アムッド人とその人類進化上の意義

木村 賛
東京大学大学院理学系研究科




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アムッド人の発見

 アムッド(Amud)人は鈴木尚を団長とする東京大学西アジア洪積世人類遺跡調査団(略称西アジア調査団)により、イスラエル北部アムッド洞窟より発見された。一号全身骨格及び一遊離大臼歯は一九六一年、二−四号頭骨片は一九六四年の調査で見つかっている。

 西アジア調査団は人類進化の具体的証拠を化石と文化遺物より検討するために、西アジア地域での発掘調査を目的として結成された。三ヶ日人、浜北人など日本国内での更新世時代人の調査を続けてきた鈴木らのグループが、さらに時代を遡った人類を調査するため、西アジア地域の中期旧石器時代人の遺跡に焦点を絞ったものである[鈴木一九六三]。この地域は温暖な気候により人類集団の生活に適した場をこの約百万年にわたり提供してきた。また石灰岩地帯の発達と、乾燥した気候とにより、人骨化石の保存と発見に適した地域である。

 先史学の渡辺仁は一九六〇年にイスラエルへ先発し、同国内の中期旧石器遺跡の総合調査を行った。この調査によって新たに見つけられた遺跡がアムッド洞窟遺跡である[挿図1、鈴木一九六三、Suzuki 1970a]。


[挿図1]アムッド洞窟遺跡対岸よりみる。右にそびえる柱のような奇岩からこの谷と洞窟の名アムッド(アラビア語で「柱」)が名づけられた。

 アムッド遺跡はイスラエル北部ティベリア(Tiberias)湖、一名ガリレー(Galilee)湖、の北西にある。ティベリア湖にそそぐアムッド渓谷の右岸、河口から約四キロの地点において、始新世石灰岩の崖の中腹に河床から約三五メートルの高さで南南東に向いて開いた洞窟である[挿図2、Chinzei 1970; Chinzei and Kiso 1970]。洞窟の内部と前面には堆積があり、石器とその剥片、獣骨化石を含んでいる。


[挿図2]アムッド洞窟の位置
同じアムッド谷のズッティエ(Zuttiyeh)洞窟からは若年頭骨片、ショヴァック(Shovakh)洞窟からは遊離歯が見つかっている。
エミレー(Emireh)洞窟では人骨は発見されていないが、中期旧石器の堆積がある[Chinzei and Kiso 1970改写]。

 一九六一年六月二八日にアムッド一号人骨が中期旧石器を伴う層から発見された[挿図3、Suzuki 1970a]。これは男性成人の全身骨格であり、ネアンデルタール(Neanderthal)人と呼ばれる旧人、すなわち古い型のホモ・サピエンス(Homo sapiens )、の一種のものと考えられる。アムッド遺跡の調査結果は一九七〇年に単行本として報告されている[Suzuki and Takai 1970]。


[挿図3]アムッド一号人骨出土状態人骨番号以外の数字は三次元座標値。
平面はメートル、深さ(イタリック)はセンチ単位。[Sakura 1970]。



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アムッド人の特徴

 アムッド一号は二十五歳程度の男性成人、二号は成人、三号と四号は幼児と考えられる[Suzuki 1970b]。アムッド人はヨーロッパで見つかる典型的ネアンデルタール人によく似た特徴をもつが、一方で新人、すなわち現代人に連なる形態的に新しい型のホモ・サピエンス、の特徴をも併せもつ。アムッド一号を中心としたアムッド人の特徴は次の通りである[Endo and Kimura 1970; Sakura 1970b; Suzuki 1970b]。

 典型的ネアンデルタール人と共通する特徴として次のようなものを挙げることができる。

[脳頭蓋の大きさ] アムッド人は脳頭蓋の容量が一七四〇立方センチと非常に大きい。脳容量が現代人より大きいのはネアンデルタール人の特徴であるが、アムッド人はその中でも大きく、これまで発見された化石人骨の中で最大のものである。頭の形は前後径・幅径に比べて高径が小さく、上下につぶれた形をしている[挿図4、5]。これもネアンデルタール人に見られる特徴である。特に前後径が長く、最大幅を最大長で割った長幅指数は七一・六と大変小さい。ただし頭が大きいため、高径の絶対値は現代人に比べても大きい値をとる。最大幅径の位置は現代人と比べ後ろ下方にあり、典型的ネアンデルタール人と同じ特徴をもつ。


[挿図4]アムッド1号人頭骨左側面[Suzuki 1970]


