建築写真と明治の教育

東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵古写真解題


清水重敦 東京大学大学院工学系研究科



1 はじめに


 いわゆる建築写真というものは、普通、人の写っていない抽象的な写真であることが多い。建築史の教科書には、現存する建物でも、今とはまったく違う姿の竣工時の写真が載っていたりする。一方、失われた建物の場合は、必ずしも竣工時の写真があるとは限らず、他の時点での写真で代用される。例えば、工部大学校講堂の写真である[挿図1]。我々がよく目にする正面からの写真には、「工部大学校」の額がなく、白い看板のようなものがはめられているだけである。竣工時のものではないこの写真を見て、我々は写された対象の美しさを愛でようとする。写真は時間を切り取り、建築を抽象的な存在へと変えてしまうのである。建築と写真との関係をいかに理解していくか、こうした問いが立てられないままに、建築写真は流通し、浸透している。


 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻に200枚を越える明治期に撮影された古写真が所蔵されている。この写真の一部は戦前から紹介されており、近年では明治美術研究学会・工部美術学校研究部会による調査の一環として調査がなされ、写真の複写までは行われた。とりわけ工部美術学校の備品であったイタリアの建築写真の存在は知られるようになってきている[1]。昭和63(1988)年の東京大学総合研究資料館『東京大学本郷キャンパスの百年』展では、旧工部大学校関係写真と本郷キャンパス内の古写真が紹介されたのだが、あくまでも建築紹介としての利用にとどまっている。結局、この写真の群としての性格については語られていないのである。

 建築と写真の関係という問題は、未だ多くが語られていない、未開の領域である。今回、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵の古写真群(以下「東大建築古写真」と略す)の整理を行ったので、本稿ではその分類について論じ、そして教育資料としての写真のあり方から、明治期の建築、美術、写真の関係を見据える視点を提示してみたい。


2 写真群の分類


「東大建築古写真」の台紙には五種類の印が押されている。「工作局美術校」「工部美術学校」「工科大学造家学教室之印」「東京帝国大学工科大学建築学教室印」「東京帝国大学工学部建築学教室」で、以上の印は後述するように時間軸上で重複がないため、時系列で整理する上での根拠となる。

 まず「工作局美術校」印と「工部美術学校」印についてであるが、これらは工部美術学校に関連するものと考えられる。工部美術学校の名称については、二度の変更があったことが尾埼尚文氏により指摘されている[2]。尾埼氏によれば、工部美術学校は明治9(1876)年11月6日に「工学寮美術学校規則」が制定され開校、明治10(1877)年1月11日には官制改革により工部省の諸寮が廃止、局が設置され、工作局の所属として工部大学校があらためて開校、美術学校は工部大学校の管轄となる。同年6月3日には美術学校の規則が改訂され、「工部美術学校諸規則全」が制定される。つまり美術学校は当初「工学寮美術学校」として開校、明治10年1月から6月までは工作局の所属になり名称変更、そして遅くとも10年6月以降は「工部美術学校」と呼ばれたことになる。

「東大建築古写真」において「工作局美術校」印と「工部美術学校」印が押されていることにより、尾崎氏が同論文で指摘する通り、明治10年1月から6月までの間は「工作局美術校」と呼ばれ、6月以降は「工部美術学校」と呼ばれたと考えられる。以上の二種の印が押されているものについては、工部美術学校の教育資料として使用されたものとなろう。

 その他の三種の印は、すべて帝国大学工科大学以降の、造家—建築学科による備品登録を示す印である。現在の東京大学大学院工学系研究科建築学専攻は、明治6(1873)年開校の工部省工学寮工学校造家学科に端を発し、明治10(1877)年に工部大学校造家学科へと改組、明治19(1886)年の帝国大学創設により工科大学造家学科となり、明治31(1898)年に建築学科と改称、大正8(1919)年に工学部建築学科と改組、平成5(1993)年に大学院工学系研究科建築学専攻となり今に至っている。上記の「工作局美術校」印が押された写真には、そのほとんどに「工科大学造家学教室之印」と「東京帝国大学工学部建築学教室」印が重複して押されており、造家—建築学科において工部美術学校備品が利用されていたことを示している。

 印により分類すると、新規登録の時期により[一]工部美術学校時代、[二]帝国大学工科大学造家学科時代、[三]東京帝国大学工科大学建築学科時代、[四]東京帝国大学工学部建築学科時代、と四つの時期に分けられる。なお、[一]の時期と重なるはずの工部大学校造家学科の時代の写真には印が押されていないが、この時期の写真は教育資料という位置づけではなかったのであろう。

 以上の印による整理と、被写体の内容により、「東大建築古写真」は以下のように分類できる。

[一]工部美術学校旧蔵写真
i 図学教本写真(「工作局美術校」印) 12枚
ii イタリア建築写真(「工作局美術校」印) 96枚
iii 寒水石採石場写真(「工部美術学校」印) 20枚
[二]工部大学校関係写真(明治10年代撮影、印なし) 19枚
[三]帝国大学工科大学関係写真(明治20年前後撮影、印なし) 16枚
[四]内国勧業博覧会関係写真 15枚
[五]明治43年撮影「東京市内建物」写真 48枚
[六]その他(ヴェネツィア彩色写真、日本名所写真など) 39枚
  計365枚

 内国勧業博覧会関係写真については他稿で紹介があるので、以下ではその他の写真につき、工部美術学校時代から工科大学造家学科へ、そして明治末撮影の写真と、ほぼ明治の時代と重なるスパンでの展開を論じていく。


3 工部美術学校の旧蔵写真


i 図学教本写真

「工作局美術校」印のある写真は、図学教本の写真と、イタリアの建築物の写真の二種がある。図学教本の写真12枚は、建築の一部分の軸測投影図、透視図などの銅版画を写真に撮ったもので、図学教本の図版のようなものである。すると、G・V・カペレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelletti)受け持ちの予科の授業に関係するものかもしれないが、写真の内の1枚にA.Fontanesiのサインが入っているため、少なくとも当初はA・フォンタネージ(Antonio Fontanesi)が教材としたものであろう。カペレッティは開校時には講座を持っていなかったようで、明治10(1877)年6月に予科の講座が開かれてからは、カペレッティが授業に使ったのかもしれない。

