明治期の電気工学機器について


千葉政邦 東京大学大学院工学系研究科



 わが国の電気技術の発達は、電信に始まり、ついで電灯と発電機、電力供給事業、電気鉄道へと展開していった。それを先導したのはエアトン教授に学んだ人達であった。本稿は黎明期の電気工学に顕著な貢献をなしたエアトンの弟子四氏と電気工学機器国産化への足跡を概説する。


1 エアトン教授と日本の弟子たち


 イギリス人エアトン(W.E. Ayrton)は明治政府の招聘により、明治6(1873)年から11年まで工部省工学寮電信科(現工学部電気工学・電子情報工学・電子工学三学科の前身)で教鞭を執り、わが国電気工学の基礎を築いた。

 エアトンはロンドン大学で学び、1867年に学士試験に合格してインド電信庁に入所し、電信技師見習いとしてグラスゴーに派遣されトムソン(W. Tomson、後のヶルビンL. Kelvin)のもとで物理・電気学を学ぶことになった。1868年にインドヘ派遣され電信監督官として電信局を管理した。インド滞在中に電信に関する研究を行い多くの論文を発表している。1872年にイギリスに戻り、インド電信庁で碍子試験に、またトムソンのもとで製造中の大西洋海底電信ケーブルの試験に従事した。翌年、わが国に赴任することになる。

 政府は明治4年、工部省工学寮を設置し、この学校の設立、運営のために明治6年、ダイアー(H.Dyer)を都検(教頭)として、エアトン他6名の教授陣をイギリスより招聘した。エアトンは電信科の教授となり、物理学と電信学を担当した。月給はダイアーが650円、エアトンはその次の500円であり、最初からその地位が高く評価されていたことが窺える。明治8年に着任したペリー(J. Perry、土木工学)はエアトンの物理実験室をみて、世界で類例のないすばらしさであると評した。エアトンはトムソンの講義と実験室を手本にしたと推測されている。

 エアトンは非常に勤勉な学者で、寸暇をも無駄に費やすことを嫌い、朝早くから夜遅くまで研究に没頭し、ペリーとともにその結果をイギリスの学会誌などに次々に発表している。マクスウェルが、「電気学界の中心は日本に近づけり」と彼の研究を評したという有名な伝説が残されている。帰国の際にも直前まで研究に熱中し、駅に駆けつけたが予定の汽車に乗り遅れてしまったので、次の汽車を待つあいだ再び学校に戻り実験したほどである。

 エアトン夫人(M.C. Ayrton)もまた秀でた学者で、ロンドン女子医学校で2年間学び助産婦の免許をとり、パリ大学では理学士号、文学士号を取得している。滞在中の研究に基づき、「日本人の体格と身体の形成」なる論文でパリ大学より医学博士の学位を授与されている。また、1879年にCHILD-LIFE IN JAPAN JAPANESE CHILD-STORIESを著している。

 電信科第1期生(明治12年)に志田林三郎、第3期生(同14年)に藤岡市助、中野初子、浅野応輔がいる。卒業後、志田は英国留学を命じられ、藤岡、中野、浅野の三氏は母校の教授補に任じられた。明治16年に志田が帰国し教授となり電信科は日本人教師のみで運営されることになった。

 明治11(1878)年3月25日、京橋小挽町に電信中央局が開局され、その祝宴が東京虎ノ門の工部大学校において開催されたが、この時にエアトン教授は3期生の藤岡、中野、浅野らを指揮して(ここに志田の名が無いのは、実地教育期間でありちょうど函館に赴いていた時期にあたる、2期生も実習期間中)、公開の場で、わが国初の電気灯(フランス製アーク灯)を点灯させた。「電気記念日」はこの日に由来している。この日はわが国が本格的に世界の電信界の仲間入りをした記念すべき日でもある。

 なお、エアトンに学んだのは彼ら四氏のみではなく、電信科だけでも20人にのぼる。そのほかに電信寮(電信技能者育成所、後の東京電信学校)の修了生から選抜されてエアトンに学んだ人達もいる。