[挿図5]アムッド1号人(実線)とスクール4号人(点線)の頭骨左側面を重ね合わせた図[Suzuki 1970]

[脳頭蓋骨の弯曲と形] 上下につぶれた形をしているため、アムッド人頭骨の上半分の弯曲は現代人と比べて弱く、ネアンデルタール人に見られる平均的な形をとる。後頭部は突出する。これらのことからアムッド人の頭骨を後ろから見ると円形をしている。これは典型的ネアンデルタール人の形である。現代人は後面観が五角形の家形をとる。前頭の傾斜は強く後ろへ倒れている。これはネアンデルタール人と共通する。これにともない、この内部に収められた前頭葉の大きさは相対的に小さい。

[顔面頭蓋の大きさ] アムッド人の顔高(顔面頭蓋の上下長さ)、頬弓幅(顔幅)はともに大きく、現代人とは異なり、典型的ネアンデルタール人の特徴をもつ。眼窩の高さと幅は大変大きく、これもネアンデルタール人の特徴と一致する。鼻骨の幅は大きく、強く弯曲している。上顎部は大きい。下顎骨も大きく、頑丈である。これらは現代人と異なり、ネアンデルタール人と共通する特徴といえる。

[歯の大きさ] 切歯から第一小臼歯までの大きさは普通の現代人より大きい。歯髄腔が大きいタウロドンティズムはネアンデルタール人の特徴とされるが、遊離第二大臼歯とアムッド三号乳臼歯には大きな歯髄腔が見られる。

[四肢体幹骨の形] 肩甲骨の外側縁の後面に深い溝と稜とがあることはネアンデルタール人の特徴であるが、これがアムッド人には見られる[挿図6]。この溝は小円筋という筋の付く場所で、この筋の発達のよいことを示す。新人ではこの後面の溝は深くなく、むしろ前面が発達することが多くなる。肩甲骨が上腕骨と関節する関節窩は、上下の長さに比べ幅が狭く細長い。骨盤の形が現代人とやや異なり、特に前面の恥骨枝が長く上下に扁平であるというネアンデルタール人の特徴も存在する[挿図7]。大腿骨が太いことや上腕骨の中央部がやや扁平であることも典型的ネアンデルタール人の特徴と一致する。


[挿図6]肩甲骨外側縁断面図
上が後面。ヨーロッパのネアンデルタール人と西アジアのアムッド人、タブーン人は後面に溝があり、前面の発達が悪い。スクール人、カフゼー人、ヨーロッパの新人は後面の溝が無く、むしろ前面が発達する[Endo and Kimura 1970, Vandermeersch 1981 改写]。


[挿図7]恥骨上枝断面図
上が上面。アムッド人、タブーン人、ケバラ人、シャニダール人は細く上下につぶれている。スクール人、カフゼー人とヨーロッパの新人(オーベルカッセル[Obercassel]人)は太く、丸い[Endo and Kimura 1970, Rak 1991 改写]。

 これに対しアムッド人はヨーロッパの典型的なネアンデルタール人とは異なり、ヨーロッパの新人や現代人と共通する特徴をももっている。

[頭骨の形態] 耳の後ろにある乳様突起は胸鎖乳突筋の付くところであるが、この発達は新人以降に見られるとされる。アムッド人は大きな乳様突起をもつ[挿図4、5]。歯列弓が放物線を描き、歯列弓長が短い。これらもネアンデルタール人に少なく、新人的特徴である。

[四肢骨の長さと形] 典型的ネアンデルタール人は四肢長骨の長さが比較的短く、特に末端部が短いとされる。アムッド人の四肢骨は長く、このため推定身長も一七八センチとヨーロッパの新人化石と比べても大きな部類に入る[挿図8]。上腕骨の三角筋粗面は新人と同程度に広く発達している[Endo 1971]。脛骨断面の前後径が大きく横方向に幅狭いことによる扁平脛骨は、新人になって初めて現れ近世の狩猟採集民まで続く特徴とされるが、アムッド人でも著しい扁平が見られる[挿図9]。大腿骨中央断面もやや前後に長く、ネアンデルタール人にはあまりない形をしている。


[挿図8]体の大きさとプロポーション
実線は残存部位。ネアンデルタール人と新人との間にではなくヨーロッパの北側とイスラエルを含む地中海沿岸地域との間に差が認められる。ラシャペル(La Chapelle)はフランス発見のネアンデルタール人、コームカペル(Combe Capelle)はフランスの新人、グリマルディ(Grimaldi)はイタリア地中海岸の新人[Endo and Kimura 1970]。


