デュシャンにおけるコピーの問題——レディ・メイドを中心に


熊谷薫 文学部・美術史学



 マルセル・デュシャンの芸術は、その後に続く複製芸術を招き、そして容認するものとして理解されうる。確かにそうした面もなくはないが、これは彼の芸術の一部を取り出して拡大解釈をしているようでもある。デュシャンの作品に関しては実にさまざまな解釈がなされてきた。観客に開かれた作品として捉えるならばデュシャンの作品に限定されず、そのような現象は起こりうる事態であるし、認められるべきである。「芸術と公衆を和解させる」、「タブローをつくるのはそれを見る人びとだ」。前者はアポリネールの、後者はデュシャン本人の言である[1]。しかしデュシャン作品の解釈を受け止める際には用心深くあらねばならない。なぜならデュシャンの意図と実践(作品)、そしてさらには鑑賞者あるいは批評家が解釈したことの間には、懸隔が存在するからである。例えば、ミシェル・ビュトールは「オリジナルと複製を等価のものとし、複製をオリジナルたらしめるという観念がデュシャンの全作品をつらぬている」と言っている[2]。複製を容認するという解釈を呼ぶ最大の要因となったのはおそらくレディ・メイドであろう。デュシャンはレディ・メイドにより、芸術作品を成立させるさまざまな条件を明らかにし、それが絶対ではないことをも示す。ゆえに唯一性を強調される芸術作品の複数性が容認されると解釈されてきた。しかし本当にそうなのか。レディ・メイドをデュシャン芸術の要約としてではなく、彼の作品全体との関係から論じ直し、デュシャンにおけるコピーの問題について考えてみたい。


芸術作品の生と死


 レディ・メイドとはなにか。簡単に言ってしまえば、選ばれ、名づけられ、署名された既製品である。オクタヴィオ・パスの定義を引用すれば、「レディ・メイドとは芸術家の無償の身ぶりが、それを選ぶというただそれだけの事実によって、芸術作品に変えるという無名のオブジェなのである」[3]。デュシャンは趣味によらない選択であることを強調している。彼によれば、趣味とは、良いものであろうと悪いものであろうと、つねに今日限りのものであり、不易ではない。それに対し芸術作品は一時期の趣味に左右されない耐久性のあるものであるとして、そうあるべくして美的無関心により、選択をしたというのである[4]。また、その選択行為にはなんの意味もないとも言っている。芸術作品を作ろうとしてレディ・メイドを選んだのではないというのだ。ところで、その際にずれが生じることはないのだろうか。デュシャン自身の意図としては芸術作品を作るつもりなどなかったのに、解釈者の方がレディ・メイドを勝手に芸術作品として受けとめるのだ。彼の言行にはしばしパラドックスが内包されている。ここで注意しなければならないのは、レディ・メイドを作るということが繰り返されると趣味に逆戻りしてしまい、美的ではなかったはずのオブジェが反復により美的になってしまうということだ。ロバート・マザウェルはデュシャンの選んだ『壜掛け』を美しいと言う[5]。この発言は美的無関心を強調したデュシャンの意図にそぐわない。デュシャンがレディ・メイドのレプリカ製作を容認しているのはそれが芸術作品でない、つまりは趣味に陥らない(すくなくとも彼の意図するところでは)からなのだ。

 では作品と芸術作品の差は何なのか。まず最初に両者の差が如何なるものであれ、それらを内包するものとしての人工品がある。人工品とは広い意味で人間によって作られたものであり、自然物の対概念として存在する。人工品の中に作品があり、作品の中にさら芸術作品が存在するという入れ子構造をなしているのだ。デュシャンは人工品の中に含まれる大量生産の既製品の中から選択し、レディ・メイドを作品として提示する。作品とは作者に結びつけれた物のことである。人工品は人によって作られたという性質が定義の必要十分条件であるので、人でさえあれば特定の作者をその中に見出す必要がない。そして作品においては、作るという相が強く意識され、そしてその主体の存在が無視できなくなる。しかしまだこの段階においては「誰が」その作品を作ったのか、あるいは「誰の手」によって作られたか必ずしも意識されていない。あるいは意識されはじめるが、誰の手によろうと作品は作品でありうる。最後に芸術作品である。歴史の中で作家性と芸術作品が結びつけられ、重視されるようになったのは近代である。芸術と芸術作品の概念はともに近代の所産である。近代においては手仕事性、美へとつながる視角性、そしてこれらによって生じる作家性が芸術作品の最も重要な要素であるとされる。それ以前は作品が、ある作者の手のみで作られていることなどさして重要視されず、作者のデッサン(アイデアと下絵として)に基づいていればその作者の作品として理解されていたのだ。

