【序文】

学問の発掘と創成


青柳正規 東京大学文学部教授



 東京大学創立百二十周年を記念して企画された東京大学展の第一部は、「学問のアルケオロジー」と命名されている。明治10年に設立された本学の草創期とその前後の学問の状況をいま一度、丹念にしかも謙虚にたどってみようとする試みである。もちろん、展示資料による企画展としての制約を有しており、すべての学問領域を概観することは不可能であるが、わが国における西洋近代科学の萌芽と定着の一部をたどることによって、近代的な学問全体の立ち上がりの状況にまで演繹することはある程度可能であろう。

 第一部の表題に用いられているアルケオロジーという言葉は周知のようにギリシア語のアルカイオス(遠い昔)をロゴス(考察)するという意味であり、学問の過去を考察するという意味で用いられている。ここでいう学問とは東京大学という教育研究の組織体における学問を主な対象としており、その意味で厳密には当時のわが国の学問全体を俯瞰しているわけではない。しかし、徳川幕府から明治政府へと体制を移行したわが国が、近代国家へと変身するために西洋の近代科学を導入し、国家有為の人材を養成する教育研究機関として東京大学を設置したのであるから、つまり、わが国の近代的な学問がわが国の文化環境のなかから自律的に生成し展開したのではなく、むしろ官主導によって西洋から将来されたのであるから、東京大学における学術研究の推移はわが国の学問全体の動向を凝縮しているともいえるのである。そのような近代科学の萌芽と定着の過程をたどるにあたり、本企画展では学問の「過去」もしくは「歴史」ではなく「アルケオロジー」という言葉が意図的に用いられている。構想の段階から本企画展の主旨と内容にふさわしい言葉として選択されているのであるから、アルケオロジーつまり考古学という言葉が現在提示する学問分野の輪郭、研究の対象と方法それに特質などを考察すれば本企画展をより十分に理解できるはずである。その見通しにもとづく考察を進めながら、大学における学問とは何かを考えてみることにしよう。

 考古学に対する関心は、18世紀におけるポンペイの発掘や19世紀のシュリーマンの活躍などによってそれ以前とは格段の拡大と普及を見せたが、最近数十年の動向はさらに新たなる段階に入ったともいえるほどであり、それは新聞、テレビ、出版等の考古学に関する情報の氾濫を見れば明らかである。未知の世界の発掘にともなう感激を仮想体験することが可能であり、遺物などによる具体的なイメージを容易に形成できるという魅力は、現代人の性急かつ即物的な探求心もしくは好奇心に、かなりの確率で呼応しているためであろう。

 このような考古学の成果に対する関心のたかまりがあるにもかかわらず、学問分野としての考古学の枠組み、研究の対象と方法、それに可能性について一般の認識が拡大しているわけではない。つまり、結果に対する関心であって、考古学の研究過程に関する理解は必ずしも深まっているわけではない。そのことは、考古学研究と発掘調査とが同一のことがらであるかのごとき一般の認識に端的に現れている。

 現代考古学にとって発掘調査はきわめて有効な研究手段であるが、考古学すなわち発掘調査とみなすことは、学問分野としての考古学を構成する実践的レベルと概念的レベルからなる基本的認識経験の一側面しかとらえていない。遺物や遺構など「もの」という自ら語ることのない資料を研究対象とするとき、「もの」の相対的な新旧を決定づけるのは「もの」を包含している層位の上下関係であり、その情報を獲得するために有効な手段として発掘調査が行われているのである。考古学における発掘を考古学研究を推進するための手段の一つとみなすなら、層位の上下関係によって年代の相対的関係を明らかにすることは研究方法の一つと位置づけることが可能である。もちろん層位のなかに絶対年代を示す貨幣や碑文が包含されている場合は、相対年代を実年代により近づけることもできる。また、層位学がもたらした遺物・遺構の研究蓄積を基礎にしてそれらの様式や形式分類などを行ういわゆるタイポロジーの研究段階へと展開することも可能であり、その成果にもとづいてのある層位の実年代を逆に推定できる場合もある。

