西アジアにおける学術調査

松谷 敏雄
東京大学名誉教授



 一九五六年に江上波夫教授(現名誉教授)を団長として組織された東京大学イラク・イラン遺跡調査団のかかげる主たる目的は、西アジアにおける「文明の起源とその初期の発展の様相」(課題A)の解明にあった。また、副目的として、アジアおよびヨーロッパ諸文明の母胎となったこの地方の古代、中世文明の研究に役立つ全般的資料の蒐集が事業目的としてつけ加えられた(課題B)。さらに、一九六〇年の第三次調査に当たって、「東亜および日本古代文明の源流としての古代イラン文明の研究」(課題C)が追加された。その理由はのちに触れる。

 こうした調査目的をかかげる東京大学の西アジアでの現地調査は、一九五六年以来今日に至るまで東洋文化研究所で続けられてきた。調査団関係者は、便宜的に三つの時期に分けてよんでいる。それは江上団長時代の第一期(一九五六・六五年)、深井晋司団長時代の第二期(一九七六−七八年)、筆者(松谷敏雄)が研究代表者となった第三期(一九八七−九六年)である。ここでは調査目的に従って調査の内容と成果を簡単に記すことにしたい[1]

[課題A] これに関わる発掘は、i イラクのテル・サラサート、ii イランのマルヴ・ダシュト盆地のいくつかの遺跡、iii シリア北部の二つの遺跡で行なわれた。


i テル・サラサート

 遺跡群である[挿図1、2]。最初に手がけたのは、二番目に低い二号丘であった(一九五六、五七、六四、七六年)[挿図3]。ここではウルク期の神殿址、ウバイド期のまとまった集落址、ハッスーナIa期の住居や土器焼窯などが検出された[江上一九五八a、曽野一九七〇、深井・松谷一九八一]。また一番高い一号丘と三号丘で階段状のトレンチを掘り、堆積する文化を確認した[江上一九五八a]。次いで一番低い五号丘の発掘が一九六五年に行なわれ、ニネヴェ5期の焼失した穀物倉が掘り出された[深井他一九七五]。一号丘の頂上部の発掘は二回実施され(一九六五、七六年)、ミタンニ時代の墓と考えられる遺構を調査したが、その性格を十分極めることなく終わってしまっている[Fukai and Matsutani 1977]。発掘の継続を希望したがイラク側の許可が得られず、全容は未だ明らかとなっていない[2]


[挿図1]テル・サラサート全景、一九六四年


[挿図2]テル・サラサート発掘のためののテント村、一九六五年


[挿図3]テル・サラサート二号丘発掘風景、一九六四年


ii マルヴ・ダシュト

 ペルセポリスのある盆地であり、ここには数多くの先史時代の遺跡が分布する[挿図4]。最初の発掘は一九五六年のタル・イ・バクーンA、B丘の試掘であった[江上一九六二]。第一期の第二次調査(一九五九年)はイラクの五八年革命のため、もっぱらマルヴ・ダシュトの三つの先史遺跡の発掘に当てられた。タル・イ・ギャプ、タル・イ・ジャリA、Bで発掘が並行して実施された。ギャプでは一番大きいA丘の発掘が行なわれ、第四層からは神殿址が発見された[江上・曽野一九六二]。ジャリAには、二層の住居址が堆積しており、下層からは赤色の塗彩を施された壁が発見された[Egami・ Masuda and Gotoh 1977]。ジャリBもやはり住居址の重なりであり、特異な彩文土器を出土する[前田一九八六、Hori 1989]。この土器は、オランダのファンデン=ヴェルヘによってマルヴ・ダシュトの最古の土器と位置づけられていた。しかしこの考え方は、タル・イ・ムシュキの発掘(一九六五年)によって改められるに至った。層位学的検討によればムシュキの土器の方が下層に位置し、マルヴ・ダシュトの最古の土器はムシュキのものであり、次いでジャリBと逆転させるのが妥当と結論された[深井他一九七三]。


