大江戸単身赴任事情

長谷川 孝徳




金沢から江戸へ

 江戸屋敷は大名の妻子の住居であるとともに、参勤交代で在府中の大名・家臣の宿舎でもあった。東京大学本郷キャンパスは、かつて加賀藩江戸屋敷であったことは周知のとおりである。加賀藩の江戸屋敷には、上屋敷・中屋敷・下屋敷・抱屋敷・米蔵屋敷等があった。本郷邸は元和二〜三(一六一六〜七)年頃、三代前田利常に下屋敷として幕府より与えられ、天和三(一六八三)年三月からは上屋敷として明治に至るまで使われた。

 本郷邸の建物の位置や数は、度重なる火災などで時代によって異なるが、基本的には政務をつかさどる「表御殿」、藩主及び夫人や子供らが居住する「御本宅・奥御殿」、藩士たちの宿舎である「御貸小屋」の三空間に大別できる。敷地が広大なら、建物も一〇〇棟前後を数えた。そして、約二五〇年間に、この屋敷には多数の加賀藩士が金沢から単身赴任したのであった。

 ところで、遠隔地への転勤が決まると、その準備に追われて多忙な日々を送るのは、今も昔も変わらない。

 江戸時代末期の安政二(一八五五)年一月、加賀藩の平士である小川仙之助は一三代藩主前田斉泰の近習(藩主の側近)の一人として、参勤のお供で江戸赴任を命じられた。仙之助は知行一六〇石の藩士だったため、自分の家来や奉公人を七人連れて行かなければならなかった。そのメンバー表の提出や扶持方の請求・受取、また、仙之助は脚気を患っていたので、道中の山駕篭の使用許可願など、数々の手続きに追われる毎日であった。二月に入ると、山駕篭の使用が許可され、一二日には現在の公用パスポートにあたる判形(手形)が渡された。加賀藩領内から外へ出るのであるから、海外に赴任することと同じであった。

 二月一八日に出発日は三月一三日、江戸到着予定日は二六日と発表され、江戸での生活について上司からこと細かに心得が申し渡された。日常は木綿の衣服を着用すること、刀・脇差の拵に金銀は用いないこと、御貸小屋にみだりに同僚が集まってはならないこと、暮らしは質素にすること、餞別や土産物の受け渡しは親兄弟以外とはしないこと、そして勤務に励むように、という内容であった。もちろん、これらの内容を家来にも伝えなければならない。家来の不始末は主人の責任になる。ひいては、江戸での加賀藩の体面にかかわってくるからである。

 三月一三日、いよいよ出発の日がやってきた。午前八時頃に整列、先払いから順次出発した行列は、金沢の町中をゆっくりと進み始めた。加賀藩の大名行列は、全国諸藩で最も多人数で長い。藩主斉泰は、この時点では留守中の政務について打ち合わせをしていた。午前一一時頃湯漬けを食べ、改服した斉泰は正午過ぎにようやく出発した。この時の様子を仙之助は日記に書いている。「雨が降っているが藩主は馬に乗り、供の者は合羽を着用」。小川仙之助も合羽を着て単身赴任の旅に発った。

 一行は一六日夕方越中泊に到着した。翌一七日は親不知付近が高波のため、境で一泊、一八日に糸魚川に入った。このため旅程は一日遅れとなり、本郷の江戸屋敷に到着したのは、二七日正午過ぎであった。

 一方、近習方の一人として道中のお供をした仙之助は、先払いとして同役の石野主馬・斎藤宗太郎とともに、一行より一足先に前日の二六日、江戸に到着していた。彼を待っていたのは、前年から単身赴任していた妹婿と吉川十左衛門(三〇〇石)の二人であった。事前に連絡してあったためか、仙之助の御貸小屋の準備は整っていた。実は、この年から近習方の御貸小屋は新築の住まいになった。いわばピカピカの官舎であった。仙之助は新しい畳の香り中で、江戸赴任の初の夜を過ごすことになる。旅の疲れですぐに眠ったのか、あるいは緊張してなかなか寝付かれなかったのか、彼の日記には書かれていない。

