失われた日本鉱物誌


 本展示図録は、本館のいままでの展示図録とは性格を異にする。本展示図録の意図するところは、失われた過去の記録の復元である。明治初期の鉱物誌の覆刻と捉えていただいてよい。いずれの書も遙か昔に絶版となり、おそらくは殆どの人が目にしたことのない資料であろう。

 鉱物学が科学として日本に導入されたのは、明治6年に東京に開成学校が開かれ、ドイツ人鉱山技師カール・シェンク(Karl Schenk)が鉱物学を講義したことに始まる。しかし当時の設備は極めて不完全で、和田の後継者として東京大学教授になった神保小虎によれば、外国から購入した約150点の鉱物標本と教科書としてドイツのヨハンネス・ロイニース著「博物学」(Leunis' Naturgeschichte, 1870) が一冊しか備え付けられていなかったという。日本産鉱物にいたっては、一つとしてなく、鉱物研究の設備は皆無で、結晶の形態は、学生が書籍を参照しながら板紙を用いて作成し、初めて見ることができた有り様であったという。

 明治6年オーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に日本の物品を出品することになった。この時、政府は各府県に命じて各地の鉱物を集め、これをウィーンに送った。同時に、出品した鉱物標本の一部を内務省博物局に収蔵した。これが日本で鉱物を収集した最初である。そこで、どのような標本がウィーンに送られ、また博物局に収蔵されたかを知る唯一つの手掛りが「博物館列品目録」に残されている。また、明治7・8年に文部省は日本産鉱物調査の目的で、各府県から鉱物を徴収し、金石取調所を設け、ドイツ人ナウマンと和田維四郎に担当させた。この時集めた鉱物標本の鑑定の結果は明治8・9年にわたって「各府県金石試験記」として文部省から刊行されている。さらに、明治10年に第1回内国勧業博覧会が東京で開催された。各府県は競って管内の物産を出品したが、その中には鉱物も数多く含まれていた。博覧会の出品物の多くは博物局に寄贈されたか購入されたが、その記録は「博物館列品目録」に残されている。東京大学の助教であり博覧会の審査委員でもあった和田維四郎は、出品された標本の大部分を東京大学に収めて研究を行い、その成果を「本邦金石略誌」として世に問うている。

 これらの資料を、最先端の科学が世界を覆っている時代に復活させる意図は、現代科学の基礎となる当時のモノの学問に光を与えることにある。鉱物試料・モノは、意図的に滅失を計らなければ、あるいは注意深くさえあれば不滅である。鉱物標本を土中から学問の場に登場させたのは、そこに鉱物の記載があったからである。

 この図録で蘇るものは、明治初期の鉱物学の先達である和田維四郎が土中の石塊を鉱物学のレベルまで高めた、そのプロセスで得られた鉱物記載の足跡である。復活させた鉱物誌は、
 1.各府県金石試験記(明治8・9年)
 2.本邦金石略誌(明治11年)
 3.博物館列品目録(明治13年)
である。これらの鉱物誌には、明治政府の指示の下に、日本中の各府県が全力を上げて鉱物を収集し、政府が「有用」という価値観の下に選択してウィーンに物産として送り出したこと、また、国家資源としての有用鉱物の把握に全力を注ぎ、わざわざ「金石取調所」を国立機関として設立したこと、などが明確に見て取れる。その一方で、鉱物学者の和田維四郎が、純粋に学問的な見地から、その鉱物が有用であろうが否かを問わず、鉱物誌に記載しようとした情熱も読みとることができる。和田維四郎の晩年に結実させた2つの鉱物誌、「日本鉱物誌」と「本邦鉱物標本」の萌芽が、本図録に収録した「各府県金石試験記」、「本邦金石略誌」、「博物館列品目録」にあることは明らかである。




前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