[挿図4]マルヴ・ダシュトの遊牧民の一家、一九六五年


iii シリアの二つの遺跡

 第二期の調査報告書の刊行を終え、次の現地調査を実施するためにイラン・イラク戦争の終結を待ちわびていたが、一向その兆しは見えてこなかった。そのため、思い切って調査地をシリアに求めることにした。一九八四年のことであった。八五年の夏休みを利用して発掘すべき遺跡の選定に出向き、ハブール川流域のテル・カシュカショクの発掘権を得た。この遺跡も四つのテルからなる遺跡群であり、われわれが掘ったのは二号丘と名づけた舌状の部分である(一九八七、八八年)[挿図5]。ここでは、土器新石器時代に集落が営まれていたが、ウバイド期からウルク期に至ると一号丘の住民の墓地とされた。そのため最初の住居址は墓の掘削によって破壊され、部分的にしか残されていなかった。未発掘の空間もあったが、たとえ発掘しても同じようになっていて、遺構についての情報を深める期待がもてなかったので二回の調査をもって終えることとした[Matsutani 1991]。次いで発掘にとりかかったのは、ユーフラテス川に面したテル・コサック・シャマリである[Matsutani and Nishiaki 1995]。ここでは三回の発掘がすでに行なわれた(一九九四、九五、九六年)。上層にはウバイド期とウルク期の土器製作を中心的な仕事とする集落が営まれ、下層には土器新石器時代の居住が確認されている。一九九六年の調査ではウバイド期の土器貯蔵庫が焼失した状態でみつかり、その調査に手をとられ、下層の住居址にまで到達できなかった。この遺跡の堆積の様相を明らかにするため、すくなくともあと一回の発掘が望まれる。


[挿図5]テル・カシュカシュク二号丘遠景、一九七六年

[課題B] この課題はそもそも資料や情報の蒐集であり、発掘調査はイランのタペ・スルヴァンのものぐらいである(一九五九年)。これは、アケメネス朝後期の「王の道」の宿駅に建てられた王室の建築址である[新・堀内一九六三]。

 一九五六年から五七年、六五年から六六年にかけて行なわれた二度の西アジア六カ国での遺物採集踏査は、表面採集品とはいえ、多くの資料を我が国にもたらした。これらは発掘資料ほど学術的価値は高くはないが、第二級にランクされてよいものである[江上一九五八b、谷一・松谷一九八一、Nishiaki and Fujii 1986、千代延一九八六、一九九三、西秋一九九四]。

[課題C] 一九五九年春先、マルヴ・ダシュトの発掘準備のため、テヘランに滞在中のとき、骨董市場にアムラシュ出土と伝えられる多くの遺物が出まわっていた。これらはおおむね二つの時期に分けられ、一つは青銅器時代末期ないしは鉄器時代初期に属し、もう一つは、パルティアないしササン朝時代に属すと考えられた。前者の中には、中国の黒陶、灰陶などによく似た土器が含まれており、注目された。また後者には、中国の六朝隋唐時代、日本の古墳時代や奈良時代の文物とほとんど同じものがすくなくなかった。アムラシュ遺物が東西文化交流の研究上、欠くべからざる資料と判断し、団員二名がマルヴ・ダシュトの発掘終了後、出土地の探査にでかけた。アルボルズ山中のアムラシュは骨董品の集散地であって、出土地ではないことがわかった。遺物の出土地はギラーン州デーラマン地方であることを確かめ、その地に赴いて、石槨墓や地下式横穴墓から出土したのを確認した。

 これら古墓群は、村人の盗掘によって破壊され続けており、早急なる学術的発掘が必要だった。この踏査結果に基づき、一九六〇年に第三次調査を派遣することになった。この際、追加されたのがこの課題である。課題Cでまとめられるのが、発端となった、i デーラマン、山一つはさんでとなりの谷の、ii ハリメジャン、それに、iii ターク・イ・ブスターンの調査であろう。