 つまり考古学にとっての発掘調査とは、考古学の研究を推進するためのさまざまな手段の一つにすぎないのである。しかも発掘調査には「もの」を包含していた層位を発掘によって破壊してしまうというきわめて危険な属性を本質的にそなえている。そのような属性をともなっているにもかかわらず発掘調査を行うのは、破壊によって失われる以上の資料と情報を入手できるという見通しと確信があるからである。したがって、発掘による考古学調査を開始する以前に、どのような事柄がどこまで判明しており、なにが判明していないのかを明らかにしておく必要がある。そのためには関連すると想定される過去に発見された考古資料だけでなく発掘報告書や研究論文あるいは遺物の写真や図面を渉猟することが不可欠な前提であり、その準備的調査を可能とするために考古学に関する博物館、図書館、研究所、写真資料室などが設置されているのである。

 以上が考古学の実践レベルにおける概略とするなら、概念レベルの概略はつぎのようにまとめることが可能であろう。まず第一に、考古学の研究目的は、ある時代や文化の様相を発掘資料などによって復元することにある。この目的は歴史学の研究目的と通底するものであるが、考古学ではあくまでも遺物や遺構などの「もの」を中心とするところから、文書や文献を中心とする歴史学とは研究対象としての資料が異なっており、しかも「もの」そのものが包含されていた層位の情報に大きく依存していることから、歴史学にとっての文書などの資料と考古学の「もの」とを同質とみなすことはできない。

 考古資料としての「もの」を包含する層位の情報に「もの」の資料価値が依存しているのであるから、たとえ発掘された遺物が貴金属製であったり精緻な加工を施された工芸品や美術品であっても、遺物の発掘に付随して収集しうる情報の希少性と量の多少によって考古学研究上の資料価値が決定されるのである。つまり、「もの」そのものの材質の希少性や加工の巧拙に資料価値が依存するのではなく、あくまでも「もの」とそれを包含する層位との相関関係からもたらされる情報の質と量に依存しているのである。したがって、考古資料としての「もの」は情報との組み合わせ以前においてはすべて対等の関係にあり、研究者にとっては同一の資料価値しか有していないことになる。この情報との組み合わせ以前の遺物を同一価値の研究資料とみなすことこそ、考古学の概念レベルにおける第二の特徴である。

 第三の特徴、とくに文書や文献が存在する歴史時代を対象とする場合、考古学はある時代と文化の再構築を目的とする歴史科学の本質的な一部分を構成しており、文献資料を主な研究資料とする歴史学と補完関係にある。裁判における物証と証言のような関係であり、二つの証拠によって事件をより正確に再現するような関係である。

 以上のように考古学の特徴を実践的レベルと概念的レベルの双方から概観すると、東京大学展の第一部でなぜアルケオロジーという言葉を用いたかがおのずと理解できる。東京大学創立百周年事業として出版された『東京大学百年史』を見れば詳細かつ正確な東京大学の歴史を知ることはできても、そこで行われていた教育研究の営為と環境を生き生きとした実感をもって読みとることはかなり困難である。第一部の約2500点にものぼる教材、標本、実験器具などの展示品を目にすることによって、草創期の東京大学のイメージをモノクロ写真からカラー写真に転換するほどの新鮮さと実感をともなってその時代の東京大学を頭に描くことができる。

