ターク・イ・ブスターンの摩崖浮彫

図像解釈学的試論

田辺 勝美
金沢大学文学部




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はじめに

 イラン西北、ケルマンシャー市北郊のザルド・クー山(Zard-kuh)の麓にターク・イ・ブスターン(Taq-i Bustan 楽園のアーチ)と呼ばれている遺跡があり、ササン朝の中期と後期の摩崖浮彫が残っている[挿図1]。この地はイラクのテシフォン(ササン朝の首都、バグダードの南方)とライ(現テヘラン)、ホラサン、中央アジアを結ぶ幹線道路に面し、シャープール二世(在位三〇九−三七九)以後のササン朝の帝王たちの避暑地と見なされている[Truümpelmann 1987, p. 339]。


[挿図1]ターク・イ・ブスターン遺跡の全景

 摩崖浮彫は三点あるが、それぞれ、アルダシール二世(三七九−三八三)の叙任式図、シャープール二世・シャープール三世(三八三−三八八)の親子像を安置した小洞窟、ペーローズ王(四五七−四八四)ないしホスロー二世(五九一−六二八)が創建したと言われる大洞である。

 このように各浮彫は特定の国王の名前と結び付けられているが、その創建年代については必ずしも明らかではなく、また、浮彫の内容にも不明な点があって、これらの摩崖浮彫の全ての全貌が解明されているわけではない。この遺跡については、昭和四−五年に和田新が単独で調査を試みたが、戦後一九六五年に東京大学東洋文化研究所「東京大学イラク・イラン遺跡調査団」が本格的な調査を他国に先駆けて開始した[和田一九四五、深井・堀内一九六九、一九七二]。筆者も、「東京大学イラク・イラン遺跡調査団」(団長=故深井晋司教授)が一九七六、七八年に行なった調査に参加し、その調査報告書の執筆に参画し[深井他一九八〇、Fukai et al. 1983, 1984]、その後幾つかの問題に関して研究を試みた[田辺一九八〇、一九八二、一九八三、一九九五a、b、c、Tanabe 1983, 1985]。また欧米やイランの学者もその後、興味深い研究論文などを発表している。

 このような研究成果を踏まえ、以下においてターク・イ・ブスターンの摩崖浮彫の問題点に関する筆者の図像解釈学的な考察の結果を簡潔に述べてみよう。個々の作品の細部に関する説明や美術史の様式的な問題は紙数の関係上、割愛したい。詳細は上述した調査団の報告書第三、四巻[Fukai et al. 1983, 1984]や筆者の研究を参照されたい。



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アルダシール二世叙任式図浮彫

 ほぼ長方形の枠(三・四四×四・六〇メートル)[挿図2]の中に三人の人物の立像、その外枠の下部にもう一人の人物の横臥像が描写されている[Vanden Berghe 1984, p. 144, p. 36]。向かって右端の立像がオールムズド神、中央の人物がアルダシール二世、左端の人物がミスラ神と比定されている。横臥像はシャープール二世の軍隊と三六三年にテシフォン(イラク、バグダード南方)付近で戦って敗死したローマ皇帝ユリアヌス二世(三六〇−三六三)と見なされている[Erdmann 1943, p. 63; Trümpelmann 1975; Nicholson 1983]。中央のアルダシール二世の王冠は同王のコイン表に刻印された胸像のそれ[挿図3b、4]とは異なるので、一時はアルダシール一世(二二四−二四一)と解釈されたこともあったが[Sarre/Herzfeld 1910, p. 200]、エルンスト・ヘルツフェルトがアルダシール二世であることを明らかにした[Herzfeld 1920, pp. 61-62]。一方、レオ・トリュンペルマンは一九七五年にシャープール二世と解釈する新説を発表したが、それはゲッティ・アザルパイ、ピエール・ルコック、ルイ・ヴァンデン・ベルヘなどの採用するところとなっている[Azarpay 1982; Lecoq 1984, p. 315; Vanden Berghe 1984, p. 144]。また、右端のオールムズド神に関しても、ピーター・カルメイヤーがシャープール二世であると見なす新説を発表し、シャープール・シャーバジなどが賛意を表明している[Calmeyer 1977, p. 187-88; Shahbazi 1985]。


