肖像のある風景

木下 直之
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医学部付属病院

肖像は誰のものか

  東京大学構内の随所で目にする肖像画や肖像彫刻の所在調査が、これまでに行われてこなかったわけではない。一九六三年には、中沢賢五郎編『東大のあゆみ−浮彫りにした百年』(立花書房)という小冊子が出版されているし、一九八八年には全学を対象とした調査が行われ、未刊ながらもその成果はリストになっている。ところが、前者に十五点の肖像彫刻、後者には八十一点の肖像彫刻が記載されているものの、どちらも個々のデータが不十分で、完全なリストとはいいがたい。そもそも肖像画が調査の対象から外れている。

  いったいどれほどの数の歴代教授たちの肖像が学内にあるのだろうか。この難問を前にして、今回は総合研究博物館での展覧会開催を機に、肖像画をも含めたいわば完全なる台帳づくりを目論んだのであるが、またしても全貌を明らかにすることはできなかった。まずはその言い訳から始めたい。

  調査に入ってすぐに思い知らされたのは、絵画にせよ彫刻にせよ、肖像を誰が所有し誰が管理しているかが曖昧なことであった。いずれも国有財産として登録されているわけではない。だからといって私物でもない。これでは大学当局による一元的な管理など望むべくもない。

  「ずっと昔からここにあるもの」という説明を、調査の現場ではしばしば耳にした。その多くは教室や学科で大切に受け継がれてきた伝来品である。教室や学科という漠然とした表現にせざるをえないのは、長い歴史の中でどの組織も形態や名称を変えてきたからだ。それにもかかわらず、教室や学科という名称を用いて、それぞれの歴史を一本筋の通ったものとして認識している組織が、肖像を受け継いできたといえそうなのだ。

  そこではかならず起源が明らかにされており、初代、二代、三代というぐあいに教授が続いて今日に至るまでの系譜がきちんと整理されている。肖像を廃棄や紛失から守ってきたものは、こうした歴史意識と組織への帰属意識にほかならない。

  その実例をふたつ紹介しよう。たとえば理学部動物学教室には、エドワード・モース、チャールズ・ホイットマンのあとを受けて、一八八二年に日本人として初めて教授となった箕作佳吉以下六人の肖像画が伝わっている(二五〜三〇図)。しかし、厳密にいえば、動物学教室という組織は、今は理学部のどこにも存在しない。理学部生物学科、および大学院理学系研究科生物科学専攻が存在するばかりで、「動物学教室]はここで学んだ人たちの記憶の中にしかない。

  工学部造船学科にも、二点の肖像画、二点の肖像彫刻が伝わっている(五五・五六・一一八・一二二図)。一八八四年に工部大学校造船学科の助教授となった三好晋六郎をはじめ、四人はいずれも造船学の教授であるが、その後、この組織は帝国大学工科大学造船学科、東京帝国大学工学部造船学科、同船舶工学科、東京大学工学部船舶工学科と名を変え、近年では、大学院はとうとう船の文字を外し、環境海洋工学専攻を名乗っている。ここでも、「造船学科」とは、とうに歴史的用語と化している。

  記憶の中の教室・学科と現実の教室・学科との解離が大きくなった時に肖像は廃棄や紛失の危機にさらされる。組織の改革や統廃合は、単に看板を付け変えればよいというものではなく、現実に部屋の引っ越しや改造、建物の改築を伴う。この時が最大の危機だ。壁に掛かっている肖像画や部屋の片隅に置かれた肖像彫刻が次の居場所を保障されるか否かは、この組織の歴史的記憶がうまく継承されるか否かにかかっている。

  幸いにも、「動物学教室」と「造船学科」は肖像を守り伝えてきた。「動物学教室」では六点の肖像画を会議室に掛けていたが、近年それらを壁から外し、一点一点梱包したうえで倉庫に保管した。「造船学科」では、二点の肖像画を図書室の壁に掛け、一点の浮彫りを倉庫に保管している。あと一点の彫刻当初より建物の前に設置されたままだ。