2 志田林三郎と電気学会


 明治13(1880)年、第1回卒業生のうち特に優秀な11名が英国留学を命ぜられた。志田林三郎はグラスゴー大学のトムソン教授の許に学び、高等数学二等、理学一等、高等理学一等賞を得、さらに、理学論文を著述し金牌を得ている。師のトムソンが「生涯のなかで最も優秀な生徒」と評しているほどである。明治16年4月に帰朝し、わが国初の教授となる。明治21年に帝国大学評議会推薦により工学博士を授与され、わが国の博士一号となる。志田はまた工部権少技長にも任じられ、以後、工部大学校教授を兼務しながら、官の立場から電気界の指導にあたった。

 工部大学校卒業生を中心にした工学会が明治12年に設立されており、それ以外に個別の学会は不用という批判の中で、志田は電気学会の創設を主唱し、明治21(1888)年に創立させた。会長に逓信大臣の榎本武揚を推し、自らは幹事として学会の運営にあたった。第1回通常会の演説は百余年経た今日でもしばしば引用されるほどの名演説である。電磁気学、電信電話、電灯電力、航空などの最新情況を概説し、電気工学および電気工業の発展を予見し、さらには、今後なすべき課題について30項目ほどを具体的かつ簡明に説いている。一部を抜粋してみよう。「猶ほ一歩進め学理の蘊奥に拠り想像を試みるに光は電気、磁気、熱の如く勢力にして唯異なる所は其種類に在るは物理学家の深く信じる所なるを以て、電気又は磁気の作用に拠りて光を遠隔の地に輸送し遠隔の地に在る人と自由に相見る事を得る方法の発見を望も敢て夢中の想像にあらざるべし」。ちなみに、ブラウン管が発明されたのが9年後の1897年、テレビ放送が始まったのが1937(昭和12)年である。

 志田は明治25年に病のために早世した。


3 藤岡市助と電灯・発電機の国産化


 藤岡市助はまずアーク灯の試作を工部大学校工作所で行い、一応の成功を収めたのち、屋内照明が白熱電灯であることを洞察し、電灯とその電源の発電機の製作に心血を注いでいる。明治16(1883年に、同郷の三吉正一を勧誘して三吉電機工場を興し、電灯用器具、発電機の製造の指導にあたった。三吉電機工場はわが国初の重電機製作所である。

 明治17年にアーク灯用の発電機を設計、製作(工部大学校及び三吉製作所)しているが、これが国産一号発電機である。明治19年には工科大学校工作所にて二号目の発電機を製作している。この発電機を使用して帝国憲法発布式当日、帝国大学正門に80灯の白熱灯を点灯し「万歳」の二字を現わした。この発電機は白熱電灯用の国産一号機であり、本学に保存されている[62]。

 明治17年秋アメリカで開催された万国電気博覧会に派遣されたおりに、エジソン(T.A. Edison)が1789(明治13)年に発明した電球を見て、白熱電灯製造の決意を固め、帰国後その計画を進めた。電球製造機械一式をイギリスより購入し、明治23年に三吉正一と共同で白熱社(現東芝の弱電部門の前身)を設立して白熱電球の開発を始め、同年8月に12個の試作品を完成させている(ただし、前年8月の説もあり、明治23(1890)年3月の第3回内国勧業博覧会の出品目録に国産電球の出品が記載されている)。エジソンが電灯のフィラメントにわが国京都八幡村の竹を使用していたことは有名であるが、藤岡らもやはり同じ竹を使用している。また、藤岡らは通常電球の開発のほかに特殊電球の考案にも努めた。その一つに電球内に二組のフィラメントを組み込み、ソケットのスイッチで明るさを切り替えるものがあり、当時は珍しい考案とされた。


4 藤岡市助、中野初子と電気事業


 藤岡市助は電球、発電機の国産化と同時に電燈会社の創立を各方面に熱心に説き、東京電燈会社(現東京電力の前身)を明治16(1883)年に設立、19年には工部大学校の教授を辞して技師長に就任している。明治20年1月に鹿鳴館に白熱電灯の点灯を開始し、ここに一般供給事業が始まる。エジソンが最初の電灯会社を設立したのが1880(明治15)年であるからして、わが国の電気事業の創設は世界的にみてもきわめて早期であるといえる。当時はアーク灯用と白熱電灯用の2種類の電気を供給していたが、後者の発電機はエジソンの発明なるエジソン式発電機で、直流125ボルトであり、十六燭光の電球が400個点灯できる。この発電機も本学に保管されている[105]。明治20年代にはエジソン式発電機が三吉電機工場でも製作されるようになった。しかし、直流の低圧送電では需要の増大に対処できないので交流高圧送電に転換されていき、エジソン式発電機の使命はほぼ10年ほどで終わることになる。

