今回出展した3枚のパネルは、フランス・パリに建設されたポンピドーセンター(当時はプラトーボブールセンター)国際公開コンペに提出したオリジナルパネルである。この案は、世界から応募された740件の作品のの中から最終審査の2案に残ったが、最終決定はポンピドー大統領によって、レンゾ・ピアノ+リチャード・ロジャース案が実施案となった。
フランス革命200年記念のパリ・グランドプロジェクトの一つとして実施されたグランドアーチの国際公開コンペの際には、国際審査員として招かれたが、その時も500件をこえる案の中から審査員によって選出された2案についてミッテラン大統領を混えて1案を決定した。
最終案は施主として大統領が選ぶというフランス流の決定システムはいまでも健在ということである。
この審査会の審査委員の中にはポンピドーセンターの宿敵リチャード・ロジャースもいたが、この頃までには、私は、リチャード・ロジャースやレンゾ・ピアノとは大の親友となっていた。
関西新空港の国際指名コンペの際には、私は審査委員長代行を務め、審査員にはリチャード・ロジャースがいた。そして、最終的に実施案として選んだのは、宿敵レンゾ・ピアノの案であった。
ポンピドーセンター(プラトーボブールセンター)のコンペが実施されたのは、1970年であり、メタボリズムの運動(建築における新陳代謝と循環を追求した運動)を始めてから約10年を経過していた頃であった。
建築や都市をダイナミックなプロセスとして捉えようというメタボリズムグループの方法論は、その構成メンバーにとって、必ずしも共通のものではなかったと思う。
その頃、私はCIAMを崩壊させ、新しい建築と都市の国際運動をはじめていたTeam X(チーム・テン)のメンバー達との歴史的な出会いがあった。
ルイス・カーン、アルド・ヴァン・アイク、ピーター・スミッソンといったリーダー達が招待したメンバーには、私の他にジェームス・スターリング、クリストファー・アレクサンダー、ハンス・ホライン、ジャン・カルロ・デ・カルロ、チャールス・ジェンクスといった若い世代であり、彼らとの親交は、その後35年間続くことになる。
時代は変化しようとしていた。機械の原理を旗印として前進してきた近代建築は明らかに壁につき当たっていた。
機械の原理の時代の先に見えるもの、その定かではない新しい時代の予感に対して、私は生命の原理の時代を予言していた。
メタボリズム(新陳代謝、循環)というキーコンセプトは、生命の原理の重要なコンセプトの一つであることはいうまでもない。
そして、メタモルフォーシス(突然変異、変身、非日常性)、シンビオシス(共生)というコンセプトも又、いずれも生命の原理の重要なコンセプトである。
いいかえれば、私の歩んできた建築家としての35年間は、一貫して生命の原理の追求であった。
ポンピドーセンターの応募案のコンセプトの第1は、建築を解体して、空間の単位の集積体としてとらえていることである。そして、単位空間には設備カプセルが自由にとり付けられるようになっている。これは建築が時間とともに新陳代謝し、部品が交換され循環するメタボリズムの基本的コンセプトである。
グリッド状の鉄骨構造のフレームとカプセルの構成は、レンゾ・ピアノによる実施案ときわめて近いものである。
第2は、情報の柱というコンセプトである。
美術館を情報の美術館としてとらえ、あらゆる情報端末はいずれの柱にもセットできる。そもそも情報化社会という言葉をつくったのは、1961年文化人類学者の梅棹忠夫と私との対論の中ででてきたものであり、その価値を御布施と同じものと定義したのが梅棹忠夫の情報御布施論であった。
1960年代に出版した「都市デザイン」の中で私は建築と都市を情報の流れと定義している。そして「情報列島日本の将来」を書いたのが1972年のことである。
柱を構造体としてとらえるだけでなく、情報の流れととらえる考え方もこのような情報化時代への予感があったからである。
情報というコンセプトも又、生命の原理の重要なコンセプトであることはいうまでもない。
第3は自然との共生というコンセプトである。
ここでいう自然は人工の自然であるが、都市という人工建造物と本来の自然との中間領域としてのつくられた第3の自然の提案である。
美術館の屋上は、都市に出現した人工の緑の丘(アーバンヒル)である。この屋上庭園は対角線上のもう一つの敷地の方向へ向けて階段状に丘陵をなしており、更に巨大な屋外空中エスカレーターによって視覚的にも強く連結されている。
実施案となったレンゾ・ピアノの案にも建築の側面に展望をかねた直通エスカレーターがあって、ここでも奇妙に提案が似ている。
対角線上のもう一つの敷地については芸術小公園とし、屋上庭園と一体化することより、屋外彫刻展示は勿論のこと、市民のさまざまな芸術活動を刺激しようと考えたわけである。
第4は、歴史との共生の提案である。