[挿図2]アルダシール二世叙任式浮彫実測図


[挿図3]ササン朝帝王の王冠形式図


[挿図4]アルダシール二世ドラクマ銀貨 表、個人蔵

 このように、この浮彫においては、国王像とオールムズド神像に重要な問題点がある。それ故、この二点の像について検討してみよう。まず、アルダシール二世像であるが、頭部に大型のディアデム(正当な王位の標識)を巻いているが、三等分された頭髪はむき出しで、ササン朝の帝王が通常付ける布で頭髪を覆っていない点に問題がある。アルダシール二世のコインの刻印された胸像[挿図3b、4]では、頭部とその上の球状の髷には布が被せられ、その布には天空を意味する三点文(三星文)が表されている[Göbl 1971, pl. 7]。この髷を覆う球体装飾は宇宙(地球)の支配者たる「諸王の王」のシンボルであると考えられる[Göbl 1971, p. 8, “Globe”]。それ故、このような球体装飾を付けていない帝王像は「諸王の王」とは見なしがたいのである。この点に着目し、かつササン朝の帝王の王冠形式はゾロアスター教の神(オールムズド、アナーヒター、ミスラなど)の冠と密接に関係しているという前提に基づき、トリュンペルマンはこの立像をシャープール二世と見なしたのである。彼の根拠は更に、下方の死体がユリアヌス三世であるという点、右端の人物像の城壁冠(オールムズド神の冠)及びその下方の一列の巻き毛がシャープール二世[挿図3a]とオールムズド一世(二七二/二七三)のコインの胸像にしか見られない点にある[Göbl 1971, pls. 3, 6, 7]。すなわち、この「叙任式図」はシャープール二世の戦勝(対ローマ戦)に関係したものであるというのである。とすれば、この浮彫はシャープール二世がローマ戦に勝利を収めた三六三年から三七九年の間に製作された蓋然性が極めて大きいことになり、従来のアルダシール二世在世中の創建という定説を覆すような大問題を提示する(筆者はアルダシール二世の即位以前と推定するが、その根拠は第4節を参照されたい)。

 しかしながら、この見解では左端のミスラ神の存在理由を説明できない。それ故、アザルパイは、このミスラ神は、シャープール二世とローマ皇帝ヨヴィアヌス(三六三/三六四)が三六三年に締結した講和条約(領土の割譲)が履行されるのを監視するために挿入されたと解釈したのである。ミスラ神の職能が「契約履行の監視」にあることは自明である[Thieme 1975, p. 28; Azarpay 1982, pp. 185-87]。これに対して、カルメイヤーは、右端の人物は神オールムズドではなく、没後のシャープール二世であると見なし、この浮彫は兄のシャープール二世が王位を弟のアルダシール二世に禅譲することを表していると解した。この解釈の根拠は、シャープール二世とアルダシール二世が共同でユリアヌス帝に勝利したこと、フィルドゥシーの『王書』(十世紀)にシャープール二世がアルダシール二世に譲位したと記されていること、イラン南部のハージーアーバードで発掘されたシャープール二世胸像[Azarnoush 1993, pp. 102-105, figs. 80-81, pl. VII]とこの浮彫の右端の像が酷似しているなどの点にある。

 更にデーヴィッド・マクドナルドはこの像をオールムド神とシャープール二世の複合像と見なした[Macdonald 1978/79]。

 このように矛盾する両解釈をどのように折衷するか、それが問題である。筆者は、その解決はこの浮彫の研究だけでは不可能であると考え、この浮彫の隣の小洞のシャープール二世と三世の父子像と結び付けて解釈を施さねばならないと想定して考察を試みた。それ故、この浮彫の結論は小洞の彫刻の問題点を指摘した後に行ないたい。



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小洞のシャープール二世、三世像

 高さ五・五メートル、幅五・七五メートルの洞窟の奥壁に段を設け、親子の立像を配している[挿図5]。その左右にパフラウィー文字銘が刻まれ、そこにシャープール二世、シャープール二世の息子のシャープール(三世)の名前が存在するので、国王像の比定に関してはほぼ問題はなかろう。両像の右腰の短剣はその鞘に四個の円形装飾を施した点に特色があるが、それ及び、裾が半円形に湾曲したエプロン型上着(apron-shirt)については拙論を参照されたい[田辺一九八五b、一九九五]。