 明治24(1891)年の電灯代は十燭光一灯につき月1円(この頃の米価は一升7—8銭)で、相当に高額であり当初は一部の裕福な家庭に限られていた。明治24年に帝国議事堂が原因不明の火災で焼失し、その原因が漏電と発表されたために電気は危険とみられたこともあったが、しかし、ガス灯や油灯よりもはるかに便利で危険も少ないことから電灯需要は増大を一途をたどった。

 東京電燈は明治28(1895)年の中央発電所の新設を期に、中野初子が設計し、石川島造船所で製造した単相交流発電機(2,000ボルト、100ヘルツ、200キロワット)を4台を設置している。ここに国産の、世界的にみても大容量の発電機が誕生した。この時にドイツ製の発電機2台も据え付けた。

 ドイツの発電機の標準周波数が50ヘルツであったので、これが関東地域の周波数が50ヘルツになった所以である。大阪電燈が明治30年にアメリカの機械を求めたがその標準が60ヘルツであった。また、名古屋以西のほとんどの電燈会社がアメリカ製発電機を購入したので、天竜川を挟んで関西側は60ヘルツとなったのである。

 初期の発電所の動力は火力であったが、明治25年藤岡も参画しわが国初の実用的水力発電所を京都粟田口に完成させた。これを期に水力発電所が各地に建設され始める。明治23年第3回内国博覧会の際に東京電燈会社が米国製電車を運転した。これがわが国初の電気鉄道である。営業用として初めて登場したのは明治28年に京都電気鉄道株式会社の市街路面電車である。いずれも藤岡の指導によるものであり、これを皮切りに全国に電気鉄道の普及を図るなど、わが国の電気事業のほとんどの分野に創始者として名をとどめている。

 電気工業界における中野の足跡は少ないが、しかし、卒業以来33年間母校の教壇に立ち、1年後輩の山川義太郎(彼もエアトンに師事)ど共に後進の指導に努めた。わが国の電気工業の黎明期、発展期に活躍した人材のほとんどは彼らの門下生である。


5 浅野応輔と電信事業


 電信技術の渡来は維新前から始まっており、明治2(1869)年にはイギリス人のギルベート(J.M. Gilbert)に担当させて横浜元弁天の燈明台と横浜裁判所(税関)の間に開通させ、官用通信の取り扱いと通信技術の教授を行った。これがわが国の最初の電信施設であり、これを期に電信線の建設が急速に進むことになる。しかも、国際電信の発達は国内線を上まわり、明治4年長崎—上海および長崎—ウラジオストック間に海底電信ケーブルが敷設され、アジア、ロシアおよびヨーロッパの電信網に連絡され、この年から国際電報の取り扱いが始まっている。その頃は、国内線がまだ未整備な状態であったので、国内は飛脚が運んでいた一時期もあった。

 電信柱に電線を取り付けるために碍子が必要であり、当初はイギリスより輸入していたが、品質が悪く全数を試験しなければならなかった。そこで、工部省電信寮に碍子の試験場が設けられ、最初はその検査責任を外国人に担当させていたが、明治9(1876)年からは吉田正秀が責任者となった。彼もまたエアトンに学んでいる。この試験場は明治24(1891)年に逓信省電気試験所(現電子技術総合研究所)と発展し、浅野応輔が初代所長に就任した。浅野は明治17年、健康を害したために大学校の職を辞し、工部省地方在勤電信建築官となり、以後、電気試験所所長をはじめ無線電信界の指導者として活躍する。

