第2章 実学の黎明—東京医学校と工部大学校




オランダ医学からドイツ医学への鞍替えは明治初頭における一つの事件であった。

明治2年、新政府はドイツ医学の導入を決議し、幕府直轄の医学所の流れを汲む大学東校を医学教育の中核とすべく、ドイツ人軍医ミュルレルとホフマンを招聘する。

ドイツ医科大学の制度に倣った東校の医育制度は、第一大学区医学校、東京医学校と継承され、近代医学教育の基礎となった。一方、理化学はオランダ人ハラタマによる大阪舎密(せいみ)局、工学はイギリス人ダイヤーの領導する工部省工学寮での教育が出発点となった。

「百工の補助」として位置づけられた絵画や彫刻の教育も工部省によるフォンタネージ、ラグーザらイタリア人美術教師の招聘に始まるが、これらもまた明治10年開校の工部大学校に吸収され、近代的な工業諸学の基礎と実践を目的とする総合的な教育研究機関がここに誕生した。



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