 このことを踏まえデュシャンは手仕事を忌むべき自己反復として否定している。画家の手が加えられていることで作品が成立するという通念を批判しているのだ。手仕事とは画家による網膜的、臭覚的快楽(テレピン油への)のための自慰的な営みに他ならない。もっとも、デュシャンの作品を厳密に見れば、芸術作品に画家の手が加えられてはならないとしているわけでないこともわかる。レディ・メイドにおいてさえそうである[6]。事実『花嫁は彼女の独身者達によって裸にされた、さえも』通称『大ガラス』や『1落ちる水、2照明用ガス、が与えられたとせよ』通称『遺作』は非常に高度な技術を必要とした[7]。彼自身手仕事に従事していたのである。彼は芸術全般を否定したのではなく、近代の芸術家概念やその制度を批判したのだ。そして彼は未だ芸術家ではなく職人として存在した時代に理解を示す。反芸術家(anti-artist)と呼ばれることよりも一芸術家(an artist)でありたいとし、あるいは近代の芸術家誕生以前の概念によった呼称である職人(artisan)いう言葉を好んだからである[8]

 デュシャンは近代の芸術概念を理解した上で、芸術作品成立に鑑賞者が重要な役割を果たすことにも気づいていた。芸術作品にはそれを作り手が製作する段階と、鑑賞者が作品を鑑賞し芸術作品かどうかを判断する二つの段階が存在する。第一の製作の段階で芸術作品は作者から自立しておらず、ある特定の制作者により密接に結びつけられている。芸術作品を鑑賞する際に、必ず同時に作者の存在が立ち現れる。このことは以下の言葉からも伺われる。「芸術というのは、あるがままの人間が本当の個人として自己を見せるときに用いるような唯一の活動形式だと私は信じています」[9]。次にデュシャンはそれまであまり注意を払われなかった第二の段階に光りをあてた。芸術作品とは鑑賞者によって作品から転化させられるものである。「タブローを作るのはそれを見る人々だ」という言葉に端的に示されている通りである。鑑賞者がある作品を鑑賞し、美しいと判断するということが作品を芸術作品へと転化させる。そこでは芸術作品は作者から離れ、自立した存在となっている。しかし鑑賞者の趣味は時代ごとに変わり、美もまた普遍的な基準たりありえない。ゆえに彼は美に対し無関心を装ったのであろう。

 時間の経過は芸術に関する考えに大きな変化をもたらす。そのことに気づいていたデュシャンは、芸術作品に生と死の概念を導入する[10]。デュシャンの考えによればこうである。美はその時代の趣味により判断を下される。ある時期美しいと考えられていた芸術作品も時を経て趣味が変わることにより、美しいとみなされなくなる。美しいとみなされなくなった芸術作品は芸術作品として死んでいる。単なる作品へ、場合によっては人工物へと引き戻されるということである。彼の考えによるとこの2世紀ほど、20から25年周期で色々な「イスム」が起こった。それらの「イスム」は時代遅れとなり50から100年の間死んでいたが、人々によって復権させられる。再び美しいと人々によって感じられる時が来るのだ。芸術作品は死後もその物自体として存在し続ける。そして歴史の中の存在となる。つまり歴史的事実あるいは資料となるのだ。資料と化した芸術作品は美しさを引き剥がされているがゆえに、傑作も凡庸なものも同列に美術館におさめられる。要するに作品はそれが生きている間に直接眺められねばならないというのだ。デュシャンによると、われわれが生きた芸術作品を眼にすることができるのは20から25年というほんのわずかな間にすぎないという。芸術作品の観念は生き続けるがその物自体は死ぬというのがデュシャンの考えであると。デュシャン解釈者はそのように言うかもしれない。しかし問題は、芸術作品の観念云々よりも、作品が後世になって再び、あるいは初めて評価されることがあるということ。その為にデュシャンは自らの子供とでもいうべき作品群を理想的な墓場に埋葬したのである。


