第三部

活版の世界



初期平仮名活字

明治初年には、とりわけ国字改良論の仮名専用派に絡んで、出自不明の平仮各活字が各種存在する。とりわけレオン・ド・ロニーの書物に用いられた平仮名活字と『まいにちひらかなしんぶんし』に用いられたそれの酷似の事情は大きな謎である。




  パリと東京で各々用いられた扁平格平仮名活字
府川充男


  明治初年の活版印刷史に関して気になる記事に、瑞穂屋清水卯三郎がパリで母型を拵えて持ち帰った平仮名活字があったというものがある。まず石井研堂『明治事物起源』よりの重引(初出は『朝野新聞』)であるが岸田吟香の 「新聞実歴談」を引いておこう。
又その頃、瑞穂屋卯三郎氏(今も本町三丁目にあり)仏国の博覧会より脚踏機械及び平仮名の活字を買求めて帰朝したるか、其の字母は小説の版下に有名なりし宮城玄魚(1)といふ者に書かせて持ち行きしなり。今日用ひる五号の平かなも、多くは玄魚の書なり。さて、みつほ屋の仏国にて始めて作らせて持参りたる活字は、義太夫本の如く、扁くして読みにくかりしかば、行はれずに終れり。ある時、「日日新聞社」にて之を用ひ、脚踏機械にて印刷したれども、体裁面白からずとて止めたり。

  右の文面は少年工藝文庫の第八篇、石井研堂『活版の巻(2)』に掲載されている「岸田氏実歴談」と多少の異同があるが大意は変らない。「今日用ひる五号の平かな」なるものが何を指すのか、岸田の言が誤解でないとすれば大いに気になるところであるが、それはともかく幕末パリ製の仮名活字があったとは一驚を喫すべき話であるに違いない。また『日本印刷大観』には清水について次の記事が見られる。
氏が慶応三年に徳川民部卿に従つてパリの萬国大博覧会に行かれたことは『明治以後に於ける活字鋳造の変遷』中に詳述(3)した通りである。翌四年閏五月七日に仏蘭西土産として『活版機械、石版機械、陶器着色法、鉱物標本、西洋花火等』をもたらしたことが雑誌「もしほ草」に記してある。徳川卿と共に渡仏する際に、宮城金魚といふ版下書きにいろはの版下を書かせ、それをフランスの活版所に頼んで四十八文字の字母をつくらした。帰国後は早速、浅草森田町にて活字屋を開業し、右の活字を売出した処が肉太のやゝ扁平な浄瑠璃本式のものであつたから多く売れなかつた。一方、パリの博覧会で氏は米国のジヨピングマシン会社の出品した印刷機械を見てその精巧なのに驚き、直ちに一台を注文して輸入した。この機械こそ創刊当時の東京日日新聞を印刷したものである。(中略)
明治六年には明六同社に入つて会計係となり、かたがた、しきりに自説の仮名文字論を発表した。(明六雑誌第七号明治七年五月刊行に清水卯三郎氏の「平仮名ノ説」出づ)其後は出版事業に主力を注ぎ、自らもまた泰西の書物を麟訳して上梓したものが少なくない。明治二十年十二月に東京書籍出版組合が設立された際には組合委員に挙げられた。その翌年七月に出版した物集高見氏の「ことばのはやし」に用ひた活字はすべて氏の理想を基として新鋳したものである。(後略)
  金魚とはどうも困ったものだが、川田久長も「日本の石版印刷史・中(4)」で、右の記述を「金魚」ごと一揃いで襲っている。ところで宮城玄魚が版下を書いたという「義太夫本の如く、扁くして読みにくかりし」、「肉太のやゝ扁平な浄瑠璃本式」平仮名活字とは如何なるものであろうか。牧治三郎『京橋の印刷史』の記述はこの活字(ただし牧は片仮名も数えている)が『東京仮名書新聞(5)』に用いられたとしている。
瑞穂屋清水卯三郎は、京橋区に居住していなかったが、慶応三年一月巴里で開催の万国博覧会の帰りに同地で、片カナ、平仮名いろは五十音字のパンチ字母を作らせ、明治五年発行の『東京仮名書新聞』が、このパンチ母型による鋳造の活字である。東京仮名書新聞の発行所は、木挽町五丁目一の橋と二の橋の間、飯田において製造刷立となっている。
明治五年というと、東京日日新聞も読売新聞もまだ京橋区に移ってこない時分で、全紙面が平仮名のお多福体幅広の鉛活字印刷とはいいながら、京橋区における鉛活字印刷の開拓的新聞印刷である。売捌所が中橋和泉町おうこんゆ片山徳造となっていたが、後ちに南伝馬町岡田屋勝三郎に変った。瑞穂屋の名がでていないのは、清水は後援者であったと思う。
  「鉛活字鋳造の揺藍時代(続)(6)」でも牧は同趣の記述を行っている。『東京仮名書新聞』に用いられているのは五号大の、ただし本木系の明朝体活字とは別の書風の明朝体活字である(挿図1)。

挿図1 『東京仮名書新聞』第一号

すると牧は『東京仮名書新聞』などに用いられた活字をして、件のパリ土産の活字と看倣したこととなろう。晰かに仮名の書風は本木−新町活版所系のものとは異なっているが、しかし私はこれを指して「義太夫本の如き扁平な書体」「肉太の浄瑠璃本風書体」と呼ぶには些かの躊躇を覚えざるを得ないし、そもそもこれらは「おたふく(7)」状ないし「おばけ(8)」状の書体でもない。また漢字の明朝体活字は恐らく工部省勧工寮辺りによる最初期の五号活字と思われるが、往時の五号活字はスモール・パイカすなわち一一ポイントに相当するからパリで拵えられた仮名がたまたまスモール・パイカ大であったとすれば組み合せるに然して不自由はなかろうものの、その漢字活字と慶応三、四年に清水のパリで註文したという仮名活字の字面がバランスよくぴったり符合するとは偶然にしてはやや出来過ぎとは言えないだろうか。また『附音挿図英和字彙』に用いた活字を利用して日就社より刊行され始めた最初期の『読売新聞』には本木一平野以外の活字が混植されているが、その紙面の仮名活字にも平野系五号以外の書風のものが屡々交じっており(挿図2)、その幾つかは晰かに『附音挿図英和字彙』と共通するものなのである。

