2 オホーツク氷民文化

もう一つの日本列島史

宇田川 洋




■オホーツク海に面した古代文化の展開
  「もう一つの日本列島史」といわれて不思議に思う方がいることであろう。そしてまたそれと同時に、日本列島に住む人々は「単一民族」であるとの発言が相変わらず続いている。そのことは、この北海道という地を理解していないことに通じるといえる。

  幕末の探検家・松浦武四郎(文政元年〔一八一八〕〜明治二一年〔一八八八〕)は、武四郎が命名した北海道および樺太・千島列島・カムチャツカ半島を描いた地図『北海道国郡図』(明治二年〔一八六九〕)を上下逆に示した。南北が通常とは逆になっているのである。その意図するところは、武四郎が愛して止まなかった以前の蝦夷地が、決して日本列島の北のはずれの辺境の地ではないことを強調することにあったと思われる。江戸にすべての中心があったかの如く錯覚されていた時代に、このような北からの視点があったことは注目に値することである。例えば鈴木邦輝(一九九九)は、『新名寄市史』第一巻の中で「北から見た山丹交易経路」を図示している(図1)が、この逆転の発想を用いている。

図1 北から見た山丹交易経路(鈴木1999より)

  ところで、この北海道の東北部に面するオホーツク海は大きな湖であるといえる。北海道・サハリン(樺太)・シベリア大陸東部沿岸地域・カムチャツカ半島・クリール諸島(千島列島)で囲まれた大きな湖のようなものなのである。冬の厳寒期には流氷が大半を埋め尽くすところでもある。そして、それを中心とした周辺地域での古代文化の展開があったことが考古学調査で証明されてきており、「環オホーツク海文化」(山浦、一九九三)あるいは「環オホーツク海古代文化」(菊池、一九九三)などと呼ばれる文化圏の設定もなされている。また一方では、北海道という大きな島を中心とした周辺部の古代文化の展開もある。それらの考古学のことに興味をもっていた武四郎といえども詳しくは知らなかったと思われるが、そこに住む日本人とは言語も異なるアイヌ族の生活から、蝦夷地には異質な文化がこの日本にあることを熟知していたのである。このような「もう一つの日本列島史」がこの北海道そしてオホーツク海をめぐる地域に展開していたことは、多くの日本人はほとんど知らないのである。

  東京大学大学院人文社会系研究科考古学研究室と常呂実習施設は、このオホーツク海に面する地で地道な考古学調査を展開しているわけであるが、その半世紀に近い研究調査による学術成果をもとにその一部の紹介をしてみようと考えるところである。

■もう一つの日本文化
  北海道の歴史区分を行う場合にはいくつかの方法が存在する。例えば、和人史ともいえる日本史からの観点、主に開拓史の北海道史からの観点、アイヌ自身のアイヌ史からの観点、そして考古学からの観点の考古学史などである。ここではとくに考古学上の時代区分を扱うことになるが、それを図2に一例として示しておいた。
図2 考古学の時代区分(北の文化と中の文化)

  北海道における考古学の時代区分は、本州以南とは別に考えなければならないという議論があるが、それを的確に表現したのは藤本強(一九八八)である。氏は、私たちがイメージする日本の原風景は日本列島が固有にもっていたものではなく、大陸から渡来した稲作農耕文化の受け入れによって展開したものであることを指摘している。すなわち弥生文化である。それが本州・九州・四国に広がり、今日の日本文化の根幹を形成したのであるという。その文化を「中の文化」という言葉で表現している。

  そして、沖縄県を中心とする南島にみられる「南の文化」はまた別の歩みをし、北海道を中心とする「北の文化」もまた独自の歴史を刻んできたのである。およそ二千年ほど前の稲作農耕文化の受け入れによって、日本列島には三つの列島史が展開することになるのである。この三者の文化の中間地域には「ボカシの地帯」が当然のことながら存在したことも指摘されている。ではここで、「北の文化」地帯におけるもう一つの日本文化の歩みを眺めておくことにする。