[挿図5]シャープール2、3世立像実測図、小洞

 向かって右のシャープール二世は、コインに刻印された胸像[挿図3a]とほぼ同じ像容(頭部)で描写されているが、ディアデムの上方には一連の巻き毛ないし連珠文が施されていない点が異なる[深井・堀内一九七二、pl. LXIX; Göbl 1971, pls. 6, 7]。無論、シャープール二世のコインの胸像の中には、このような巻き毛、連珠文を欠く例も若干あるので、それらのコインに刻印された胸像とは一致すると言えよう。もし、このタイプのコインがシャープール二世在位中どの時期に刻印されたかが判明すると、この浮彫が製作された意義を考察する場合重要な示唆を与えてくれるが、それは現状では望みえない。

 問題は左の王侯像にある。この立像はシャープール三世を表している蓋然性が大きいが、その場合ですら彼が「諸王の王」として即位した後の姿か、それ以前の姿か判然としない。パフラヴィー文字銘には「諸王の王」と明記されてはいるが[和田一九四五、七一頁、Kamioka 1984, pp. 164-65]、その王冠形式はシャープール三世が発行したコインに刻印された胸像[挿図6]のほぼ二種類の王冠形式[挿図3c]とは全く異なるのである[Göbl 1971, pl. 8]。それ故、この王冠形式の相違が重要な意味を秘めていると考えざるをえない。


[挿図6]シャープール3世ドラクマ銀貨、個人蔵

 この浮彫のシャープール三世の王冠形式は、正面に三日月の前立を付け、円文を充填した被りもので頭髪を覆った形式である[挿図5、深井・堀内一九七二、pl. LXVII; Fukai et al. 1983, pls. XXII-XXIII]。これに酷似した王冠形式はシャープール二世が発行した金貨の表の王侯胸像[挿図3a右端]とバフラム四世(三八八−三九九、シャープール二世の息子でシャープール三世の兄弟)及びヤズドガルド一世(三九九−四二〇、シャープール三世の息子)の金貨の表の国王胸像[挿図3d、e]に見られる[Göbl 1971, pl. 7-no. 113, pl. 8-no. 143, pl. 9-nos. 151-152, tab. XIV]。特に、三日月の前立てを付けているのはヤズドガルド一世の王冠である。しかしながら、パフラヴィー文字銘の存在により、バフラム四世やヤズドガルド一世の金貨の胸像とこの浮彫との関係は極めて希薄であるので、この浮彫とシャープール二世金貨の王侯胸像との関係が問題となろう。

 このように頭髪を三等分せず丸髷も結わない状態で半円形の冠を戴く姿[挿図3a右端]は、金貨という点を併せて考慮すると、皇太子に任命された姿か或いは帝王に指名された姿(帝王として即位する以前)を表しているとも考えることができる。シャープール二世の金貨の銘はヘルツフェルトによれば、「シャープールの息子」と記されているという[Herzfeld 1938, p. 113, Taf. IV-2]。もし、この解読が正鵠を射ていれば、これはシャープール三世ないし別の息子(シャープール)がシャープール二世によって皇太子ないし後継の帝王に任命された時を記念して発行されたものとなろう。このような可能性を考慮すると、この浮彫のシャープール三世像は、シャープール三世が帝王として即位した或いは戴冠式を挙行した後の姿ではなく、寧ろ皇太子の時代の姿を描写していると考えることができよう。少なくとも、その王冠形式は即位した後の姿ではないのである。