i デーラマン

 この盆地にはいくつかの古墓群がある[挿図6、7]。そのうち五カ所で発掘が行なわれた。ガレクティ(一九六〇、六四年)、ラスルカン(一九六〇年)、ノールズ・マハレ(一九六〇年)、ホラムルード(一九六〇年)、ハッサニ・マハレ(一九六四年)である。古い方の時代つまり青銅器時代末期ないし鉄器時代初期に属するのは、ガレクティとラスルカンである[江上・池田一九六三、江上他一九六五、深井・池田一九七一]。新しい方のグループ、いいかえるとパルティア=ササン時代のものが他の三つの古墓群ノールズ・マハレ、ホラムルード[江上・池田一九六三、江上一九六六、池田一九六八]、ハッサニ・マハレとガレクティのうちの六基の墓[曽野・深井一九六八、池田一九六八]である。この一連の調査の成果を一つだけ選んで特筆するとすれば、一九六四年のハッサニ・マハレ七号墓からガラスの碗を掘り当てたことであろう。科学的調査により出土状態を確認できた初めての例であった。


[挿図6]デーラマンの風景、一九六四年


[挿図7]調査終了後にデーラマンを撤収する調査団、一九六四年


ii ハリメジャン

 第一期の調査の報告書の出版に十年間が費やされた。十五冊目の出版の目途がついた一九七五年の夏、筆者は調査再開のためイラクとイラン両国の考古当局との交渉に赴いた。イランでは十年の間にすっかり事情が変わっていた。従来より継続して行なわれている発掘を除いて新規の発掘許可は出さないというのである。そのかわりに遺跡の分布調査をせよという。われわれとしてはデーラマンの調査を希望していたが、継続とは見なせないと判断された。だが、必ず例外はあるもので、破壊の危機に面している場合はその限りにあらずであった。そんな折、旧知のイラン人考古学者が、ハリメジャンという村で天然ガスのパイプ・ラインが爆発して遺跡が壊されたという情報をもたらしてくれた。早速次の日現地へ行った。確かにパイプ・ラインは爆発していた。写真を局長に見せ、状況を説明した。そして得た許可が「分布調査と墓の時代を知るための試掘調査」であった。こうして実現したのが一九七六年のハリメジャンのシャー・ピールの発掘である[深井・松谷一九八〇]。第二期第二次調査では、以上のようないきさつから再度シャー・ピールを申請するわけにはいかない。分布調査の際、一つ南の谷シャハランのラメ・ザミーン遺跡で道路掘削の際いくつかの墓が切られているのを知っていた。そこで同じ理由で許可をとったのが一九七八年の調査であった[深井・松谷一九八二]。ここでは、大人と小人で墓の形態が違っていた。さらに整理研究の段階で明らかになったところでは、副葬品も明瞭な違いがあることが明らかとなった。興味深い成果である。


iii ターク・イ・ブスターン

 イランのケルマンシャー郊外にあるササン朝時代の著名な遺跡である。東西文化交流の研究には欠かせない重要な所であるにもかかわらず、細部にわたる資料が公表されていなかった。ここでは第一期の最後の調査(一九六五年)の際、鉄パイプの足場を築いて、詳細な写真撮影が行なわれた[深井・堀内一九六九、一九七二][挿図8]。また、立体カメラSMK120と40を用いて写真実測を行ない、浮彫の実測図の作成を試みた。この作業は一九七八年にも実施され、多大の費用と労力をかけて報告書が刊行され[深井一九八三、一九八四]、学界に大きな貢献を成すことになった。