視覚の問題——『遺作』のしっぺ返し


 デュシャンの作品について何かを書こうとしている現在、われわれが参照しているものはなんであろうか。通常いわゆる美術の作品について論ずる際には、その作品の図版あるいはその作品そのものを見る。ところがデュシャンの場合、必ずしもその必要はないとされてきた。デュシャンは網膜的絵画を否定した、ゆえにデュシャン芸術においては視覚性が重要ではないので見なくてもよい、ということなのだ。特にレディ・メイドにあってはその物の説明的な描写、つまりどの既製品をどのように提示したか簡単に示せばよい、と考えられがちであった。このような考えを根拠にオリジナルとは多少外見の異なる同種の既製品がレプリカとされたこともある。すなわちレディ・メイドの外見は重要ではないと思われてきたのだ。また『大ガラス』においても観念がより重視され、外見上の描写のみでは本質的に『大ガラス』を説明したことにならないと解釈されてきた。

 しかし鑑賞者が作品を芸術作品に引き上げるという最終的な役割を担うとすると、鑑賞者の見るという行為は重大な役割を果たすことになる。フィラデルフィア美術館の一角に二つの小さな穴穿たれた木の扉をはめ込まれたレンガの門がある。穴から覗き込むと流れ落ちる滝を背景とし、右手にガスランプを掲げ、足を広げた裸の少女が横たわるのが見える。これこそが『遺作』である。『遺作』の構造は覗き込む、つまりは見るという行為を前提とし、観者に見ることを強いる。あるいは見ることもしくはまったく見ないことの選択を迫る作品である。これ以前の作品で見ることよりも観念を重視したと解釈されてきたデュシャンは最後に見るべき、つまりは「視覚的」作品を提示するのである。また、『遺作』寄贈した際、デュシャンは以後の25年間の展示を前提とし、さらにその内部の複製写真を15年間禁止した。これは鑑賞者が必ずその作品を自身の眼で見なければならないということを強制したものである。『遺作』は写真でさえ複製を禁じられている。複製写真はその芸術作品の死後の姿しか伝えることができないからだ。これはそれまでのデュシャン芸術の解釈と齟齬をきたす。従来は芸術家の観念が作品を構成する最重要なものであり、作品その物自体もその視覚性も重要性をさほど持たないと解釈されてきた。だからこそデュシャンのレディ・メイドのレプリカ製作が可能なものとされていたのだ。しかし明らかに視覚的要素がその作品の構造に不可欠な『遺作』はそれまでのデュシャン芸術に対する解釈を覆してしまった。そしてさらに奇妙なことは、その複製禁止と展示の期間にはそれぞれ15年間と25年間という期限が設けられている。これはデュシャンが芸術作品は死ぬものであるとした考えに基づくと考えられる。

 見るべき作品としての『遺作』の存在は網膜的絵画の否定とどうして両立できるのか。網膜的ということと見るべき作品ということはそもそも矛盾するのか。実は『遺作』は彼の否定した網膜的絵画とは異なり矛盾しはしない。なぜなら彼が否定したのは歴史上の絵画全般ではなかったからだ。彼が否定した網膜的絵画は、つまりクールベ以降の近代絵画である[11]。それ以前の絵画でも芸術でもなかったのだ。問題はそれまでの絵画が持ち得ていた宗教的、哲学的、道徳的などの機能、言うなれば観念が抜け落ちてしまったことにある。近代以前の絵画において重要視されていたのは、完成した作品の表面上の形態だけではなく、作品の観念でもあった。つまりデュシャンは視覚、単純な意味での見ることを否定し、画家の自慰的な自己反復の所産であるような作品を「網膜的絵画」とする[12]。近代における絵画が視覚的側面に偏重していることを批判したのだ。デュシャンの作品は見ることによって起動される記号であり、見なくては起動しない。デュシャンは視覚を完全に否定したのではなく、そのあり方を批判したのである。


署名——芸術作品と芸術家


 1917年、アンデパンダン展に『泉』と題された男性用小便器が出品された。R.Muttと署名されていたため、展覧会開催時にはデュシャンの作品であると知られず、会期中ずっと力ーテンの陰に隠されていた。作品ましてや芸術作品とはまったく認められなかった。1920年には女装したデュシャンをマン・レイが写真撮影することによりローズ・セラヴィの名が誕生し、以後レディ・メイドの署名にはその女性名が用いられている[13]。デュシャンは「ローズ・セラヴィ」として作品を生み出したのだ。

