口絵




凡例
一、 本書は東京大学コレクションXIII『北の異界—古代オホーツクと氷民文化』展(会期・二〇〇〇二年五月一八日〜七月一四日、於:東京大学総合研究博物館、主催:東京大学総合研究博物館、共催:東京大学大学院人文社会系研究科・北海道常呂町)の展示図録として作成した。
一、 同展は東京大学大学院人文社会系研究科附属北海文化研究常呂実習施設と北海道常呂町の共同展示として実施したものである。
一、 掲載した写真のうち特に撮影者ないし提供者名を記していないものは、各論文の執筆者もしくは常呂実習施設が用意したものである。
一、 各論文の後に付した出品資料解説のうち執筆者が明記されていないものは、当該論文の著者の執筆分である。
一、 論文に付随しない解説で執筆者名を記していないものは西秋の執筆分である。
一、 差別的な表現が含まれていても、歴史用語はそのまま用いた。
一、 表紙写真は栄浦第二遺跡出土のクマ頭部角器(口絵4参照)と「オホーツク海の流水」(口絵15参照)である。



001  ラッコ牙偶

オホーツク人の造形物には海獣類がよくみられる。多くはシカや海獣の骨角を用いた彫刻作品である。この作品はクマの犬歯を彫り込んで製作したラッコで、両腕とお腹のしわが写実的に表現されている。ラッコの毛皮は交易品として重要であったと考えられている。竪穴住居内にもうけられた骨塚に近いところで、骨製の皿状製品の上に置かれたような状態で出土した。
常呂川河口遺跡15号竪穴 8-10世紀 長6.3cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵 撮影:上野則宏

002  「日本旧土人コロボックル石斧ヲ研ギ獣肉ヲ煮ル図」

明治期の人類学界をにぎわした主要テーマの一つは日本の石器時代人が誰であったかをめぐる論争であった。アイヌとする論客が多かった一方、アイヌの伝承を重視した坪井正五郎(1863-1913)は「コロボックル」なる先住民がいたとする説を主張した。上段の坪井の解説には、「画工大野雲外氏此頃此図を携へ来って余に解説を記さんことを需めらる。此図は太古我が日本国の地に住みたる未開人の状態を推測して画きたるものにして、小屋の構造、塵塚の位置、服飾器具に至る迄一々拠る所有り。其の考証の如きは此所に記し尽くすべきに非ざれば、余が嘗て史学会に於て為せし演説筆記を抜記して解説に代へんとす。即ち別紙付録の如し」とある。本掛け軸の下段にはその解説が貼り付けられている。この石版画は解説付きで7銭で市販された。
大野雲外筆 石版 明治36(1903)年 幅55cm 高90cm 東京大学総合研究博物館蔵 撮影:上野則宏

003  「イクパシュイ」

坪井正五郎がアイヌ文化の講義用に準備した絵か。「神々に酒を捧げる為に用いる箆。俗にひげべらと云う。この箆はアイヌが酒を飲むに際して先ず己の信仰する神々に対し此を供える式を為す時用いるものなり。(い)は手にて持つ部。(ろ)は匙の先の如く削りたる部なり。用い方は恰も匙にて酒を掬い椀より向こうの方へ濯ぐ様なることを度々するなり。但し斯かる形をするのみにて実際は酒を濯ぐにはあらず。坪井正五郎記」とある。
坪井正五郎画 毛筆 幅42cm 高51cm 東京大学総合研究博物館蔵 撮影:上野則宏

004  クマ頭部角器

オホーツク文化てみられる動物意匠遺物のうち、クマを表現したものは全体の40%ほどにたっする。多くは骨製だが、角・牙・土・木製もある。全身像の他に頭部だけのものや頭部から後足にかけてのもの、あるいは座像もみられる。本作品は鹿角製で、先端に頭から胸までを表現しでいる。リーダーの指揮棒のような役割をもっていたことが考えられる。
栄浦第二遺跡 8−10世紀 高16.8cm 東京大学常呂実習施設蔵 撮影:上野則宏

005  クマ骨偶

トドの骨製。腹部に刻みが見られるが、これはアイヌがイオマンテ(クマ送り)の際にクマに着せる晴れ着を表現していると見ることができる。イオマンテのルーツがオホーツク文化にあったらしいことを示す遺物てある。
トコロチャシ跡遺跡1号竪穴 8-10世紀 長5.4cm 東京大学常呂実習施設蔵 撮影:上野則宏