 九州—台湾間(1,400キロ弱)に海底ケーブル[106-2]を敷設するにあたって、政府はすべて英国に委託予定であったのを、わが国の技術発展のためにと浅野自ら工事責任者となり、明治30(1897)年にケーブルの敷設に成功させている。但し、ケーブルと敷設船は英国より輸入した。なお、日本人のみによる海底ケーブルの敷設は、明治23年志田(当時工務局長)の指導の下に吉田正秀が工事主任となって敷設した津軽海峡線の増設工事が最初である。

 浅野は明治39(1906)年、ベルリンでの万国無線電信会議には日本代表として列席し副議長に就く。また、明治41年にはロンドンにおける万国電気単本位会議にも委員として出席し、わが国もこれを採用して明治43(1910)年に電気測定法を制定することになった。



【参考文献】

高橋雄造『エアトンとその周辺—工部大学校お雇い外国人教師についての視点—』、1989年。
岩井登・高橋雄造『てれこむノ夜明ケ』電気通信振興会、1994年。
工学博士藤岡市助君伝記編纂会『工学博士藤岡市助傳』、1933年。
加藤木重教『日本電気事業発達史』、電友社、1916年。
日本電気事業史編纂会『日本電気事業史』、電気之友社、1941年。
東京大学電気工学科同窓会『東大電気工学科の生い立ち—諸先生のおもかげ」第1集、1959年。
牧野良兆『要書類留牒』、東京大学電気工学科。
電気学会『電気学会七十五年史』、1963年、119—125頁。
電気学会『電気学会百年史』、1988年、39—45頁。
『電気学会雑誌』第1号、電気学会、1888年、3—28頁。
『電気学会雑誌』第42号、電気学会、1892年、44—49頁。
東京電力社史編集委員会『東京電力三十年史』、1983年、3—48頁。
東京芝浦電気総合企画部社史編纂室『東京芝浦電気株式会社八十五年史』、1963年、3—14頁。
東北電力株式会社『東北の電気物語』、1988年、87—90頁。



[工科大学電信学科]



105 エジソン10号型発電機(四百灯用)
明治20年代、金属にガラス、竹、国産又は輸入、「Edison Electric Light Co. Patented dec 23 1879, Aug. 22 1882, Sept. 19 1882, Oct. 10 1882.」の金属プレートあり、工学部三号館

電圧を105ボルトないし125ボルトに定め、またダイナモも二個組み合わせて「直流三線方式」で配電を行ったことは画期的である。横浜のフレイザー商会を通じてエジソン社から輸入され、東京電燈会社で使用された。購入金額は明治25年当時としては破格の2500円。(西野)

106 電信線見本、工学部一三号館


106-1 海底電信線見本(大西洋インディヤラバー被覆海底線五千マイル四本組見本、木箱入)
明治5(1872)年、フーパー電信会社製、ケース縦24.0cm、横41.0cm、高11.0cm、30円、「MANUFACTURED FOR GREAT WESTERN TELEGRAPH COMPANY 1872 CONTRACTORS HOOPER'S TELEGRAPH WORKS, LIMITED. LONDON」「工科電気備品ヌノ九」の記載あり

当時のケーブルの絶縁には殆ど例外なくガターパーチャ(おもにマレー半島に生長する木の樹液から得られる)が使用されていたが、この原料は高温や乾燥で変質しやすいため、温度の高い海域や空中に露出するところにおいては不適当であった。明治3(1870)年にW・フーパーは硫化弾性ゴム絶縁のケーブルに成功。彼の会社は明治4年に長崎・上海間に敷設したケーブルを製造している。(千葉)


106-2 台湾海底電信線見本(ガラス付木箱入、一部破損)
明治36(1903)年5月、グッタ・パーチャ&テレグラフ製、ケース縦40.0cm、横29.0cm、高11.0cm、「SUBMARINE TELEGRAPH CABLE MANUFACTURED FOR MESSRS JOHN BIRCH & Co. BY THE INDIA RUBBER CUTTA PERCHA & TELEGRAPH WORKS Co. LTD.」の記載あり、浅野応輔寄贈

浅野応輔(明治14年卒)は電気試験所(現電子技術総合研究所)の初代所長に就任し、九州・台湾間(約1400キロ)の海底ケーブル敷設に寄与した。当初はすべて英国に委託する予定であったが、浅野自ら工事責任者となり、明治30年にケーブル敷設を成功させている。ただし、ケーブルと敷設船は英国より輸入した。(千葉)