挿図2 『読売新聞』第一一号

読者諸賢には「と」「の」「を」などに注意しつつ往時の『読売新聞』の紙面と『附音挿図英和字彙』の紙面を比較してみられたい。すなわち『附音挿図英和字彙』の仮名活字は、『附音挿図英和字彙」に活字を供給したという証言が行われている志貴和助ないし大関某の製造に係るものであった可能性が高いのである。また、清水がパリに持って行った種字に片仮名までが含まれていたとするのは訛伝であろう。さて『東京仮名書新聞』の発行者がジョウセフ・ヒコ(浜田彦蔵)に外ならなかったことはヒコの未亡人に取材して石井研堂が夙に明らかにしているところである。明治文化研究会編『明治文化』第七巻第一〇号(9)所載、石井研堂「東京かながき新聞解題」に次の文がある。
半紙判木版綴本〔東京かながき新聞〕第一号は、明治六年一月十一日、第十二号(?)は三月廿九日発行、本文は、其の名の如く全部仮名がきで、社告に、
『此の新聞紙は、ソンデーの前日ことに売出す、木挽町五丁目一ノ橋と二ノ橋の間飯田おゐて製造摺立いたし候、売弘所おうこんゆ片山徳造』
とあるので、発行日発売所等が分つてゐる。そしてこの社告だけが真字まじりだ。本紙の表紙図案が、太枠に藤づるや藤の花をからませ、何となくジヨセフ・ヒコの〔海外新聞〕に似て居る、で、この処をヒコの未亡人銀子に尋ねた所が、果してヒコの手に成つたものであることが明かになつた。
銀座の煉瓦町創建の時、お雇建築技師ウオードルスは、木挽町精養軒の向ふに、構内広く住み居り、ヒコがその構内に住んでた時、この新聞を発行したのだ。編輯の方は他人を雇つてやらせ、ヒコは発行主であつたが、損失ばかりなので遂によした。中橋黄金湯云々は、ヒコのところの使用人の親が、湯屋黄金湯であつたので、そこは、人の出入も多く、売るのに都合が好からうといふことで、其の名を出してあつたのだ。この新聞は、何号まで出たか明でないが、多分第十号限り位と思はれる。小池氏の〔日本新聞歴史〕には、この新聞のことは見る所ないやうだ。仮字がきを標榜した新聞紙は、前島氏の発行に係る〔まいにちひらがなしんぶんし〕を第一としこの〔かながき新聞〕を第二とすべきであらう。
  すなわち『東京仮名書新聞』の発行者はヒコであり、清水が関与したという資料は別段見出されないものと思われる。なお『増補改訂明治事物起源』では「銀子」ではなく「子」とされていること、東京大学法学部附属近代日本法政資料センター(明治新聞雑誌文庫)には『東京仮名書新聞』の初号から第二〇号(10)(各号とも判型・表紙等の体裁、使用活字は同じである)までが蔵されていること、実は『まいにちひらがなしんぶんし』より『東京仮名書新聞』の創刊の方が多少早かったと思われることを念の為に申し添えておこう(ただし第六号以前の『まいにちひらがなしんぶんし』は未見)。

  それでは「清水がパリより持ち帰った活字」の姿態を窺う資料は何か。みづほや蔵版で整版本ではあるが明確に「義太夫本の如き扁平な文字」と呼ぶべきものを用いた書物が存在することに目を止めておきたい。まず幕末には、とますていと(Thomas Tate)撰著、しみづうさぶろう訳『ものわりのはしご』(またのな、せいみのてびき(11))(挿図3)がある。御家流連綿で綴られた版下から彫刻された整版本である。

挿図3 『ものわりのはしご』

  嘗て私が資料採訪の初期窃かにパリ土産の活字ではないかと考えたことのあるものも図示しておこう(挿図4)。かなのくわいに於る清水の同志の一人もづめたかみの『かなのしをり(12)』より。本文にアンチック様の活字(恐らく築地活版製造所のものであろう。一見五号より遙かに小さく見えるが活字ボディを扁平格に鋳造していることによると思われる)を用いた序文の表題に左右四号大の扁平な仮名活字「かなのしをりのはしがき」が遣われるが、これは明治初年一桁の時期に発して『まいにちひらがなしんぶんし』第七号・第八号(第六号以前及び第九号〜第三七号は未見)を初めネイサン・ブラウン(Nathan Brown)版聖書類などに用いられ、後には『言海(13)』等にも遣われた活字と同じもの。よりブロークンな書風を示すのは本文二頁の「あがふ」「あぢきなし」という、ボディの左右寸法が二号大の扁平な仮名活字である。この「あがふ」「あぢきなし」も鋳造活字である。発行年が清水の洋行から少し離れ過ぎている嫌いがあるものの、実は初めてこれを見つけた時「清水のパリより持ち帰ったという活字」を遂に見出し得たかと心躍る思いを一瞬私が覚えたことは白状しておこう。ただし、よく見てみるとこの左右二号大の仮名活字の書風は明治一桁より幾つかの書物に用いられた、すなわち「かなのしをりのはしがき」と同じ左右四号格の扁平仮名活字に極めてよく似ており、寧ろ四号扁平仮名を原形として作出された大型扁平活字とすべきものであろう。そして実は『かなしんぶん』など同時期の印刷物にもこれと同じ活字が数多く見出されるのである。