  肖像は、会議室、図書室、名誉教授室、倉庫、廊下、建物の傍らなど、いずれも各教室各学科にとっては共有の場に置かれていることがわかる。あくまでも私物ではないのだから当然だが、こうした置き場所が、所有者や管理者の暖昧な肖像を曖昧なままに存続させてきたといえそうだ。それらは、まさしく「ずっと昔からここにあるもの」なのである。


医学部衛生学教室教授室


  それにしても、肖像とはもともと誰のものだったのだろうか。

  肖像それ自体に手掛かりがある。たとえば、現在は総合図書館三階開架閲覧カウンターの片隅に置かれている加藤弘之の肖像彫刻(一三六図)には、台座の正面に次のような言葉が記されている。

 加藤弘之先生ノ八十寿ヲ祝シ

 奉ランカ為辱知ノ有志胥謀リ

 此ノ銅像ヲ作製シ以テ先生ニ贈

 呈ス

  これを読むかぎり、彫刻は加藤弘之本人に贈呈されたと考えるほかない。したがって、工学部電気系名誉教授室に置かれた渋澤元治の消像彫刻台座に刻まれた「渋澤先生昨年十月目出度還暦ヲ迎ヘラレ本年三月大学ヲ勇退セラルゝコノ機ニ当リ門弟一同深ク感謝ノ意ヲ表シ記念トシテ之ヲ贈呈ス」という言葉もまた、同様に、彫刻は渋澤元治本人に贈られたと読めるのである(一三四図)。

  肖像画や肖像彫刻に造形化された本人、それを像主というが、もし像主が最初の所有者であり、彼が大学を去る時に肖像を残していったのだとすれば、この時点ですでに肖像と所有者、管理者との関係は暖昧にならざるをえない。何よりもこの事態は、肖像というものが、研究に必要な備品でも部屋を飾る美術品でもなく、記念品であり、贈与物であるという事情に由来している。肖像とは、贈与の時点で、その意味を最大限に発揮する物品なのである。


肖像の居場所

  贈与から時間が過ぎるにつれ、肖像は、そこに込められた「八十ノ寿ヲ祝シ」とか「感謝ノ意ヲ表シ」という意味を失ってゆく。記念品であるという性格が希薄になれば、もともと実用性に欠けるのだから、単なる物品へと近づくほかない。

  像主がいったい誰なのかがわからない、という事態も現実には起こっている。像主が世を去り、ついで贈与に関わった人たちも世を去った時に、これは容易に起こりうる事態なのである。それを防ぐための一番簡単な方法として、肖像の本体に、もしくは肖像画なちば額縁に、肖像彫刻ならば台座に像主の名前を記しでおく。しかし、それとても、像主の名前を伝えることはできるが、彼がどのような人物であったかまでを伝えることにはならない。

  すでにふれたように、肖像が廃棄や紛失を逃れるためには、いいかえれば物品視されないためには、まず、それらを受け継いできた教室や学科の歴史がしっかりと記憶されていることが大前提となる。ついで、その歴史上の人物として、像主の名が伝わっていなければならない。そして、自分たちもまたその系譜に列なっていると自覚する人々が必要である。

  しかし、現実には、もっと具体的な、少なくともふたつの条件を満たさなければ、肖像が肖像であり続けることはできない。ひとつは、建物の中に肖像の置き場所をきちんと設けること、もうひとつは、定期的に肖像を祭ること、すなわち、空間と時間の中に、肖像の居場所を確保することである。

  建物と肖像とは切っても切れない関係にある。建物の中にきちんと居場所が用意されてあれば、それを簡単には変更できないはずだ。その好例が、一九三一年に竣工した医学部一号館にある。階段の踊り場に壁龕(西洋建築でいうニッチ)があり、各階ごとに全部で四点の肖像彫刻が置かれている(七四・八一・八二・八三図)。もっとも、そのうちの一点、「大澤謙二像」の台座には、もとは旧生理学教室の中庭にあったが開講百周年を記念してこの場所に安置したと記されているから、本来の居場所ではなかった。しかし、建物の中に壁龕があったということが重要である。


