挨乃木乃伊(エジプト・ミイラ)の解剖学


西野嘉章 東京大学総合研究博物館



 横浜駐在のフランス領事ルクーがエジプトの領事を務めていたとき、現地で1千6百フランにて購入し、所持していたもの。明治21年帝国大学は博物館で陳列するため領事からそれを3百円で譲り受けたと『朝野新聞』(明治21年3月17日)に報じられている。明治21年6月20日発行の『博聞雑誌』(第16号)によると、陳列予定場所は博物館でなく「人類学ノ参考品陳列所」であるとされ、明治17年にテーバイで発掘されたものであるとの断り書きもある。

 しかし、実際にこのミイラを入手したのは帝大医科大学解剖局であり、フランス領事が解剖局主任教授小金井良精に宛てた明治21年3月7日付譲渡文書が医学部に残されている。解剖局ではすぐに棺を飾る装飾を5分の1の寸法で模写させており、そこに榊綽の次のような解説が施されている[挿図1]、

「コノ木乃伊ハソノ被覆ニ彩色セル記銘ノ示ス如クシヲピーユンドント呼フ身分アル女ナリテーブ府ノ大寺ニ役ヲ務メ居タルモノト推考セラル如何トナレハソノ或ル形状ハ神聖ナル性質ヲ示スモノヽ如シコノ婦人ハ紀元八百年前ニ生存セリ即チ今ヲ去ルコト二千七百年ナリ/但シコノ木乃伊ハ發見セシ儘ナリコレハ挨及學ニ從事セサル人ノタメニハ真実ナラザル如シト雛モコノ木乃伊ヲ日本ニ齋シタル人ハ其外部ヲ覆フ光澤アル彩色ハ埋葬以来更ニ修飾セルコトナキハ名譽ニカケテ確言スル事能フナリ勿論挨及上古ノ奇觀ヲ研究スルトキハ人皆ニール谷ノ古代住民ノ後世世界所有邦國ニ於テ用ヰタル方法ニ勝ル着色法ヲ得タルヲミテ驚ケリ/第一ノ被覆ハ布ト煉物トヲ合セタル厚板ノ類ヲ以テ製ス棺ハ木ナリ人皆コノ葬窟ノ内ニ二十七世紀ノ間幽蔵セル木ノ著シキ保存ト驚クヘキ乾燥トニ注目スルナルヘシ/木乃伊ノ本形五分ノ一縮圖明治二十一年三月 榊綽」。

挿図1 『千八百八十四年二開掘シタル穴窟墓所ノ中ニ發見シタルテーブ府ノ木乃伊』、紙に彩色掛物、明治21年3月、縦90.0cm、横27.0cm、東京大学総合研究博物館医学部門蔵

 この資料は被葬者を「シオピーユンドン」という名の貴婦人のミイラとしているが、1975五年にエジプト学の研究者鈴木まどか氏が棺に記されているヒエログリフを解読した結果、ミイラはアメン神に仕えたウワブ神官「ペンヘヌウトジウウ」という名の男性であることが判明し、また棺の様式その他からしてエジプト末期の第22—25王朝時代(紀元前900—300年頃)に造られたものであると考えられるようになっている。昭和63年には医学部解剖学教室が情報工学、形質人類学、映像記録などの専門家の協力を得て医療用X線コンピュータ断層装置による骨格他の解析を行い、被葬者が身長168センチの若い男性であるとの結論を得て、上記の推定を科学的に裏付けることになった。国内にはこの他にもエジプトのミイラが存在するが、ミイラと棺が揃っているのは本標本のみである。

 棺は昭和12年の医学部2号館の落成とともに建物3階講堂前ロビーに置かれてきたが、1968年の大学紛争のさい医学部標本陳列室に移動され、さらに1972年に総合研究博物館へ移された。そのさいオリジナルのガラス張り木製ケースから外され現代の保存ケースに移し変えられているが、今回の展示ではとくにオリジナルのケースに戻し、標本の旧状を復元してある。