挿図4 『かなのしをり』

  なお世に著聞な『明六雑誌』第七号(14)の「平仮名ノ説」が「夫ノ田舎源氏、自雷也物語、膝栗毛、八笑人、義太夫本、浄瑠璃本ノ如キ、婦女童子ヲモ之ヲ読ンテ能ク感動シ、或笑ヒ或哀ム者、固ニ言語文章ノ相同キ所以ナリ」と通俗書を例に挙げていること、また清水による幕末の通俗英語書『ゑんぎりしことば(15)』(挿図5)やその外題換再版本『英米通語(16)』が既にして卯三郎生涯の主張であった平仮名専用論を実践しつつ、その題字他が扁平肉大な御家流の書風に作られていたこと、また『日本印刷大観』に於て「後年の清水が理想とした活字を用いたもの」とされる書、もづめたかみ『ことばのはやし(日本小文典)』(挿図6)の組版に遣われた活字がやはり扁平なアンチック様の書体であることを考え併せれば、或いは扁平な書体に対する一貫した嗜好が清水にはあったのではないかとも想像される。

挿図5 『ゑんぎりしことば』 挿図6 『ことばのはやし』

  図に示したのは著名な『日本大辞林』の前身、『ことばのはやし(日本小文典)』第三版(17)より。しかしこの扁平活字は、『日本印刷大観』の記事が「新鋳」された書体としているものの、実のところ大分以前からその使用例を見出しうるものである。

  さてオリジナルが長く知られず『遠近新聞』、『横浜新報もしほ草』等本邦の新聞に抄出された記事で内容が窺われるのみであったのだが、レオン・ド・ロニーが渡仏時の清水を助手として和文の新聞『よのうはさ』一八六八年版(挿図7)を刊行したという話がある(18)。『世のうはさ』一八七〇年版は石黒敬七がパリの古書店で発見して日本に持ち帰り、その覆印本(19)が発行されているが、こちらは漢字片仮名交りの手書版下で石版印刷、手伝った日本人は金沢の留学生黒川誠一郎や正体不明の「和堂散人」と「桜堤」、しかし一八六八年版の場合は『よのうはさ』の記事を紹介した『遠近新聞」と『もしほ草」の引用文の漢字仮名の配分の違いと、何と言さ』一八六八年版第一号(20)の紙面の複写。残念ながら私の窃かな期待に反して活字は用いられておらず石版印刷、手書による版下は恐らく清水卯三郎の筆に成るものであろう。卯三郎が生涯通じて平仮名で誌し続けた詳細な日記(21)『わがよのき』は嘗て明治文化研究会から発行されようとしたことがあるが広告が出たのみで果されず(22)、恐らくは裔流に伝えられる内にいつしか後半部を侠して現存の巻は慶応後半以降の冊を闕く。より詳しく言えば当に清水が万国博覧会へ赴かんと出航するところまでで巻が終っているのである。ロニーとの交遊の詳細や『よのうはさ』一八六八年版については、随って何も書き残されたものがない。何とも惜しまれる。

挿図7 『よのうはさ』一八六八年版

  ところで『新旧時代』第一巻第五冊所載、井上秀雄「みづほ屋卯三郎(23)」(中)にこう誌されている。

慶応三年(三十九歳)正月、フランスの萬国博覧会へ行つた彼れは、帰途欧米諸国を歴遊して、翌四年五月七日に江戸に帰着した事は、前項に記した通りである。其の際、彼れが「フランスみやげ」として持帰つたものゝ中に、1活版器械、2石版器械、3陶器着色、4鉱物標本、5西洋花火、等があつた。
活版機械については、彼れは早くから注意を怠らなかつたものと見え、フランスヘ出発する時、宮城玄魚に書かしめた平仮名の版下を用意して居た、それによつて彼地で字母を造り、帰朝の上、江戸で平仮名の活字を鋳造しよう為めであつた。清水連郎氏の談に拠れば、右は字母を造つたまゝで、活字は鋳造するに至らなかつたといふことである、そして其の印刷器械は初め試用したきりで、自分ではあまり活用しなかつたが、梢後に、日日新聞社で印刷器械の必要が起り、岸田吟香の希望によつて、それを売り渡すことになつたが、日々の方では、財政の都合上、其の代金を一時払いにするわけには行かず、初めのうちは器械を借りたことにして、幾度かに別けて払込み、やつと社の所有に帰したとかいふ話しである。
  後段は『東京日日新聞』第二号以降の紙面を刷った瑞穂屋輸入の米国製印刷機「フート・プレス」(foot press)のことだが(『毎日新聞百年史』参照)、さて記事の前段、何のことはない、卯三郎の息連郎の談によれば「字母」は作られたものの活字自体は拵えられなかったらしいというのである。一時期、私はレオン・ド・ロニーの『Anthologie Japonaise』(詩歌撰葉(24))(挿図8)や今回展示された『Méemoires du Congrès International des Orientalistes: Compte-Rendu de la Première Session.(25)』、また『Annuaire de la Société des Études Japonaises.(26)』(挿図9)など、一八七〇年代以降ロニーの著撰ないし関与の下に仏蘭西で出版された日本学書・東洋学書の幾つかに用いられた平仮名活字(27)が、それ以前の書には見出されないと思われることからして、或いは清水の齎した宮城玄魚の版下により新製された活字に相当するのではなかろうかと考えたことがある(但しこれは欧文活字の左右方向のセット幅が各々相違する如くに天地方向へのセット寸法が活字ごと違う扁平格の活字には違いないが、字面自体は取り立てて扁平でもない)。しかし井上の伝える記事が本当なら何とも拍子抜けする話であって、これでは幾ら探し廻ったとて何も見つかるわけがない道理である。

挿図8 Anthologie Japonaise. 挿図9 Annuanre de la Société des Etudes Japonaises.