 とすれば、この浮彫もシャープール三世の治世間ではなく、アルダシール二世の浮彫[挿図2]と同じく、シャープール二世の晩年に製作されたのではないかと推定できるのである。このように考えると、シャープール二世からアルダシール二世、シャープール三世へと王位が継承されていった王家の内紛——王位継承をめぐる争い——が頭に浮かぶのである。事実、シャープール二世とアルダシール二世の間には王位継承を巡って抗争があったことがイスラム時代に著された史料によって窺うことができるのである。フィルドゥシーの『王書』に最も具体的に記されているが、アルダシール二世はシャープール二世の弟で、シャープール二世の実子シャープール三世がまだ幼少であったので、彼が成人したらシャープール三世に王位を譲るという条件で、シャープール二世はアルダシール二世に暫定的に王位を授与したと言う[Warner 1912, pp. 360-64]。アルダシール二世とシャープール二世の血縁関係については、別の史料では兄弟としている[Nöldeke 1879, p. 69; Zotenberg 1900, p. 532]。或いはアルダシール二世はサカスターン(現アフガニスタン南西部シースターン)の総督であったシャープールの息子であるという見解もある[Lukonin 1967, p. 27]。それ故、その血縁関係ははっきりしないが、いずれにしても、王位継承には両者が関係している。

 このような王位継承をめぐるシャープール二世とアルダシール二世の抗争がこのターク・イ・ブスターンの二つの浮彫に反映していると筆者は洞察したのである。その前提に立って、この両浮彫を眺めてみると次のような解釈が可能となる。



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シャープール二世とアルダシール二世の抗争

 まず、アルダシール二世の叙任式図であるが、筆者はこの人物をシャープール二世とする見解には組しない。王冠形式から見てシャープール二世とは比定できないからである。また、右端のオールムズド神をシャープール二世と見なす見解にも全面的には同意できない。と言うのは、この人物の上着は従来の帝王像や神像に用いられていた伝統的な上着で、アルダシール二世が着ている、裾が湾曲したいわゆる「エプロン型上着」(四世紀半ばから五世紀にかけて流行したササン朝の帝王の正装)とは異なるからである[田辺一九九五]。すなわち、この像は基本的にはオールムズド神として製作されている。ただし、その頭部にはシャープール二世の肖像の一部が用いられているので、部分的にシャープール二世像である。また、下方の死体はシャープール二世とアルダシール二世が倒したユリアヌス二世であるから、戦勝記念をも表している。恐らく、この戦勝にアルダシール二世が多大の戦功を挙げたのであろう。このようなわけで、右端のいわゆるシャープール二世像[挿図2a、b]は、上述したマクドナルドと同様にオールムズド神とシャープール二世の折衷・複合像であると見なす。

 ササン朝下にあっては、理論的には正当な王位を授与するのは神であって帝王ではない。それ故、正当な王位をアルダシール二世はオールムズド神から授与されている。しかしながら、その授与は実際にはシャープール二世が行なったものであり、かつその授与には、王位をシャープール三世に譲ると言う約束が条件として付せられている。或いは、これはアルダシール二世を共同統治者、副王に任命したとも想定できよう。ケルンにあるマニ教写本(Codex Manichaicus Coloniensis)には、ハトラにおいてアルダシール一世がシャープール一世を共同統治者にしたことが述べられているが、その場合、前者から後者へディアデムが授与されている[Sundermann 1990]。いずれにせよ、両王の間で交わされた約束が約束通り履行されるのをミスラ神が監視しているのである。

 一方、小洞の親子の像は、両者の血縁関係の緊密さとシャープール三世の正当性を顕示するために製作された。一つには、シャープール三世はまだ幼少で、アルダシール二世の人望や功績に比肩できない存在であったので、シャープール二世は直接に後継者と任命することができなかったことが推測できよう。それ故、王位をアルダシール二世に一旦譲るが、シャープール三世が血筋の点では本来、シャープール二世を継ぐのに相応しいことを明示しているのである。アルダシール二世の叙任式図が露天にあるのに対して、この親子像は洞窟の中に安置しているが、これはシャープール三世を優遇していることを反映していよう。二つ目の推測としては、マスード・アザルヌシュやミルティアデス・パパテオファネスが述べているように、シャープール二世の皇太子であったナルセーが、イラク北部のシンガラの戦い(三四八年)でローマのコンスタンテイウス帝の軍隊によって捕らえられてしまったことが挙げられよう[Azarnoush 1986, pp. 240-245; Papatheophanes 1986]。両者はこのナルセー王子が後にシャープール三世として即位したと推定している。それ故、ナルセー皇太子(後のシャープール三世)がシャープール二世の許に返還された後に(その年代は不詳)、シャープールと改名したことになる。上述した金貨[挿図3a右端]のシャープール王子は、改名したナルセーを描写していると解釈せざるをえない(ただし、発行年は不明)。