 翌二七日、江戸は快晴だった。行列本隊が屋敷入りする日である。江戸屋敷の人々は、朝からおおわらわだったに違いない。仙之助も石野・斎藤と三人で御手廻組(おてまわりぐみ=三〇人一組。小頭一人、足軽二九人で編成)一組を使い、斉泰の江戸生活の準備に追われた。土蔵から諸道具を運び出し、それぞれ飾り付けを行い、奥納戸からは掛軸などを出し、午前中にはなんとかきれいになった。

 正午過ぎ、斉泰一行は無事江戸に到着した。息つく間もなく、江戸赴任中の藩士たちが次々と藩主の居間にやって来て、旅の無事を祝った。続いて二五歳になる嫡子慶寧(後の一四代藩主)が挨拶に訪れた。慶寧とは前年の四月四日以来、約一年ぶりの対面であった。斉泰はその後、御鈴廊下から御奥へ正室溶姫に会いに行くが、溶姫とも約一年ぶりの対面である。ここでようやく一息つけた斉泰は、灸をしてから風呂に入り、それから着替えをしたのであった。

 そのころ藩士たちは、斉泰に面会に来た客の接待や、さらに翌日幕府からやって来る老中のための諸準備をするなど、江戸に到着したその時から、休む間もなく忙しく働いていたのであった。


単身赴任の手当と期間

 現在では一人任地に赴くサラリーマンに対して、企業は各種手当を出している。交通機関も単身赴任者を対象とした割引運賃を設けている。

 実はこうした処置を加賀藩でも行っていた。国元を離れて江戸詰を命じられた藩士に対して、扶持方という手当を出していたのである。知行高(本棒)に応じて人馬の数を定め、その数に対して一人一日米一升、馬を伴うクラスの者には、さらに馬一頭につき一日大豆三升を、それぞれ江戸の相場で銀に換算して支給していた。他藩の場合、一日一人分米五合が多かったようであるから、加賀藩は百万石の台所を誇るだけに、比較的裕福な待遇だったといえる。

 延享三(一七四六)年四月のお触れによると、知行高一〇〇石の藩士には四人分、三〇〇石まで五〇石ごとに一人分増え、四五〇石では一一人分と馬一頭分が支給された。つまり、本棒に応じて手当が増えるのである。もちろん、本棒が多い分、家来の数も増えるのであるから当然のことであろう。しかし、この手当は何度も改められている。明和九(一七七二)年六月、米の時価で支給していた手当を、一律米一石銀一七〇目、大豆一石銀八〇目とし、さらに人数分を減少するなど、手当は事実上減らされることとなった。

 当然、江戸詰の藩士たちの生活は苦しくなった。こうしたなか、手当の前借りを願い出るものが出てきた。藩では「詰人一統難渋の趣」ということで、前借りを認め、生活資金の貸付けを行った。無利息の時代と利息をとる時代があったが、半年で利率一・二%という低金利の例がある。貸付けをする役所は江戸屋敷内にある会所で、現在の会計課のような所であった。

 ところが、家来や奉公人たちの中には、配給された酒や食糧を売る者、質屋まがいのアルバイトで小金を儲ける者、はては賭け事をする者が現れた。当然、藩ではこれを禁じ、藩士たちへ家来一統をしっかり取り締まるよう厳しい通達を出した。「倹約を武芸のようにいい立てる」と川柳にある。加賀藩でも、何度も江戸詰の藩士たちへ質素倹約に努めるように言い立てていた。小遣いを切り詰め、酒をセーブするサラリーマン武士の姿が目に浮かんでくる。

 ところで、江戸詰を申し渡された藩士は、今なら海外へ転勤を命じられたようなものである。現在の海外は近いけれど、当時は江戸まで約二週間かかった。とんでもなく遠い地に感じたことであろう。

 藩主は、病気や国元で大火が発生したなど特別な事情がない限り、だいたい一年を江戸で、一年を国元で過ごした。また、藩主夫人や子供たちも江戸で生活をしていた。当然、家臣も江戸へ交代で勤めることになっていたのである。加賀藩では江戸家老をはじめ、ほとんどの藩士は金沢からの単身赴任組で、現地採用はごく少数なのであった。