[挿図8]ターク・イ・ブスターンの調査風景。一九六五年
東京大学イラク・イラン遺跡調査団は、パルティア朝やササン朝の古代ペルシア文明が中国隋唐時代の文化に影響を与え、ひいてはわが国正倉院に伝えられた文物にその交流の跡がみられることから、当代の古代ペルシア文化について美術史の調査を計画し、その一環として、ターク・イ・ブスターン遺跡の調査を一九六五年、七六年、七八年の三度にわたって行ったのであった。
 調査の目的は第一にこの遺跡の浮彫について詳細な写真資料を作製することであり、第二にこの遺跡および浮彫彫刻の正確な実測図がまだなかったことから、これを地上実体写真測量によって作製することであった。
 写真撮影にあたっては、美術史の研究資料として十分に耐えうるものにするため、浮彫図像の全体やその細部を上面から撮影する必要があり、そのために鉄パイプでやぐらを組んだ。写真測量にはカール・ツァイス社製地上実体写真測量カメラSMK-120とSMK-40を使用した。また帝王衣服の模様のような細部を図化するためには、ピントが合って、しかもステレオ写真が撮影できる最短物体距離は、SMK-40で一メートルであるから、十分な縮尺の写真が撮影できない。そこでステレオカメラの一方のレンズにクローズアップレンズをとりつけ、浮彫彫刻に一メートル以下まで接近し、またカメラを一定間隔ずらしてステレオ写真を撮影するという方法をとった。しかし実測図を完成するためには図と実物の浮彫との比較対照が必要となり、一九七八年の調査はそれにあてられた。
 このようにして調査の結果は、四冊の報告書にまとめられた。写真資料は二冊の図版をまとめた報告書(R10, 13)に、写真測量による実測図は一冊(R19)に、そして美術史学的考察を加えた本文篇を一冊(R20)である。これらはターク・イ・ブスターン遺跡について、現在も詳細かつ正確な唯一の研究報告書であることはいうまでもない。(古山学)

写真測量に使用されたステレオカメラ(Carl Zeiss SMK-120)

[表1]東京大学が発掘したメソポタミア地域の主要遺跡年表(一九五六−一九九六)
(太字は遺跡名、枠内は時期名)

[表2]東京大学の西アジア考古美術調査一覧
第1期遺跡調査年表(1956-66年)
年代 事項 参加者(*団長もしくは研究代表者、**副団長) 文献
1956-57 テル・サラサート遺跡第2号丘の発掘
テル・サラサート遺跡第1号丘の試掘
テル・サラサート遺跡第3号丘の試掘
タル・イ・バクーンの発掘
中近東5カ国で遺物採集踏査
江上波夫*、新規矩男**、
高井冬二**、池田次郎、
曽野寿彦、小堀巌、増田精一、
深井晋司、佐藤達夫、
堀内清治、阪口豊、三枝朝四郎
R1
R1
R1
R2
PR6, 7, 8, 9, 11, 12
1959 タル・イ・ギャプ発掘
タル・イ・ジャリA丘発掘
タル・イ・ジャリB丘発掘
ファハリアン遺跡の発掘
ペルセポリス遺跡の美術史・建築学的調査
江上波夫*、新規矩男**、
池田次郎、曽野寿彦、
佐藤達夫、深井晋司、
堀内清治、増田精一、甘粕健、
石井昭、三枝朝四郎
R3
PR1
PR3, 4
R4
PR6,7
1960 デーラマン古墳墓、ガレクティの発掘
デーラマン古墳墓、ラスルカンの発掘
デーラマン古墳墓、ノールズ・マハレの発掘
デーラマン古墳墓、ホラムルードの発掘
江上波夫*、増田精一、
深井晋司、甘粕健、杉村棟
R5, 6
R5, 6
R5, 7
R5, 7
1964 テル・サラサート遺跡第2号丘の発掘
タル・イ・ムシュキの発掘
デーラマン古墳墓、ガレクティの発掘
デーラマン古墳墓、ハッサニ・マハレの発掘
江上波夫*、曽野寿彦**、
池田次郎、堀内清治、
深井晋司、三宅俊成、松谷敏雄
R11
R14
R8, 9, 12
R8, 9
1965-66 テル・サラサート遺跡第1号丘の発掘
テル・サラサート遺跡第5号丘の発掘
タル・イ・ムシュキの発掘
ターク・イ・ブスターンの測量調査
中近東6カ国で遺物採集踏査
江上波夫*、曽野寿彦**、
深井晋司、堀内清治、
杉山二郎、松谷敏雄、
古山学、千代延恵正
PR2
R15
R14
R10,13
PR8