  しかしながら、本当に字母が製造されたのみで活字は作られなかったのであろうか。清水が持ち帰ったパリ土産の字母は一体どうなったのか、更に「日日新聞社」が清水の将来した活字を試用したことを伝える岸田吟香の記事についてはどう考えるべきなのか。ああでもないこうでもないと散々に捻くり廻した果て、清水卯三郎がパリから持ち帰ったという母型に相当すると認められる活版印刷史料は全く見出されぬと遂に考えざるを得ないのであろうか。実は極めて興味深い資料がある。

  挿図10は『まいにちひらかなしんぶんし』第一四二号(28)より。石井研堂『増補改訂明治事物起源』によれば『まいにちひらかなしんぶんし』は本邦郵便制度の鼻祖とされると共に「漢字御廃止の儀」を徳川慶喜に呈上したことで知られる前島来介(密)が啓蒙社(啓蒙舎)の名のもとに編輯出版したものとされる。さて東京大学法学部附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)には同紙の第三八号及び第一三八号以下第三三二号までが蔵されている(一部闕号あり。なお第三八号のみは原紙ではなく複写)。第三八号のみは紙を横長に遣い他は縦長に遣っている差異はあれ紙面に使用されている活字及び判型はすべて同じもので薄手の「洋紙」に両面刷。さて、これと『Anthologie Japonaise』等の紙面を比較対照されたい。

挿図10『まいにちひらかなしんぶんし』第一四二号

  活字の鋳上り、印刷の出来には彼我雲泥の差があり、片や恐らくは新式の印刷機と厚手の滑らかな用紙に調製されたインクを使用し、鋳上ったばかりの活字を用いて経験豊かな職人の手で刷られたものに対し、こなたは墨に粗悪な紙、脚踏みか馬楝刷、更に恐らく毎回解版しては差し替えて使用するうちに字面が摩耗した活字というわけで、版面から享ける印象には月と鼈と言ってよいほどの違いがあるが、驚くべし平仮名活字の書風は基本的に全く同じものであり、造作が違うものもよく似ている。同じ仮名で違う造作を示すものを比較してみると『まいにちひらかな』紙の方が不味い造りである。してみると、仏蘭西書の仮名の書風になるべく似せようとした意図が判然窺われるのである。『まいにちひらかな』紙の活字は、合金の調合を初めとして鋳造技術が大いに劣る条件の下、本邦で製造された活字なのであろう。なお平仮名活字より遥かに拙劣な字面を示している仏蘭西書の漢字はマルスラン・ルグランの初製に係るもの、一方『まいにちひらかなしんぶんし』の本文に交じっている明朝体の漢数字は四号大で新町活版製のものであろう。そして、この仮名活字は管見に入る限り本邦では孤立した資料であって他に同じ活字が用いられた例はないと思われる。

  『Anthologie Japonaise』の刊行は一八七一年、島霞谷のものなどを除けば僅かに本木昌造の新町活版所製の二号活字と四号活字くらいしか列島内には存在しなかった可能性が極めて高い明治四年である。この時分或いはそれ以前に仮名活字が本邦で製造され、仏蘭西へと輸出されたなどということは考えられない。往時仏蘭西にそんな需要があるなどと思いつく者など皆無であろうし、該書の組版を見れば一目瞭然であるようにこの平仮名活字の鋳上りは欧文活字に遜色ない見事さであって、同時期の本邦にかかる活字を製造し得る技術など存在しなかったことは確実である。すると、この年ないしそれ以前から『まいにちひらかなしんぶんし』が創刊される明治六(一八七三)年初頭までの間に仮名の活字ないしは母型がわざわざ仏蘭西から日本へ齎されたのであろうか。

  慥かに前島密は大隅重信・伊藤博文の不始末による対外債務問題解決の公務を帯びて明治三(一八七〇)年六月下旬に日本を立ち英国へ赴いて翌明治四(一八七一)年八月中旬に帰国している。市島謙吉編『鴻爪痕(29)』所載の前島密による自叙伝の項に「洋行中数国の工場に就て調査せし」云々とあり、この「工場」とは贋造を防ぐ為に欧洲で紙幣を印刷せんと考えた前島が接触した印刷業者のことに外ならない。この折、前島が仏蘭西にまで足を伸したかどうかは判らない。『Anthologie Japonaise』の緒言末に「一八七一年十月十日」とあることからして前島が洋行時に同書自体を目にした筈はなかろうが、とにかくそもそも前島は何もそれらしいことを書き遺してはいないのである。また幕末以降、仏蘭西と本邦の間に官民問わず種々の往来があったことも間違いないから前島ならずとも何者かが仏蘭西で新製された平仮名活字の母型を輸入した可能性もないではないが、私の知る限り特にそのような記事は遺されていないように思われる。そして、この仮名活字の書風は相当に闊達であって、この版下を揮毫し得るのはネイティヴのレタラー、則ち日本で生まれ育った者のみではなかろうか(この点、プロフェッショナルの書体設計者である小宮山博史氏の御賛同を得た)。

  すると再び浮び上るのは、瑞穂屋卯三郎がパリから少くとも「字母」は持ち帰っているという事実(及びロニーと清水のパリに於る邂逅という事実)ではないだろうか。帰朝後瑞穂屋の刊行した『六合新聞』や、すべて平仮名の『ものわりのはしご』がいずれも整版であってその平仮名活字を用いたものではないという点にやや引掛りを覚えるにせよ、少くとも他に合理的な説明を施し得る「出来合い」の材料はない。すなわち新資料が発見されるということのない限り岸田らの証言の信愚性はかなり高く評価すべきであると私には思われる。申すまでもなく岸田・清水、岸田・前島は相識の間柄であったし、幕末から明治初年にかけての洋学派の盛んな横議ぶりと清水・前島とも親薩摩人脈に属して共通の知人も数多いことから言って清水・前島もほぼ問違いなく相識であったろう。すると『まいにちひらかなしんぶんし』に遣われた活字は、或いは国字改良論者同士の誼で清水が前島にパリ土産の母型から鋳込んでみた活字一山を贈り、それを模造したものか、または清水の手許から何らかの経路で入手した母型から啓蒙社内の誰か(因みに『まいにちひらかなしんぶんし』の「すりかた」は「みやけ くわんきち」及び「こんどう まさひろ」なる人物である)が模鋳したものでもあろうか。