 ではデュシャンは別人になりすますことはできたのだろうか。そもそもデュシャンの作品の多くの存在が知られるようになったのは戦後50年代のことである。デュシャンの当時の評価はキュビストあるいはダダイストとしてのものであった。レディ・メイド神話は戦後に作られたものであり、当時はデュシャンの行為の意味もさほど関心を持たれてはいなかった。とすれば、ローズ・セラヴィという匿名の人物になりすますことも簡単であったろう。R.Muttにいたっては、デュシャンである確たる証拠もなく、周囲の人間の証言に頼るのみなのだ。

 当時は、その意義が正確に理解されず、後に神話となって曲解される。作品が特定の個人に結びつけられることにより、作品は芸術作品に接近する。しかし、その特定の個人は必ずしも芸術家に限らない。著名な芸術家の作品であるがゆえ、とるにたりないものでさえ芸術作品として崇められてしまうという事態を、既製品(人工品)に無名の署名をすることで芸術作品化する行為によって明らかにしようとする。署名の存在が、ある特定の作家の作品であることを保証する。その前提には誰が作品を作ったか、そしてそこに当然現われる作家の個性が、その作品を芸術作品たらしめるという制度が存在する。デュシャンは制度を明らかにし、それにゆさぶりをかけたのだ。署名つまり作家性が芸術作品を成立させる一要素であることを暴き出したうえで、さらにそれを批判した。芸術作品は作家の名前と切り離されても芸術作品であり続ける。サインはこうして重要性を失効した。

 デュシャンは後年、頼まれれば気楽にサインをしていたという[14]。大量にサインすることでサインの意味を希薄にしようとしたのだろう。あるいは、レディ・メイドがサインの存在のみでデュシャンに結びつけられる事態を生み出すためだったのかもしれない。既製品を大量生産した人から切り離し、作ってもいないデュシャンに結びつけてしまうともいえる。サインは接着剤としても切断機としても働くのだ。


デュシャンにおけるコピーの問題


 デュシャンの作品はしばしばコピーされる。それはレディ・メイドにおいて最も顕著な傾向である。端的に言えばレディ・メイドが従来の意味での芸術作品ではないのでレプリカ製作を許可しているのだ。すでに述べてきたように芸術作品には手仕事性、視角性、そしてそれによって生じる作家性が必要である。レディ・メイドはこれらの特徴のどれも持ち合わせないため複製にしてもよいと考えられてきた。しかし本当にそうなのか。事実、個々のレディ・メイドを注意してみると、必ずしも手仕事性、視覚性、作家性が完全に排除されているわけではないことがわかる。

 まず手仕事性に注目してみる。デュシャンにより選択された時点ですぐさま人工品がレディ・メイド作品に転化しているわけではない。『自転車の車輪』『薬局』『秘めたる音に』『エナメルを塗られたアポリネール』『L.H.O.O.Q』『なぜくしゃみをしない、ローズ・セラヴィ?』では、デュシャンの手が加えられることが作品への転化の前段階として必要とされた[15]。『自転車の車輪』においては木製のスツールが白く塗られ、車輪が天地逆にボルトでスツールに固定されている。『薬局』では二つの点が描き加えられるし、『エナメルを塗られたアポリネール』ではサポリン・エナメルの看板にペイントと鉛筆描きが加えられているし、『L.H.O.O.Q』では安価なモナ・リサの複製にひげが鉛筆で描き加えられている。『秘めたる音に』ではより紐の玉の中にアレンズバーグによるデュシャンも知らないオブジェを入れた上で二枚の真鍮板に挟み込み四本の長いボルトで固定するという手の込んだことをしているし、『なぜくしゃみをしない、ローズ・セラヴィ?』ではさらに手が込んでおり、鳥籠の中に一見氷に見える大理石の立方体などを閉じ込めている。以上の例では既製品を作品化する前から手が加えられている。レディ・メイドにおいては手仕事性が重要でないと一概には言えなくなる。レディ・メイドは手仕事性を依然として有しており、ゆえにレプリカ製作は容易ではない。たとえば、『L.H.O.O.Q』についてはすべてデュシャン自身がレプリカを製作しているし、それ以外は一、二回レプリカが作られたのみである。