  長い旧石器時代と縄文時代が終わり、「中の文化」地帯は弥生時代に入り、稲作農耕文化を急速に展開させたが、北海道の地は寒冷地であるが故に稲作は上陸できなかった。そして縄文時代と同様の狩猟・漁労・採集の経済段階が続くことになるのである。それを「続(ぞく)縄文文化」の時代と呼んでいる。その名称と概念は山内清男が提唱したものであるが、「続縄紋式」なる用語を用いている(山内、一九三三補注)。また、本州以南では縄文時代が終わった後は鉄器時代に入ったのに対し、「北の文化」地帯は石器の使用が続いたとされている。土器に縄文を施すという縄文時代からの伝統もこの続縄文土器まで残っていることが指摘されている。このことと「現在までに出土している土器や石器などの遺物、あるいは竪穴住居跡や土壌墓などの遺構で、縄文文化の晩期と比べ画期を抽出することは非常に困難である」ことから、続縄文時代を縄文時代の中の時代区分とみなしたほうがよいという意見もある(横山、一九九〇)。しかし、この続縄文文化は鉄器と石器を併用する文化(鉄石併用文化)であり、石器組成も変化をみせ、生業方法の変化や生活形態の変容があることから、やはり続縄文文化として独立させるほうがよいと考える。年代的にはおよそ二千二百年前から七世紀頃までとしてよいであろう。そのスタートは「中の文化」地帯の弥生時代の始まり頃と同じと考えてよいのであるが、そのことが「北の文化」地帯の独自の歩みを物語っているのでもある。

  この続縄文文化に続くのは「擦文(さつもん)文化」と呼ばれるものである。本州の古墳時代から奈良・平安時代の土師器文化の影響を受けて、続縄文文化が発展変容したものであるが、「北の文化」地帯特有の展開をみせた文化である。八世紀頃から始まり十二〜十三世紀頃まで続いたが、その広がりはいわゆる蝦夷地とほぼ重なり、南樺太・北海道・南千島(国後島・択捉島)そして東北地方北部に分布している。その文化を残した人たちはアイヌの直接の祖先と考えられており、ここにも「北の文化」地帯のもう一つの日本列島史の存在を確認することができるわけである。

  その頃、樺太あるいはアムール河下流域に原郷土をもつ別の文化が六世紀頃に北海道に上陸し、新たな展開をみせて北海道オホーツク海沿岸部に定着する。これが「オホーツク文化」であり、十世紀頃までまったく異なる文化の花を咲かせるのである。その後、このオホーツク文化は擦文文化の中に一部は吸収される形で「トビニタイ文化」を形成し、やがて消えていくのであるが、擦文文化の後は、考古学上の「アイヌ文化」の時代に代わっていく。「中の文化」地帯の「中世」から「近世」にほぼ相当する頃であるが、宇田川は十四〜十八世紀段階を「原アイヌ文化」と呼び、十九世紀以降を「新アイヌ文化」と称している(宇田川、二〇〇一)。さらに原アイヌ文化の段階は、擦文土器に替わり内耳土器や内耳鉄鍋を使用した内耳土器時代ともいえる前期(十四〜十五世紀頃)、チャシの使用が盛んになったチャシ時代である中期(十六世紀前後)・後期(十七〜十八世紀)の段階があったことを想定している。このように、縄文文化の終焉後、続縄文、擦文・オホーツク文化そしてその後のアイヌ文化と、「中の文化」地帯とは異なる独自の「北の文化」の変遷があり、もう一つの日本文化の歴史があるのである。

■オホーツク文化
  ここでは、常呂地方を中心としてオホーツク海沿岸部に広がった特異なオホーツク文化について考えてみることによって、もう一つの日本列島史を確認することにする。まず集落の立地についてみておくことにする。

  オホーツク人は、サハリン・北海道・クリール列島のオホーツク海沿岸に主に居住していた人たちであるが、その居住圏をみても分かるように海岸部にのみ生活している。それはすなわちオホーツク海を生活の舞台として海獣狩猟を主に行っていた海洋民であったことを証明しているのである。また、右代啓視・赤松守雄(一九九五)はオホーツク文化に関連する時期区分を、プレ期(五世紀以前)の続縄文文化、オホーツク文化前期(五〜八世紀)、同後期(七世紀中葉〜九世紀)、トビニタイ期(九世紀末〜十二世紀)と分けているが、ここではオホーツク文化期の集落の立地を、右代・赤松の整理したものを紹介してみよう。

  オホーツク文化前期の竪穴住居を残す集落は、利尻・礼文島などの北海道北西部地域から枝幸町付近までのオホーツク海北部地域に多く、紋別市付近から網走市付近のオホーツク海南部地域にかけては点在するに過ぎず、それより東のオホーツク海東部地域では激減するとしている。オホーツク文化後期の段階では、北海道北西部地域やオホーツク海北部地域には集落があまり存在せず、枝幸町目梨泊(めなしどまり)遺跡より南東部の地域に集落が形成され、特にオホーツク海南部と東部地域の沿岸部に集落が集中しているとされる。このことは、オホーツク文化のルーツがサハリンなどの北方域に存在したことを裏づけるもので、北海道のオホーツク海沿岸を下ってきた足跡を追究できるのである。さらに右代・赤松は、オホーツク海沿岸部の居住と湖沼からみた集落分布の特性もとらえている。オホーツク前期と比較して後期段階ではより大きな湖沼が存在する地域に遺跡が形成される傾向が認められるとしている。例えばサロマ湖と網走湖に挟まれる地域には常呂町栄浦第二遺跡や常呂川河口遺跡、トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点など代表的な遺跡が立地し、能取湖と網走湖に挟まれる地域に網走市モヨロ貝塚が存在している。根室市トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡やオンネモト遺跡などが立地しているのである。

