広島6景1. 栄橋と商工組合中央金庫 〜最初の記述と写真〜(現・中区大須賀町・上幟町・・・爆心から約1450m、現・中区立町・・・爆心から約610m) |
昭和20年10月11日、今日も晴れている。広島駅を降り立った。そのまま西方の爆心に向かって歩くと京橋川があり、橋が被爆に耐えて残っていた。橋の名前は栄橋。コンクリート製だが、道路にある石柱は花崗岩だ。石柱の上の飾り瓦は焼けていたが、表面の状態に変化はなかった。その様子を、フィールドノートの1行目に記述した。 ——「栄橋(人造石) granite石柱 変化ナシ 全焼瓦変化ナシ」 フィールドノートに目にとまる花崗岩、瓦の様子を書き記していく。広島駅を出発して2、30分歩いただろうか。窓枠などは吹き飛ばされているが、原型をほぼ留める建物が目に入った。商工組合中央金庫広島支所とある。手にしていたライカIIIaのシャッターを初めて切った。 ——「商工組合中央金庫 granite photo H1」 渡辺は広島駅に降り立った瞬間に、何を考えたのだろうか。調査方針はすでに立っていたのだろうか。 当時の広島は焼け野原ではあるが、石や瓦は足元にいくらでも転がっていただろう。しかし、広島駅は爆心から約1900m離れた場所にある。被爆の様子を目に見えるほど留める石や瓦はなかったはずだ。また、結果を後世に残すこと、さらに時間を置いて再調査をする可能性も考えると、場所も爆心からの位置も特定できない試料をむやみに採集しても有用とはいえない。後年まで移動せずに、場所が特定できる建造物から収集した試料が最適だ。 どの場所から、どのような方針で調査を始めるのか。渡辺の調査方針を決めたのは、フィールドノートの第1行に書かれた「栄橋」であったに違いない。
広島駅から徒歩約3分の距離にある栄橋は、1930年(昭和5年)に竣工された鉄筋コンクリート造の橋である。隣にかかるコンクリート造の栄橋水管橋とともに被爆に耐え、どちらの橋もそのまま現存する。調査開始直後、橋という最高のランドマークに、地質屋が常日頃慣れ親しんでいる花崗岩と瓦がありふれた生活材として使われていることを再認識した渡辺は、これらの生活材を爆心から東西南北、さらに様々な距離に応じて収集して比較すれば、岩石に対する被爆の影響が測れるはずだと考えたと思われる。 今回、筆者はフィールドノートにある地名を現在の市内地図に書き入れ、その地図を片手に渡辺の足跡を辿ってみた。足跡は爆心から東西南北に四筋に伸び、半径2kmの円が描けた。また、渡辺が記述した場所へは、ほぼ5分ごとにたどり着いた。一定の歩幅、歩数で歩きながら、一定時間ごと、もしくは一定歩数ごとに記録する、というようなルールを決めて記録していたことが伺われる。 一方、渡辺はなぜ、商工組合中央金庫で最初のシャッターを切っているのだろうか。この写真はフィールドノートに撮影したことが記されているだけで、残念ながら現存しないので、詳細は不明である。が、筆者は、渡辺はこの写真を花崗岩等の様子を示す試料写真でなく、広島の建物の状況や被爆風景を示す写真として撮ったと想像する。というのは、当時フィルムが貴重品であったこともさることながら、地質屋は本当に大切なことは目に焼きつけろ、フィールドノートにスケッチしろと叩き込まれるものだからである。残されたフィールドノートと写真をひも解くと、渡辺は「静・個(自分の研究)」の記録をフィールドノートへの記述やスケッチに担わせ、石に焼きつけられた影の方向を留めるような特殊な場合を除いては、調査の様子や足取りといった「動・全体(一般的な風景・事象)」の部分の記録を写真に担わせていたと思われる。 商工組合中央金庫の入っているビルは、1929年(昭和4年)に竣工された鉄筋コンクリート造の3階建て地下1階建ての建物である。被爆による構造的な被害は少なく、死傷者も比較的少なかったという。広島駅から歩いてきた渡辺は、爆心に近づいたにもかかわらず、ほぼ原型を留めてそびえ立つビルを見て、ある種記念撮影的にこの建物を撮影したのではないか。
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