 予科の授業科目をみると、幾何学、プロジェクション、幾何法飾、造家図、論理影法、実地影法、論理実地遠近法、そして選択的に線画飾、上等飾画、水画が付加される構成となっており、要するに図学一般であった[3]。写真はこの教科書として使われたものであろうか。カペレッティについては、ほとんど解明されておらず、工部大学校の予科の授業についても不明な点が多い。この写真はカペレッティによる予科の授業内容の一端を明らかにする史料となろう。

ii イタリア建築写真

「工作局美術校」印の押されたもう一方の写真であるイタリアの建築物の写真は、96枚が現存している。明治10(1877)年1月から6月のあいだに備品登録されたことになるが、美術学校開校時に持って来られた写真であると考えてよかろう。遅くとも、明治10年以前に撮影された写真ということになる。

 被写体には建築の全体を写したもの、ファサードのみを写したもの、部分をクローズアップしたもの、そして建築から取り外された装飾部材もある。ほぼイタリア建築に限定されており、都市ごとの写真数は、ローマ20枚、ヴェネツィア17枚、フィレンツェ12枚、ミラノ11枚、パヴィア(近郊)6枚などである。同時代の建築はごくわずかしかなく、ほとんどがローマ時代かルネサンス期の建築で、3枚以上撮られているのは、ヴェネツィアのパラッツォ・ドュカーレ(7枚)、パヴィア近郊のチェルトーザ・ディ・パヴィア(6枚)、ミラノ・ドゥオーモ(6枚)、フィレンツエ・ドゥオーモ(6枚)の四棟である。

 これらは観光用の名所写真といった撮り方ではなく、人物を写し込まずに建築単体を写真全体におさめ、明らかに「作品」としての建築を写している。例えば、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院鐘楼の下部(ロッジエッタ)の写真があるが[挿図2]、これなどは建築家J・サンソヴィーノ(Jacopo Sansovino)の作品として鐘楼下部をクローズアップしたものであることがはっきりとわかる。写真の何枚かには最下部に白い帯が入り、建物名がイタリア語でプリントされているものがある。上記のように観光写真ではない以上、1870年代のイタリアで、こうした建築写真が出回っていたことが想像される。19世紀後半のイタリア写真史との比較検討が今後の課題として残される。


 さてこの写真群は、建築全体を写した写真から、その部分、そして装飾部材とそろっているので、これらは建築装飾を理解するための教材であると考えることができるだろう。フォンタネージが絵画を教授するのに、これほどの量の建築の写真が必要だっただろうか。やはり建築装飾の教師として呼ばれたカペレッティの選になるものと考えるべきではないか。

 では、これらの写真は工部美術学校の教育の中でいかに使われていたのか。建築家養成の学科が美術学校に存在していなかったにもかかわらず、これだけ大量の建築写真が残されていることの意味は看過すべきでない。考えつくのは、彫刻学科における建築装飾の見本としての利用、予科における「造家図」教育の資料としての利用、というところであろうか。そして、画学科における建築写生の見本という使い方も考えられる。

 東京芸術大学芸術資料館所蔵の工部美術学校生徒による習作の中に、わずか1枚であるが、イタリア建築写真中の1枚を模写したと考えられる水彩画がある[挿図3]。作者、制作年ともに不明であるが、「工部美術学校生徒」の墨記があるこの絵は、工部美術学校史料中の86番の写真と構図が一致する[挿図4]。ただし、写真の方が水彩画よりも被写体の範囲が狭く、絵には写真にない部分までも描かれていることになる。写真がトリミングされたか、制作者が写真に足りない部分を想像力で補って描いたかのどちらかであろうが、もし後者であれば、美術学校における写真を使った絵画教育では、模写のトレーニングを越えた教育が行われていたと解釈できる。同様に、竹下富次郎の『寺院内墓碑』(東京芸術大学芸術資料館蔵)も写真をもとに描かれたと思われるが、こちらのもととなったと思われる写真は含まれていなかった。


 ここで思い出されるのが、浅井忠の絵画作品と写真との関係である。浅井忠の『春畝』(明治21年)は、モース・コレクション中の写真に写された農民をそのまま利用して描かれており、浅井は意識的に写真を利用していたとされる。浅井はほかならぬ工部美術学校でフォンタネージに教育を受けているわけで、今回の写真と水彩画の一致を考え合わせてみると、浅井の写真の利用も、もとをたどれば工部美術学校における教育に行き着くと考えられなくもない。

iii 寒水石採石場写真

 一方、「工部美術学校」印が押された写真は、岩肌が露出した斜面を写した20枚の写真に限定される。台紙には「茨城県多賀郡諏訪村字屏風ヶ嶽」などといった記載がある。この内の1枚にQuartz, vert et marbres statuaireとの文字が、写真に直接ペンで書き込まれており、彫刻のための石材を求めて茨城県に調査に出向いたときの記録写真と見ることができる。工部美術学校関係者による茨城県の石材調査は、少なくとも二回行われていることが史料から確認される。一度目は、明治10(1877)年5月1日から5月11日にV・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)、カペレッティにより行われた仮皇居造営に使用する寒水石調達のための調査[4]、二度目は明治12(1879)年12月3日から行われた、彫刻学教師のガイヤルシ(トマソ・ガリアルディ Tommaso Gagliardi)による、大理石の代用としての寒水石調査[5]で、共に寒水石調達のための調査であった。工部省では彫刻に使うための石材を輸入大理石に頼るのではなく、国産の寒水石によって対応していこうとする意図があった[6]。ここには経費の削減だけでなく、工部省の殖産興業政策がはっきりと表れていて興味深い。

 この写真がいずれの調査に相当するものかは、にわかには断定できない。ただし、ラグーザ、カペレッティによる調査については、報告書の抜粋が『工部省沿革報告』に引用されており[7]、それによれば、茨城県久慈郡の真弓山、多賀郡諏訪村の字屏風ヶ嶽、字唐津澤の各坑場を調査しており、屏風ヶ嶽、唐津澤については写真台紙の記載と一致する。

 では、なぜ彫刻用の石材の採石場写真が造家学科を経由して現在に伝えられたのか。明治19(1886)年、工部大学校造家学科第1期生の曽禰達蔵が、東京市内で今後需要が増していくであろう建築の装飾用石材を調達するために、常陸、上総、安房の調査を行った結果を工学会において報告している[8]。その記事には、大理石(寒水石)の産地として、常陸の国(茨城県)多賀、久慈の二郡、とりわけ諏訪村字屏風ヶ嶽、真弓山に訪れたことが記されている。同報告に対する論評において、辰野金吾が彫刻家の弁を引き、白大理石は茨城県では得にくいのではないかと質問したことに対し、曽禰は次のように述べている。