第2期遺跡調査年表(1976-78年)
1976 ハリメジャン遺跡の発掘
テル・サラサート遺跡第1号丘の発掘
テル・サラサート遺跡第2号丘の発掘
深井晋司*、松谷敏雄**、
杉山二郎**、田辺勝美、
渡辺貞幸、古山学、千代延恵正、
堀晄、佐々木達夫、毛利俊雄、
木全敬蔵、道明三保子
R16
PR2
R17
1978 ラメ・ザミーンの発掘調査
ターク・イ・ブスターンの測量調査
深井晋司*、松谷敏雄**、
杉山二郎、関口正之、
田辺勝美、古山学、千代延恵正、
新田栄治、鷹野光行、鈴木隆雄
R18
R19, R20

第3期遺跡調査年表(1985-96年)
松谷敏雄、古山学 R21
1985 ハブール川上流で遺跡分布調査 松谷敏雄*、古山学、千代延恵正、
前田昭代、藤井純夫、西秋良宏
R21
1987 テル・カシュカショク遺跡の第1次発掘 松谷敏雄*、古山学、千代延恵正、
前田昭代、藤井純夫、西秋良宏
R21
1988 テル・カシュカショク遺跡の第2次発掘 松谷敏雄*、古山学、前田昭代、
西秋良宏、小泉龍人、山川史子
R21
1993 ユーフラテス川上流で遺跡分布調査 松谷敏雄、西秋良宏 PR5
1994 テル・コサック・シャマリ遺跡の第1次発掘 松谷敏雄*、西秋良宏、古山学、
小泉龍人、倉林真砂斗、舘野孝、
Marie Le Miere
PR5
1995 テル・コサック・シャマリ遺跡の第2次発掘 松谷敏雄*、西秋良宏、古山学、
小泉龍人、黒沢浩、Marie Le Miere
PR13
1996 テル・コサック・シャマリ遺跡の第3次発掘 松谷敏雄*、西秋良宏**、古山学、
小泉龍人、黒沢浩、Marie Le Miere、
赤掘雅幸、小口高、田尾誠敏
PR14



【註】

[1]詳細は、本報告(R番号・本報告の公刊された調査については概報を省略した)と概報(PR番号)を参考文献としてまとめてあるのでそれらを参照されたい。[本文へ戻る]

[2]一九七九年一二月に筆者がバグダードに赴き、イラクの考古当局へサラサート一号丘の継続調査を希望したが認められなかった。その理由は、イラクでは水没地の発掘調査以外は一切許可しないという方針によるものであった。局長の言葉を今でもはっきりと憶えている。「ハムリン(当時着手していた水没予定地区の名称)を経由してサラサートをやりなさい」といったのである。われわれは、ハムリンには当時の調査団の目的に合致する遺跡の存在が期待できないので発掘をする気はないと主張して、物別れとなった。[本文へ戻る]



【参考文献】

東京大学イラク・イラン遺跡調査団報告書(東京大学東洋文化研究所発行)
R1−江上波夫編、一九五八年a、『テル・サラサートI 第II号丘の発掘一九五六−一九五七』
R2−江上波夫編、一九六二年、『マルヴ・ダシュトI タル・イ・バクーンの発掘 一九五六』
R3−江上波夫・曽野寿彦編、一九六二年、『マルヴ・ダシュトII タル・イ・ギャプの発掘 一九五九』
R4−新規矩男・堀内清治編、一九六三年、『ファハリアンI タペ・スルヴァンの発掘 一九五九』
R5−江上波夫・池田次郎編、一九六三年、『西アジアの人類学的研究I デーラマン古墳墓人骨 一』
R6−江上波夫他編、一九六五年a、『デーラマンI ガレクティ、ラルスカンの発掘 一九六〇』
R7−江上波夫他編、一九六六年、『デーラマンI ノールーズ・マハレ、ホラムードの発掘 一九六四』
R8−曽野寿彦・深井晋司編、一九六八年、『デーラマンIII ハッサニ・マハレ、ガレクティの発掘 一九六四』
R9−池田次郎編、一九六八年、『西アジアの人類学的研究II デーラマン 古墳墓人骨 二』
R10−深井晋司・堀内清治編、一九六九年、『ターク・イ・ブスターンI』
R11−曽野寿彦他編、一九七〇年、『テル・サラサートII・第II号丘の発掘 一九六四』
R12−深井晋司・池田次郎編、一九七一年、『デーラマンIV・ガレクティ第II号丘、第I号丘の発掘 一九六四』
R13−深井晋司・堀内清治編、一九七二年、『ターク・イ・ブスターンII』
R14−深井晋司他編、一九七三年、『マルヴ・ダシュトIII タル・イ・ムシュキの発掘 一九六五』
R15−深井晋司他編、一九七五年、『テル・サラサートIII 第V号丘の発掘 一九六五』
R16−深井晋司・松谷敏雄編、一九八〇年、『Halimehjan I: The Excavation at Shahpir, 1976
R17−深井晋司・松谷敏雄編、一九八一年、『Telul eth-Thalathat IV: The Excavation of Tell II, 1978
R18−深井晋司・松谷敏雄編、一九八二年、『Halimehjan II: The Excavation at Lameh Zamin, 1978
R19−深井晋司他編、一九八三年、『ターク・イ・ブスターンIII』
R20−深井晋司他編、一九八四年、『ターク・イ・ブスターンIV』
R21-Matsutani, T. ed., 1991, 『Tell Kashkashok: The Excavations of Tell No.II