 江戸に赴任していた藩士の人数は、時代によってかなりの変動があった。「江戸屋敷在住書」や「詰人高調書」など、残されている記録類を手がかりに推定すると、藩主にお目見えできる平士以上が約一〇〇〜二〇〇人、与力・歩が約一三〇〜二五〇人、足軽・小者が約二〇〇〇人、これに陪臣が約五〇〇〜八〇〇人であった。これらが国元から江戸へ単身赴任していたのである。さらに江戸定府の家臣と奥向などの女中を合わせると、江戸屋敷全体で多い時には三〇〇〇〜四〇〇〇人の規模になったと思われる。もちろん、藩主が江戸在府中と帰国中では詰人が約半数になるなど、人数にかなりの違いがあった。

 さて、国元を離れて江戸へ赴任する期間はどのくらいだったのか。貞享四(一六八七)年二月に一年交代と定められ、長らく一年勤務の状態が続いた。しかし、費用がかかるとの理由から、安永九(一七八〇)年二月には二年半勤務となった。また、同月には参勤交代の道中行列の装備も簡易化された。ところが、早くも翌年の天明元年七月には一年半勤務に短縮したのである。質素倹約を推進したため、長期勤務だと江戸詰の藩士の生活が苦しくなるから、というのがその理由であった。一年半の勤務とは、春に藩主の供として江戸へ行った藩士は、翌年の秋に帰国し、秋に江戸へ行った藩士は、一年半後の春に藩主の供として帰国するシステムであった。ただし、常に藩主の側にいる近習方のような役職は、一年勤務であった。


図1 「酒宴の図」
江戸東京博物館蔵、『久留米藩江戸勤番長屋絵巻』より。単調な江戸詰生活のなか酒盛りが楽しみなのは、どこの藩士でも同じであっただろう。


処分された藩士たち

 江戸へ単身赴任した藩士たちへ、加賀藩では日常生活について、たびたびお達しを出している。当時の金沢は日本で指折りの城下町であったが、やはり花の大江戸には及ぶものではなかった。いわば「おのぼりさん」の加賀藩士が、見るもの聞くものに興味をそそられたとしても無理はない。何度も注意をするということは、裏を返せば注意を守らなかった者が多かった証拠である。

 藩が口を酸っぱくして言う「本来の武士道を取り失い、武芸もおろそかにしている」原因は次のようなことであった。「木綿を着て質素」な服装が華美になり、武士の本分を忘れたオシャレが目立つというのである。実際、裏地に紅色を使う者までいた。また、老人の他は許可のない者は駕篭に乗ってはいけなかったにもかかわらず、若い者まで乗用したり、日頃使う馬の飾りが派手になったりしてきたというのだ。

 さらに、当時は用事のない者はみだりに外出してはならなかった。が、これも守られていない。勝手にふらっと出て行く者がいたらしい。そうした者の行き先は、大体は藩が禁止していた場所、つまり、吉原や岡場所、舟遊びに見世物小屋、その他町人群集の場所であった。特に藩主の帰国中は、中堅幹部連中までが一緒になって騒いでいた。

 藩では「同役は職務に関する相談以外、みだりに集まってはならない」とお触れを出している。しかし、事あるごとに「寄合」と称しては集まっていたのである。御貸小屋では小唄・浄瑠璃などがはやり、その騒ぎ声は「町中へも聞こえるほど騒がしい」ものであった。

 当然、このような席には酒がつきものである。食事は「湯漬飯軽く、一汁一菜」が原則であったが、発掘調査の出土品に徳利が非常に多かったことは、原則と実態の違いを物語って面白い。考えてみれば、武士も人の子である。時にははめをはずしたくもなったであろう。『絶家録』を見ると、「江戸表にて不行状露顕致し」「不埒な行状につき」など、江戸単身赴任中にはめをはずしすぎて、ついにはお家断絶となった藩士の記録が出てくる。

 寛延二(一七四九)年の元日の夜のことであった。大小将組の半田権左(四五〇石)の家来で、棟取若党の早川要蔵と小者五人が、御貸小屋で酒宴を開いた。が、飲み騒ぎ、ついには備え付けの小道具や鍋などを打ち割ったのである。つまり、官舎の備品を壊したのであった。六人は、近隣の侍たちに捕り押えられ、牢屋敷に連行されるという事態となった。早速、主人の半田権左は何度も取調べを受けた。結果、半田は首謀者の早川と小者関平、元助の三人の殺害願を出し、三人は牢屋敷にて殺害、残りの小者三人は国元へ送還して暇を出したのであった。もちろん半田も家来の不始末の責任をとらされ、大小将組から御馬廻組へ配置転換となった。