【参考文献】

鈴木まどか「ペンヘヌウトジウウの木棺について」、『古代学叢論』、昭和58年4月、655—667頁。
神谷敏郎「エジプト・ミイラの枢を覗く」、『UP』、197号、東京大学出版会、1989年、18—24頁。
神谷敏郎「エジプトミイラと木棺」、『東京大学総合資料館要覧1973—1974』、昭和49年。




133 エジプト・ミイラ(木製大型ケース入)
末期王朝時代(紀元前900—600年頃)、長200.0cm、幅65.0cm、高60.0cm、総合研究博物館医学部門/医学部庶務掛


134 神像(副葬品)
末期王朝時代(紀元前900—600年頃)、木に漆喰、彩色、縦44.0cm、横14.0cm、高67.0cm、総合研究博物館医学部門



東京帝国大学医学部薬理学科


136 フグ毒研究資料、医学系研究科第二薬理学


136-1 ヒガンフグ Takifugu pardalis (Temminch & Schlege)
液浸標本、径13.0cm、高29.5cm、「河豚之解剖 東京山越工作所 下谷」の標本ラベル

136-3 ショウサイフグ Takifugu vermicuiaris (Temminch & Schlege)
相模産、液浸標本、径9.0cm、高27.5cm

136-4 アカメフグ Takifugu chrysops (Hilgendorf)
相模産、液浸標本、径11.0cm、高27.5cm


136-5 高橋順太郎・猪子吉人「河豚之毒」
明治22(1889)年、抜刷、縦25.7cm、横17.6cm


136-6 D. Takahashi & Y. Inoko, Beitraege zur Kenntniss des Fugugiftes, Mittheilungen aus der Medcinischen Facultat der Kaiserlich-Japanischen Universitat., Band I, No.V., Tokio, 1892.
『帝国大学紀要医科』第1冊第5号、帝国大学印行、縦26.0cm、横14.2cm

明治18(1885)年10月ドイッから帰国した高橋順太郎は翌月東京大学御用掛に任ぜられ医学部専任講師として薬理学の講義を行うことになった。第一大学区医学校(明治5年改組)でホフマンが、束京医学校(明治7年改組)でベルツが、東京大学医学部(明治14—17年)で印東玄得が他の講義の傍らで講じた薬物論や薬物学しかなかったことから、高橋が教授に就任した明治19(1886)年を薬理学教室の創設された年と考えてよい。

 高橋の業績のなかでもっともよく知られているもののひとつに、助教授猪子吉人との共同実験を基にしたフグ毒の生理的作用に関する研究がある。研究が始められたのは明治20年9月。これは動物試験を基にした実験薬理学の端緒となった。フグ毒が生魚の体内にあること、水に解けやすいことなどから、高橋はそれがタンパク質(酵素)様のものでないことを証明し、毒力表を作成した。医学系研究科第二薬理教室にはこのときに集められた日本近海産フグの液浸標本が保存されている。(西野)


137 生薬レファレンス・コレクション(木製ケース二台入)
明治30年代以降、ドイッのメルク社製と津村研究所製、ケース縦208.0cm、横166.0cm、高73.5cm、医学系研究科第二薬理学教室

独国メルク(Merck)社製の薬用植物標本約270種、津村研究所(現在の株式会社ツムラ)製の和漢薬標本約60種、当時の東京帝国大学医学部薬理学教室により収集された標本約40種よりなる。コレクションとして成立した年代は不明であるが、大正12(1923)年の関東大震災のさいには類焼を蒙り教室の設備図書等を全部焼失したと伝えられているので、その後から昭和14(1939)年頃までに購入または収集されたものと考えられる。津村研究所調製の60種の標本は、その解説書の発行時期から大正14(1925)年頃のものと推定される。メルク社製のすべてと津村研究所製の一部を含む320種の標本には通し番号が付けられている。通し番号のついていない標本のなかには日本各地(千島・樺太を含む)で昭和11(1936)年から14(1939)年に収集されたものが含まれている。当時は教卓上に標本を陳列し、それを用いながら学生に対する講義を行ったと伝えられている。昭和6(1913)年、当時新築されたばかりの現医学部1号館3階の講堂で講義中の故林春雄教授の写真が残っており、教卓上に並べられた同様の標本類が写っている。生薬標本は医学部薬学科(現在の薬学部)の講義にも用いられたという。(櫻井)




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