 以上より、この二つの浮彫は共にシャープール二世が晩年(三六三−三七九)、シャープール三世の行く末を心配して製作せしめたものであると結論したいのである。



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大洞の浮彫

 ササン朝の宮殿建築をモデルとして高さほぼ八・九メートルのアーチ(筒形天井)を有する龕を彫り込み、その正面壁及び内壁に彫刻を施している[挿図7][Vanden Berghe 1984, p. 146]。この記念碑的な構築物は、六二八年に東ローマ皇帝ヘラクリウスの侵略によって焼失したいわゆるタフト・イ・タクディース(Takht-i Taqdîs)に相当するもので、ササン朝の正当な王位、存在理由(raison d'être)を象徴していると筆者は解釈している[田辺一九八二、一九八三]。すなわち、ササン朝の正当な王位とはどのようなものであるかと言うイデオロギーが内壁の諸彫刻によって象徴されているのである。そのイデオロギーはジョルジュ・デュメジルの言う「三職能説」(idéologie tripartie: 聖職者、戦士、生産階級)に他ならない[Dumézil 1958、松村(訳)一九八七]。


[挿図7]大洞正面壁


i 正面壁

 最上段には矢狭間(オールムズド神の象徴)を設け、その下方に一対のニケ女神(ゾロアスター教ではフウァニンド女神)を配す[299、挿図7]。アーチは植物文で縁取り、その中央に三日月を置く。アーチの下部は一対の空想的な植物文(アカンサスの葉の変形)で装飾されているが、恐らくオリエントの代表的なモティーフ「生命の樹」であろう。ニケ女神の手には真珠(フウァルナーの象徴)を盛った台付き碗とリボンで飾った環(ディアデム)がある。アーチの内枠の部分にはパルメット文とチューリップの花[挿図8、五弁のみ表す]を連続的にほどこしている。


[挿図8]アーチのチューリップ文[Domyo 1984, fig.55-1より]


ii 帝王叙任式図(奥壁上段)

 内壁の中央上段[挿図9]に、帝王、向かって右にオールムズド神、左にアナーヒター女神を配した三尊形式である(高さほぼ四・七メートル)[302、Vanden Berghe 1984, p. 146]。オールムズド神は天空を象徴する三点文(三星文)を散りばめたマントを羽織り、アナーヒター女神は豊穣の象徴たる水差し(水が流出している)を持つ。両神はディアデムを帝王に授けているので、明らかに王権神授(即位式ないし戴冠式)を行なっている。ただし、実際の即位式や戴冠式は神官が行なうものであるので、この三尊形式は虚構でかつ象徴的な表現に他ならない。神々を高級な神官ないしゾロアスター教の最高指導者の代用品と見なせば、この三尊形式は、中央の国王が第一階級=神官階級の代表者であることを暗示している。


[挿図9]大洞内壁(叙任式、騎馬、両狩猟図)


iii 重装騎馬人物(奥壁下段)

 内壁の下段に、鎖帷子で頭部から上半身を覆い、右手で長槍、左手で円形楯を持ち、右腰に矢筒、左腰に弓入れを持つ騎士を高浮彫で表している(高さ四・二メートル)[挿図9、10、Vanden Berghe 1984, p. 146]。その背後には葡萄唐草(永遠不滅の楽園の象徴)のアーチがある。注目すべきは頭の回りに深く彫り込んだ円形頭光である。これは、国王の印、神の印、ミスラ神(太陽神)の光背のいずれかに相当すると言う[Bivar 1985, p. 35]。しかし筆者は、この騎馬人物は、上段に描写された帝王の守護霊(フラワシ、fravashi)を表現したものであると解釈した[田辺一九八二、九〇−九二頁]。つまり、円形頭光は、この世の人間ではなく、オールムズド神の世界に住む永遠不滅の存在(神的)の印と見なした[田辺一九八五c、二〇八頁]。上段の神と帝王には円形頭光が付いていないので、円形頭光はこの大洞窟では神や帝王の印ではない。また、ミスラ神の場合は放射状の光線で以て表される(アルダシール二世叙任式図参照)。馬の鞍敷には怪鳥セーンムルウ(Senmurv)[挿図11]が織りだされているが、この怪鳥は英雄や王を守護する役割を与えられていた(グリフィンに相当)。