「其質ニ就キテハ嘗テ工部省ノ所轄美術学校ニ彫刻教師トシテ聘セラレタル伊国人ガリアルチ氏之ヲ賞賛シテ伊国産ノ大理石ト相伯仲スト云ヒタルヨシ彼ノ常北地質編ニモ之ヲ記載セリ」[9]

 曽禰はガリアルディによる調査を知っていた。ということは、本写真が造家学科に伝来したのは、ほかならぬこの曽禰による調査に際し、建築装飾用石材を求めるための資料として使われたためであったのだろう。


4 帝国大学工科大学造家学科における写真群の再編成


 工部美術学校の備品は、明治15(1882)年から16(1883)年1月の廃校に至る間に工部大学校と工部省営繕局に移管され[10]、その大部分が帝国大学工科大学造家学科へ、そして現在の東京大学大学院工学系研究科建築学専攻へと受け継がれている。関東大震災時に工学部本館は崩壊したが、火災を免れたため現在まで幸いにも伝えられたのであろう。「東大建築古写真」もこうして伝えられたわけだが、この移管により、当然のことながら造家学における利用の観点から写真群が再編成されることになる。「工科大学造家学教室之印」に対応して記されている備品番号「家屋写真三百三枚之内 第□号」が、その再編成の内容を示している。

 建築学科「旧備品台帳」によると、明治22(1889)年4月1日に「建築物写真」として、303枚の写真を登録している。上記の「家屋写真三百三枚之内」の備品番号はこの写真に押されたものであろう。同時に「レ子イサンス式建築装飾写真」150枚他、計268枚が登録されており、大量の写真がここで新規納入もしくは再登録された。「家屋写真三百三枚之内」の備品番号のある写真は、「工作局美術校」印のあるイタリア建築写真、そして同印のないヴェネツィア彩色写真、日本名所写真、上野博物館写真の四種類で、イタリア建築写真は再登録、他は新規納入と思われる。

 再登録されたイタリア建築写真には、現存する96枚の写真すべてに「工科大学造家学教室之印」と「家屋写真三百三枚之内」の備品番号が、「工作局美術校」印と重複して付されている。備品番号はこの他に「工作局美術校」印に対応するものも付されており、「大甲弐号」—「大甲九号」、「大乙壱号」—「大乙五六号」、「中弐拾号」—「中一七四号」、「小三号」—「小三九号」が確認された。もしこれらが三種とも一号から存在していたとすれば、278枚あることになる。一方、新規納入の写真の中では、ヴェネツィア彩色写真8枚、日本名所写真9枚に「家屋写真三百三枚之内」備品番号が記載されているが、その他に6枚、番号記載がなく「家屋写真三百三枚之内」の印のみが押されているものがある。

 以上を合計すると301枚となり、303枚に近い量となる。これが「家屋写真三百三枚之内」の303枚の構成を示すかどうかは断定できないが、そう遠くない構成だったのではないか。このうち、新規納入された写真はヴェネツィア彩色写真と 日本名所写真がほとんどで、観光写真的な色合いが濃く、やはりこの写真群はイタリア建築写真を中心とするものであっただろう。つまり、造家学科にて再編成されたヨーロッパの建築写真は、工部美術学校備品の写真を骨格とするものであったと想定できる。

 ここで不思議に思われるのは、「東大建築古写真」中にイタリア建築写真以外のヨーロッパ建築写真がないことである。ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)がイギリスの建築写真を将来していても良さそうなものだが、見当たらない。コンドルは建築写真を持って来なかったのであろうか。すると、明治10(1877)年のコンドル来日以降の造家学教育においても工部美術学校のイタリア建築写真はその役割を終えていなかったどころか、一段とその重要性を増したのではないかと想像される。工部美術学校の予科の講義は工部大学校の生徒館[挿図5]にて行われたといわれている[11]。つまりカペレッティは工部大学校校舎で図学の教育を行っていたこととなり、上記写真群ももちろん使用されたであろう。工部大学校の生徒にとっても工部美術学校備品の建築写真はなじみの深いものであったと思われる。


 その他の工部大学校—工科大学造家学科関連の写真としては、工部大学校キャンパス竣工時の写真、工科大学本館の建設中写真と竣工後の写真、工部大学校と工科大学の生徒の集合写真、そして工科大学と思われる列品室の写真がある。工科大学本館の建設中写真については、建築学科「旧備品台帳」に明治30(1897)年6月25日に「工科大学写真」として8枚1組の写真を納入したことが記載されており、「シ二一」の備品番号が一致するため、この8枚の内、4枚のみが残ったことがわかる。明治21年竣工の建物であるが、建設後だいぶ時間が経過してから納入されたことになる。生徒の集合写真はそれぞれ生徒が記念に寄贈したものである。他の写真については、印、備品番号共になく、納入経緯は不明である。


5 明治43年撮影「東京市内建物」写真


「東京帝国大学工科大学建築学教室印」は台紙貼り写真15枚に押されており、旧工部大学校キャンパス内の建物の写真が大半を占めている。そして、これらの写真には同一原板による写真が複数存在している。ここに写された建物は、建てられてからだいぶ時間が経っているようで、荒廃したものが多い。旧工部大学校のキャンパス内建物群には静謐感がただよっており、旧東京医学校本館に至っては、明らかに建物が使用されておらず、もはや廃墟になっている[挿図6]。なぜ荒廃した建物の写真が一群となって伝来しているのだろうか。少し詳しく論じておきたい。


 写真群の内、台紙貼りの写真15枚には後面に「よ□号」「明治四十三年十一月撮影」という墨記がある。建築学科の「旧備品台帳」によれば、明治43(1910)年12月6日に「東京市内建物」写真を納入したことが書かれている。備品番号として「よ一」—「よ二十四」までとされており、この写真のことを指していることは確実である。当初は24枚の組であった。

 被写体は、旧工部大学校キャンパス内建築群(本館、生徒館、博物館、炊事場、教師館)、旧東京医学校本館、東京美術学校本館(旧教育博物館)、東京帝国大学構内龍岡町付近長屋である。東京美術学校の2枚を除く他は、東京帝国大学に関係する建物であり、一見すると東京帝国大学とその周辺を写したものといった軽い意味しか持たない写真にみえる。しかし、荒廃した建物という共通点があることから、撮影年の明治43年にこれらの建物がいかなる状態にあったかを調べてみると、はたして長屋を除く他の建物は、すべて明治43年には取り壊し計画が浮上していたのである。