[挿図9]脛骨栄養孔位断面図
上が前。a-前縁、i-骨間縁、p-内側縁。ヨーロッパのネアンデルタール人であるスピー(Spy)人、西アジアのタブーン人、シャニダール人は前後径と比べて横幅の広い断面をもつ。アムッド人とヨーロッパの新人は前後に長く横方向から見て扁平な断面をもつ。スクール人はある程度扁平なものと幅の広いものとが混在する[Endo and Kimura 1970, Trinkaus 1983 改写]。

 アムッド人は典型的ネアンデルタール人と新人との中間的特徴を多数示している。これらのなかには次のようなものがある。

[脳頭蓋の形] 頭の上部はネアンデルタール人のようにつぶれていたが、後頭骨の下部、側頭骨鱗部、前頭部などの弯曲は典型的ネアンデルタール人としては強く、新人との中間の丸みをもつ。これらのことから大脳の側頭・後頭部は大きく発達している。眼窩上隆起の発達していることはネアンデルタール人までの古い人類の特徴である。アムッド人にもこの隆起があるが、その発達は典型的ネアンデルタール人と比べ弱く、すでに眼窩上溝によって二分されて、その外側半には退化のきざしがある。

[顔面頭蓋の形] 典型的ネアンデルタール人の眼窩上縁は眼窩上隆起にそのまま移行するため丸く鈍であるが、アムッド人の場合は現代人のような鋭い線で区別されている。典型的ネアンデルタール人では新人の上顎骨体部にはみられる犬歯窩と呼ばれる窪みがないことにより、中顔部全体がくさび型に前につき出して見える(楔状顔)。アムッド人では犬歯窩位置が破損していてよく分からないが、多少窪んでいるようであって、強い中顔部のつき出しは見られないようである。下顎骨の前下端にあるオトガイは新人になって現れるとされる。アムッド人にはすでにごく弱いながらオトガイの存在が認められる[挿図4]。

[歯の大きさ] 新人以降はすべて下顎の第二小臼歯が第一小臼歯と比べはっきりと小さくなるが、アムッド人の第二小臼歯はかなり小さい。歯列弓が短くほぼ現代人なみで、下顎骨が大きいため下顎第三大臼歯の後方に隙間が存在する。アムッド一号人骨ではネアンデルタール人の特徴とされるタウロドンティズムが顕著には見られない。

[四肢体幹骨の形] 肋骨が厚く、断面の丸いことはネアンデルタール人によくみられる特徴とされる。ただし新人でも太い個体が存在する。アムッド人の第十一、十二肋骨は丸い特徴を示すが、他の肋骨は薄い。四肢長骨の弯曲が強いこともネアンデルタール人の特徴とされるが、アムッド人では新人程度にまっすぐな骨が多い。指の長骨の末端が太いことはネアンデルタール人の特徴とされることがあるが、新人化石でもやや太いものが存在する。アムッド人はやや太い程度である。

 以上挙げてきたようにアムッド人はネアンデルタール人の仲間に入る特徴をもつとはいえ、詳しく見るとその特徴が弱かったり、新人や現代人的特徴を既に備えていたりするところがある。ネアンデルタール人としては進歩型のものと考えられる。

 アムッド人が生きていたときの体つきは、まず特に前後に大きな頭が目につくであろう。顔も大きく、頭が上下に低いだけによけい大きく見える。顎は頑丈である。むし歯はない。歯がかみ合わせに従ってすり減っている。うなじの筋は典型的ネアンデルタール人ほどは発達せず、むしろ前部の胸鎖乳突筋が発達している。首の動きが活発であったろう。上腕を動かす三角筋と小円筋とがともに発達している。腕を力強く正確に使っていたであろう。たとえば物を投げる動作も得意であったであろうと想像される。上肢の骨は右側が左より大きな部位があり、右利きであった可能性がある。大腿部の使い方はやや特殊で内転筋群をよく用いていたらしい。下腿の屈筋群は発達し、強く速い移動運動をしていたものと思われる。これは新人以降近代まで続く狩猟採集民の活動と似たところがあったのではないかと考えられる。

 遺跡からは動物を食料とした跡が骨としてでてくる。ただし交連した骨格は見あたらず、四肢と頭の骨だけが多い。三五メートルもの崖の上へは解体した部分を持ち上げたのであろう。四肢の骨は砕かれたものが大部分であり、この場で骨髄まで食べていたことをうかがわせる。石器の他に、石器を作るときにはぎ取られた剥片が多量にみつかる。石器の製作もこの遺跡で行われていたのであろう。あとから述べるように乳児から大人までの埋葬の様子がある。アムッド洞窟はアムッド人にとって、食事の場であり、道具製作の場であり、墓場でもあった。この川にのぞむ高く安全な洞窟で、一生の生活が営まれたのであろう。