  なお、より初期の『まいにちひらがなしんぶんし』には右に示したものとは別の扁平仮名(格が左右四号・天地六号ほどで扁平であるだけではなく字面も扁平)が遣われている。前出『かなのしをり』序文表題に遣われたものと同じ字面の活字である。この寸法からすれば活字ボディの鋳型は一往上海−本木系列のものという蓋然性が高いということになる。本文に交じる漢数字は、第二九号以後の同紙の場合四号明朝活字だが、第七号(早稲田大学図書館西垣文庫所蔵)や第八号(羽島知之氏所蔵)では仮名と同様に扁平な楷書である。挿図11は『まいにちひらがなしんぶんし』第七号(30)より。或いは岸田のいう「義太夫本の如く、扁くして読みにくかりし」活字とは、こちらの仮名活字のことではないだろうか。さて、ここに見られる楷書の漢字活字についてもやはり他に管見に入った例がなく今のところ活字の素性についての見当が付かない。また、この扁平な楷書の漢数字は仮名活字と一緒に作られたものであろうから、漢字が数字のみという構成からして如何にも仮名論者の関与を推測せしめるところである。

挿図11『まいにちひらがなしんぶんし』第七号

  この時分には発兌所啓蒙社の住所が神田淡路町で、国文社の前身とされる啓蒙社に合致するが、少くとも第三八号以降では住所浅草蔵前となっていること、この啓蒙社と国文社の関係についても実はよく脇分けし切れぬ部分がある。即ち石井研堂『増補改訂明治事物起源』の「印刷業、国文社の始」に「国文社の創業は、明治六年、活版の始祖、本木昌造翁の門生、山田栄蔵が、本所区御竹蔵に、啓蒙舎と称する

  活版印刷所を設けたるに基き、築地活版、東京印刷、秀英社等とともに、我が国明治年代印刷界の元勲者の一なり。啓蒙舎は、同七年、神田区淡路町に移転し、国文社と改称す。(後略)」云々とあるが、それでは浅草蔵前の啓蒙社(啓蒙舎)と国文社の関係、淡路町の啓蒙社(舎)と蔵前のけいもうしやの関係はどうなのだろうか。

  さて茲に用いられている扁平仮名の書風は「義太夫本の如く、扁くして読みにくかりし」という記事にも、千社札版下師であった宮城玄魚による版下という記事にもよく符合する。なお『鴻爪痕』所載の市島謙吉による「逸事録」中、「毎日平仮名新聞」の項に「半紙三枚綴」、「万朝報が工風した活字と同じ様に、幅広竪短の字」などと記されていることからすると、市島の見た第一〇号も第七号・第八号と同じ活字を使用したものであったらしい。また石井研堂『増補改訂明治事物起源』の「毎日平仮名新聞」の条(31)によれば石井は前島家から出た第八号より第四三号までを蔵しており、最初の方の号は「半紙二つ折三枚を一ばんとし(一号二号と言はず、一ばん二ばんといふ)発行所と社名の外は、全部平かなの活字版」であったが「三月三十一日の第二十九号以下は両面刷の、今日の新聞紙の体裁に変り」云々とあるから、本文組版に使用の活字も恐らくはこの時に変更されたものであろう。

  明治初年の特殊な活字に関してはそもそも採訪すべき資料の範囲についてすら未だ判然とせず、これまで印刷史家が殆ど触れたこともない領域であって分らないことだらけであると記述するしかないのば甚だ情けないが、ともあれ茲では以上を纏めて、現時点に於る仮説を三つほど提示しておきたい。

  第一の仮説は、清水が持っていった宮城玄魚の版下による活字を『まいにちひらがなしんぶんし』初期の活字に比定するものである。清水はこの活字の母型を持ち帰ったが、自分で活字を鋳造することなく、上海−本木系の活字鋳型を持つ業者(或いは平野活版そのものか)に譲り渡した。この可能性は否みがたい。なぜなら、この扁平仮名は往時の本木系仮名活字のなかでは孤立した書風を示しているが、明治初年から平野系活字とともに混植されている例を数多く見受けるからである(本邦に現存する最古の活字見本帖と思われる平野活版の明治一二年版見本帖にも掲載されている)。ただしこの場合、『まいにちひらかなしんぶんし』第二九号以後の活字がなぜ仏国の活字と酷似するかという問題は宙に浮いてしまうが、或いは二組の版下をパリに持って行き二組の母型を齎したものと考えるべきかも知れない。

  第二の仮説、「清水卯三郎がパリから活字ないし母型を持ち帰ってきた」「その活字は扁平なものであった」という証言は、本来一纏まりの事象についてのものではなかったのではないか。前者がロニーらの日本学書や『まいにちひらかなしんぶんし』第二九号以降に用いられた平仮名活字に対応する話であり、後者は『まいにちひらがなしんぶんし』第二八号以前の活字や、清水を初めとする明治の国字改良論平仮名派の面々が愛用した平野活版の扁平仮名などについての話であって、両方に清水が関与していたとする情報が何らかの形で存在していた為両者がどこかで混線したものではあるまいか。また一度用いてみたが体裁面白からずとして止めたとされるのは、初期の『まいにちひらがなしんぶんし』が扁平な字面の仮名活字を用いていたが、第二九号を以て仏蘭西書に見られるのと相似した別の仮名活字に転じているという事実に照応するものやも知れず、「日日新聞社」とは或いは『東京日日新聞』の日報社のことではなく『まいにちひらがなしんぶんし』の啓蒙社(啓蒙舎)のことが訛伝されたものではないだろうか(なお瑞穂屋がフート・プレスを大量に輸入するのは明治一桁後半のことと思われる)。