 デュシャンは視覚性を重視しなかった。そのため、既製品から選択をするという行為を他者が模倣して作るレプリカはオリジナルと等価になると考えられていた。視覚的に異なるレプリカがそのオリジナルと等価であるという考え方は、視覚性を有するレディ・メイドの存在によりあっさりと覆される。まったく手を加えていないレディ・メイドである『瓶乾燥機』『折れる腕に備えて」『帽子掛け」は天井からつるし、『泉』も90度回転して展示すると決められており、いかにして見るべきかがあらかじめ決定されている。視覚的無関心を理想的に実践できたのは『櫛』のみである。もっとも、既製品の外見を見た上で選択してやらねばならないものもあった。キャサリン・ドライアーに請われて『折れる腕に備えて』のレプリカを作る際、デュシャンはどの店でどのようなシャベルを選択したかを指示している。しかし、すでにオリジナルを購入した店がなくなっていたため、自らレプリカとなるシャベルを購入したという。デュシャンは視覚的無関心を主張するが、鑑賞者が視覚的な類似を求める際にはその要求に応えようとした。他者が求めれば自己反復も視覚性も排除されないのだ。

 さらに、デュシャンという作家性が重要な意味を持つ場合も存在する。作家性が手仕事性と視覚性と不可分であることは、自身の手になるレプリカがいくつも存在することから伺える。ただし『自転車の車輪』『L.H.O.O.Q』『泉』は他と多少趣を異にする。『自転車の車輪』はデュシャンが見て楽しむために作られたもので、レディ・メイドの概念が存在しなかった頃の作であるからだ。『L.H.O.O.Q』はレオナルド・ダ・ヴィンチの作家性から切り離すために、デュシャン自身のレプリカである必要があったろうし、人から請われて製作したものであるため自慰的反復ではないという言い訳ができるからである。また『泉』記念碑的存在である。ゆえに自らレプリカを製作したのだ。それ以外の作品でデュシャン本人がオリジナル製作から比較的時を経ずしてレプリカ第一版を製作している。もちろん、これらのオリジナルがすべて紛失しているという事実も忘れるわけにはいかない。デュシャンが視覚性を保存するためにレプリカを制作したという事実は、彼が視覚それ自体を否定していたのではないことの証である。

 レディ・メイドのレプリカの大半は戦後にデュシャン以外の手によって製作されている。レプリカが容認される理由の一つはデュシャン以外の手によるので忌むべき自己反復としてのコピーではないということである。しかしもっと重要なのはオリジナルから半世紀程を経ているということだ。この半世紀という時間はデュシャンが定めた芸術作品の生き返りの時期に符合する。デュシャンが再発見され、作品が芸術作品として鑑賞者により引き上げられたのだ。デュシャンは作品が生きている間のその実在と視覚性の重要性を説いたうえで、その作品の死後の姿の空虚さをも浮かび上がらせる。いったん死んだ芸術作品の死後の姿を美術館に保存させることによって、芸術作品が自動的に人々よって復権させられるのを待つのである。復権すなわち芸術作品の生き返りとは再評価を意味するのだ。芸術作品が生み出された当時の文脈で再評価されることは不可能だが、鑑賞者により再びあるいは初めて芸術作品として評価されることはありえる。デュシャンの言葉によれば、そのような人々つまり理想の鑑賞者は50年から100年待たねばならない。そして彼が問題にしているのはそうした鑑賞者のみである[16]。では理想の鑑賞者に出会うにはどうすべきか。最も簡単な方法は美術館に保存させることである。芸術家が予見したものを理解しうる、芸術家自身が生きており規定されてしまう時代から自由な鑑賞者との出会いの場としての美術館がある。もちろん、時間が経過しさえすればすべての鑑賞者がデュシャンのいう理想の鑑賞者になるわけではない。デュシャンに楽観的な歴史観あるいは同時代の鑑賞者へ不信感が見えなくもないが、彼の考えはある程度までは正しい。デュシャンの作品の評価が正当になされうるのはまさに今なのかもしれない。