 旧工部大学校校舎は明治6(1873)年開校の工学寮工学校の校舎として、虎ノ門内旧延岡藩邸跡に建てられたもので、同年にW・アンダーソン(William Anderson)らの設計になる小学校(博物館)、生徒館、教師館などが竣工、明治10(1877)年になりC・ド・ボアンヴィル(C. de Boinville)の設計になる、講堂を中心とした本館が竣工している。明治19(1886)年の帝国大学令発布にともない、工部大学校は帝国大学工科大学となり、明治21(1888)年の工科大学本館竣工を待って本郷へと移転。その後は学習院が入居したが、23年には早くも四谷の新校舎を建設して移転してしまった。以降は宮内省に移管され、生徒館のみは東京女学館へと貸与された[12]。ところが明治43年になって、その取り壊し計画が浮上する。東京朝日新聞にて、宮内省帝室林野管理局、図書寮、諸陵寮の三局の移転が決定したため、「同建物は全部不用に帰し且建築法の幼稚なりし時代の建物なれば危険の虞あるより移転済の上は全部取壊す事に決定」していることが報じられるのである[13]

 旧東京医学校本館は、明治9(1876)年に工部省営繕局により本郷旧加賀藩邸内に建てられた。西郷元善が設計したとされる。この建物は東京帝国大学医科大学病室の建設に「差障リ」があり、明治44(1911)年1月から7月にかけて解体、移築された。建物を奥行方向に二分し、表側は史料編纂所の建物として構内に、裏側は学士会館として一橋に改造、移築されたのである[14]。明治43年の時点ではすでに解体が決定し、この写真に見られるような荒廃した状況になっていたのであろう。東京帝国大学構内の長屋は旧東京医学校本館にごく近い位置にあるということで撮られたのであろうか。

 東京美術学校本館は明治10年に教育博物館として、工部省営繕局により建てられた。教育博物館は明治21年に湯島に移転、翌22年開校の東京美術学校がこの建物を使用するようになった。この建物は明治44年に焼失するが、その前明治41年頃から新館の建設計画が起こり、それに伴って取り壊す計画が浮上していた[15]

 さて、その他の備品番号のない写真には、台紙貼り写真と同一原板から焼き付けられた写真が数多く含まれており、これらも一連のものである可能性がある。台紙貼り写真と一致しない写真の被写体は、旧工部大学校キャンパス内建物の一部、法科大学列品室(旧一ツ橋講義室、明治10年竣工)、新橋停車場(明治5年竣工、ブリッジェンス R.P.Bridgens設計)、愛宕町二階長屋である。これらについても明治43(1910)年時点での建物の状況を調べてみると、工部大学校は前述の通りで、法科大学列品室は明治30(1897)年頃にすでに移築保存されたもの[16] 、そして新橋停車場についてはやはり明治42年の段階で取り壊し計画が浮上しているのである[17]。ちなみに愛宕町二階長屋は新橋停車場からそう遠くない位置にあった。

 すると、この写真群に写された建物は、長屋を除けば、明治10年までに建てられた洋風建築で、しかも法科大学列品室以外は明治43年の段階で取り壊し計画が浮上しているという共通点を持ち(法科大学列品室は明治30年頃すでに取り壊し計画が起こっている)、ある意図のもとに撮影された一連の写真であるといえる。そこであらためて写真を整理し直すと、26種48枚となる。上記の24枚とは重ならないが、「旧備品台帳」によると、ガラス乾板もほぼ同時期に納入されており、実際は24種を越えていたのかもしれない。以上より考えるに、この明治43年11月の「東京市内建物」写真は、明治10年以前に建てられた建物が三十数年を経過して老朽化し、取り壊しの話が持ち上がったところを写真に撮り、記録に残したものといえる。

 では、この写真群を誰が撮影したのか。東京帝国大学工科大学造家学科教授であった中村達太郎が明治44年に建築学会にて、東京市内における洋風建築の沿革についての講演を行っている。この講演では、旧工部大学校、旧東京医学校本館、新橋停車場、旧一ツ橋講義室についての言及があり、東京美術学校を除くこの写真の被写体をカバーしている。しかも、旧東京医学校本館についての言及の中で、「今頃は殆ど壊はして仕舞ひましたが、尤も壊はす前に撮影して置きました」と述べているのである[18]。壊す直前に撮影したというこの言及は、「東大建築古写真」の廃墟となった旧東京医学校本館のイメージと一致する。

 つまりこの写真群は、中村達太郎が命じて撮影させたものに違いない[19]。中村が編集幹事であった『明治工業史建築篇』において掲載されている、一ツ橋講義室、旧東京医学校本館、新橋停車場と、旧工部大学校の写真が、本写真群のものと同一であることからも、このことは裏付けられる[20]

 すると逆に、中村の明治44年の講演がこの写真撮影とリンクしていることの意味を問う必要がある。すでに明治39年には辰野金吾もほぼ同様の題で講演をしており[21]、この時期には、日本の洋風建築を見直そうとする視線が生まれてきていた。この一連の写真は、その後次々と出版されていく明治建築史の書籍に図版として使用されている[22]。すると、これ以降記述されていく明治建築史は、この写真を起点にして紡ぎ出されていったことにならないだろうか。

 ではこの時期に至って明治10年代の建物を壊す計画が起こり、それが写真にとられて明治建築史が記述されていくことの背景はどういったものであるのか。注目すべきことに、この後大正3(1914)年には新橋停車場に対して、大正8—9(1919—20)年には旧工部大学校校舎に対して保存運動が起こっている[23]。両者ともに結局明治末には壊されずに生き残り、数年の問をおいて保存運動が起こる。結果的には共に関東大震災にて崩壊、炎上し取り壊されるのだが、この保存運動では建築美、都市美の観点が持ち出され、かつ明治期の建築の価値を古社寺建築と同列に置くなど、現代につながる近代建築保存への視点が提出されている。こうした本格的な保存運動の発生は、裏を返せば明治期の国土の改造と都市化が新しい段階へと進んだことの証左でもあろう。そもそも築後30年にして取り壊し計画が浮上するという事実は、スクラップ&ビルドの昨今と全く変わらない状況である。この写真撮影は、こうしたスクラップ&ビルドの芽生えに対するカウンターであったのだろう。