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新人の起源と広がり

 現在地球上に分布する我々すべての人類は一つの種に属している。この現生人がいつどのように形成されたかということは我々自身の問題であり、我々が興味をもたざるを得ないところである。現生人の直接の祖先と考えられる新人の起源とその世界中への広がり方については、現在大きく分けて二つの説が対立し論争が続けられている[挿図10、Akazawa et al. 1992. Bräuer and Smith 1992; Mellars and Stringer 1989; Nitecki and Nitecki. 1994]。


[挿図10]多地域進化説とアフリカ単一起源説
代表的な化石人骨名を記入してある。
多地域進化説では各地域間の交流(太い実線)を、アフリカ単一起源説ではアフリカ以外の地域での旧人の絶滅を想定している。

 第一の説は多地域進化説と呼ばれる。今から約百万年前に原人またはホモ・エレクトス(Homo erectus )と呼ばれる人類が、それまでヒトの故郷であったアフリカ大陸からユーラシア大陸へと初めて進出した。この説においては、それ以降の人類はアフロユーラシア大陸の各地域ごとに現生人へと進化してきたとする。一方で旧大陸全域におけるヒトの遺伝的交流は約百万年にわたって続いているとする説である。しかし現在の人種特徴にあたるような形態上の特徴が、各地域ごとに連綿として継続して認められると考えるものである。

 第二の説はアフリカ単一起源説と呼ばれる。この説によれば、現生人類の直接の祖先である新人はアフリカにおいて旧人から発生し、それが再びアフリカから出て全世界に広がったとする。広がる以前にユーラシア大陸に住んでいた旧人は、この新しい移住者にとって代わられ絶滅したものと考える。

 第二の説の根拠は、まず現在見つかっている最古の新人らしい化石はアフリカの十数万年前の層から出ているとされることにある。次に旧人から新人への連続性が、特にヨーロッパと西アジア地域、すなわち旧人ネアンデルタール人の住んでいた地域では考えにくいという点にある。ヨーロッパにおいて、最も新しいネアンデルタール人はフランスのサンセゼール(Saint-Césaire)で見つかり、約三万五千年前のものと考えられる。一方この時期には既に東欧において新人が現れている。サンセゼールにおいてもこの人骨のすぐ上の新しい層からは新人が用いたと考えられる後期旧石器文化が出てくる。このような短期間にネアンデルタール人から新人へと形態的変化をとげる進化があったとは考えられない、というのがこの説の立場である。アフリカからアジアへの出口にあたるイスラエルにあるスクール(Skhul)、カフゼー(Qafzeh)の両遺跡から見つかった人骨群は約十万年前のものとされるにもかかわらず、形が新人的であるとされる。ヨーロッパにおける新人化石と後期旧石器文化の出現には、東が早く西が遅いという地理的勾配がある。アフリカから西アジア地域を経てヨーロッパへ渡った新人が東からネアンデルタール人にとって代わりながら西へと進み、その果てがサンセゼールだったというシナリオが書かれている。

 今一つ、アフリカ単一起源説を支持する大きな柱は、最近進んできた分子進化の手法による解析である。R・L・キャンらは各種現代人のミトコンドリアDNA遺伝子を用いて近縁関係を調べた結果、最も祖先形に近いものは現代アフリカ在住民であるとした[Cann et al. 1987]。そしてこの遺伝子の進化速度が一定とした場合、現代人の祖先は約十−二十万年前の一種類の型に収斂すると考えた。ミトコンドリアDNAは母親のみから遺伝するので、この説はアフリカのイブ(人類祖先の単一母親)説として有名となった。その後、その他いくつかの遺伝子の近縁関係に関する調査からも、現生アフリカ人が推定される祖先型と最も近いという結果が主張されている。