 レディ・メイドのレプリカ製作は、手仕事性、視覚性、ひいては作家性が完全に排除されているから容認されるのではない。作品が芸術作品へ転化するという性格を明らかにするものとして認められるのだ。転化とは時を経て作品が再評価されることである。手仕事性、視覚性、作家性だけで芸術作品は成立するわけではない。鑑賞者が重要な役割を果たすのである。そのことがレプリカ製作を可能にするのだ。こうしてみると、手仕事性、視覚性、作家性の固まりであるような『大ガラス』もレディ・メイドと大差ない。『大ガラス』東京ヴァージョンがレディ・メイドの複製同様にオリジナルから約半世紀を経て製作されたのも偶然ではない。『大ガラス』束京ヴァージョンが『大ガラス』の生き返りを象徴するのである。今回の展示において、その評価をする理想の鑑賞者にわれわれはなるのである。



■レディ・メイド一覧(第一版にエディションがないもの、1921年まで)

1913『自転車の車輪』手を加えたレディ・メイド/自転車の車輪、白色に塗られた台所用スツールに天地逆に取り付け/作者自ら回しては眺め、瞑想にふけるために製造/炎にも例えられる視覚的効果/オリジナル紛失/レプリカ:1916(作者)、1951(シドニー・ジャニス)、1963(ウルフ・リンデ、ストックホルム)、1964(ガレリア・シュヴァルツ、ミラノ、製造数13)
1914『薬局』手を加えたレディ・メイド/印刷物にグワッシュでペイント/記入:薬局 マルセル・デュシャン/オリジナル三点中一点現存
1914『瓶乾燥機』パリ製、百貨店にて購入。レディ・メイド。何も手を加えていない/鉄製瓶掛け、亜鉛メッキ/テキスト記入、内容は現在不明/レデイ・メイド/オリジナル紛失/レプリカ:1921頃(作者)、1961(マン・レイ)、1963、1964(製造数8)
1915『折れる腕に備えて』ニューヨーク製、レディ・メイド。何も手を加えていない。/亜鉛メッキ性鉄製シャベル、柄は木製/つり下げて展示/記入:折れた腕の前に マルセル・デュシャン(より)1915年/オリジナル紛失/レプリカ:1945 3月(作者、キャサリン・ドライア—の為に購入)、1963、1964(製造数12)
1916『櫛』レディ・メイド/灰色の鉄製犬用櫛/美しくも醜くも無い理想的レディ・メイドとの発言あり/記入:高さ三、四滴は野生とはなんの関係もない M.D.1916年2月17日午前11時/レプリカ:1963、1964(製造数12)
1916『旅行者用折り畳み用品』ニューヨーク製 レディ・メイド/アンダーウッド・タイプライターのカヴァー/1916年4月の、ニューヨーク ブルジョワ・ギャラリーでの「近代美術展」に出品の二点のうちの一点と推定される/オリジナル紛失/レプリカ:1963、1964(製造数12)
1916『秘めたる音に』幇助されたレディ・メイド/より紐の玉の中にアレンズバーグによるデュシャンも知らないオブジェ、二枚の真鍮板に挟み込み四本の長いボルトで固定/記入:(テキスト省略)ソフィー・マルセル 1916年 イースター/レプリカ:1963、1964(製造数8)
1917『エナメルを塗られたアポリネール』ニューヨーク 修正されたレディ・メイド、/厚紙とペイントされたブリキ(サポリン・エナメルの看板)に鉛筆とペイント/記入:マルセル・デュシャン(から)1916 1917/レプリカ:1965(ガレリア・シュヴァルツ、製造数8)
1917『泉』レディ・メイド/男性用便器を90度回転させて展示/記入:R.Mutt/オリジナル紛失/レプリカ:1951(シドニー・ジャニス、ニューヨーク)、1953(作者、パリ)、1963、1964
1917『帽子掛け』ニューヨーク、レディ・メイド/木製帽子掛け/つり下げて展示/オリジナル紛失/レプリカ:1921(作者、パリ)、1961(マン・レイ、パリ)、1961(ロバート・ラウシェンバーグ、ニューヨーク)、1963、1964(製造数8)
1919『L.H.O.O.Q』パリ、修正されたレディ・メイド/レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザの複製に口ひげ、顎ひげ、タイトルを記入/レプリカ:1920(ピカビアによって雑誌『391』に収録)、1930(作者、ルイ・アラゴンのために)、1941(作者『トランクの箱』のために)、1955(作者、マックス・エルンストのために)、1965(ピエール・ド・マッソ著作のために 35部)
1919『パリの空気』レディ・メイド/ガラス製アンプル/レプリカ:1949(作者、ウォルター・アレンズバーグのために)、1963、1964(製造数12)
1920『フレッシュ・ウィドウ』ニューヨーク、職人発注のレディ・メイド/フランス窓のミニチュア(ペイントされた木製窓枠、黒い革で覆われた八枚の窓ガラス、木製の台座)/記入:フレッシュ・ウィドウ 著作権ローズ・セラヴィ 1920年/レプリカ:1961(ウルフ・リンデ、P.O.ウルフヴェト、ストックホルム)、1964(製造数12)
1921『なぜくしゃみをしない、ローズ・セラヴィ?』ニューヨーク セミ・レディメイド/角砂糖の形態をした大理石の立方体152個、体温計、イカの甲、鳥篭、木製の棒4本/記入:なぜくしゃみをしない、ローズ・セラヴィ? 1921年/レプリカ:1963、1964(製造数13)
1921『ベル・アレーヌ(美しき吐息)、ヴェール水』ニューヨーク、幇助されたレディ・メイド/リゴー香水瓶にデュシャンとマン・レイの模造したラベル、ケース/記入:ローズ・セラヴィ 1921年
Dalia Judovovitz, Unpacking Duchamp, University of Chicago Press, Los Angels, 1995
Arturo Schwarts, The complete works of Marcel Duchamp, Delaco Greenidge Edition, New York,1997
Francis Naumann, Marcel Duchamp, The Art of Making Art in the Age of Mechanical Reproduction, Abrams, New York, 1999