 建築界に限定するならば、明治末という時代は、日本における様式建築学習の総決算を行おうとする時代であった。その代表ともいえる赤坂離宮が明治42(1909)年に竣工し、明治最末期には帝国議会議事堂建設をめぐって建築学会で「我国将来の建築様式を如何にすべき哉」という討論会も行われており、日本の建築をめぐる議論も、新たな道が模索され始める。この写真に認められる視線は、これらの様式建築学習過程を再考していこうという気運の中に位置付けられるべき重要性を帯びているのである。


6 むすび


 以上、「東大建築古写真」の分類について考察し、各写真群の背景について個別に論じてきた。最後に群としてこれらの写真全体を見通したときに明らかとなる、明治期の建築と写真の関係について述べておきたい。

 明治初頭にはそもそも「建築写真」というジャンルが存在したはずもなく、建築の写真が流通していたとも考えられない。「東大建築古写真」に含まれる明治初頭の建築の写真も、工部美術学校、工部大学校造家学科などの限定された場で利用されるのみであった。この時期の写真の撮影意図は現段階では不明であるが、写真が果たしていた教育資料としての情報伝達の機能の一端をうかがうことができたことから、教育に関する重要な論点が引き出せる。一方、明治末になると、建築の写真は雑誌などでも見ることができるまで流通するようになり、教育資料としての機能から抜け出た意味を持っていくのである。

 まず明治初頭における教育資料としての建築の写真のもつ意味からは、[一]明治初頭における建築と美術の関係、[二]建築家教育におけるイメージ形成の源泉、という二つの論点が引き出せる。[一]については、工部美術学校において教材の中に建築の写真が含まれていたことをもっと重く見るべきである。工部美術学校の最初の3人の教師である、フォンタネージ、ラグーザ、カペレッティのうち、建築関係のカペレッティの位置づけはこれまであいまいであったのだが、カペレッティが「家屋装飾」の教師として呼ばれたことだけは判然としている[24]。イタリア建築の写真が教材に含まれていたことは、この「家屋装飾」なるものが美術学校の中に求められた事実とあいまって、当時の工部省において建築と美術が想像以上に近しいものとみなされていたことを示唆しているのではないか。カペレッティの位置づけがあいまいで理解しにくいのも、建築と美術が分離してしまった今日からみれば当然に思えるのである。

[二]に関しては、明治初頭の建築家教育において、写真がいかなる意味を持ちえたかを考えたい。それは日本という極東の地に西洋建築を根付かせるための情報伝達の問題である。建築家の卵たちはいかにして西洋建築の立体的なイメージを形成し得たのか。我々は建築の写真に慣れすぎており、写真なしに建築のイメージを作り上げることには想像力が及ばなくなっているが、幕末・明治初期には、外国の建築写真は限られた人の目にしか触れなかったはずである。建築には図面という情報伝達手段があるが、西洋建築が存在する土地ならまだしも、ほとんどない土地において、図面がどれだけイメージ形成に役立ったであろうか。この時期、擬洋風建築と呼ばれる一連の建築が大工によりつくられたが、西洋建築についての情報に乏しかったことが、逆に設計者の想像力を刺激し、前にも後にもない魅力的な建築を誕生させたのではなかったか。擬洋風建築は写真という伝達手段が存在しないがゆえに咲いた花であったように思える。擬洋風建築が一旦影を潜め、日本人建築家が誕生していく過程は、西洋建築についての情報量の増加の過程と言い換えることもできる。このイタリア建築写真は、明治初期においては、留学という手段を除けば、リアルな西洋建築のイメージを立ち上げていく主要なソースであったにちがいない。

 さて、明治中期以降になると、建築の写真は雑誌などでも見られるほどに流通していく。明治末に撮影された「東京市内建物」写真については今回撮影意図を明らかにし得たわけだが、建築写真の撮影の意図としては、ここで見られたような記録という効果が有力な位置を占めることはいうまでもない。日本では古建築の写真記録という作業が明治初年から行われており、それが古社寺保存と結びついて、明治20年代からは本格的な写真記録が始められる[25]。それに対し、「東大建築古写真」に含まれる明治43年撮影「東京市内建物」写真では、明治以降のそれほど遠くない過去の建築を撮影している点で、性格がかなり異なっている。写真により、近過去の建築が歴史の対象として発見されていくのである。

 ここではもはや、写真がまだ見ぬ建築を具体的な像に結ばせる役割を果たした明治初頭とは、写真の果たす役割が全く異なっている。建築写真が、歴史が紡ぎ出される源泉へと転換しているのである。写真に隠された視線が建築の理解になんらかの影を落としていくことの萌芽が、ここには表れている。

本写真群を整理し本稿をまとめるにあたり、西野嘉章、河上眞理、角田真弓、高柳伸一、ミズコ・ウーゴ、菅沼聡也各氏の協力を得た。記して感謝したい。



【注】

[1]木下直之『美術という見世物』、平凡社、1993年など。[本文へ戻る]

[2]尾埼尚文「松岡壽と工部美術学校」、『松岡壽展』、神奈川県立近代美術館他、1989年。[本文へ戻る]

[3]金子一夫・伊沢のぞみ「工部美術学校における彫刻教育の研究(1)」、『茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)』42号、1993年、114—116頁。[本文へ戻る]

[4]大蔵省編『工部省沿革報告』、大蔵省、1889年、335頁(大内兵衛・土屋喬雄編『明治前期財政経済史料集成』第17巻ノ1、明治文献資料刊行会、1964年として復刻)。「五月十一日此ヨリ先五月一日 仮皇居内謁見所建築ニ資用スヘキ寒水石テ茨城県下多賀久慈二郡其他ノ各山ニ討検セシメント欲シ、少書記官石井忠亮ヲシテ、工作局雇伊国人彫刻師「ラーグサ」及ヒ「ビンセンソ」ヲ携伴シテ討検セシム」とある。ラグーザが「ビンセンソ」なる人物を伴って出張したこととなるが、皇居造営に使用する石材調達のための調査であることから、「ビンセンソ」は建築家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティを指すと考えられる。[本文へ戻る]

[5]国立公文書館蔵「工部省 美術 自明治九年至同一五年」。青木茂編『フォンタネージと工部美術学校』(『近代の美術』46)、至文堂、1978年に再録。[本文へ戻る]

[6]前掲金子・伊沢論文、122頁。[本文へ戻る]

[7]前掲『工部省沿革報告』、335頁。[本文へ戻る]

[8]曽禰達蔵「常陸上総安房巡回ノ話」、『工学会誌』第53巻、1886年、984—1012頁。[本文へ戻る]

[9]同上、1005—1006頁。[本文へ戻る]

[10]前掲「工部省 美術 自明治九年至同一五年」。[本文へ戻る]