  さらにもう一つの無視し切れぬ可能性は、『Anthologie Japanaise』の為に(それ以前にも使用例があれば、その著作の刊行の為に)パリで製造された活字ないしその母型を、前島或いは何者かが明治初年本邦に輸入したということである。しかし、これを裏付ける典拠−証言や記事は何もないように思われる。また『Anthologie Japanaise』などの仮名活字と『まいにちひらがなしんぶんし」の仮名活字は厳密には同じ母型から鋳造されたものではなく、後者は前者を見本として模造したに過ぎない。ともあれ、その場合清水将来・宮城玄魚版下の活字についての記事は再び宙に浮く羽目となろう。

  ともあれ以上の仮説については他家の容赦ない検証を庶幾うと同時に、私も更めての資料蒐集と考証を期すこととしたいと考える。なお『愛知教育大学研究報告」第二七輯(人文・社会科学(32))所載、谷口巖「レオン・ド・ロニー年譜及び著作目録ノート」末尾の「再追記」に「最近言Le Japon de la France(paris, P.O.F. 1974)なる本を読んでいて、ロニーが数か月ではあるが、明治5年に日本を訪れたことがあるとするRenè SIEEFFERT氏の記述(同書、p.84)に接した」という一条がある。この記述が事実に基づくのであれば、時期の合致からして『まいにちひらかなしんぶんし』第二九号以降の紙面に用いられた仮名活字とロニーの著書・論文に現れる仮名活字の酷似ないし符合について説明する為の一助となる可能性が大いにあるが、谷口氏御自身、日本に知己の多かったロニーであればこそ、日本側に「ロニー来日」に対応する史料が一切見出されないことからして、かなり疑わしいと考えておられるようである。不精の身、往時の来日外国人の記録を逐一当った訳ではないが、私もまず同感するところである。

  さて西紀一八七八年に仏蘭西王立印刷所(Imprimerie Nationale)が発行した書体見本帖『SPÉCIMEN DES TYPES DE L'IMPRIMERIE NATIONALE』の‘TYPES ÉTRANGERS’には、JAPONAIS KATAKANAとしてマルスラン・ルグランが西紀一八五四年に制作したcorps 6とジャックマン(Jacquemin)が一八一八年に制作したというcorps 13が掲載されている。見本として挙げられているのは各々『Congrès International des Orientalistes』の紙面の一部で、いずれも片仮名を主体として極く一部に平仮名を交える(corps 13の平仮名はレオン・ド・ロニーの著書に頻出する平仮名活字そのものであり、corps 6の平仮名も書風はこれと瞭かに共通する)。レオン・ド・ロニーの著作に頻出する平仮名活字は、或いは仏蘭西国立印刷局になお現存しているとも思われるが未見、同印刷局から今日刊行されている支那・日本・マヤ関係の活字書体見本帖『LES CARACTÈRES DE L'IMPRIMERIE NATIONALE.』には掲載されていない。同書に掲載されているのはcorps 40の漢字彫刻活字(木活字)、corps 24の漢字彫刻活字(木活字)、corps 13の片仮名活字、corps 16の平仮名活字のみである(このcorps 16の平仮名は、あるいはウィーンの平仮名活字[後出附論参照]を模したものかとも思われるが、日本人の版下によるものとは考え難い拙劣な造作となっている。なお、このcorps 16の平仮名活字の実際に用いられた書物は未だ管見に入らない)。同書より、これらについての説明を引いておく。

  Poinçons de japonais : Corps 6 : 3 poinçons; corps 13 : 60 poinçons par Jacquemin (1818); corps 16 : 144 poinçons par Marcellin Legrand (1854); corps 9 : 76 poinçons (75 par Bertrand Laeulliet et 1 par Gauthier).
Divers corps : 41 poinçons acier plus 24 poinçons acier.
Japonais katakana, corps 13, gravé en 1818 par Jacquemin sous la direction d'Abel Rémusat qui en donna les desins : 67 poinçons acier (n° 482 de l'inventaire 1873); 66 matrices cuivre (n° 1399).
Japonais hirakana, corps 13, gravé par Marcellin Legrand en 1854; corps 16, 95 types sur bois gravés par Fity; corps 6, 3 poinçons gravés par Bertrand Loeulliet. Pour ces deux corps, il existe aussi des poinçons cuivre : corps 16, 27 poinçons; corps 13, 5 poinçons (classement par de Rosny en 1888).
Japonais hirakana avec ligatures, corps 16, oeil de 13 : 142 poinçons acier.
Japonais hirakana, corps 9 , gravé par Marcellin Legrand en 1854 sous la direction de Léon de Rosny : 51 poinçons et 52 matrices; corps 13, gravé par Marcellin Legrand en 1854 sous la direction de Léon de Rosny : 128 poinçons et 126 matrices. Ces types provinnent de la fonderie de Marcellin Legrand et Cie, 99, rue du Cherche-Midi et ont été livrés en 1855.

  すなわち王立印刷局のcorps 6は一八一八年ジャックマン製、corps 16は一八五四年マルスラン・ルグラン製、corps 9はベルトラン・ラウィエ製(父型一个はゴーチェ製)、更に他のサイズの活字の鉄製父型が六十五个(四十一个プラス二十四个)現存しており、平仮名corps 9(父型百二十八个・母型百二十六个が現存)とcorps 13(父型六十个が現存)は一八五四年にレオン・ド・ロニーの指導のもとにマルスラン・ルグランが製造し、翌一八五五年に納品されたものとされている。しかし、国立印刷局に現存するこのcorps 9の「平仮名」活字は、ロニーの著書に頻出する「corps 13」の平仮名活字と一聯の書風を有するものではない。