医学部1号館


  とはいえ、大学構内にある戦前からの建物が、すべて肖像の置き場所を想定してデザインされたわけではない。その大半は関東大震災以後の建設であり、あまり飾り立てない武骨なデザインが選ばれた。装飾をゴシック様式の尖頭アーチ、柱頭、付柱ぐらいに抑え、建物への付加物を極力排除している。その内部に置かれる肖像は、建物の飾りではないものの、付加物であるに違いはないだろう。

  一方、モダニズムの建築には壁龕がない。装飾を付加することを始めから拒否した建物だからだ。構内での好例は一九六五年に建設された経済学部である。このころになれば、歴代教授の肖像を絵画や彫刻で残すという時代は終わっていた。たとえそうした試みがあったにせよ、室内にも廊下にも、もはや肖像の入り込む余地はない。

  ところで、建物と肖像とが結ぶ関係のうち、理学部動物学教室のように、倉庫に肖像を保管することほど劣悪なものはないかに見える。しかし、過去に日本で肖像というものがどう扱われてきたかを振り返るなら、それは劣悪でもなければ、例外でもないことに気が付く。  学内にただ一点、掛け物の肖像画がある。医学図書館所蔵の「橋田邦彦像」である(一九図)。掛け物(掛け軸、掛幅ともいう)という形態を持った絵画は、むろん、それを和風建築の床の間に掛けることが想定されている。同時に、床の間に掛けたままにしないこともまた想定されている。特定の人物を描いた肖像画である以上は、回忌や年忌といった像主にまつわる特別な時間に掛けられるのであり、むしろ、ほとんどの時間は倉庫で費やすことが常態なのである。その意味では、建物内での掛け物の居場所は床の間と倉庫ということになる。

  つまり、倉庫での管理そのものが問題なのではなく、肖像が定期的に日の目を見ないことが問題なのである。時間の中に居場所が与えられていないのだ。掛け物形式のいわゆる日本画と異なり、近代になって登場した油絵による肖像画は、倉庫での保管という制約を解消したかに見える。堅牢な油絵の具は肖像画を壁に掛けたままにすることを可能にし、同時に、洋風建築の登場が油絵を支える壁を用意したからだ。

  しかし、特別な時間に肖像を眺めるという習慣までは、そう簡単には変えられない。肖像が次第に忘れられてしまう理由としては、建物の中に特別な空間が確保されないことよりも、むしろ特別な時間が、贈呈式や除幕式のあとは一向に与えられないことの方がはるかに大きいのである。壁に掛けたままという状態は、実は倉庫に置かれたままと大差がない。それどころか、ほこりや鳩のフンをかぶりつづけるぶん、いっそう始末が悪いだろう。


肖像とは何か

  肖像は記念品から物品へと、ゆるやかに移行してゆくわけではない。おそらく、像主が誰であるかがわからなくなった時が最大の転機であり、意味を一気に喪失する。像主についての記憶が失われれば、肖像はほとんど意味を成さない。

  そうなれば、実用性を持たず、かつ国有財産として登録されてもいないこの物品は、いつ廃棄されてもおかしくはない。ところが(なかなかゴミにならないのは、それが私物でもないからだ。人は自分のものではないものを捨てられない。

  美術品であるという判断もまた肖像を廃棄から救うが、この場合は、像主よりも作者の方が重視される。しかし、いうまでもなく、すべての肖像がそのまま美術品になれるわけではない。

  もっと重要で決定的な歯止めは、人は人の姿をしたものを簡単には捨てられないという点にあるだろう。肖像とは、人の姿(=像)に似せた(=肖)ものをいう。したがって、モデルはかならず特定の人物である。彼に似せたのだとする、作者ばかりでなく注文者や贈与者をも含んだ作り手側の意識が重要であり、像が本人に似ているかどうかは二の次、表現技術上の、あるいは主観的な問題にすぎない。



  なぜ、そのような似姿をわざわざ作るのか。いうまでもなく、本人が目の前にいるかぎり肖像は必要がない。本人がいなくなった時に、その代理として肖像が必要になるのである。そして、そのような、人の不在の最たるものが死にほかならない。

