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加賀藩上屋敷時代近世都市としての江戸が開発されるのは、天正18(1590)年、徳川家康が関八州の領主として江戸に入城してからのことである。江戸城の拡張工事とともに、家康の家臣団そして諸大名の屋敷地などが大規模な土木工事を経て形成されたが、その骨格は17世紀中頃には出来あがっていたらしい。 現在の本郷キャンパスが西面する本郷通り(国道17号線)は、かつての主要5街道のひとつ中山道であり、これに沿って多くの大名屋敷が置かれていた。 現在の本郷キャンパスを明治4(1871)年8月改正の切絵図と対照させるなら、地震研究所、農学部グランド、野球場がもと肥前唐津藩下屋敷(小笠原信濃守)、応用微生物研究所、農学部、同農場、浅野地区がもと水戸藩中屋敷、本郷キャンパスの中心を占める一画はもと加賀藩上屋敷、そして病院は加賀前田家の支藩である大聖寺藩、富山藩の屋敷地であったことが判る。 本郷に設置された加賀藩江戸藩邸は17世紀初頭に下屋敷として発足し、その後江戸城周辺が飽和状態になったため、天和3(1683)年に上屋敷となった。なお中山道に沿って中屋敷(現在の文京区駒込)、下屋敷(現在の板橋区加賀)があった。この上屋敷には北陸の雄藩にふさわしい建築群が建設された。『江戸御上屋敷惣御絵図』(金沢市立図書館蔵)は1840年代前半のものと推定されているが、これによって屋敷内の地形及び建物の様子が明らかになる。まず敷地の形であるが、西側では一部突出した部分以外は中山道に面しておらず、中山道との間に御先手組組屋敷や町屋が置かれていた。この様子は明治16(1883)年の「五千分一東京図測量原図」からもうかがうことができる。また北側も現在の言問通りとは少し異なっている。東南隅の地形は今日もよく残っているが、東京大学ではなく、本郷消防署、文京区立四中などの敷地になっている。 藩邸内部は心字池(三四郎池)を取り囲む育徳園と東側の馬場が中心を占め、その南西側に主要な建築が設けられた。西側はふたつの主要な門が中山道に向かって開かれていたが、南のものが「大御門」であり、その東側の広大な建築が藩主の公的私的な生活にかかわった御殿である。また北寄りの「御住居表御門」が赤門である。赤門は東京大学に現存する最も古い建築だが、文政10(1827)年に第11代将軍徳川家斉の息女溶姫が、第13代藩主前田斉泰に嫁した時に建立されたもので、赤門の奥に広がるのは御守殿であって、藩主夫人の住宅である。また育徳園東側の馬場には享和2(1802)年に「梅の御殿」が建てられ、第10代藩主重教夫人(寿光院)、第11代治修夫人(法梁院)が住んだが、遅くとも文政8(1825)年以前に取り壊されていたと考えられる。これらの主要建築は塀で囲まれ、外部に対し閉鎖的な構えを示しており、周囲には家臣達の居住する長屋および諸施設が建ち並んでいた。 敷地の中心にある育徳園は今日でも当時の面影を伝えており、東隣の馬場は現在御殿下グランドとして使用されている。またその東側、北側の道は現在でも主要な道路として利用されている。そして、全体に西が高く東が低いという地形は現在の大講堂(安田講堂)付近によく見ることができる。 このような加賀藩の広大な屋敷は安政2(1855)年の大地震で大きな被害を受け、さらに明治元年、近隣の町屋から発した火災で大部分が類焼した。 加賀藩邸は明治4年に収公されて文部省用地となるが、東京医学校が明治9年に移転するまでは、放置同然であったという。なお、明治16年「五千分一東京図測量原図」には、北側に観象台・気象台・音楽取調所(明治13-18年に存在、後の東京音楽学校)といった諸機関、10棟ほどの外国人教師館が見える。諸機関は東京大学の拡充に伴って、後に別の場所に移り発展してゆく。外国人教師館は、文部省の御雇教師が住んだと考えられるが、ベランダ付のコロニアルタイプの瀟洒な建築群であって、後に事務部などに転用され、一部は関東大震災で罹災する時まで存在していた。 なお前田家は明治以後も南西の隅に屋敷を構えていた。前掲「五千分一東京図測量原図」によると、敷地内の北側によせて和風と思われる屋敷と庭、その南に18棟の家作、南端に畑があって、小さくなった敷地に合せて屋敷の再建が行われていたことがわかる。前田家は大正15年8月、震災後のキャンパス拡充のために、駒場と敷地交換をして本郷を去るまで、ここに存続しつづけた。 |
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