*1963年のレプリカはすべてウルフ・リンデ、ストックホルム、1964年はすべてガレリア・シュヴァルツ、ミラノによる。


【註】

[1]マルセル・デュシャン/ピエール・カバンヌ『デュシャンの世界』岩佐鉄男・小林康夫訳、朝日出版社、1978年、72—73頁参照。ギョーム・アポリネール『キュビストの画家たち』斉藤正二訳、緑地社、1957年、104頁。[本文へ戻る]

[2]ミシェル・ビュトール「複製禁止」清水徹訳、『マルセル・デュシャン展』西武美術館、1981年。[本文へ戻る]

[3]オクタヴィオ・パス『マルセル・デュシャン論』宮川淳・柳瀬尚紀訳、書肆風の薔薇、1990年、27頁。[本文へ戻る]

[4]『デュシャンの世界』、94—96頁。[本文へ戻る]

[5]東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年、261頁。[本文へ戻る]

[6]『自転車の車輪』はそもそもレディ・メイドを彼自身が志向していなかっときのものである。それ以外のいわゆるセミ・レディ・メイド『秘めた音のする』『エナメルを塗られたアポリネール』『ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしないのか』について「手を加えられレディ・メイド」と呼んでいる。)。ミシェル・サヌイユ編『マルセル・デュシャン全著作』「私自身について」北山研二訳、未知谷、1995年、323—329頁。[本文へ戻る]

[7]このことは東京版大ガラス製作に従事した岩佐氏の言葉からも伺われる。氏は制作時のビデオ見ながら、『大ガラス』は技術の集大成であったとのべている。詳しくは角田論文参照。[本文へ戻る]

[8]『デュシャンの世界』75頁。「ええ。画家であるというのは、常に一種の職人であるということですからね」デュシャンは自分が職人であると意識している。[本文へ戻る]

[9]『マルセル・デュシャン全著作』、280頁。[本文へ戻る]

[10]『デュシャンの世界』、141—142頁。[本文へ戻る]

[11]『デュシャンの世界』、84頁。[本文へ戻る]

[12]平芳幸浩「与えられたとせよ(一)芸術作品(二)マルセル・デュシャン」、『美術史』第144冊、美術史学会編、1997年。[本文へ戻る]

[13]東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年、266頁。1920年のレディ・メイド「フレッシュ・ウィドウ」以降である。[本文へ戻る]

[14]ジョルジュ・シャルボニエ『デュシャンとの対話』北山研二訳、みすず書房、1997年、16頁。[本文へ戻る]

[15]それぞれのレディ・メイドの性質については文末の一覧参照。『マルセル・デュシャン展』西武美術館、1981年、『美術手帖』8月号、美術出版社、1998年より。[本文へ戻る]

[16]『マルセル・デュシャン全著作』、274頁。『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年、261頁。[本文へ戻る]



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