トロンプロジェクトとは


トロン( TRON : The Real-time Operating system Nucleus )は、理想的なコン ピュータアーキテクチャの構築を目的として、 1984 年に東京大学の坂村健博士によっ て開始されたプロジェクトである。産業界と大学の協力のもとで、まったく新しいコン ピュータの体系の実現を目指している。トロンプロジェクトでは、コンピュータ体系の 再構築にあたって、近い将来に高度にコンピュータ化された社会 —電脳社会— が来る ことを想定している。電脳社会においては、我々の日常生活を取り巻くあらゆる機器、 設備、道具にマイクロコンピュータが内蔵される。さらに、それらがコンピュータネッ トワークにより相互に接続されて、協調動作することにより、人間の活動を多様な側面 から支援する。コンピュータが内蔵されネットワークに接続された機器を、インテリジェ ントオブジェクト、それらが接続され協調動作するシステム全体を超機能分散システム ( HFDS : Highly Functionally Distributed System )と呼ぶ。HFDS の実現は、 トロンプロジェクトのもっとも重要なゴールである。

現在、トロンプロジェクトは、6つの基礎サブプロジェクトと、いくつかの応用サブプ ロジェクトに分かれて進行している。基礎サブプロジェクトでは、 HFDS の構成要素 となるコンピュータシステムについて研究を行っている。具体的には、トロン仕様チッ プ( VLSI を用いたマイクロプロセッサのアーキテクチャ)、 ITRON (組み込みシス テム用リアルタイム OS 仕様)、 BTRON (パソコンやワークステーション用の OS 仕 様とその関連仕様)、 CTRON (通信制御や情報処理を目的とした OS インタフェース 仕様)、 MTRON (以上の OS を相互に接続するための追加仕様)、 TRON 電子機器 ヒューマンインタフェース(各種の電子機器のヒューマンインタフェースの標準ガイド ライン)の各サブプロジェクトが進行している。

応用サブプロジェクトでは HFDS 内での現実の応用システム実現のための問題点を取 り上げ細かく分析し解決してゆく。未来のコンピュータ化された社会をミニモデル的に シミュレートし、基礎サブプロジェクトで開発されたアーキテクチャの成果を評価する。 応用プロジェクトは問題解決に基礎プロジェクトの成果を利用し、基礎プロジェクトは 応用からの貴重なフィードバックを研究に役立てるという構造になっている。


1990 年代と 21 世紀に向けて

トロンプロジェクトは 1990 年代から 21 世紀の技術レベルに基づいた理想的なコン ピュータアーキテクチャを目指している。この理想の実現にあたり、高度な VLSI 技術 を前提として、リアルタイム処理やコストパフォーマンスを重視し、究極のフォン・ノ イマン型アーキテクチャの実現を目指している。家庭電器製品や産業用ロボット、パソ コン、ワークステーション、大型コンピュータ、電話交換装置などといった広い分野に わたるアプリケーションに統一的な最新の設計思想が適用されることになる。


オープンアーキテクチャ

基本的な方針として、トロンプロジェクトの成果は公開された仕様という形で一般に入 手できるようになっている。この仕様をもとに誰でも自由に製品を開発し市場に参入で きる。この方針は HFDS の実現を目指すという立場からして当然であり重要なことで ある。トロン協会はトロン仕様に関して仕様作成や仕様適合性の検証を行う中核となる 機関として設立された。トロンプロジェクトの趣旨に賛同し、協会の規則に従うならば 誰でもトロン協会の会員になることができる。


弱い標準化

トロン仕様はコンピュータインタフェースを規定するが、基盤となるハードウェアやソ フトウェアに関してはまったく規定せず、 OS 自身ではなく OS インタフェースを規定 している。プログラムやデータの互換性を実現することで、開発コストを軽減し、ユー ザやアプリケーションプログラマーの教育的効果を向上させることを狙っている。そう いった意味で設計のコンセプトのみを規定するという弱い標準化が方針として採用され ていて、標準化された設計コンセプトに従い実装者が実際のシステムを自由に実現する ことができる。弱い標準化は、発展し続ける最新の技術を採り入れることと、それと相 反する HFDS 内の構成要素間の互換性を達成することとの折衷案としての意味合いも 持つものである。