106-3 海底電信線見本(箱入)
明治22(1889)年4月以前、ジーメンス・ブラザーズ社製、ケース縦15.0cm、横24.5cm、高11.0cm、18円、「Platino Brazileira Cable」「SIEMENS BROTHERS, LONDON」「工科明治二年四月一日調査済」の記載あり

御雇外国人教師W・E・エアトンはイギリスとインドで電信関係の研究や監督を行っていた。特に来日数年前には、グレース・ウェスタン電信会社で製作中の大西洋海底電信ケーブルの試験に従事している。明治7年津軽海峡に敷設された海底線はエアトンの設計になる。ただし、ケーブルは英国ジーメンス・ブラザーズ社とヘンリー社で製造されている。わが国における最初の海底線は東京・長崎間を連絡するため明治5年8月に関門海峡に敷設された。ケーブルには大西洋横断海底線の残りが再利用されている。(千葉)

107 計測器


107-3 シャムソン卿特許電気天秤(ガラス・ケース入)
真鎗、鉄、ガラス、木、グラスゴーのJ・W・ホワイト社製、縦36.0cm、横35.5cm、高17.0cm、「SIR CHAMSON'S PATENT ELECTRO BALANCE No.154 J. WHITE GLASGOW」の記載あり、工学部三号館第一制御実験室


107-4 エアトン&マザー特許静電電圧計(エレクトロスタチック・ヴォルトメータ)
明治31(1898)年2月購入、真鍮、木、ロンドンのR・W・ポール社製造、縦22.0cm、横22.0cm、高29.5cm、86.73円、「AYRTON & MATHER'S PATENT ELECTROSTATIC VOLTMETER R.W.PAUL HATTON GARDEN LONDON No.1037」「工科大學電氣教室 V49」の記載あり、工学部一三号館

2800ボルトまでの電圧が測定できるW・E・エアトンにより発明された静電気式電圧計である。(千葉)


107-5 ケルヴィン卿特許静電電圧計
明治28(1895)年9月に購入、グラスゴーのJ・W・ホワイト社製、縦17.0cm、横31.5cm、高45.5cm、実寸縦8.0cm、横28.0cm、高39.0cm、85.015円、「LORD KELVIN'S PATENTS ELECTRO STATIC 262 VOLT METER J. WHITE GLASGOW」の記載あり、工学部一三号館

静電力で動作するのであるが、いくつかの分銅が用意されていて、これで感度を変更できるようになっている。(千葉)


107-7 ガルバノ・スコープ
明治22(1889)年4月以前、金属、ガラス、木、紙、エリオット・ブラザース社製、径18.0cm、高27.0cm、12円、「Elliot Bros. London」の記載あり、工学部三号館第一制御室

微小電流を測定する計器。当時は電信線に使用される碍子の良否の判定やケーブルの試験のための高感度の検流計が必要であった。(千葉)


107-11 三吉製電流計
明治22(1889)年4月以前、金属、木、三吉正一製造、縦16.0cm、横28.0cm、高9.0cm、18円、「工科電氣ヲ二五」の記載あり、工学部三号館第一制御室

国産最古とも言える電流計である。三吉正一は明治16年に電機工場を設立し、藤岡市助の指導のもとにエジソン式発電機をはじめ、弱重電機器の製造を行った。この電流計は垂直にして使用し、指針が磁力と重力のバランスで振れるようになっている。(千葉)

108 エジソン・ランプ
明治10年代前半、明治23(1890)年に東京電灯会社より購入、ガラス、金属、竹、工学部一三号館


108-2 エジソン・ランプ
五十燭光、アメリカのエジソン社製、径8.0cm、長21.0cm、2.5円、「電氣備ヲ二四」の記載あり

108-3 エジソン・ランプ(アクリルケース入)
十六燭光、アメリカのエジソン社製、ケース径15.0cm、長25.0cm、「電氣備ヲ二五」の記載あり

明治23年3月購入。百燭光4.0円、五十燭光2.5円、三十二燭光1.6円。東京電燈会社(東京電力の前身)より標本として購入しているが、東京電燈もまたエジソン電燈会社より輸入していた。