[11]前掲金子・伊沢論文、111頁。[本文へ戻る]

[12]鳥海基樹「我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する基礎的研究」、東京大学大学院工学系研究科修士論文、1995年、67—74頁。[本文へ戻る]

[13]「名物洋館取壊」として『建築雑誌』283号(1910年7月、381頁)に転載。ただしこの計画は実現されず、宮内省と東京女学館は旧校舎を使用し続ける。結局大正12年の関東大震災にてすべての建物が崩壊する。[本文へ戻る]

[14]前掲鳥海論文、50—51頁。なお、東京大学施設部所蔵図面の中に旧東京医学校本館解体移築の計画図が残されている(『自明治四三年度至大正元年医科大学医院病室及薬局等改築井増築図』)。[本文へ戻る]

[15]「新築工事の進渉」、『東京美術学校校友会月報』7巻4号、1908年。『東京芸術大学百年史東京美術学校篇 第2巻』(ぎょうせい、1994年)に再録。[本文へ戻る]

[16]工学会編『明治工業史 建築篇』、丸善、1927年、160—161頁。一橋の旧開成学校内にあった建物で、西村茂樹をはじめ、明治初期の著名な学者が演説、講演を行い、学術普及の源泉となった建物だという。明治30年頃取り壊し計画が持ち上がったとき、その記念性ゆえ帝国大学構内に移築保存された。移築年代については東京大学施設部蔵「東京大学キャンパス変遷図集」より判断した。[本文へ戻る]

[17]「新橋駅改築計画」、『建築世界』第3巻第12号、1909年。[本文へ戻る]

[18]中村達大郎「東京市に於ける西洋建築の沿革」、『建築雑誌』292号、1911年、269頁。[本文へ戻る]

[19]写真中に「内田祥三先生所蔵焼付」と注記されたものがあるが、これは他の写真と同一の原板から焼いたもので、内田が東京帝大に所蔵されていた、中村の撮影した写真原板から焼き付けたものであろう。原板とみられるガラス乾板は、現在6枚のみ、建築学専攻に残されている。[本文へ戻る]

[20]前掲『明治工業史建築篇』にはボアンヴィルによる工部大学校講堂の外観、内観透視図の2枚の図版が載せられているが、「東大建築古写真」の中にも、同じ2枚の図の写真が、1枚の台紙に挟み込まれている。この事実も考え合わせると、この写真群は『明治工業史 建築篇』編纂作業のために再編成されたかたちで残されたものだという可能性もある。[本文へ戻る]

[21]辰野金吾「東京に於ける洋風建築の変遷」、『建築雑誌』229号、1906年。[本文へ戻る]

[22]前掲『明治工業史建築篇』の他、堀越三郎『明治初期の洋風建築』、丸善、1929年、そして、建築学会編『明治大正建築写真聚覧」、建築学会、1936年など。[本文へ戻る]

[23]時野谷茂「日本近代建築保存に関する基礎的研究」、東京大学大学院工学系研究科修士論文、1980年、および前掲鳥海論文に詳しい。[本文へ戻る]

[24]「工学寮外国教師三名傭入伺ニ付副申」別紙「覚書」、旧工部大学校史料編纂会『旧工部大学校史料』、虎之門会、1931年、102—104頁。[本文へ戻る]

[25]明治初年には、横山松三郎による明治4年の「旧江戸城写真帖」、明治5年の壬申宝物検査における古建築撮影が行われ、そして明治20年代には小川一真、そして工藤利三郎と、古建築の記録写真が本格的に撮影されていく。池田厚史「明治の文化財記録—横山松三郎・小川一真」、『日本写真全集九 民族と伝統』、小学館、1989年参照。[本文へ戻る]



[工部省工学寮]



52 水準器
明治9(1876)年、黄銅、桜材、工学寮測器所製造、縦35.5cm、横4.2cm、高3.8cm、「明治九丙子十月 工学電測□□製造」の刻記あり、工学系研究科産業機械工学科

工学寮は欧米の工業技術を確立するのに必要な人材を養成するため、明治4年8月に工部省の一等寮として設立された。工学寮を率いたのは工部省の設立を建白した工部大丞山尾庸三。寮舎は虎ノ門の旧延岡藩邸にあった。「工学寮」時代の遺品は数が少なく、明治9(1876)年の年記のある本品は貴重である。(西野)


53-1 欧文雑誌『エンジニア』The Engineer第1巻第1号(全172冊、第1巻第1号—第172巻第4460号)
安政2(1855)年1月[安政2(1855)年1月—昭和16(1941)年7月]、背皮洋装、縦40.3cm、横29.0cm、工学系研究科機械系三学科図書室

工学系研究科機械系三学科図書館には1856年にロンドンの出版・広告事務所が出版を始めた最古の機械系専門誌『エンジニア』が揃っている。1941年の終巻まで通巻4460号で172冊を数える。この雑誌は毎週金曜日の発売で、新しい機械の構造と性能が鋼版の精細な挿絵で以て説明されている。初期の蔵書には「工学寮蔵書」の蔵印が捺されていることから、工部省に工学寮の設置された明治4(1871)年8月から工部大学校の創設される明治10(1877)年1月のあいだのいずれかの時期に蔵書化され始めたものであることがわかる。背が子牛皮に表紙がマーブル紙の洋装本は半年単位で纏められていることから、合本版を教育用備品として購入していたのだろう。『東京開成学校第三年報』(明治8年)によると、横浜にはアメリカ人のウェットモールやハルトリー、イギリス人のコッキング、ドイツ人のハーレンスなど、書籍を中心とする輸入業者の居たことがわかり、実際に「日本国横浜書籍業者F・R・ウェットモール有限会社」のシールの貼られた書籍も残されている。雑誌『エンジニア』については、明治6年6月にヘンリー・ダイヤーをはじめとするスコットランド系イギリス人教師9人が工学寮に赴任してからの購入品であろう。

 滝沢正順の蔵書印調査[滝沢正順「工部大学校書房の研究」(1、2、3)、『図書館史』、1988年5月、2—11頁、同年9月、120—135頁、同年11月、160—168頁]によると、同図書館には19世紀の単行本について開成学校蔵書15冊、工学寮蔵書127冊、工部大学校蔵書123冊、東京大学法理文学部蔵書58冊、帝国大学図書館蔵書(明治19—26年)42冊、帝国大学工科大学蔵書111冊、帝国大学図書館蔵書(明治26—30年)72冊を数えることができるという。『帝国大学年報』(明治19—22年)の統計では工科大学に1万5千冊から2万冊の蔵書があったとされており、それらの6割強が英書を中心とする外国書であった。全体からすれば蔵書の現存数は多くないが大正12年の震災で大学蔵書の多くが灰塵に帰したことを考えるなら、機械系三学科図書館の古蔵書は貴重なものといえる。(西野)