[挿図10]重装騎馬像実測図、大洞奥壁下段


[挿図11]セーンムルウ、馬の腹部

 この重装騎兵をフラワシと解釈したのは、この馬の脇腹に一個のフラワシのマーク、腹帯に多数のフラワシのマーク[挿図12]が描写されている点[深井・堀内一九七二、pls. LV-LVI; Domyo 1984, fig. 55-11]、重装騎兵(clibanarius)である点及び、次に述べる帝王猪狩図に描写された二人の帝王像の中の一人だけに円形頭光が付いている点を考慮したからである[clibanariusについては、Michalak 1987]。


[挿図12]フラワシのマーク、馬の腹帯

 フラワシが武装した姿で現れるということは『ブンダヒシュン』VI-3、『ファルヴァルディン・ヤシュト』IX-37に記されている[田辺一九八二、七一頁]。それ故、重装騎兵像は帝王(筆者は子供の帝王アルダシール三世と見なす)のフラワシで、戦士階級を象徴している。すなわち、帝王は第二階級=戦士階級の代表者であることを示している。


iv 帝王狩猟図(側壁)

 左側の壁に、帝王が小舟に乗って葦の茂みの中で猪狩り[挿図13]を行なっている光景が浅浮彫りされている(四・三×五・九五メートル)[Vanden Berghe 1984, p. 147]。右側の壁には、騎馬の帝王が鹿狩り[挿図14]を行なっている光景が三段階(出御、追猟、帰還)に分けて浅浮彫りされている。


[挿図13]帝王猪狩図浮彫、大洞左壁


[挿図14]帝王鹿狩図浮彫、大洞右壁

 両狩猟図とも、ターク・イ・ブスターンの王家の狩場で行なわれた儀式的な狩りを表している。左壁の狩猟は春分の時(ファルヴァルディーガーン祭 Farvardîgān)に行なうもので、右側の狩りは秋分の時(ミスラカーナ Mithrakāna)に行なうものである。いずれも大地の豊穣をもたらすための儀式であるから、農作物を荒らす猪と鹿が獲物となっている。帝王の姿(衣服)にはこの祭りを象徴する文様が描写されている。前者はセーンムルウ(降雨を司る)、後者は鷲(=太陽=ミスラ)である。また、帝王像の一人は円形頭光で荘厳されているが、これはファルヴァルディーガーン祭(降霊祭)には天空(オールムズド神の住む無量光の世界)からフラワシが子孫の許に降下するというゾロアスター教の信仰に関係している。すなわち、帝王のフラワシが降下し、帝王とともに狩りをしていることを表すために、一人の帝王像(フラワシ)にのみ円形頭光を付けたのである。

 大地の豊穣は実際には農民や牧畜民によってもたらされるが、それを帝王が保証することを狩猟図でもって暗示している。この場合、帝王は第三階級(農耕牧畜民を主とする生産者階級)の保護者、代表者であるという観念を示している。



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大洞の製作年代

 大洞の彫刻に関する未解決の問題の一つにその製作年代がある。現在それに関してほぼ二つの説があって対立している。一つはクルト・エールトマンが提唱したペーローズ王説で、もう一つはエルンスト・ヘルツフェルトのホスロー二世説である[Erdmann 1937; Herzfeld 1938]。前者は大洞奥壁上段の帝王像の王冠形式はペーローズ王の王冠[挿図15]の第二形式[挿図3f]に一致するという見解に基づいている。後者は、それをホスロー二世の王冠形式[挿図3g]に結び付けて解釈し、かつイスラム初期の文献資料で裏付けている。