 第一の多地域進化説を支持する根拠は、化石人骨においても、文化遺物の上からも、このような連続性が旧大陸各地域ごとに存在することである。特に東アジアとインドネシアなどの東南アジアからオーストラリアにかけてとの二地域においては、化石において原人、旧人、新人と連続する形質が各々で見つかっている。この場合の旧人はネアンデルタール人ではない。ネアンデルタール人はヨーロッパから西アジア地域に限定された地域的旧人である。もし人的入れ替わりがあったとすれば、これらの形質は、同じ地域で再度獲得されたこととなる。そのようなことが多地域に起こったことは考えにくいことである。またアフリカの新人の特徴が三−五万年前に突然これら東部アジアの二つの地域に広まったという証拠はまったく見当たらない。文化的にも東部アジア地域においては地域ごとの連続性は見られても、突然の文化的入れ替わりの証拠は見られない。文化遺物は人骨化石とは桁違いに多くの遺跡で調べられているにもかかわらず、この結果である。

 多地域連続説へ対する批判は大きく分けて二つある。一つは根拠とされる形質の連続性に対する疑問である。東部アジア地域における化石人骨は必ずしも正確な年代が分かっていないものが多い。各地域で連続するとされる形質については、程度の問題であって他の地域でも見つかる、すなわち地域特徴ではない、という考えもある。二つめは、このような多地域において全世界に共通する新しい人類へと進化が進む、という遺伝学的モデルが考えにくいということにある。急速な進化があるためには、小集団が遺伝的に隔離された状態になければ難しいとされる。

 アフリカ単一起源説への批判は、東部アジア地域の進化が説明できないことのみならず他にもある。ヨーロッパにおいても、化石人類の形質、文化ともに旧人から新人へとの連続性が示されているとされる考え方がある[Smith 1984]。アフリカの新人もまた年代的には不確実なものが多い。アフリカで見つかっているものが本当に最古の新人であるかどうかはまだ議論の余地がある。分子進化の手法は現生生物の近縁関係を推定するには有効であるが、過去の年代決定はできない。ここで主張されている年代はすべてまず何らかの化石の年代を基準として、別なところへ当てはめることにより計算された数字であって、推定誤差をかなり含む。これらの計算の手法についてもまだ検討の余地は多数あり、現生アフリカ人が最も先祖型に近いわけではないとの説もある。そもそも現代の近縁関係から起源の場所を特定できるのかという問題もある。ミトコンドリアDNAは母系のみの遺伝形質なので父母両方の遺伝を考えればこの年代は倍となる。もし単一祖先の時期が約二十万年前ならば、これは旧人の起源の時期を示すこととなる。もし計算の誤差がありアフリカ単一起源が約百万年前まで遡るとすれば、この単一起源とは原人の出アフリカを示していることとなる。したがって多地域進化説との矛盾はなくなる。

 アフリカ単一起源説においても、原人から旧人への多地域進化は普通容認される[挿図10]。もし旧人のアフリカ単一起源を主張すれば、三回の出アフリカと二回のユーラシア大陸における既存の人類の絶滅とを主張するか、さもなくば原人と旧人とを同一群であるとしなければならず、どちらもあまりに無理となるからであろう。原人から旧人への多地域進化が理論的に可能であるなら、旧人から新人への多地域進化も理論的には認められるべきであろう。これまで遺伝学の立場からは、旧人の起源も新人の起源も過去の人類群を混在したままの発言が多く、この別が明解にはなっていないので注意を要する。

 どちらの説をとるにしても、形質が似ているか似ていないかについての議論が一致しない部分が存在する。またたとえ似ていたとしても、そのことが系統の近縁関係を示すとは限らない。別系統における平行進化かもしれない。あるいは古い形質が残存しているだけで、ずっと遠い共通祖先をもつことを示すのみかもしれない。また骨格の丈夫さや、筋付着部の発達には個体レベルでの生活環境に対する適応的変化が含まれるので注意を要する。しかしある部位がそのような適応をするための、またはしなければならない背景となる基本的形質には系統的意味がある。

 現在のところこの二つの説のどちらが妥当であるかについての決着はついていない。遺伝学の成果を背景にユーラシア大陸での旧人の絶滅を主張するアフリカ単一起源説が有力となってはいるが、それでは説明できないところが多い。この説明のために現在かなりの数の研究者は、極端な単一起源説も極端な多地域進化説もどちらもとらず、中間の立場をとろうとする。すなわち、アフリカで最初の新人が現れ、その影響がユーラシア大陸に広まったことは認めながら、その地域にいた旧人の現代人への影響も認めるという立場である。この考えはユーラシア大陸の旧人の遺伝子の残存を想定しており、アフリカ「単一」起源説とは矛盾するものである。



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西アジア中期旧石器時代人

 新人の起源の論争において問題点が鮮明となるのは、一つには旧人であるネアンデルタール人と新人との関係であり、今一つはアフリカからユーラシアへの出口である西アジア地域である。アムッド人を含む西アジアの中期旧石器時代人は、この問題についての重要な検討資料となる[挿図11]。