[工部大学校]



54 シャストール・ド・ボアンヴィル『工部大学校正面遠景之図』(額装)
明治10(1877)年(?)、画用紙に鉛筆、墨、インキ、縦73.9cm、横134.4cm、工学系研究科建築学専攻


55 工部大学校菊紋章(2点)
明治11(1878)年(?)、銅に金鍍金、径52.0cm、工学系研究科


56 玉座の天蓋(部分)
明治11(1878)年(?)、木、布、銅、紙製、縦80.0cm、横40.0cm、高95.0cm、工学系研究科


57 工部大学校開業式に臨御の際の勅語(額装)
明治11(1878)年7月15日、洋紙に墨、縦47.0cm、横56.6cm、工学系研究科


58 工部大学校関連写真資料
工学系研究科建築学専攻

58-2 工部大学校講堂内部パース複写、透視図複写写真
縦10.8cm、横15.0cm

58-4 工部大学校中堂
縦57.6cm、横45.7cm(パネル付3枚組)

58-5 工部大学校中堂(講堂)
縦57.6cm、横45.7cm(パネル付3枚組)

58-6 工部大学校中堂
縦57.6cm、横45.7cm(パネル付3枚組)

58-7 工部大学校生徒集合写真(工部大学校前)
縦20.6cm、横26.4cm、「明治十四年五月生徒献之」「明治十四年五月生徒献之」「明治十四年二月十七日二三年生中」の墨記あり

工部大学校キャンパス内建物の写真は、以上の他に、中村達太郎の指揮により明治43年に撮影された写真群が、「東京市内建物」写真資料中[118]に、リスト化されている。(清水重)


59 「ヘンリー・ダイヤー肖像」(2点)
明治15(1882)年、写真、縦14.7cm、横10.0cm、「Very truly Yours、Henry Dyer, May 1882」の墨記あり


60 「エドワード・ダイバース肖像」(2点)
明治19(1886)年、写真、縦14.7cm、横10.0cm、「Yours Very truly, Edward Divers, May 1886」の墨記あり

英国グラスゴーのアンダーソンズ・カレッジ出身のヘンリー・ダイヤーは、近代土木工学の基礎を築いた恩師ウィリアム・マッカーン・ランキンの推薦を受け、明治6年6月に都検として工学寮に赴任した。いまだ25歳の若さであった。以来、彼が工部大学校の設立と運営になした寄与は大きく、また彼の考えた、土木、機械、造家、電信、化学、冶金、鉱山の七工学科目の理論教育と実践教育をともに行う総合的な工科大学構想は、欧米でもいまだ前例のない画期的なものであった。ダイヤーの貢献は教育プログラムの策定に始まり、諸々の教育制度の確立、さらには工部大学校の虎ノ門校舎の建設まで多岐にわたる。明治35年東京帝国大学はダイヤーヘ名誉教師号を授与したが、そのさいの称号附与申請書には「同校創業ニ際シ学科課程ハ勿論、其他諸規則ノ撰定又ハ校舎ノ構造教場ノ配置ヲ計画シ」とある。ダイヤーは明治15年6月に任期満了で離日。化学教師ダイバースが後任となった。この肖像写真は同じものが2点残されており、「1882年5月」の日付があることから、おそらく帰国を前にして親しい人々へ贈ったものではないか。(西野)


61 W・E・エアトンの机
縦91.5cm、横194.5cm、高177.0cm、工学部八号館

イギリス人W・E・エアトンが設計し、日本の大工に製作させたもの。製作費は40円。彼は明治政府の招聘により、明治6年から11年まで工部省工学寮電信科(工学部電気系三学科の前身)で教鞭を執り、電気工学の基礎を築いた。明治11年3月25日虎ノ門の工部大学校において電信中央局開局の祝宴が開催されたが、この時にエアトンは第3期の生徒であった藤岡市助、中野初子、浅野応輔らを指揮し、わが国初の電気灯(アーク)を点燈させた。「電気記念日」はこれに由来する。この日を以てわが国も世界の電信界の仲間入りをしたのである。エアトン夫人もまた熱心な研究者であり、滞在中の研究を基に『日本人の体格と身体の形成』なる論文を上梓し、パリ大学より医学博士の学位を授与されている。また、『日本の子供の生活と童話』(本学に所蔵)も著わしている。本品は工科大学の「いの一号」の備品番号がふられている。(千葉)


62 二号発電器
明治19(1886)年、金属、藤岡市助設計・工部大学校工作所製造、「Imperial College of Engineering Tokyo 1886. I.」の記載あり、工学部三号館

藤岡市助(3回生、のちに工部大学校教授)は日本の電燈事業と電気鉄道事業に大きく貢献した。これは藤岡市助の設計図を基に明治19(1886)年工部大学校工作所で製作されたアーク灯用の発電機で、「百二十五電圧四十電流」とされるもの。明治17年に工部大学校作工場で製作された第一号機も白熱電灯用のものであったが、仕様は異なる。明治年間の電機工学科事務主任であった牧野良兆の回想によると、「工部大学校書房に六十個の白熱電燈を点火したり。憲法発布式当日、帝国大学正門に電燈を以て万歳の二文字を現し祝意を現したるとき、此発電機を使用したり。此時約百灯の白熱燈を点火せんとして成功せず、八十灯に減じて満足なる結果を得たり」。これの造られた年、工部大学校は東京大学工芸学部と合体し、帝国大学工科大学となるが、それまでに211名の卒業生を送り出した。(西野)

63 機構モデル群
工学系研究科産業機械工学


63-1 ハートカム
明治7(1874)年、真鍮、鉄、木製台座、縦30.3cm、横30.0cm、高40.0cm、「HEART CAM」の刻記あり、「IMPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING. TOKEI. 1874」の金属プレート付


63-3 ダブル・ユニバーサル・ジョイント
明治8(1875)年、真鍮、鉄、木製台座、縦40.0cm、横30.0cm、高15.0cm、「IMPERIAL COLLEGE OF ENGINEERING. TOKEI. 1875」の金属プレート付