 この約2500点にものぼる展示品は考古学における発掘資料と同じように、それだけでは多くを語ることはなく、また当時の東京大学の教育研究活動の一部しか呈示していない。しかし、その時代の明治政府による高等教育政策、東京大学という組織体制と関連させながら展示品を見るなら、当時の研究教育がどのような条件と環境のもとで行われていたのかを理解することが可能であり、同時にその時点での教育研究の限界と可能性を知ることもできる。つまり、当時の高等教育政策や東京大学の組織体制は考古学における層位に相当するのであり、それらとの相関性を明らかにすることにより、個々の展示品の資料価値を高めることができるのである。第一部の約2500点にのぼる標本、教材、実験器具等は、そのような考古学における遺物と層位の関係を念頭に置きながら、遺物に相当する資料として収集され、展示されているのである。この約2500点の展示品の数量と位置づけこそが冒頭に記した丹念さと謙虚さの証明なのである。何故なら、これらの展示品は、それぞれに固有の価値をもつとはいえ、第一部では資料としての価値を明らかにすることなく、同一の資料価値をもつ資料群として展示されているからであり、層位に相当する教育研究の組織体制と大学キャンパスの空間的環境との関係は、これらの展示品を観察する人々の判断にまかせているからであり、いわばなまの資料として提示されているのである。そうではあっても、近代国家樹立のために必要とされる近代西洋科学の導入のために明治政府が東京大学に投入した資金と意気込み、そして社会が寄せた期待をおぼろげながら承知しているわれわれは、ある程度の「層位」がもつ情報を有しており、それ故に、展示品それぞれの資料価値を漠然とではあるが判断できる。この漠然とした資料価値の判断の総体こそは西洋近代科学の総体に関する理解であり、価値判断である。官僚制度や軍隊組織が整然とした位階によって整備されたのと同じく、明確な輪郭をもつ学問領域の総体が西洋近代科学として成立し、その知の枠組みのなかの学問領域の輪郭どうしの間に間隙はなく、また輪郭のなかにも欠漏のないことが確信され、その確信にもとづいて学問の深化と発展が弁証法的に推進されたのである。

 知の枠組みにおける整然としたマトリックスのような学問領域の配置図と、系統樹のような学問体系の系統性は、教育研究に携わる者に大きな安心感を与えると同時に、揺るぎない信頼感を与え、わが国においても西洋近代科学は短期間のうちに目覚ましい発展を遂げる大きな要因となった。そのような知の枠組みの強固な組織性を前提とする学術研究の発展は、学問の純化と充実という垂直方向へのエネルギーの源泉となり、そのエネルギーこそが社会が共有する知の全体を先導する力ともなったのである。その先導力に期待し、その実効性を確信したからこそ、明治、大正、昭和初期の政府は東京大学に対してかなりの財的・人的資源を投入したのである。

 安定した構築性を有する知の枠組みへの信頼は、当然のことながら教育研究の営為の場である大学キャンパス全体の空間設計にも反映している。今回の企画展第三部で展示されている関東大震災前のいくつかの建物の実体雛形を見れば、あるいは安田講堂周辺の建物の配置をみればそのことは明白である。しかし、それほど強固に信じられていた知の枠組みの構築性が戦後急激に疑問視されるようになる。学際的研究やシステム科学の台頭、新たな学問領域の創成を志向する学融合などさまざまな試みが進められており、その中にはすでにかなりの成果をあげているものもある。知の枠組み全体ではなく東京大学が総合大学として内包する学問の諸領域を対象としても、それらが構成する枠組みがかつてのように整合性と構築性を形成していないことは明らかであり、そのような枠組みの機能自体をも含めて模索の状況にあるといえよう。そのことは現在の大学キャンパスにおける建物の配置等にも如実に現れている。

 このような現状を考慮するなら、現在でも学問全体の枠組みに一定の前提条件として機能している西洋近代科学の導入当時の教育研究の状況を、展示品という「物証」によって検証し、当時の学問を謙虚に「発掘」することが必要ではないかという意図のもとにこの第一部が企画されたことが理解でき、「層位」に相当する教育研究の組織・体制・環境が学問の営為にとっていかに重要な役割を果たしたのかを認識できる。それ故に、アルケオロジーという言葉が用いられたのであり、2500点を超す展示品が東京大学の各部局からだけでなく国の内外から「発掘」されたのである。以上のような意図のもとに集められた展示品をまえに、学問の推移をいま一度たどりなおすことは、現在模索されている新たな学問領域の創成にも必ずや貢献するであろうことを念じての企画展なのである。



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