 また、享和二(一八〇二)年五月一五日には次のような事件が起こった。この年の三月に隠居した先代の一一代藩主治脩が、供を従えて江戸城へ出かけた時のことであった。

 ちなみに元禄二(一六八九)年八月九日、五代将軍徳川綱吉は前田家の家格を御三家と同待遇とし、江戸城内詰所も最高位の大廊下、将軍拝謁は白書院となった。そのため登城の時には御三家同道がよくあった。

 この日も御三家同道であった。治脩の供は、乗用所で御三家の隣に乗物を並べて待っていたが、そこへ御三家の家来たちが乗物を除けるよう、何度も言ってきたのである。その言い方も悪かったようだ。「法外の申し方」というから、虎の威を借りる何とかだったのであろう。同道なのになぜ悪いと思ったのか、加賀藩の御供頭の高畠木工が刀に手をかけ、御三家の家来を追い散らしたのであった。この程度なら何ともなかったのであろう。実際、高畠は屋敷に帰った後、「私は切腹を仰せ付けられればよろしき」と言ったが、将軍や御三家からは何も言って来ないので、藩主も構いなしとしている。

 しかし、この時加賀藩士中村兎毛が、蹲踞して主人を待っていた水戸の家来の肩を押し付け、立ち上がろうとした同人の頭を手か扇で張りつけ、その場で両手を捕り押えられてしまうという事態が起こった。おまけに監察官である大脇六郎左衛門が、このことを報告しなかったのである。この事件を知った一二代藩主斉広は「ことのほか残念。どのような理由にせよ士道に外れた行動」と、かなり立腹した。しかし、年寄の長甲斐守のとりなしもあり、罪一等を減じられて関係者の処分は次のとおりとなった。

 御大小将横目大脇六郎左衛門は、役職をはずされ国元に送還後遠慮。御大小将中村兎毛は、御大小将組から組外組に加えられ、国元に送還後閉門。御歩横目塚本九左衛門は、国元に送還後謹慎。御供頭高畠木工はお構いなし、となった。

 五月二五日、藩主斉広は江戸詰の者へ通達を出した。「登城の節は、勤め先にて作法よろしく必ず蹲踞すること。晴雨にかかわらず心得違いのないようにすること。御登城の節に、御三家様、御老中方等御登城であれば、なおさら必ず法に従うこと。先日のように御供人は心得違いのないよう、御三家様御通行の節には蹲踞すること」と。

 徳川御三家格の加賀百万石といえども、所詮は外様大名だった。なんでもかんでも御三家と同等にものごとが運ぶということはなかった。ところが、藩士の中にはそこのところを思い違いした者がいたのである。だから事件が起きたのだった。


図2 「高原乙次郎の部屋にて暴飲の図」
江戸東京博物館蔵、『久留米藩江戸勤番長屋絵巻』より。待ちわびていた帰国が急に中止になり、羽目をはずした日の出来事。天保10(1839)年4月5日。


帰れなかった加賀藩士

 嘉永七(一八五四)年一月二七日、ペリー再来のため加賀藩に幕府から出兵命令が下った。翌朝八時頃、総勢五五三人・馬四一頭の部隊が屋敷の南大御門から出発した。現在の本郷三丁目交差点に近い春日通に面した門である。その様子は「隊伍を整え、雑兵・小者まで殺気衝天」というから、かなり緊張していたのであろう。加賀藩が防備を命じられた増上寺に着くと、早速お触れが出た。「馬を放してはならない。無用の往来をしてはならない。酒宴声高をしてはならない。火事は火元人成敗のこと。陣場前にごみがある時は掃除する事」というものであった。二月四日には幕府の目付役が本営を視察した。結果はまずまずといったところであった。

 その頃幕府はアメリカ側と応接の場所について交渉し、ついに横浜にて条約を結ぶ決意をしたのであった。

 この出兵の間、加賀藩は国元から藩士を増員し、食糧も江戸だけでは調達できず、国元から運んでいた。三月二八日、藩主斉泰は海岸防備の出兵の功を将軍から褒められた。が、今回の大事件、ただただ御蔵の金を使い、藩士の疲労のみが残るものであった。