インタフェースは、マイクロプロセッサの命令セット、 OS 核(カーネル)、 OS 外核、 アプリケーションプログラムという形で階層的に定義されている。仕様が階層的なので 多くの会社がそれぞれの階層を互いに別々に開発・実装することができる。 1 つのシ ステムでも、異なった階層を別々の会社で開発できることはもちろん、同じ階層も各社 の自由競争の下で実現することができる。


将来の互換性

トロンプロジェクトでは将来の上位互換性を実現するために、過去の互換性にひきずら れることのないようにしている。既存の多くのコンピュータシステムは初期のアーキテ クチャを拡張することで実現されてきた、いわば何度も改築が繰り返されて大きくなっ た家のようなものである。一方トロンは未来の VLSI 技術を基盤とするまったく新しい アーキテクチャである。例えば TRON 仕様チップに関しては 32 ビットバス対応だが、 基盤システムが 64 ビットに拡張されることも想定されている。トロンでは各種アプリ ケーション間でのデータ互換性を実現するため、 TAD ( TRON Application Databus )という標準データフォーマットが規定されている。 TAD フォーマットによ り既存の OS がトロンと共存する道も提供されている。


自動車を運転するようにコンピュータを使えたら:操作の標準性

トロンプロジェクトのもう 1 つの目的は、ちょうど現在の自動車が基本的にはメーカ ーやモデルによらず運転できるように、誰でも使えるコンピュータを実現することであ る。ハードウェアやアプリケーションが改良や変更されても使い方を学ぶために余分な 労力をかけることのないよう、特にパソコンには車と似たようなヒューマンマシンイン タフェース( HMI : Human Machine Interface )の標準化が大切なのである。


基礎プロジェクト

トロン仕様チップ
インテリジェントオブジェクトを作成するためには、汎用マイクロプロセッサシ リーズが必要である。トロン仕様チップは HFDS 構成要素を提供する VLSI マイクロ プロセッサとして独自に開発された仕様である。トロン仕様チップは 1990 年代と 21 世紀の半導体技術がフルに生かせるよう、将来拡張されても大丈夫なように設計さ れている。最初のバージョンは 32 ビットであるが、 64 ビット拡張がスムーズにでき るようになっている。

命令セットは ITRON や BTRON で生かせる特殊命令を含んでいる。良く使われる 命令には、コンパクトな短縮フォーマットが用意されており、実行効率の向上とプログ ラムサイズの縮小を実現している。

トロン仕様チップは異なったメーカーにより同時に実装されている。各社の製品 名は Gmicro/100 ・ 200 ・ 300 ・ 400 ・ 500 、 TX1 、 TX2 、 MN10400 、 O32 といったものである。 Gmicro/400 と Gmicro/500 は、スーパースケーラアー キテクチャを採用しており、後者はもっとも高い実行性能を持つ。 TX-2 は、低消費電 力を狙ったプロセッサで、電力消費量あたりで最大の性能を持っている。

トロン仕様チッププロジェクトではシステムバス標準についても研究され、二つ のバス仕様が実際に公開されている。 1 つは TOXBUS といい、プロセッサ、メモリや 入出力機器間での高速同期転送を目指したものである。もう 1 つは汎用非同期バスで ある TOBUS である。

チップ検証セットは実装されたチップがトロン仕様に準拠しているかどうかを検 証するためのプログラム類である。 1992 年に開発と検証テストが行われ、 1993 年 2 月より検定が開始されている。

ITRON (Industrial TRON )
ITRON は機器組み込み制御用リアルタイム OS のアーキテクチャである。インテ リジェントオブジェクトのリアルタイムマルチタスク OS として使われる。最初の ITRON カーネル仕様である ITRON1 は 1987 年に公開され、その後、 8bit MCU に 適用するための μITRON 仕様(バージョン 2 )、主にトロン仕様チップに適用するた めの ITRON2 仕様が 1989 年に公開された。これらの仕様に基づき、多くの ITRON 仕様のカーネルが実装され、広範なアプリケーションに適用されている。社内用に実装 されているものも多く、全体の数はわかっていないが、トロン協会に登録されているも のだけでも、約 30 の実装例がある。

最新の仕様である μITRON3.0 仕様は、 1993 年に公開され、現在、各種のマイ クロプロセッサ上に実装作業が進められている。 μITRON3.0 仕様には、ネットワー クで接続された分散システムに適用するための仕様も含まれている。カーネル以外では、 BTRON ファイルのシステムと互換性のあるファイル管理機能を持つ ITRON/FILE 仕様 が公開されている。