[挿図15]ペーローズ王ドラクマ銀貨 表、個人蔵

 この二つの見解に関して、筆者は王冠形式に関してはホスロー二世の王冠[挿図16]には一致せず、寧ろペーローズ王のそれ(球体装飾と一対の翼)に酷似していると解釈するが、ペーローズ王のそれではないと見なす。また、ヘルツフェルトが用いたイスラム資料は必ずしもホスロー二世説を論証していないが、ほぼ妥当な年代を提示していると解釈する。


[挿図16]ホスロー二世ドラクマ銀貨 表、個人蔵

 このような両学説を踏まえてこの問題を検討した結果、筆者は、この大洞奥壁上段の帝王像の王冠形式[306]はアルダシール三世(六二八−三〇)のそれ[挿図3h、17]に一致し、また大同の奥壁上段の帝王の首飾り及び側壁の帝王猪狩図の帝王の首飾り[挿図18]に垂れ下がっている三つのペンダントはアルダシール三世のコインの帝王胸像の胸飾り[挿図17]だけに見られる点を根拠として、アルダシール三世を描写したものであると結論した[田辺一九八二、九〇−九二頁]。すなわち、ホスロー二世が息子のシローエ(Kavad II, 628)に殺害された後の混乱期に即位した「子供の帝王」アルダシール三世(Kavad IIの息子)の時代にこの大洞の製作が開始されたと推定したのである。その製作の動機は、上述したヘラクリウス帝によって破壊されたタフト・イ・タクディースの再建ないしその代用品の作成にあった。


[挿図17]アルダシール三世ドラクマ銀貨 表、個人蔵


[挿図18]猪を狩る帝王の首飾り

 この後、ヒューベルトゥス・フォン・ガルはエールトマン説を支持する新説を発表した。その論拠は、ホスロー二世の王冠形式[挿図3g、16]における天球(Globus)は実は円盤(Diskus)であったから、大洞奥壁上段の帝王像の王冠の三次元的な天球[302、挿図9]とは異なるというものである。このような三次元的な天球はペーローズ王の王冠形式[挿図3f、15]に一致すると言うのである。彼が円盤と考定したのは、ホスロー二世のコインに刻印された胸像とターク・イ・ブスターンに他所から運ばれた数点の柱頭に描写された帝王(ホスロー二世と解釈されている)の王冠形式の円盤(或いは星形)である[H. von Gall 1984; 1990, pp. 38, 44-45]。この説は、大洞の彫刻を三つの時期に区分するハインツ・ルシャイの編年を考慮している[Luschey 1975, pp. 129-32]。それによると、第一期は奥壁上段とアーチなどの前面(六世紀後半)、第二期は奥壁下段の騎馬像(六一五年頃)、第三期は側壁の両狩猟図(ホスロー二世の晩期)である。

 彼の新説は筆者のアルダシール三世説には全く言及していないし、またアルダシール三世の王冠の「天球」が三次元的な天球であることを無視している。それ故、その新説は不十分な検討の上に発表されたものと言えるが、ここでは、彼の新説が全くの誤りであることを別の視点から論証しておきたい。

 筆者の反論の根拠は、ターク・イ・ブスターン大洞の彫刻に描写された「チューリップ」の形式である。チューリップの造形表現の歴史について言えば、トルコのオスマン朝下に栄えたイズニク陶器のチューリップ(十六世紀)以前の実例に関しては、現在まで全く研究がなされていない[イスラム文化におけるチューリップについては、ヤマンラール・水野一九九三]。

 筆者はチューリップの造形表現について、チューリップの原産地たる中央アジア、イラン高原の古代、中世美術の作品に描写された例について調査を行なった。その全容は別稿で発表する予定であるので、ここではその成果の一部を大洞の彫刻の製作年代の決定に応用してみよう。

 大洞の彫刻の植物文全般に注目してその製作年代を考察した学者として、C・D・シェパードの論考を挙げることができるが、それによると、大洞の彫刻の植物文はエルサレムの「岩のドーム」のモザイク画(六八五−七〇五)とは様式・形式とも異なるので、五−六世紀のものであると言う[Sheppard 1981, pp. 10-12]。しかし、C・D・シェパードは、筆者が注目した問題の花をチューリップのような形のパルメットと解釈したために、ササン朝美術の他のチューリップの表現形式と比較していない。筆者の調査によれば、ササン朝美術に描写されたチューリップには次のように二種類の形式が存在する。