006  オホーツク文化期の骨塚発掘写真

オホーツク人は竪穴住居の中の長軸の一角に祭壇を設け、そこにクマの頭骨などを累々と積み重ねて祀る骨塚を残している。シカやタヌキ、キツネなど他の獣骨も混在しているがクマが主体の場合が多い。トコロチャシ跡遺跡では100個以上ものクマの頭骨が積み上げられていた。クマ送りの儀礼がおこなわれていたことを示す遺構である。なお、クマと他の動物は一定の場所に一定の方法で置かれ、別格であるとも言われ、動物信仰にも整然とした序列があったことが推察されている。
トコロチャシ跡遺跡7号竪穴 8-10世紀 東京大学常呂実習施設発掘

骨塚のイメージ
現生のヒグマ骨格標本をつみあげたもの。 撮影:上野則宏

007  オホーツク土器

オホーツク人の土器はおおまかに円形刺突文、刻文、沈線文とソーメン状貼付文の3期にわたって変遷する。その中で最も特徴的なのが北海道東部から南千島に分布するソーメン状貼付文土器である。この土器はソーメン状の細い粘土紐を直線、波状にほどこしたものである。中には海獣、水鳥など動物を表現した貼付文もあるが多くはない。ソーメン状の粘土紐は一定の幅をもっているので動物・海獣の腸を乾燥させチューブとして粘土をひねり出した「チューブデコレーション」技法によるものと考えられている。
  高圷、皿、異形土器などの土器はなく、あるのは底部が小さい割りに胴部は丸みをもった広口壼である。土器の大きさは小型・中形・大形・特大型にわけられる。用途に応じて使い分けしていていたのであろう。焼成はあまり良くなく、記面の色調は灰黒褐色である。この写真が示すのは一つの竪穴住居から出土した一括土器群。(武田 修)
常呂川河口遺跡15号竪穴 8-10世紀 高6-44cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵 撮影:上野則宏

008  オホーツク文化の道具類

オホーツク人の家からは、狩猟具・漁撈具や加工具、各種容器から装身具まで多種多様の家財道具が見つかっている。道具の素材にも様々なものが用いられている。骨角器で多く使われたのはクジラ類や海獣類の骨・牙である。海獣狩猟を得意とするオホーツク人にとっては手に入れやすい素材であったのだろう。骨・角・牙からは狩猟具や漁撈具、装身具や動物の造形などが作られた。
  他に、各種の石器がある一方で、金属器も多く使用されている。石器には矢尻や錘、斧などの狩猟・漁撈・加工具が多い。日用品の金属器には刀子(とうす・ナイフ)などがある。最上段:刀子(鉄製)、その下の左:鏃を装着する銛頭(骨製)、右3点:石鏃、最上段右:石弾、中段左と左下隅:釣針(骨製)、中央:銛頭(骨製)と骨鏃、中段右:骨斧、下段中央:装身具(骨製)、下段右:石錘。(熊木俊朗)
鏃を装着する銛頭は栄浦第二遺跡(常呂町埋蔵文化財センター蔵)、その他はトコロチャシ跡遺跡と同オホーツク地点遺跡 8-10世紀 骨斧の長さ20cm 東京大学常呂実習施設蔵撮影:上野則宏

009  オホーツク文化の木器

通常、木製品は腐ってなくなってしまうが、これらは住居が火を受けていたために炭化して残った稀有な資料群である。盆(右下)や椀などの各種容器、杓子(左)、匙(左から2番目)などの食用具、刀子の柄(左上から2番目)などの加工具、櫛(左上から3番目)、精巧な彫刻品(右上)などが作られている。木材のほかに樹皮も多く用いられた。土器や石器だけではわからない家財道具の様子がありありと伝わってくる。(熊木俊朗)
トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点7号竪穴 8-10世紀 杓子の長さ50cm 東京大学常呂実習施設蔵 撮影:上野則宏