現在の研究課題としては、共有メモリプロセッサシステムに適用するための ITRON-MP 仕様( MP はマルチプロセッサをあらわす)や、システム稼働中にネット ワーク構成が変化するような状況に対応する IMTRON 仕様がある。 IMTRON は、 HFDS 実現へ向けて重要な仕様となる。その他の課題として、 ITRON 仕様カーネル上 でのソフトウェア開発をサポートする開発環境、デバッグ環境の標準化にも取り組んで いる。

BTRON (Business TRON )
BTRON は人間と計算機がスムーズに情報伝達できるようなパソコンやワークステ ーションのアーキテクチャである。統一的なヒューマンマシンインタフェース( HMI )、 そしてデータ移植性を目的とするトロンアプリケーションデータバス( TAD )を用い てデータ互換性が保証されることが重要視されている。 BTRON HMI の主たる特徴はキ ーボードと電子ペンを入力デバイスとするグラフィカルユーザインタフェース( GUI ) である。タッチパネルを電子ペンの代わりに入力デバイスとすることができ、ペンだけ を使用する HMI ガイドラインも現在作成中である。

TRON HMI ガイドラインはさまざまなユーザやアプリケーションに応用可能なボ タン、スイッチ、ハンドルなどのいくつかの物理的なインタラクションパーツについて 規定している。多様なユーザに適応する例として、イネーブルウェア仕様と多国語仕様 がある。前者は、いろいろなハンディキャップを持つ障害者のための HMI 、後者はあ らゆる人に自分の母国語でコンピュータを操作することを可能にするためのものである。 このガイドラインに沿って作成された HMI の元では、ユーザは互換性の違いなどによ り戸惑うことはなくシステム間の移行をスムーズに行うことができる。

TAD はトロンアーキテクチャに従って設計されたコンピュータ間でのデータの互 換性を実現する。従来の文書や絵のデータはもちろん、音声や画像などのリアルタイム データやいろいろな環境情報なども扱える汎用的データ互換フォーマットである。これ まで述べてきた目的を満たす仕様として BTRON1, BTRON2,BTRON3 の仕様が公開さ れた。 BTRON1 は限定されたハードウェアリソースの上での実装を想定して設計され ている。一方 BTRON2 , BTRON3 は強力なコンピュータシステムのハードウェアリ ソースをフルに活用できるように設計されている。また、 BTRON3 仕様では、疎結合 ネットワークによる μITRON3.0 仕様 OS との接続も考慮している。

ノートブック型のパソコン上で動作する BTRON1 仕様 OS は 1991 年に発売さ れた。トロン仕様キーボードも BTRON 仕様コンピュータ用に開発されている。これま でのものより簡単に使えて、疲れも少ないように設計されている。電子デジタイズペン がポインティングデバイスとして使われているが、マウスなどより手書き文字入力や図 形の描画に適している。トロン仕様キーボードは 1991 年に発売された。 μBTRON バス仕様は新しいパーソナル LAN ( Local Area Network )を規定している。この バスは「電子文房具」と呼ばれる周辺機器を BTRON 仕様コンピュータに接続するため のものであり、リアルタイム性と使いやすさの両方を追求している。

現在は、 BTRON のための新しいウィンドウシステムアーキテクチャ、 BTRON でのグラフィカルアプリケーション群のバッチ処理を実現する TACL ( TRON Application Control Flow Language )、マルチメディア TAD 仕様の整備などを中 心に研究している。

CTRON (Communication and Central TRON )
CTRON は情報通信ネットワークの交換処理、通信処理、情報処理の各ノードに共 通に適用できるオペレーティングシステムインタフェースである。情報化社会の幕開け といわれた 80 年代から、 CTRON は情報通信ネットワークの核となるべく、 CTRON インタフェース仕様の検討、ソフトウェアポータビリティ評価実験、リアルタイム性の 評価実験などが行われてきた。

CTRON インタフェース仕様は 1988 年に第 1 版が公開され、その後仕様変更の 集積、仕様のスリム化などにより全面改訂を行い、 1993 年に「新版原典 CTRON 大 系」として出版された。 1989 年には CTRON 仕様の OS 検定が開始され、現在まで に 20 を超える製品が合格している。

1990 年から 1992 年にかけて、 CTRON インタフェース仕様に準拠した製品の 流通性を実験によって定量的に把握するために、ソフトウェアポータビリティ評価実験 が行われた。この実験によりソフトウェア流通性の高いことが検証され、さらにソフト ウェア流通にかかわる課題を抽出し、 CTRON 仕様書へ反映された。