実施案が、周囲の歴史的な市街地をまったく無視するように対立的に存在しているのに対して、私の提案は、美術館の最高高さを周囲の街並みに押さえこんで、更に次第に低くなる都市の丘陵をつくることによって、対立しつつも共生できる建築をつくろうとした点にある。
周辺に存在する既存の都市に対して、ただ一つの建築がどのようにして共生できるのだろうか。斜めの屋上庭園として出現する巨大な都市的スケールは、ヨーロッパの都市の広場と同様に建築というスケールを都市というスケールに突然変異させる仕掛けなのだ。
この人工の丘ともいえる空間は、既存の歴史的街並みと共生しつつ活性化する有効な手段であり、その後アーバンヒルというコンセプトによって、私の作品に現れてくるものだ。
このプロジェクトに表現されている単位の集合体としての建築は、それだけでは集合以外の何ものでもない。
しかし斜めの屋上庭園という、新しい媒介によって新しい創造が可能になる。単位の集合から建築への変身(メタモルフォーシス)なのである。
このプロジェクトに近い計画に、後に設計した国立民族学博物館がある。これも中庭をもつ展示ユニットによる集合体となっているが、中央に中央パティオ(未来の遺跡と呼んでいる)を媒介させることによって単なる集合体から変身(メタモルフォーシス)しているのである。
私は機械の時代から生命の時代への変化を、別の側面からいうと、ブルバギの体系から非ブルバギの体系への変化だと考えている。ブルバギとはフランスの数学者アンドレ・ベイユによって名付けられた研究グループのことで、真理は一つあり、それは還元主義的方法論で実証できるという立場をとるものである。これに対して非ブルバギの体系と呼ばれる学問大系は、真理は一つではなく、自立した部分の自己生成によって多様な全体が成立する体系をいい、複雑系の科学、免疫系の科学、ニューサイエンスといった呼び方をされることもある。これらの非ブルバギの体系は、多義的で曖昧な領域を含むものであって、これまでの合理主義的二元論が排除してきたノイズや曖昧性を積極的に取り入れる意味でいずれも共生の思想の目指している秩序と同じものである。
これらの非ブルバギの体系(複雑系の体系)は還元主義で分析的に真理(定理・公理)を証明するこれまでの方法とは全く異なる問題提起型(プロブレマティーク)の体系である。
ディビッド・ピートは素粒子レベルの世界での人間の精神と肉体(物質)とがエネルギーや情報を交換しており、それを同一世界と解釈する。(精神と肉体の共時性) プリゴジンの「散逸構造論」は無秩序不安定性、多様性、非平衡、非線形関係、時間が問題にされ、小さな入力が巨大な世界の変化の結果となることを明らかにしている。自然界ではゆらぎ、乱流、渦巻きといった現象があり、海岸線や山脈のシルエットのような複雑で不規則な形態がある。これらの現象や形態は、合理主義的二元論の世界では非科学的なものとして排除されてきたし、数学で計算できないものとされてきた。
しかしそのような複雑怪奇な自然現象の解析が可能な非線形解析やフラクタル幾何学をつくったのが数学者マンデルブロートである。
ディビット・ボームの内蔵秩序(インプリケイテッドオーダー)も又、部分の自立による全体の秩序という新しい方向を示している。部分と全体の共生だ。部分の内部に全体性を含む考え方はケストラーのホロンとも同じである。
生物学の分野でも、いまダーウィンの進化論は修正されて、アメリカの生物学者マーグリスによる新しい解釈、連続共生進化説が主流となりつつある。
これからの非ブルバギの体系は、解体された空間単位の集積というメタボリズムの建築や都市論の強力な味方となっている。
ポンピドーセンター(プラトーボブールセンター)のコンペのコンセプトは、現在に至るまで、私の作品の中に流れている。
国立民族学博物館は、1階を収蔵庫、2階を展示、3階を研究とする三つのレベルをもつ展示ブロックが細胞単位となっており、増築する際にも、三つの機能がバランスしながら成長できるシステムとなっている。20年前に完成したのち、ほぼ3年に1つの展示ブロックが増設され、その規模もほぼ倍増している。又、ポンピドーセンターのコンペで提案した情報の柱(4本の鉄骨柱で構成されたもの)のコンセプトは、ビデオテーク(情報端末)という形で実現している。
現在工事中のマレーシア国際新空港はアジア最大のハブ空港だが、ここではH.P.シェル構造を組み合わせた細胞単位の屋根構造をもち、将来の生長へ対応しやすくしている。ポンピドーセンターは実現しなかったが、そのとき提案したコンセプトは、大きなストックとしてその後の作品に使われている。
私は、まだ学生の頃、イタリアの未来派の建築家サンテリアに傾倒したことがある。理由は、多くの未来都市を描いて、若くして戦死したという彼の人生によるところも多いが、実は私にとって建築とは思想であり、宣言であり、イメージなのである。建築家にとってそのイメージが実際に建設されるかどうかよりも、その思想やそのイメージがどのように世界に影響を与え、世界を変えていくかが勝負なのだと考えているからである。