以下は本報告の出版されていないものの概報もしくは資料集
PR1-Egami, N., Masuda, S. and Gotoh, T. 1977. Tall-i-Jarri A: A preliminary Report of the Excavations in Marv Dasht, 1961 and 1971. Orient XIII. pp.1-15.
PR2-Fukai, S. and Matsutani, T. 1977. Excavation at Telul eth-Thalathat 1976. Sumer XXXIII no.1. pp.48-64.
PR3−前田昭代、一九八六年、「ジャリB出土の彩文土器—分類と変遷—」『古代オリエント博物館紀要』VIII、五五−七五頁
PR4-Hori, A. 1989. Chipped Stone Artifacts from Djari B, Iran. Bulletin of the Ancient Orient Museum X. pp.21-46.
PR5-Matsutani, T. and Nishiaki, Y. 1995. Preliminary Reporton the Archaeological Investigations at Tell Kosak Shamali, the Upper Euphrates, Syria: The 1994 Season. Akkadica 93. pp.11-20.
PR6−江上波夫編、一九五八年b、『オリエント 遺跡調査の記録(一九五六−一九五七)』、朝日新聞社
PR7−江上波夫編、一九六五年b、『オリエントの遺跡』、東京大学出版会
PR8−谷一尚・松谷敏雄、一九八一年、『東京大学総合研究資料館考古美術部門所蔵考古学資料目録第一部』
PR9-Nishiaki, Y. and Fujii, S. 1986. A flint collection from Wadi Hauran near Rutba, westernmost Iraq. Bulletin of the Ancient Orient Museum VIII. pp.1-23.
PR10−千代延恵正、一九八六年、『東京大学総合研究資料館考古美術部門所蔵考古学資料目録第二部』
PR11−千代延恵正、一九九三年、『東京大学総合研究資料館考古美術部門所蔵考古学資料目録第三部』
PR12−西秋良宏、一九九四年、『東京大学総合研究資料館考古美術部門所蔵考古学資料目録第四部』
PR13−松谷敏雄・西秋良宏、一九九七年、「シリアの先史時代遺跡、テル・コサック・シャマリの発掘(一九九五年度調査)」、松本健編『第三回西アジア発掘調査報告書』、クバプロ
PR14−西秋良宏、一九九七年、「銅石器時代の土器工房址、テル・コサック・シャマリの発掘(一九九六年)」、脇田重雄編『古代オリエント世界を掘る』、クバプロ