このように CTRON は 90 年代の高度情報通信ネットワークでの基本的なソフト ウェアプラットホームとしてほぼ確立された。今後は 21 世紀に向けて、マルチメディ ア時代の通信ネットワークの核となるべく検討されつつある。

MTRON (Macro TRON )
HFDS 実現の鍵となるのが MTRON サブプロジェクトである。 MTRON は大規模 コンピュータネットワークのための「オペレーティングシステム」を構築するための 1 つの体系としての意味合いを持つ。 MTRON での研究は最近になって活発となってき た。基礎プロジェクトの成果がようやく利用可能段階に入ってきたからである。という ことで、 MTRON サブプロジェクトは現在基礎的な研究段階である。重要研究テーマに は TULS ( TRON Universal Language System )を用いたプログラマブルインタフェ ースや、 MTRON の核となる ITRON を拡張した IMTRON などがある。

トロン電子機器 HMI
HFDS は人間の生活を支えるために多くのインテリジェントオブジェクトが協調 動作することで達成される。すべての HFDS 環境にわたり一貫性のとれた HMI がトロ ンプロジェクトで必要となってくる。このサブプロジェクトは、パソコン、電子機器、 自転車などを含めたあらゆるインテリジェントオブジェクトのための HMI ガイドライ ンの作成を目的としている。プロジェクトの成果はトロン電脳生活ヒューマンインタフェ ース仕様として公開されている。 1992 年と 1993 年の 2 回、この仕様に従った HMI デザインコンペティションが開催され、仕様の有効性の評価が行われている。


応用プロジェクト

トロン電脳住宅
トロン電脳住宅は未来のホームオートメーション研究のための実験的住宅である。 東京都西麻布での電脳住宅パイロット版への居住実験が 1992 年の 12 月にはすでに 完了している。現在のパイロットハウスでの研究は近未来の居住空間をシミュレートす るという発展的段階に入ってきている。シミュレーションにより、生活用式のあるべき 姿、発展の可能性についての探求が続けられている。インテリジェントハウスではコン ピュータとセンサーが内外の状況すべてを把握し、もっとも快適となるように統合シス テムを操作する。例を挙げれば、気温と湿度は空調システムだけではなく、気象条件に 応じて窓を自動開閉することでも調整される。また、老若男女に関わらす誰もが住宅内 のシステムすべてを簡単に使えるように統一的操作作法が採用されている。

トロン電脳ビル
トロン電脳ビルの目的は、働く人にとって最適のオフィスを提供するためにコン ピュータ化されたビルの設計に各基礎研究の成果を適応することである。 HFDS での トロンコンセプトを採り入れた電脳ビル内では、照明、空調、窓などのビルの構成要素 にコンピュータ、センサー、アクチュエーター(モーターなどの動力部分)が組み込ま れている。より能率的で快適な生活環境、労働環境を適用するために、さまざまなイン テリジェントオブジェクトが互いに通信しあい協調動作を行う。 BTRON 仕様パソコン のネットワークがビル内での通信に使われる。ロボットにより書類や作業器具を近代的 に移動させるのが、自動貯蔵物流分散システムである。トロン電脳ビルの 1 号ビルは まもなく着工される予定である。

トロン電脳都市
トロン電脳都市は、生活の快適さと知的生産性を向上させるために、トロンプロ ジェクトのコンセプトを大規模に採り入れている。オフィスビル、住居、道路など、都 市のすべての構成要素がコンピュータ化され、ネットワークで接続されている。この都 市は 21 世紀前半に完成する予定になっている。この未来都市では例えば、インテリジェ ント自動車は目的地に自動運転で向うことができるようになっている。道路にはセンサ ーが埋め込まれていて、突然近付いてきた人間を検知し車に警告を発することなどもで きるのである。オフィスビルを接続しているコンピュータネットワークにより、どのビ ルにいても同じ仕事をすることができるし、自宅で仕事をすることさえ可能なのである。

トロン電脳自動車網
トロン電脳自動車網研究委員会では、未来のコンピュータ社会での自動車交通網 の研究を行っている。想定システムでは、各自動車はその他の自動車、道路、都市と、 コンピュータネットワークにより自由にデータ交換をすることができるので、安全と快 適な運行に関していつでも最新の情報を手にすることができる。