 T・A・エジソンは1879年に木綿糸を炭化させた炭素フィラメントを使用し実用的な白熱電球の発明に成功した。その後も世界各地に人を派遣してフィラメントの素材をもとめ、6千種以上の素材を試験した。その中でわが国の京都八幡村の竹がもっとも良好であった。わが国から多量の竹が送り出されていたが、ほとんどの人はその目的を知らなかった。炭素電球のことが「エジソン・ランプ」といわれるのは、たんに電球の発明にとどまらず、エジソン電燈会社を設立し、エジソン発電機の発明をはじめ配電システムを完成させ、電灯照明の普及に努めたからである。エジソン式発電機[十六燭光(50ワット)、四百灯用]が工学部三号館に展示されている。(千葉)

108-4 エジソン・スワン白熱炭素球
百燭光、明治23(1890)年3月購入、径7.2cm、長13.5cm、3.82円

エジソン以前から、多くの人が電球の発明を競っていたが、その中でエジソンに優るとも劣らないのが英国のJ・G・スワンである。スワンもまた炭素フィラメントの研究を行い、エジソンより1年前の1878年に綿糸を使用して炭素電球を成功させている。エジソンとスワンは無駄な特許権争いを避けるために、1883年英国にエジソン・スワン合同電燈会社を設立し電球の製造を行った。ここでは木綿などのセルローズをいったん薬品で溶解させ、孔を通して細く均一な繊維を作り、それを炭化させて良質なフィラメントを製作していた。(千葉)


108-5 フィラメント(十六燭光用一束)
大正7(1918)年3月、京都八幡産の竹ヒゴ、アクリル製保護棒入、帝国電球製、ケース長31.5cm

百燭光のエジソン・ランプと百燭光のエジソン・スワン白熱球の外観上の相違は口金の形状にある。後者はフィラメントをループにし、いっそうの小型化を図っている。エジソンが京都の竹を使用し始めたのは明治13年。とすると、本品は比較的初期のものと言える。本品は大正7年の十六燭光用のフィラメントの素材である京都八幡産の竹ひごで、太さは0.26ミリ。太さのバラッキは0.01ミリ内にあり均一である。炭素電球はまもなくタングステン電球にとって替わられ、大正10年頃に製造が打ち切られている。(西野)

109 藤岡式電灯球(二フィラメント、三極口金)
明治25(1892)年3月、ガラス、金属、竹、径6.5cm、長12.5cm、「藤岡博士発明特許第23665」「100V F16&I」の記載あり、藤岡市助寄贈、工学部一三号館

工部省工学寮電信科の第3回卒業生であった藤岡市助は、明治19(1886)年に東京電燈の技師長となり、国内の電気事業の確立に寄与した。彼がとくに力を注いだのは白熱電球の国産化事業であり、明治23年には「白熱舎」(株式会社東芝の前身)を興す。本電球は藤岡の考案になるもので、明るさを切り替えるためであろうか、二組のフィラメントと三極の口金からなっている。国産が可能になったとはいえ、明治20年代は品質、価格とも外国産に劣り、電球の大半は輸入品であった。当時の一般(といっても一部の裕福な)家庭での電球は十燭光程度であった。因みに、明治24年の電灯代は十燭光一灯につき月1円であった(米価が1升7銭から8銭の時代)。(西野・千葉)


110 電話器
明治38(1905)年11月、金属、エナメル塗装、金蒔絵、エボナイト、日本電気有限会社製、縦16.0cm、横27.0cm、高31.0cm、工学部三号館第一制御実験室

111 電話機
明治40(1907)年1月製造、金属、木、日本電気株式会社製、縦18.5cm、横三30.0cm、高39.0cm、工学部三号館第一制御実験室

わが国の電話機の国産は明治11年工部省の製機所で模造品を製作したのが始まりである。(千葉)

112 双眼顕微鏡(木製台付)
1870年代、真鍮、イギリス製、縦22.0cm、横17.5cm、高48.0cm、「工科電氣備品七四」「ADIE LONDON」の記載あり、工学部三号館



前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