  古来、肖像は死者を追慕するために作られてきたといっても過言ではない。現存する日本最古の肖像彫刻は唐招提寺の「鑑真和上像」である。鑑真が七六三年に没する直前か、没後間もなくの制作と考えられる。没後十六年目に、その死を悼んでまとめられたという『唐大和上東征伝』(淡海三船撰)には、肖像制作の様子が記されている。講堂の梁が折れる夢を見た弟子が、鑑真の死の近いことを知り、その「影」、すなわち肖像を作ったという。鑑真は生前から坐死を願い、自らの肖像を安置する「影堂」を建てよと弟子に語っていた。

  ここでいう「影」は肖像画かもしれず、それが現存の「鑑真和上像」である確証はないものの、弟子が師の肖像を、その死に際して作る習慣があったことを教えてくれる。鑑真も弟子もともに中国人なのだから、それは当時の中国の習慣にしたがったのだった。

  美術史家小杉一雄は、「鑑真和上像」を、日本美術ではなく中国美術、奈良時代ではなく盛唐時代を代表する肖像彫刻と見るべきだという(『奈良美術の系譜』平凡社、一九九三年)。そして、中国の肖像彫刻であれば、「僧侶のミイラである肉身像や、肉身像に乾漆彫刻の技法を加えた加漆肉身像の存在を無視しては考えられない」というのだ。後者は遺体に幾重にも布を巻き付け、その上から漆を塗って外側を固めるという乾漆彫刻技法の応用であった。遺体を火葬に付し、その骨灰を塑土に混ぜて肖像を作る場合もあった。これは遺灰像、あるいは骨灰像と呼ばれる。

  伝記はさらに、鑑真は望みどおりに結跏趺坐の姿で西を向いて往生したが、三日過ぎてなお頭上が暖かかったので、しばらく火葬に付されなかったと伝える。当初は弟子たちが師の、ミイラ化を願ったのだという解釈も成り立つ。興味深いことに、乾漆技法で作られた「鑑真和上像」の内側には、頭部か腹部にかけて白い砂が塗られていた。小杉はこれを鑑真の骨灰と推定する。

  肖像が死者の姿をこの世に留め置きたいという願いの産物であれば、ミイラとはその究極の目標かもしれない。どれほど変形しても、それは本人なのだから。腐敗しない肉体としての遺骨に対する崇拝もここにつながっている。


医学部標本室


  解剖学教室教授の西成甫は、没後自らの遺骨を骨格標本として大学に遺した。教え子たちはこれを大切に扱い、厨子を思わせる漆塗りのケースに収めて(扉の把手には紫色の房がぶら下っている)、そこに先生の名前を刻んだ。むろん遺骨は肖像ではないが、まるで肖像のように取り扱われ、この骨を通して西は追慕されてきた。学内にあるどの肖像よりも、肖像の原点を感じさせる。

  ともあれ、日本での肖像制作の歴史は、八世紀に、中国文明の圧倒的な影響下に、学問の場でまず始まった。ここで問題にしている「博士の肖像」は、それから今日までの長い歴史のほんの最後に、今度は西洋文明の影響下に生み出されたものばかりだ。ほとんどの肖像画が油絵で、肖像彫刻がブロンズ彫刻であることも、その事情を物語っている。制作技術のすべては西洋美術に学んだものだし、作者たちの大半が西洋への留学経験を持つ。そして、何よりも、それらを飾る大学の制度もキャンパス・デザインも建物もまた、西洋のそれを取り入れたものである。

  しかしながら、中国と西洋の違いを除けば、肖像制作の事情は、千百年余の時を超えてよく似ているといわざるをえない。薬学部東側の木立の中に、プロシアの軍医レオポルド・ミュルレルの肖像彫刻(六七図)がひっそりと立っている。一八九五年に建てられたというから、東京大学に現存する最古の肖像彫刻である。作者は、工部美術学校でラグーザに就き、いち早く西洋彫刻を学んだ藤田文蔵である。像主のミュルレルが、ドイツ医学を伝えるために請われて来日した外国人教師であること、教え子たちによる肖像の建立が、ミュレルの三回忌に合わせて実現したことなどは、仏教ばかりでなく、最新の中国医学をも伝えた鑑真和上を彷佛とさせて興味深い。





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