  ここで、オホーツク文化の遺跡の中でも好立地を示す例を紹介しておこう。一つは枝幸町目梨泊遺跡である。遺跡の北側には断崖絶壁の神威岬(かむいざき)があり、その陰の小さな入江の奥地の段丘上に遺跡がのっている。この神威岬は、山田秀三(一九八四)によると、「岩岬が海中に鋭く突き出していて、アイヌ時代にはカムイ・エトゥ(Kamui-etu)と呼ばれた」とされ、目梨泊は「メナシ・トマリmenash-tomari東風(の時)の・泊地」と解釈され、「東側に細長い岩岬が長く出ていて今目梨泊岬という。それが防波堤のようになっているので、東風の荒れる時には正に有難い停泊地になったことであろう」と説明されている。目梨泊遺跡はこのように天然の良港ともいえる立地条件の場所にあるのである。他のオホーツク文化の遺跡と比較して、この遺跡から出土する数々の大陸系遺物や和産物は、類例の少ない逸品が多いということも理解できるところである。これにひじょうによく似た立地条件をもっているのが、網走市モヨロ貝塚である。同様の考え方は古代・赤松もしており、「オホーツク文化の集団は舟着き場として適した場所や環境を意図的に選択し、特に後期になると大型船の停泊場所としての立地条件を考慮してたことがうかがえる」と述べている。考古遺物からも大型船の存在は証明されているところである。

  このように、オホーツク人は海岸沿いに集落を構えていたわけであるが、他の時代とはまったく異なる特徴のある竪穴住居を作っていたことが分かっている。詳細は「オホーツク人の住まい」の項目のところで触れられるであろうが、大型で五角形ないし六角形のプランをもっている。その系統はやはり北方諸族の竪穴に求めざるを得ない。「環オホーツク海古代文化」の一環で考えることによって理解できるところである。

  死後の世界もまた他の時代と比較して特徴が見られる。これも「オホーツク人と死」の項目のところで詳細に触れられると思うが、屈葬で埋葬し、頭の上に土器の口を下にして被せる「被甕(かぶりかめ)」という習慣が一般的であるということが最大の特徴であろう。死者の封じ込めという観念が働いていたのかもしれない。アイヌ社会ではポクナ・モシリ(Pokna-moshir=下の国)という概念があるという。裏側の国土、地獄、冥土を意味し、アイヌが死んだら行く場所と考えられている。オホーツク人に限らず、いかなる時代の人たちも死者に対しては特別の扱いをしている。そのような中で、頭位を北西側に向けるという基本的慣習は、彼らの原郷土であるシベリア大陸に郷愁があったのかもしれない。死後の世界もまた多くのことを私たちに語りかけてくれるのである。

  ではここで彼らが使用していた各種の道具などについて考えておこう。土器・石器・骨角器・大陸系金属製品とオホーツク文化に特徴的な動物信仰に関わる動物意匠遺物に関しては、別の項目のところで随時紹介されているので、ここでは割愛する。そこで、近年発見例が急増している木製品について見ておきたい。

  木製品は通常の状態では腐食してしまい、遺物としてはあまり残っていないものである。泥炭地のような湿地の中とか焼けて炭化した場合に遺存できる特殊なものである。従来、私たちが遺物として目にしていたオホーツク文化の容器は、土器であった。それは一定の基準で製作された多くが画一的なもので、私たちは器といえば土器の形を連想するのみであった。ところが、羅臼町松法川(まつのりがわ)北岸遺跡、常呂町常呂川河口遺跡、同トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点などで焼失家屋が検出され、数多くの木製品が発見され、容器に対する考え方を変えなければならないことになったのである。

  では、常呂町内出土のオホーツク文化の木製品のいくつかを紹介してみよう。写真4は舟形容器で木槽としてよいものである。一部しか残っていなかったが、長さ一メートルを超える大型のものである。クマの飼料用とも考えられるもので、「クマ祀り」儀礼の存在を示唆している。5は木製盆の一部である。長さ三〇センチ以上を測る。6は角盆と思われる容器で、これも長さ三〇センチほどになるものである。一部焼けてゆがんでいる。以上が容器としての木製品であるが、これらの他にも椀形木製品の破片が見られる。