[挿図11]西アジアの人骨が発見された主な中期石器時代遺跡
東京大学西アジア調査団の発掘した人骨の出ていない中期旧石器遺跡も追加(ドゥアラ[Douara]およびケウエ[Keoue]遺跡)。

 西アジアにおける中期旧石器文化は基本的にはヨーロッパのネアンデルタール人にともなうムステリアン(Mousterian)文化と似る。ただしこの地域に独特の変異が認められる。

 先に西アジアの古い新人とされたスクールとカフゼーの人骨群はこのムステリアン文化をともなっている。その文化内容は近くの西アジアのネアンデルタール人骨にともなう文化、例えばタブーン(Tabun)遺跡のものとよく似ている。すなわち両者の生活にはほとんど差がなかった。アフリカ単一起源説によれば、ヨーロッパでは新人は新しく進んだ技術・文化をもつことにより、旧人にとって代わることができたとされる。西アジアにおいてこれがあてはまらないとすれば、ヨーロッパにおける解釈にも疑いが生ずる。なお東部アジアにおいて、新しい技術の流入がこの時期には認められないことは先に述べた。

 スクールとカフゼーの人骨は多数有り、その中に多くの変異を含んでいる[McCown and Keith Vandermeersch 1981]。これらがヨーロッパの典型的ネアンデルタール人と異なることは認められてきたが、新人であると主張されだしたのは近年のことである。新人とされる根拠には次のようなものがある。

 脳頭蓋の形[挿図5]は高さが高く、前後径が短く、前頭の傾斜が少なく、後面観が家型を示す。これらは新人以降の現代人の特徴である。顔面頭蓋は中顔部の突出が少なく、犬歯窩がある。これらもまた新人以降の特徴を示す。歯の大きさも現代人に近い。四肢骨は長さが長く[挿図8]、弯曲が少ない。大腿骨断面の前後径が長く、後部が突出する柱状大腿骨がしばしば見られる。脛骨・腓骨にも扁平性が見られることがある[挿図9]。これら四肢骨の特徴はヨーロッパの新人にしばしば見られるものである。スクールとカフゼーの人骨の肩甲骨外縁形[挿図6]、恥骨断面形[挿図7]もネアンデルタール人的ではなく、新人以降によく見られる形をしている。

 一方、スクールとカフゼーの人骨のなかにはネアンデルタール人、あるいはそれ以前から続く古い形質も残しているところがある。このような特徴として次のものを挙げることができる。

 眼窩上隆起が存在する[挿図5]。これらはアムッド人よりはさらに弱いものが多いが、新人以降のものとは異なりかなりの発達を示すものがある。オトガイは存在するが、その発達の比較的弱いものがある。カフゼー八号人骨の第四肋骨は太い。ただしスクール人の肋骨は薄く現代的である。スクール、カフゼーともに肩甲骨関節窩の形は上下に細長く、ネアンデルタール人的である。スクール九号の恥骨はネアンデルタール人と同じほど長い。

 タブーン洞窟遺跡はスクール遺跡からわずか二〇〇メートルほどしか離れていないところにある[McCown and Keith 1939]。中期旧石器とともにここで見つかったタブーンC1人骨は女性でネアンデルタール人としては小さい。その他にも部分的な骨が見つかっている。C1人骨は眼窩上隆起が強く発達し、前頭が後ろへ傾斜しているところ、オトガイのないところ、四肢骨が太く短いところ、肩甲骨外側縁の形[挿図6]、恥骨枝断面の薄いところ[挿図7]、肋骨のまるいところ、など典型的ネアンデルタール人の特徴を多くもっている。

 タブーン遺跡からさらに一三キロ南、スクール、タブーンと同じくカルメル(Carmel)山腹にあるケバラ(Kebara)洞窟遺跡からもネアンデルタール人骨が見つかっている[Bar-Yosef and Vandermeersch 1991]。そのうちケバラ二号の人骨は頭蓋骨と下肢骨の大部分がないが、上肢と体幹骨がよく残っている。下顎第二小臼歯が第一小臼歯よりも大きいこと、恥骨枝が長く薄いこと[挿図7]、上腕骨三角筋粗面の狭いことなど、典型的ネアンデルタール人の特徴を備えている。肋骨は第六以下でやや太い程度である。下顎は頑丈ではあるが、オトガイが認められるようでもある。上肢骨の長さは長く、身長も高かったと考えられる。この長さはアムッド人、スクール人などと共通する特徴と考えられる。