[A] チューリップの六弁の花弁のうち、三弁のみを側面観で描写したもの[挿図19]。


[挿図19]チューリップ、ストゥッコ壁装飾、テシフォン出土模写[Pope 1939, vol. III, fig.898-bより]

[B] チューリップの六弁の花弁のうち、五弁を側面観で描写したもの[挿図8]。


 このA、B両形式の流行した年代については、A形式は三世紀後半から六世紀の半ば(中央アジアのエフタル族の覇権の失墜まで)、B形式は六世紀の後半から七世紀である。後者の形式は中央アジアのソグド美術(六世紀後半・八世紀前半、例ピャンジケント、ジャール・テペの壁画)[挿図20]に見られるので、七世紀の形式と見なすことができる[Belenizki 1980, pl. 1; Marshak/Raspopova 1991, pl. 1; Berdimuradov/Samibaev 1994, figs. 5, 7](ただし、ジャール・テペ出土壁画の製作年代を五−六世紀と見なしているが筆者はこの年代は早すぎると思う)。


[挿図20]王侯とチューリップ、ピャンジケント出土壁画模写[Marshak/Raspopova 1991, pl.1より]

 このB形式のチューリップが大洞側壁の帝王猪狩図の勢子の衣服[挿図21]と正面のアーチ[挿図8]に見られるのである[和田一九四五、六七頁、pl. 16;深井・堀内一九六九、pls. XIII, XIV, XVI, XVII, XXIX, LVII-b; Domyo 1984, figs. 40, 56-1-3]。これに対してA形式のチューリップは全く認められない。それはスタンプ印章[Brunner 1978, pp. 116-17]、ストゥッコ装飾[Pope 1938, pl. 173-B: 1939, fig. 898-b]などに見られるが、最も古いのはシャープール三世の豹狩りを描写した銀製皿(エルミタージュ美術館蔵)の山岳文の中[挿図22]に見られる[Pope 1938, pl. 205]。


[挿図21]チューリップ、勢子の衣服[Domyo 1984, fig. 40より]


[挿図22]山岳文中のチューリップ、シャープール三世豹狩文 鍍金銀製皿部分、エルミタージュ美術館蔵

 このようなわけで、大洞の製作年代は七世紀のホスロー二世に時代と見なす方が適切なのである。ただし、大洞の帝王像はホスロー二世ではなく、上述したようにアルダシール三世像であると筆者は考えている。



7


おわりに

 以上、冒頭で断ったように紙数の制限があったので、筆者がターク・イ・ブスターンの調査を行なった後に到達した新見解を詳細に披瀝することはできなかったが、その幾つかの結論は従来の定説ないし常識と相いれない部分が多い。このように従来の見解と異なる新見解を提示できる点に現地調査の意義が存在することは言うまでもないが、筆者個人については、そのような新しい結論を導き出せたのは、実際にターク・イ・ブスターンで調査をする機会を与えられ、その後、二冊の報告書の執筆、出版の責任者的役割を恩師の故深井晋司先生から与えられたからに他ならない。先生の御霊に対してあらためて心から感謝の意を表したい。




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299-飛天、輪郭線図、ターク・イ・ブスターン、ササン朝、七七×五八cm、考古美術部門


300-飛天、等高線図、ターク・イ・ブスターン、ササン朝、七七×五八cm、考古美術部門


301-飛天、合成図、ターク・イ・ブスターン、ササン朝、七七×五八cm、考古美術部門


大洞正面を飾る飛天(一部)


302-帝王叙任式図、輪郭線図、ターク・イ・ブスターン、ササン朝、七七×五八cm、考古美術部門


303-帝王叙任式図、等高線図、ターク・イ・ブスターン、ササン朝、七七×五八cm、考古美術部門


304-帝王叙任式図、合成図、ターク・イ・ブスターン、ササン朝、七七×五八cm、考古美術部門




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