[nos.130-152作品解説]
日本人による初めての中近東遺跡調査に際し、団長を務めた江上波夫は、「わが国最初の西アジア方面への学術調査事業として、そこにおける重要な遺跡をひろく踏査し、主要な博物館をあたうかぎり歴訪して、オリエントの先史・古代・中世文化の研究に資する、新しい知見を日本の学界にもたらし帰ること」も、目的の一つに掲げた。そして、中近東五カ国で広範な遺跡踏査を繰り広げたのである。事実、この最初の調査は、現在の目でもってみても大変な成功をおさめたといいきれる。中でも、二〇〇カ所をこえる遺跡踏査で収集された数万点に達する考古・美術標本、写真類は、地域の上でも時代の上でも網羅的かつ包括的である点、貴重である。これほどの規模の踏査を再現することは、現代ではおよそ不可能である。また、それらにハッスーナやウルクなど各地の文化編年の始祖遺跡の資料が多数含まれていることは特に重要で、我が国で中近東考古学を体系的に学ぶためのおよそ唯一の基本資料を形成することになった。


133-土器片、土器、イラン、ギャプ、バクーン期、最大一三・七cm、博物館考古美術部門


137-土器片、土器、イラク、ハッスーナ、ハッスーナ期、最大一一・三cm、古美術部門


154-注口石製容器、石器、イラン、ジャリB、ジャリ期、高さ一八cm、考古美術部門

[nos.153-200作品解説]
四〇〇万年前にもさかのぼる人類史において、そのほとんどの期間、人類は野生動物の狩猟や採集という食料収奪で生計をたてていた。自ら食料を生産するようになるのは、紀元前八五〇〇年頃になってからのことである。世界で最初に食料生産を始めたのは西アジアの人々であった。それは、死海地溝帯で始まったという説が有力である。食料生産という経済は、その後西アジア各地、さらには世界中にひろがり、文明を生み出す母胎となった。
 西アジアでムギ類の栽培とヤギ・ヒツジの放牧で生計をたてるという農業の基本形式が整ったのは、紀元前六五〇〇年頃である。考古学の年代でいえば、土器新石器時代はじめ頃、イラクでは原ハッスーナ期、イランではムシュキ期とよばれる時期のことである。村落跡に残る物件から当時の農村の生活が類推できる。コムギそのものは腐ってしまうので発見されることは稀れだが、その刈り取りに使用した鎌の刃や、製粉用の石皿・石臼はどの村からもみつかる。また、ヤギ・ヒツジといった家畜動物の骨もよくみつかる。家畜は食料を提供してくれるだけでなく、道具の材料源としても重要であった。針やへらなど各種の道具が家畜の骨から作られたし、毛は紡錘車で紡いで糸にされた。野生動物の狩猟もたまにはおこなわれた。その特徴的な道具は、石弾である。二三の弾を紐で結びつけて渡り鳥の大群めがけて投げつけ、からめ取るのに用いられた。

156 155

155-鎌刃(六点)、石器、イラク、テル・サラサート二号丘、ウバイド期、長さ五・八cm、考古美術部門
156-鎌刃(五点)、石器、イラク、テル・サラサート二号丘、ウバイド期、長さ五・二cm、考古美術部門
細かい石器は、柄にとりつけて鎌として使用された。ただ、柄は木や骨で作られていたらしく、腐ってしまっているので遺跡ではめったに見つからない。当時の鎌の形は、石器の加工痕や接着剤の痕跡を調べて推定するしかないのである。分析してみると、テル・サラサートでは少なくとも二種類の鎌が使われていたことがわかった。柄に対して刃を直線的につけたもの[156]と、段状に装着したもの[155]の二種である。後者はウバイド期に、前者はガウラ期以降の流行となった。

168 170
168-磨石、石器、イラク、テル・サラサート二号丘、ウバイド期、長さ二八cm、考古美術部門
170-石皿、石器、イラク、テル・サラサート二号丘、ウバイド期、長さ五四・五cm、考古美術部門


171-石弾、石器、イラン、ジャリB、バクーン期、長さ六cm、考古美術部門


188-紡錘車、土器、イラン、ギャプ、バクーン期、直径四・五cm、考古美術部門


189-紡錘車、土器、イラン、ギャプ、バクーン期、直径二・〇cm、考古美術部門


190-紡錘車、土器、イラン、ギャプ、バクーン期、直径二・一cm、考古美術部門




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