  ともあれ、一八七〇年頃からのロニーの著書に頻出する平仮名活字の初製が本当に一八五〇年代中葉に溯るのであるとすれば、清水卯三郎の渡仏を初めとして一八六〇年代後半の邦人関与の痕跡を種々穿鑿すべき根拠は殆ど消失せざるを得ないこととなる。しかしながら同時に、本当に一八五〇年代中葉にこれらの平仮名活字が製造されていたのであるとするならば、なぜ一八六〇年代の仏蘭西の日本学書、取分けロニーの著作や論攷にこれらが遣われた例が一切管見に入らないのであろうかという疑問を私たちは消しがたいのだ。何にせよ種々悩ましいことには違いないのである。


【附】
一九世紀オーストリア製の仮名連綿活字
  なお参考の為に誌しておけば一九世紀前半のオーストリアでも仮名連綿活字が製造されている。その活字を最初に用いた書物はアウグスト・フィッツマイエル(August Pfitzmaier)が解説を附してウィーンの王立印刷局で翻印 された柳亭種彦『浮世形六枚屏風(33)』(挿図12)。饗庭篁村の『雀躍』(精華書院、明治四二年)以来、本書の和文組版に際しては木で連綿活字を作ったものとされてきたが、それはフィッツマイエルによる独文序を誤読してしまったもので、版相からしても木活字説は成立し得ない。饗庭篁村『雀躍』中、「種彦が作の翻訳につきて」(初出『早稲田文学』[未見])に「先づ此の原本を其の侭飜訳に添へんが為に、我が印刷局は木にて組外しの出来る活字を製りぬ。但し原作者の序文と小書とは、挿畫と共に石版石版の類なりに附し、(後略)」と訳されている当該箇所の原文を掲げておく。
Alles was zu dem Texte der Erzählung gehört, wurde mit den in der k. k. Hof und Staats-Druckrei angefertigten beweglichen Typen gedruckt, die Holzschnitte aber, sammt einigen zu diesen gehörigen Erläuterungen und der Vorrede, zinko-lithographirt.
挿図12 ウィーン版『浮世形六枚屏風』

  しかし、右の和訳はdie Holzschnitte をその前のbeweglichen Typen に掛けて読んでしまったもので誤読であろう。すなわち、その節から以降、「木版畫は登場人物紹介及び端書など一二のものと共に亜鉛版とされた」という具合に読むべきであって、前段は文字Texte について後段は挿絵・端書などについて対位的に語った文章とすべきではないか。die Holzschnitte aberはdie Holzschnitte wurde aberの省略であり、この条の直前の文Der Verfasser nennt sich Riutei Tanefiko, und der illustrirenden Holzschnitte Utagawa Tojokuni.のHolzscnitte を受けているのである。かくしてTexte に関わって語られているのは、ただ「活版印刷」beweglichen Typen gedruckt、殊更に特殊なものでない、欧洲で常識的な活版印刷であるに過ぎない。この序文の後段(原IX頁)で「嘗て日本国外には存在しなかった和文活字を作り出した」印刷局の努力を賞賛する云々の条があるが、そこにも、木活字など殊更に特殊な活字であることの示唆は見られない。そもそもそれ迄にはなかった日本文字の(普通の、欧洲式の)活字を製造して「信じ難いほど短期間に」印刷を完了したからこそ印刷局とその局長アロイス・アウエル(Aloys Auer)はフィッツマイエルから賞讃を捧げられているわけである。すなわち木活字説とは甚だ無理な読みであったとすべきであろう(この点、高橋順一氏ならびに古賀遅氏の御示教にあずかった)。念の為にその条の原文を引いておく。
Die in der Auflage gebrauchen japanischen Typen sind, da ausserhalb Japans noch niemals, in japan aber nur auf dem Wege der Xylographie bisher japanisch gedruct wurde-die ersten, welche überhaupt existiren, und verdanken-wie so vieles andere auf diesem Gebiete-ihre Entstehung der Thatigkeit der k. k. Hof- und Staats Druckerei, welche unter der Leitung ihres um die Wissenschaft hochverdienten Directors Herrn Aloys Auer, in unglaublich kurzer Zeit hinsichtlich des Typenreichthums die erste Druckerei der Welt geworden, und-in vielen Stücken selbst der Wissenschaft vorauseilen-diesen Reichthum noch immer zu vermehren beflissen ist.
  もう一つ、これもやはりウィーンの印行に懸るものだがベッテルハイム(Bernard J. Bettelheim)訳の平仮名聖書が三種類(34)発行されており(挿図13)、いずれも連綿仮名活字を主として極く一部に行書の漢字活字を交えている。活字の左右寸法、書風とも『浮世形六枚屏風』ウィーン版と一致しているばかりか単体仮名の骨骼はすべて同じであり、『浮世形六枚屏風』の為に製造された活字が流用されたものに外ならない(これについては夙に奥平武彦が『明治文化研究』第四巻第一冊所載、「明治六年維納版邦訳路加伝福音書に就て」に「この活字の顕著なる特徴は、一個一個の活字を独立したる離れたものとなさず、文字の筆の起点を上端中央に筆の末点を下端中央に置き二個の活字を並び合せば、二個の文字が筆の末点と起点とを合し一語を一筆でつゞき書きしたるものとなさしめたところにある」と誌している)。なお海老澤有道『日本の聖書聖書和訳の歴史』(講談社、平成二年、講談社学術文庫。初版は日本基督教団、昭和三四年。新訂増補版は日本基督教団、昭和五六年)に、ウィーン版に至るベッテルハイムの聖書和訳補訂作業の協力者に日本人留学生があったがその協力者は「たんにペン書きの母型作成に協力したに過ぎなかった」云々という条があるのは、恐らく勘違いと申す外ない。ウィーン版の仮名活字は或いはひょっとして筆ではなくペンによる版下を用いたものかも知れぬという気を起させる独特の書風を示すが、それが作られたのはウィーン版刊行の遥か以前、ベッテルハイムの聖書琉球語訳にすら先行する一九世紀前半の時点なのであって「母型作成に協力した日本人留学生」の存在など論外とすべきであろう。

