「石の記憶—ヒロシマ・ナガサキ」の企画

田賀井 篤平
東京大学総合研究博物館



 平成14年3月7日に広島護国神社の藤本・林両氏が東京大学総合研究博物館を訪問された。両氏の目的は博物館に収蔵されている護国神社の狛犬の頭部を見ることであった。平成8年8月6日の毎日新聞に「原爆によって破壊された広島護国神社の狛犬の頭部が東京大学総合研究博物館に保管されている」と報道されたからである。この両氏の訪問をきっかけに今回の展示の計画が始まったと言っても良い。

 当館が所蔵する広島・長崎の原爆で被爆した岩石や建材などは、東京大学総合研究博物館の前身である東京大学総合研究試料館の初代の館長であり理学部地学科(当時)教授であった故渡辺武男先生が原子爆弾災害調査研究特別委員会(以下、本書では被爆調査団)のメンバーとして広島・長崎を調査したときに収集した試料である。これらの試料は、渡辺先生から博物館の所蔵する最も重要な標本であると指示されたということが伝承され、平成14年までひっそりと収蔵庫で眠っていたといっても過言ではない。

 最初は、広島護国神社の失われた狛犬とされた標本に個人的興味を持って、ごく軽い気持ちから、その確証を得ようと調査を開始した。いろいろな情報や調査の結果、博物館に収蔵されている「狛犬」は広島護国神社の失われた狛犬ではなく、長崎の浦上天主堂の柱飾りである獅子像の頭部ではないかとの確信を得たことから、その研究成果を明らかにしつつ、渡辺先生が科学者として、どのような観点、どのような姿勢で調査を遂行したかを追求して、科学者が被爆試料である岩石にどのような目を注いだのかを明らかにしたいと考えた。

 フィールドワークの大切さを常に強調され、身をもって示していた渡辺先生は、別名「食魔」と呼ばれた健啖家であり高校時代からサッカーで鍛えた体力で劣悪な調査環境下での被爆調査を遂行した。本展では、フィールドワーカーの命とも言えるフィールドノートに記述された科学者渡辺武男の目を通して、被爆試料である岩石を冷静に見つめ何を得たか、またヒロシマ・ナガサキで撮影した未公開の写真から、写真に一家言あった渡辺武男が何をどのような観点から撮影し、そこから何が解き明かされていくのかを共に体験していただきたい。


渡辺武男

 渡辺武男先生は1907年に東京牛込に生まれ、府立第5中学校(小石川高校)、第一高等学校を経て東京帝国大学理学部地質学教室へ入学した。同学科を卒業後、北海道大学助手になった。1937年にベルリン大学に留学し、生涯の師となったRamdohr教授に出会い、その指導を受けた。その後北海道大学理学部教授を経て、1944年東京大学理学部教授(地質学教室)となり、鉱床学講座を率いて多くの研究者を育成した。1968年定年退官。その後、名古屋大学教授、秋田大学学長を勤め、1986年に亡くなった。渡辺先生は卒業研究で朝鮮の遂安鉱山の金接触交代鉱床について研究を行い、その中で新鉱物である「小藤石」[(kotoite)Mg3[BO3]2 、1939年、笏洞鉱山]を発見し、続いて「遂安石」[ (suanite) Mg3 [B3O5] 、1953年、遂安鉱山]を発見した。この研究をもとにして、各地の層状マンガン鉱床の研究から新鉱物である「吉村石」[ (yoshimuraite) (Ba,Sr) 3Mn3 (Ti,Fe)Si3O9(S,P,Si)O4(OH,Cl) 3、1953年、野田玉川鉱山]、「原田石」[ (haradaite) Sr3V3O3 (Si4O12)、1982年、野田玉川鉱山、大和鉱山]、「神保石」[ (jimboite) Mn3 (BO3) 3、1963年、加蘇鉱山]、「鈴木石」[ (suzukiite) BaV3 [O3/Si4O12]、1973年、田野畑鉱山]、「木下石」[ (kinoshitalite) BaMg3 [(OH) 3/Al3Si3O10]、1973年、野田玉川鉱山]、を次ぎ次ぎと発見・記載した。1966年学士院賞を受賞、学士院会員となった。40年に及ぶ研究では、一貫して各種の鉱床の調査と形成過程の研究を進展させた。

 そのような中にあって、特異な光を放つ研究として1945年に始まった広島・長崎の被爆調査団のメンバーとして原爆被害の鉱物学的、岩石学的調査を行ったことが挙げられる。

 渡辺先生は研究面では、野外観察を重視し、これを自ら徹底して行い、学生にも絶えず教育してきた。野外での克明な観察と万全な標本採集、さらに研究室における顕微鏡観察を精密に行い、その鋭さには他人の及ぶところでなかったと言い伝えられている。その一方で、弟子に対しては、常に温顔で接し、学生の長所を暖かく引き出す指導法は抜きん出ていた。この精緻な観察力と穏和な性格は、被爆調査という、極限下の調査には欠かすことが出来なかったのでないかと思われる。また、渡辺先生は自らも称していたのであるが「食魔」という渾名を持っていた。どのような状況下でも健啖家であり、高校時代にサッカーで鍛えた体力とともにハードな調査をものともしなかったという。

 筆者は学生時代に渡辺先生の巡検に数回参加し、またドイツに滞在中にお目にかかる機会を得ている。その時のエピソードを紹介して筆者の見た渡辺先生を紹介したい。

 1965年夏、筆者が大学3年生の時であった。渡辺先生の巡検が気仙沼近郊で行われた。真夏の暑さの中を目的地に向かって歩いているときに、我々学生達が途中で「鰻屋」を見つけた。鰻の看板を見た我々は一斉に「鰻が食べたい」と声を挙げた。同行していたKB氏が「巡検中に不謹慎だ」と声を荒げたその時、「KB君!」と制止して、「良いじゃないか。食べようよ」と言って、先頭に立って鰻屋の暖簾をくぐって、本当に嬉しそうに鰻丼を食べた。「食魔」の面目躍如であった。もちろん、学生の間で渡辺先生の評判が上がったことは言うまでもなかった。筆者の記憶では、在学中に渡辺先生から叱責を受けたことは一度もなかった。あまり出来もよくなく、行いも良かったとは言えない我々の学年ですらである。

 また、筆者がフランクフルト大学に勤務しているとき、渡辺先生と2回お会いしている。1回目は、学会出張(と記憶している)の折りにフランクフルトに立ち寄られた。この時、先生は以前日本に留学していたJW氏の自宅に滞在されたのだが、我々が酒を飲み続けていると、すっと立ち上がって、「これからちょっと勉強するから」と部屋に入ってしまった。酔っぱらっていた私とJW氏は思わず顔を見合わせて、すっかり酔いが醒めてしまったことを思い出す。

 また、2回目は、先生がRamdohr教授の90才のパーティーに出席された時にフランクフルト大学に立ち寄られた。そのころ先生は既にパーキンソン氏病に冒され、立ち振る舞いが不自由になっていた。筆者は大学近くのレストランで先生と昼食を共にしたが、病に冒されていても、「食魔」ぶりは変わらず、震える手で、「にこにこ嬉しそうに」ドイツ人向けの大皿を見事平らげた。また、食後に散歩する際も、階段で筆者が手を差し出すと、「田賀井君、大丈夫だよ」と、手で制して歩いていたのが印象的であった。

 このような強靱な精神と体力、そして穏和な性格で被爆調査を遂行したのであろう。




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