山石」「コマ犬 台 トク山石、中ノ台 Sanuki Aji 又ハ Yosokuni 依義顕名」「謁忠彰立 上ハmelt graniteノ端片」「dip 66°、台 トク山石」「ハタタテ柱」「護国神社 Sanuki aji, pokished」

 13日。広島を発つ前に、西練兵場の北を通り、護国神社と爆心をもう一度見て、午後1時半に広島駅に到着。大野浦へ向かった。

——「共ニ爆心北部 西練兵場ノ北ヲ歩キ 護国神社及ビ中心地ヲ見テ1:30駅着 発大野浦ヘ」

 広島県護国神社は、広島において渡辺が最もこだわった場所であり、綿密なスケッチ、多数のサンプル、写真を残している。積極的に調査を行った理由は、神社には鳥居や狛犬、石灯籠などの石造物が豊富にあるため、敷地内の試料を比較することによって、より精密に熱線の方向や材質による影響の違い等を検討できること、宗教施設であるため失くなることがまずありえず、後世にわたる調査が可能なこと、等であろう。


被爆前の旧・護国神社(護国神社提供)

 また、原爆投下直後に行われた調査から、爆心を決定する際には「護国神社から何メートル離れた地点」という表現が使われており、被爆調査の基点とも言える場所であった。

 その歴史は、戊辰の役での戦没者の慰霊のために明治元年に造営された「水草霊社」から始まる。その後、1875年(明治8年)に官祭招魂社、1901年(明治34年)に官祭広島招魂社と改称され、1934年(昭和9年)には現在の広島市民球場の西部、当時の西練兵場の西方に移転した。「広島県護国神社」とさらに改称されたのは、1939年(昭和14年)である。その後、原爆で壊滅した護国神社は、広島市の復興計画によって広島城跡に移転することになり、1956年(昭和31年)、新たな社殿が造営された。これが現在の広島県護国神社である。

 1934年(昭和9年)に造営され被爆した旧・護国神社の様相は、被爆建造物を追い続けている写真家の井手三千男氏から提供を受けた、護国神社の造営図面と奉献一覧で見ることができる。渡辺がフィールドノートに残したスケッチ、メモ、写真と合わせて復元を試みると、被爆前の護国神社には、市電通りに面した参道の入口に「広島護国神社」記された社標と唐銅製の一対の狛犬像、一対の御影石の石灯籠、御影石の鳥居があった。これらは、爆心から370mという近距離にもかかわらず倒壊を免れ、いずれも現・護国神社へ移築されている。

 

 また、参道を北に行くと左に拝殿に通じる参道があり、その先に石間垣で囲まれた拝殿があった。拝殿への階段を上がった左右に花崗岩の石灯籠があったが、左右共に上部の笠と火袋が落下した。また正面の鳥居も倒壊した。左手にあった手水舎も破壊された。しかし、倒壊した鳥居の奥の左右にあった狛犬は、倒壊せずに残った。その後方にも拝殿があったが全壊し、前に置かれていた小型の狛犬も失われた。拝殿前広場の左右にあった二対の小型石灯籠のうち、向かって左(南側の)二個の石灯籠は上部が北側にずれ、右(北側)の二個の石灯籠は上部が落下した。

 広島城址に移築された現在の護国神社には、破損を免れた参道入口の社標と鳥居が、広島城の東入口に設置されている。旧拝殿入口にあって倒壊した石灯籠(笠に欠けあり)と唐銅製の一対の狛犬は、現・拝殿の入口に据えられ、倒壊しなかった旧参道入口の石灯籠と狛犬は、現・本殿の入口左右に置かれている。

 

 また、旧・護国神社拝殿の北側には中津宮があり、中津宮もこれに通じる花崗岩の鳥居も倒壊した。また中津宮への参道に当たる護国神社北側にあった参道の入口に一対の石灯籠が置かれていたが、いずれも上部が落下したようである。

 中津宮は上記の石灯籠とともに、市民球場前の公園に1957年(昭和32年)、移築されている。中津宮に通じていた鳥居の脚部も1971年(昭和46年)、下水道工事の際に見つかり、発見場所から南へ約20m離れた現・青少年センター前に保存されている。もっとも、この鳥居の脚部は広島における最も大事にされていない被爆建造物と言えそうだ。説明プレートこそついているものの、ボウフラや小虫が蔓延る茂みの中にあり、この一年間、何度訪ねても長靴が史跡に立てかけられていた。平和活動が盛んな広島であるのに、宗教施設の遺構であるのに、このように粗末な扱いを受けている被爆史跡があるものなのかと目を疑った。


下水工事の際に見つかった旧・護国神社の鳥居の脚部

 旧・護国神社の建造物で行方がわかるのは以上であり、その他の石灯籠や狛犬は不明である。今回の東京大学総合研究博物館での展示には、広島護国神社から寄託を受けた石灯籠の下部が登場するが、これは本殿前にあった二対の石灯籠の一部であると思われる。

 建造物以外で忘れてはならない貴重な旧・護国神社の試料には、本殿から拝殿に通じる参道の横に敷き詰められていた玉砂利がある。これらの小石の表面は、熱線によって泡立ちガラス化しており、一部が割れて失われている。この割れ方には通常の砂利の場合とは異なって、熔融した部分だけがそぎ落とされたような特徴がある。渡辺も試料として持ち帰ったが、現在も護国神社に一部が残されており、今回、博物館に新たに寄贈された。しかし50余年の風化を受け、熔融部分は失われていた。




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