 七月になると、江戸詰の人数を元の状態に戻した。増員として派遣された藩士が帰国したのである。従来からの者は、この際だから交代して帰国させて欲しい旨を上申したが、認めてもらえなかった。結局、彼らは単身赴任生活を続けなければならなかったのであった。


楽しき出張

 江戸詰の藩士たちは、年中屋敷にいて仕事をしていたわけではない。時には出張もあった。その点では現在のサラリーマンと同じだったといえる。江戸屋敷が政治情報の収集拠点だったことを考えれば、当然のことでもあった。

 幕末になると、異国船が日本近海に頻繁に姿を現し、加賀藩でも海岸防備に力を入れた。安政二(一八五五)年五月七日、一三代藩主斉泰は加藤三郎左衛門ら一二人に対して、高輪沖に停泊している薩摩藩の最新鋭軍艦の視察を命じた。遅ればせながら、加賀藩でも軍艦建造の計画が立てられていた。

 出張を命じられた藩士の中に近習方の小川仙之助もいた。彼の日記によると、一行は午前七時頃本郷の屋敷を出発した。ところが、いきなり酒を飲み始めた。屋形舟で両国へ出るのだが、ここで鯛と鱸の煮付けで一献傾けたのである。当時はこれが当たり前だったのか、「芸者と乗合い、遊んでいる舟もある」とも記している。

 やがて一行は目的地の高輪に着く。が、ここでも酒席が待っていた。料理屋「万清」で、薩摩藩の接待を受けるのである。仙之助は、料理屋の部屋の造りや庭の風雅をしきりに感心している。出された料理が豪華だった。「薄味噌、鯛、シメジの吸物」「ワサビおろしを添えた鯛、鮪の刺身」「海老、茄子、鰺の塩焼」「カジメ、牛蒡の鉢物」「鯛、葉生姜、青菜の煮物」「きゅうり、茄子の漬物」。料理の包丁さばきといい、器といい、実に見事であったようだ。

 この贅沢な食事を終えてから、一行は軍艦を視察したのである。はしけに乗り、沖合約八キロメートルの所に薩摩藩自慢の昌平丸が停泊していた。船は噂どおりの立派さで、乗り心地は快適だったらしく、「家にいるのと同じだった」と、日記に書いている。さらに、「御国で計画している船の図にはないところがある」とも記している。

 実際、昌平丸の船体は、長さ二七メートル、幅七・四メートル、喫水線よりの高さ五・二メートルと、当時の軍艦としては巨大なものであった。加賀藩視察団は、この船の概要・船室・大砲・食糧備蓄等について、こと細かな報告書を作成している。例えば、船縁の厚さは三六センチメートル、下段弾薬室には銅板の上に一二センチメートル余りの鉛板が打ってあること、船員の飲料水は井戸のような大きな桶に蓄え、蓋も頑丈なこと、帆柱は中心のものが二七メートル、前後の柱が二〇メートルある、などというものである。仙之助の日記には図解入りで軍備についても記されている。

 日記はさらに続く。視察団は乗組員の訓練風景も見せてもらった。二人の乗組員が縄梯子で帆柱を登り、そこから縄を渡して上帆柱から中帆柱へ移る様子が書かれている。「まことに猿の仕業也」。仙之助はこう筆を走らせている。さらに、日記にはただ驚きの表現が目立ち、近くに停泊していた水戸藩の軍艦にもただ驚くだけであった。

 一行は帰りの屋形舟でも、アワビと卵焼を肴にほろ酔い機嫌になった。この日の日記の締めくくりに「仕事とはいえ、よい楽しみをさせてもらった。その上、珍しいものも見学できてありがたかった。家来たちも大喜びの一日だった」と記している。数年後、七尾軍艦所で見た加賀藩の軍艦の印象を「水戸・薩摩の鉄製軍艦とあまりに違う」と、仙之助は書き留めている。薩摩藩はこの後維新に向けて時代の先頭を走り、一方、加賀藩はそのバスに乗り遅れた。仙之助が薩摩・長州主導の北越戦争に従軍するのは、軍艦視察から一三年後のことであった。




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