63-5 カムを用いた直動機構
真鍮、鉄、木製台座、縦24.0cm、横33.5cm、高26.0cm


63-16 円弧リンク機構
真鍮、鉄、木製台座、縦13.0cm、横34.0cm、高28.0cm、備品番号「工キ學ニ四九一」の木札付


63-17 歯車を用いた往復運動機構
真鍮、鉄、木製台座、縦30.0cm、横40.0cm、高25.0cm、備品番号「工キ學ニ二一〇」の木札付


63-18 ラチェット
真鍮、鉄、木製台座、縦16.0cm、横25.0cm、高34.0cm、備品番号「工キ學ニ二十四」の木札付


63-24 金属切削機構
真鍮、鉄、木製台座、縦30.0cm、横30.0cm、高46.0cm、「QUICK RETUREN MOTION USED IN METAL CUTTING」の金属プレート付、備品番号「工キ學ニ一八六」の木札付


63-30 ねじ、真鍮、鉄、径13.0cm、高27.0cm

動力伝達の機構を分かり易く理解させるための教育教材。一部に明治7(1874)—8(1875)年の年代のある金属プレートの附されたものがあり、国内に残されている西欧近代の産業機械工学の遺産としては最古級に属することがわかる。どれも英国製であることから、明治6年に都検として工学寮へ赴任してきたダイヤーが工学関連の書籍資料類とともに母国から取り寄せたものであろう。事実、『東京開成学校第三年報』(明治8年)を見ると、ダイヤーが横浜の西欧人輸入業者から大量の教育資料を購入しており、それらのなかに機械類の含まれていたこともわかる。もしこれらの機構モデル群がそれらの一部であるとするなら、虎ノ門の工部大学校校舎の一角に設けられた「生徒博物館」に陳列されていた可能性もある。なお、明治33年に写真家小川一眞の撮影した写真帖『東京帝国大学』[参1]から、これらの機構モデルが工科大学機械工学陳列場で列品されていたこともわかる。写真には膨大な工学資料の蓄積のあったことが示されており、現存資料に附されている登録番号からも、当時の大学が一千点を優に超える機構モデルを保有していたことを確かめることができる。(西野)




64 蒸気機関模型(ガラス・ケース入)
金属、ロンドンのエリオット・ブラザース製、ケース縦150.cm、横75.0cm、高150.0cm


[内国勧業博覧会関係資料]



65 明治10年内国勧業博覧会褒賞薦告
明治10(1877)年、洋紙、縦39.0cm、横54.5cm、工学系研究科


66 明治10年内国勧業博覧会龍紋褒賞之賞状
明治10(1877)年、洋紙、縦35.0cm、横45.0cm、工学系研究科


67 内山下町博物館(5点)
明治7(1874)年以降、写真、縦18.9cm、横25.1cm、工学系研究科建築学専攻


68 明治14年第2回内国勧業博覧会会場(2点)
明治14(1881)年、写真、縦45.3cm、横59.8cm、工学系研究科建築学専攻


69-1 博物館写真資料「上野博物館」
縦45.3cm、横59.8cm、印「家屋写真三百三枚之内」、工学系研究科建築学専攻

第1回内国勧業博覧会は、明治10年8月21日より11月30日まで、上野公園で開催された。明治6(1873)年のウィーン万国博覧会に参加し、物産や製品を一堂に会して品評することが産業の振興に大いに資すると学んだ明治政府は、万国に対する内国博覧会を合計5度開催している。3回目までは東京で開き、4回目は京都、5回目は大阪と会場を移した。

 第1回内国勧業博覧会の会場は、煉瓦造の美術館を中心に、木造の東本館と西本館が腕を開いたようにつながり、さらにその先に、農業館、機械館、園芸館があった。また西本館の背後には動物館が設けられ、牛馬羊鳥などが展示された。美術館だけが煉瓦造であることは、日本製品の中で美術品がいかに期待されたかを示す。天皇を迎えた開会式も、美術館の前で執り行われた。総数十余万点に及んだという出品物は、次の六部門に分類された。[一]鉱業及び冶金術、[二]製造物、[三]美術、[四]機械、[四]農業、[六]園芸。また、ウィーン万国博覧会の褒賞制度に倣い、次の五等級の賞が授与された。[一]名誉賞牌、[二]龍紋賞牌、[三]鳳紋賞牌、[四]花紋賞牌、[五]褒状。「工部省工作局出品深川分局製造人」が得た龍褒賞は、ポルトランドシメントの出品に対するものであった。

 第2回内国勧業博覧会は、明治14年3月1日より6月30日まで開催された。場所は前回と同じ上野公園だが、コンドルの設計によって新たに建設された博物館(のちに帝国博物館、さらに東京帝室博物館となる)の一階が美術館として使用された。そのほかの陳列館も、前回に比して面積を増大させている。写真は会場を正面入口から見たもので、木造の本館四棟の奥に煉瓦造の美術館が見える。その間に、時計台が建てられた。出品物の区分は前回と同じであるが、展示方法が大きく変わった。第1回は、開拓使、東京府といった出品者の管轄別に展示されたが、第2回は、陶器の部、漆器の部というように、出品物の分野に従った。賞の名称は次のように変わった。[一]名誉賞牌、[二]進歩賞牌、[三]口妙技賞牌、[四]有功賞牌、[五]岡協賛賞牌。

 本学工学系研究科建築学専攻に伝わる会場写真には、「博覧会之図」と記した紙が貼付されている。その下には墨で「明治十年勧業□□□□□」と書き入れがあるが、室内の様子や「妙技之部」という掲示から、第1回の会場を写したものとは思われない。展示物の中に、ウィーン万国博覧会に出品され、その後博物館の所有に帰した銅器『頼光大江山入図大花瓶』(横山孝茂刻・横山彌左衛門造・東京国立博物館蔵)が確認できる。ウィーン万国博覧会の持ち帰り品は、明治7年3月1日から内山下町の博物館で開かれていた博覧会の後半に展示された。対面にある円柱上の胸像彫刻は、この博覧会の『舶来品陳列目録』(東京国立博物館蔵)に登録された「白色大理石製肖像 台付 伊国羅馬府製婦人ノ薄紗ヲ被ル形」に該当すると思われる。工部美術学校で彫刻を学んだ寺内信一の次の回想もまた、この彫刻について語ったものだろう。「東京博物館に、夫人の布を被った胸像が一個ローマから輸入せられたものである」(寺内信一自筆ノート『重要参考筆記』)。したがって、一連の写真は、明治7年の博覧会を写したものである可能性が高い。(木下)



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