  7の杓子は4の舟形容器の上に直接のって出土したもので、セットになるものと考えられる。長さ五〇センチを測る大型のもので、飼料をこねる道具であった可能性が高い。8は匙である。長さ二〇センチでこれも調理用であろう。もっと小型の匙は9の資料である。きわめて薄く作られ、長さは八センチで、ティースプーンといった感じである。このように杓子や匙のような道具も骨角器以外の木で作製されることもあったのである。


  10は柄の部分である。長い方で一三センチが残っていた。11は櫛であるが、竪櫛と呼ばれるタイプでオホーツク文化では初めての出土例である。高さは九センチを測る。12は用途不明であるが、衣紋掛け状の木製品である。横幅は二二・五センチほどである。上部の二枚の板には彫刻が施され、本体に差し込むようになっており、恐らく木釘で留められていたのであろう。きわめて芸術性の高いものである。


  13は小刀の柄で左端に刀身をはめ込んだ溝が残っている。長さ一四センチ。14は木製の鍬である。小型で高さ三センチである。これもきわめて類例が少ない遺物といえよう。


  以上の図示したものの他にも、オホーツク文化のものとして、ほぞ穴付き板状品、算盤玉状木製品、二股状木製品、装飾品の一部、縫い針状木製品、コイル状樹皮製品、樹皮容器、松明用樹皮製品、皿、杯、注口容器、把手、蓋、矢筒、筋子潰し具、刺突具、箆、箸状品、舟形木製品、塵取り状容器、菓子入れ状木製品、木鎖状木製品などが出土している。また、漁網、編物、組紐、紐などの植物性繊維製品も発見されている。実に多彩であるといえる。

  この他に、刀子などの金属製品があるが、青銅製のものは大陸から伝えられたものである。刀子の中には曲手刀子と呼ばれる柄の部分が湾曲して下方に下がるものがあるが、そのタイプはオホーツク文化に特徴的なもので、やはり大陸からの交易品である。鉄製のものが多い。写真15は鉄製の刀子であるが、本州産のものであろうか。トコロチャシオホーツク地点八号竪穴出土。長さ一二センチ。また、ひじょうに特殊な例として磨製石鍬が発見されている(写真16)。長さ六・一センチである。北海道ではこの種の遺物は未発見であったが、オホーツク文化に伴うものとして注目すべきものである。大陸からのものであろう。


  同じく大陸と関係すると思われるものとして牙製婦人像と呼ばれるものがオホーツク文化を特徴づけている。参考資料として示しておいたものは、根室市オンネモト貝塚から出土したものである。高さ六・五センチ。頭部と背面の下部は欠損しているが、両手を前で合わせ、スカートのようなものをはいている姿は他の婦人像とも共通している。写真17の資料はモヨロ貝塚一〇号竪穴出土のものであるが、高さ五・七センチである。頭部と両腕部の一部を欠いているが、やはりスカート状のものをはいている姿である。18も17と共伴したもので、高さ四・四センチである。一応、牙製婦人像の象徴像とされているが、疑問の向きもある。これらの牙製婦人像はオホーツク文化に特有のものであり、きわめて北方的要素が強いものである。オホーツク文化の特殊性を示す一級資料といえるであろう。


  以上のように、日本列島の北端に広がったオホーツク文化は、後のアイヌ文化にかなりの影響を与え、「北の文化」地帯の独自性を特徴づける役割を大きく担ってきたのである。
礼文島重兵衛沢遺跡出土の牙製婦人像
大塚和義「オホーツク文化の偶像・動物意匠遺物
−その信仰形態の再構成への試み」(物質文化11、1968より)


【参考文献】


右代啓視・赤松守雄、一九九五、「オホーツク文化遺跡の分布とその特性」、『「北の歴史・文化交流事業」研究報告』、北海道開拓記念館、一五七〜一七九頁
宇田川洋、二〇〇一、『アイヌ考古学研究・序論』、北海道出版企画センター
鈴木邦輝、一九九九、「先住の人々」、『新名寄市史(第一巻)』、名寄市、一〜七四頁
菊池俊彦、一九九三、「環オホーツク海の古代文化」、『海・潟・日本人—日本海文明交流圏—』、講談社、一二四〜一五九頁
藤本 強、一九八八、『もう二つの日本文化』、東京大学出版会
山浦 清、一九九三、「「環オホーツク海文化」という視点」、『北海道考古学』二九、九〜二〇頁
山田秀三、一九八四、『北海道の地名』、北海道新聞社
山内清男、一九三三、「日本遠古之文化」、『ドルメン』二−二(山内清男・先史考古学論文集一、一九六七所収)、一〜四九頁
横山英介、一九九〇、『擦文文化』、ニュー・サイエンス杜




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