010  「舟中の具備りて海上を走る図」

『蝦夷生計図説』の第五帖「チッフ之部 下」(東大本)の挿図。「舟中の具」とは帆、イカリ、アカトリなど航行用の道具のこと。『蝦夷生計図説』は江戸時代に作られたアイヌ民族誌である。秦檍麿(はたあわきまろ)が構想し、その養子、秦一貞(はたいってい)が追補・編集のうえ完成させた。それぞれ村上島之允(しまのじょう)、村上貞助(ていすけ)とも呼ばれる。失われゆくアイヌの生活文化を記録にとどめようと考えたのが製作の動機であったという。東京大学所蔵のものは現在3冊知られている写本の一つ。
文政6(1823)年完成 東京大学総合研究博物館蔵 撮影:上野則宏

011  骨製針入れ

坪井正五郎が明治40(1907)年に樺太、鈴谷遺跡で発掘した各種の針入れ。樺太はオホーツク人の故地の一つと考えられており、北海道と類似した遺物が発見されている。この展示品は鳥の管骨で作られた針入れ。多くに装飾がほどこされている。アホウドリの上腕骨で作られた上段の針入れにはクジラ猟の光景が描かれており、舟とクジラ、浮き袋らしき表現がみられる。浮き袋は銛につけられたものであろう。
鈴谷遺跡(樺太) 5-12世紀 左上の長さ6.0cm 東京大学総合研究博物館蔵 撮影:上野則宏

012  青銅製帯飾(表と裏)

栄浦第二遺跡 8-10世紀 高4.9cm 東京大学常呂実習施設蔵 撮影:上野則宏

013  青銅製曲手刀子

北海道に暮らしたオホーツク人は、北・南の双方から伝来の品々を入手していた。北からの移入品では、青銅製の装飾具や、鉾などの鉄製武具が代表的である。これらは、大陸のアムール河流域に存在した靺鞠(まっかつ)文化・女真(じょしん)文化の製品とみられる。ほかに曲手刀子(まがりてとうす)などの生活用具や、家畜としてのカラフトブタ、トナカイの角など多種多様な移入品が大陸からサハリンに至るルートを通じてもたらされていた。一方、南からの移入品は蕨手刀(わらびてとう)や直刀(ちょくとう)といった刀類が代表的である。律令国家とも関連するこれらの品々は、本州から、北海道中央部にあった擦文(さつもん)文化を経由して入手されたと思われる。(熊木俊朗)
トコロチャシ跡遺跡1号竪穴 8-10世紀 長15.2cm 東京大学常呂実習施設蔵 撮影:上野則宏


014  「大日本沿海輿地全図」(伊能中図部分)

伊能忠敬(1745-1818)の第一次全国測量は寛政12(1800)年、奥州街道、蝦夷東南岸の測量から始まった。以後、全国の測量を一通り終える文化13(1816)年まで測量行を続けた。その編集が完了し「大日本沿海輿地全図」が幕府に上呈されたのは忠敬の没後のことであった(1821年)。大中小図の3種がある。中図(1/216000)では北海道は東半と西半にわけて制作されている。この写真の図は東半、オホーツク海沿岸サロマ湖(トキセートーと表記されている)近郊を拡大したもの。トコロ(常呂)、トコロ川などの地名がみえる

「大日本沿海輿地全図」(伊能中図)の北海道東半部
伊能忠敬作 文政4(1821)年 幅153.5cm 高196.5cm 東京大学総合研究博物館蔵 撮影:野久保正嗣

015  オホーツク海の流氷

オホーツクに面する常呂町の海岸は毎年、2月から3月にかけて流氷におおわれる。流氷はアムール川から豊富な栄養塩を運んでくる。そのためオホーツク海域の生産性は高い。そこに生息する豊富な魚類や海獣がオホーツク人の生活をささえた。写真提供:常呂町役場

016  楽器頂部(トンコリの部品か)

トンコリとは樺太アイヌの人たちに伝わってきた楽器のことをいう。五本の弦をもつため五弦琴とも呼ばれるが、実際には楽器というよりはシャーマンが所有する祭具であった。考古学的にトンコリそのものの出土例はないが、写真のようにその一部であったと考えられる鹿角製品がいくつか見つかっている。四本の糸巻き穴があるのがわかる。北海道ではオホーツク文化期を中心に、擦文文化期やアイヌ文化期の遺跡からも出土している
栄浦第二遺跡 8-12世紀 長8.4-9.0cm 東京大学常呂実習施設蔵 撮影:上野則宏





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