 ケバラ人に特別なことは舌骨が見つかったことである。舌骨は下顎骨と甲状軟骨(のどぼとけ)との間にあり、舌筋群など口蓋底と咽喉頭の筋の付着する骨である。小さく薄いため普通は化石として残りにくい。ここで見つかった舌骨は現代人と比べ頑丈ではあるが形に変わりはない[Arensberg et al. 1981]。すなわち舌骨周囲の筋などの大きさと位置が現代人と変わりなく、音声を出すことにも変わりなかったことを示す。これは一時唱えられた、ネアンデルタール人は喉の形が現代人と違っていて音声言語を話せなかった、という説を完全に否定するものである。

 西アジア地域での中期旧石器時代の成人化石人骨は、イラク東部のシャニダール(Shanidar)洞窟遺跡からも見つかっている[Trinkaus 1983]。頭蓋骨の形はアムッド人に似たところが多い。四肢骨に扁平性はない[挿図9]。アムッド人ほどではないが、四肢骨が比較的長い。恥骨枝の形と長さはネアンデルタール人的である[挿図7]。肩甲骨外縁の形もネアンデルタール人型を示す。これらのことから、シャニダール人骨も典型的ネアンデルタール人よりはやや進歩的特徴をもつと考えられる。

 このように見てみると、西アジア地域においては文化的に中期旧石器の時代にも形質にいろいろな変異のある成人人骨が見つかっていることが分かる。古い形質と新しい形質とをモザイク状にもつ人骨が多い。したがってヨーロッパの典型的ネアンデルタール人よりは新人に近い特徴を示す。その変異は最も典型的ネアンデルタール人に近いタブーンから、ケバラ、シャニダール、アムッド、スクール、カフゼーの順に連続して新人的要素が増していると並べることができる。これらの間には形質の連続性が認められる。もしこれらの人骨の年代がこの順序に新しくなれば、西アジア地域においては、典型的ネアンデルタール人から新人へとの進化がなめらかに進行したとなるわけであるが、事態はそれほど単純ではない。

 いま問題としている西アジア中期旧石器の時代、約四万年から約十万年前までは、環境に影響されにくい放射性同位元素を用いて物理年代を決定することが難しい時代である。C14年代法には古すぎ、ウラニウム系列には新しすぎる。これらの測定も行われてはいるが信頼性に限度がある。したがって熱ルミネッセンス法、ESR(電子スピン共鳴)法など環境要因に影響されやすい年代決定法による年代推定が主体となっている。これらの方法では、異なった場所間や、大きく年代の離れた層序間での比較をすることに難しさがある。これらかなり確度の低い方法で調べた限りでは、人骨の年代は古い方からタブーン、スクール、カフゼー、シャニダール、ケバラ、アムッドの順となるように見える[Bar-Yosef 1994]。すなわち最も新しい型を示すスクールとカフゼー人が、ネアンデルタール的要素の強い人よりも古い年代に存在していたこととなる。

 この結果はアフリカ単一起源説を支持するものとみえる。西アジアにはもともと旧人がいたが、アフリカで生まれた新人がユーラシア大陸への出口である西アジアに十万年ほど前に既に到達した。しかしその後ヨーロッパからこの新人とは系統関係にないネアンデルタール人がやってきて住み着いた。ヨーロッパの勢力とアフリカ勢力の間で進退があり、その波のあとが西アジア地域に残ったと解釈される。このような移住の波があったことは化石動物の分布によっても推定されている。ただしこの説ではスクールとカフゼーの人骨が他の遺跡と同様のムステリアン文化をもっていることの説明はつけにくい。

 多地域進化説の立場からすれば、これらの形質変異は、まさに西アジア地域において旧人から新人へとの進化が行われた、生みの苦しみを示しているように見える。多くは地中海沿岸の狭い地域に集中して、これだけの連続した変異があることの説明として、進化の途中を示しているか、二つの集団の混血状態を示しているか、の二つが考えられる。もし混血を認めるとすれば、これはユーラシア大陸の旧人遺伝子の新人への流入を意味し、アフリカ単一起源説を否定することとなる。西アジア地域での進化を認めるとすれば、東アジア、東南アジア、そしてアフリカ以外に、西アジア地域においても旧人から新人へとの進化が行われたこととなり、まさに多地域進化を証明したこととなる。

 ヨーロッパの典型的ネアンデルタール人の特徴とされる、骨の太さなどの体の頑丈さ、四肢特に末端部分の短さ、大きな中顔部などは、寒冷な気候に対する適応的形態であるとも考えられている。一方、四肢骨がまっすぐで、長く、身長が高いという特徴は、スクール、カフゼーを含めた西アジア中期旧石器時代人に広く共通する特徴である。この温暖な気候地に対して同様の適応が時代を通じて行われたとの見方もできる。このような特徴は地域的連続性の立場からは、新人的特徴とみるより地域的特徴と捉えることもできる。

 西アジア地域の中期旧石器時代人はこのように多くの資料に恵まれながら、その系統的解釈については決着がついていない。筆者はネアンデルタール人的な型から新人的な型への連続性を重視する立場にあるが、これに対する反対意見も強いことはここまで述べてきた通りである。現在のところアムッド遺跡の年代がはっきりと確定できていないことは残念なことである。アムッド人の持つ典型的ネアンデルタール人としての特徴と現代へと続く新人的要素との混在性は、今後とも我々現代人の起源を考えるための重要な資料を提供する。



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アムッド遺跡のその後

 一九九一年から九四年にかけてアムッド遺跡の再発掘がラック(Y. Rak)らイスラエルの研究者によって行われた[Hovers et al. 1995; Rak et al. 1994]。この調査によってアムッド五−十八号と名付けられた人骨が見つかっている。大部分は破片であるが、中期旧石器の包含層から出土したアムッド七号の乳児骨格は体のかなりの部分が残っており、ネアンデルタール人の特徴を示している。この人骨は、本文では触れられなかった乳幼児における旧人と新人との関係を研究するに貴重な資料である。今後の研究成果が期待される。

 数多くなってきた人骨の発見場所を遺跡の地図におとすことによりその分布が調べられた[挿図12、Hovers et al. 1995]。人骨は北東側の洞窟壁よりに多いのではないかと見られている。全身骨格のアムッド一号成人は屈身横臥の姿勢で見つかった[挿図3、Sakura 1970a]。アムッド七号乳児骨格はアムッド一号と同じく頭が北西に位置し、基盤の上で洞窟壁に隣接して出てくる。腰の上にはアカシカの上顎骨が見つかり、これは副葬品ではないかと考えられている[Hovers et al. 1995]。アムッド九号成人は左の膝から下しか見つからないが、これらは自然の関節状態にある。これらのことからアムッド遺跡においては他のネアンデルタール人遺跡と少なくとも同程度に埋葬儀礼が行われたものと考えられている。


[挿図12]アムッド遺跡の発掘箇所と人骨発見位置
No. 6人骨は歴史時代のもので、中期石器時代人ではない。格子の数字は平面座標値(単位:m)[Hovers et al. 1995 改写]。

 再発掘が可能であった理由は、東京大学西アジア調査団が将来の研究段階、研究手段の発展をみこして、半分以上の堆積を再発掘のために残しておいたからである[挿図12]。ラックらの発掘もまた将来のために堆積を残して終了した。旧人から新人への移行がどこでどのようにして行われたかはまだなお謎である。この問題に解決を与えるため、再びアムッド遺跡の発掘が行われる日が来ることであろう。


[追記]

 本稿脱稿後の一九九七年七月、ペーボらはネアンデルタール人ミトコンドリアDNA一部配列の解読結果を初めて発表した[Krings, M., Stone, A., Schmitz, R. W., Krainitzki, H., Stoneking, M. and Paabo, S., 1997. Neandertal DNA sequences and the origin of modern humans. Cell 90:19-30]。ネアンデルタール人として最初に記載されたドイツ出土男性人骨の配列は、約千人の現生人のものと比べかけ離れたものであった。また現生人の配列のなかで比較的近いのはアフリカ人のものであった。この結果はヨーロッパネアンデルタール人絶滅説と現生人類のアフリカ起源説とを支持するものである。今後の、とくに西アジアネアンデルタール人に関する研究の発展が待たれる。




【引用文献】

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566a

566b


566c

566d

566-アムッド一号人骨、イスラエル、アムッド、ムステリアン期、人類先史部門
 a-アムッド一号人骨の出土状態。土圧でつぶれていた(一九六一年)
 b-発掘前のアムッド洞窟。洞内から外をみる(一九六一)。
 c-アムッド一号人骨復元完成を伝える記事(『朝日新聞』一九六二年一二月八日)
 d-第二次東京大学西アジア洪積世人類遺跡調査団出発を伝える記事
 同じ年、東京オリエント学会もイスラエルへ遺跡調査団を派遣した
 (『朝日新聞』一九六四年五月六日夕刊)




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