挿図13 ウィーン版『約翰伝福音書』

  なお奥平武彦は、戦前にアドルフ・ホルツハウゼンを訪れ、記念にこれらの仮名活字を入手している。今日、山梨英和短大図書館門脇文庫等に蔵されている仮名活字(平仮名・片仮名・繰返し記号)が、その一部に外ならない(一昨年、小宮山博史・後藤吉郎・森啓の各氏と共に私も門脇文庫に赴き、『浮世形六枚騨風』やウィーン版平仮名聖書の使用活字との符合を確認した)。これらの活字が同文庫に齋された経緯については、『教文館月報』第二七巻第一一号所載、門脇清「「維納の日本活字」について」(教文館、昭和一七年)、『興文』第一九二号(キリスト教文書センター、日本キリスト教書販売発売、昭和四九年)所載、門脇清「最初の日本語活字はウィーンで鋳造された」を参照されたい。

  なお明治期には平野活版製造所が明治八(一八七五)年頃に連綿の仮名活字を開発し、この連綿活字は東京築地活版製造所や青山進行堂へ受け継がれていく。ネイサン・ブラウンの横浜バイブルプレス(Yokohama Bible Press)版の平仮名聖書には扁平仮名活字にこの連綿活字が混植されているものが多い。


63a 『まいにちひらかなしんぶんし』(三三三号)
明治七(一八七四)年四月三〇日
啓蒙舎刊
紙、活版、縦三〇・四〜三一・四cm、横二三・五〜二三・〇cm
明治新聞雑誌文庫蔵(N360-Ma31)

幕末期、徳川慶喜「漢字御廃止の儀」を奉った仮名専用論者前島密が明治六(一八七三)年に創刊した平仮名専用新聞。明治七年まで存続した。この平仮名活字は本邦で他に用いられた例を見ない。

64a 『ゑいりかなしんぶん』(第三一号)
明治二〇(一八八七)年六月一六日
紙、活版、縦三二・〇cm、横二二・三cm
明治新聞雑誌文庫蔵(Z81-Ka455)
63b[不掲載]レオン・ド・ロニー篇『第一回東洋学者国際会議報告集第一分冊』
Mémoires de Congrés International des Orientalistes; Compte-Rendu de la Premiére Session
明治六(一八七三)年、パリ
活版、洋装本、縦二六・〇cm、横一二・三cm
個人蔵

平仮名活字は扁平なボディを持つ。パリで第一回東洋学者国際会議(一八七三年)を組織したフランス人東洋学者ド・ロニーがパリで一八七一年以降に刊行した書物のなかの平仮名活字を模したものが、明治六(一八七三)年創刊の『まいにちひらかなしんぶんし』にも使われている。府川充男の調査によると、慶応三(一八六七)年に平仮名活字の版下を携えてパリに渡った瑞穂屋(みづほや)こと清水卯三郎か、さもなくば明治三(一八七一)年に渡英した同紙発行者前島来介(密)が、関与していたのではないかという。

64b 『ゑいりかなしんぶん』(第三八号)
明治二〇(一八八七)年一二月一日
紙、活版、縦四四・八cm、横六五・六cm
明治新聞雑誌文庫蔵(Z81-Ka455)

高橋新吉、那珂通世、大槻文彦、物集高見ら平仮名専用論者の団体「かなのくわい」は明治一八(一八八五)年七月に「もとのもと」と「かきかたかいりょうぶ」の二派に分裂した。みづほや(瑞穂屋清水卯三郎)が発行所となった「かなのくわい・もとのもと」の機関紙『かなしんぶん』をときはや(常磐屋)が譲り受けて改称したものが『ゑいりかなしんぶん』である。


【註】

(1)石井研堂『増補改訂明治事物起源』(日本評論社昭和一九年)より「梅素玄魚」の項を引いておこう。
桜素亭玄魚の父は、宮城彦三郎といふ。経師屋なりしが、岸本由豆流の門に入りて、和歌に名あり、貞雄といへり。玄魚、亦父の名を継ぎて、喜二郎と称し、同じく経師を職としけるが、書畫の版下に妙を得、後ち専ら之に従事す。整軒・桃園・科斗子・水仙子・小井居等は、皆その号なり。明治四十三年二月七日、年六十四にして没す。
なお同人は千社札の版下師としても聞こえた。[本文へ戻る]
(2)博文館、明治三五(一九〇二)年、少年工藝文庫第八巻。[本文へ戻る]
(3)何とも呆れたことに「明治以降に於ける活字鋳造の変遷と最近の進歩」の方にも「この瑞穂屋卯三郎が、フランスで特殊の活字をつくって輸入した経緯は氏の伝記中に詳述したからこゝでは省略する」とあるのみで、「詳述」どころか全く触れていないのである。[本文へ戻る]
(4)『印刷』第三三巻第一一号(印刷学会出版部、昭和二五年)所載。[本文へ戻る]
(5)初号一丁表表題「仮名書新聞初号明治六年一月十一日 二千五百三十三年」、巻末(十三丁裏)
「○この しんぶんし くわいしやわ とうぶん かりに こびき町 五丁め いゐだに おゐ/て せゐぞう すりたて いたし候 以上/めいぢ六年一月二十五日/なかばし いづみ町 おうごんゆ/うり ひろめ どころ かたやま とくぞう/とおり しんこく丁 酉がわ/いせや」。[本文へ戻る]
(6)『印刷界』第一五七号所載。昭和四一(一九六六)年、活版印刷伝来考=一〇。清水卯三郎の経歴についての論旨は『京橋の印刷史』と同様だが最後に付された文面に多少コメントしておこう。
瑞穂屋は麹町一の七かなのかい事務所とタイアップして、清水が出版元でかな新聞を発行し、かな文字普及に貢献した。
池原香穉、西徳次郎、片山淳吉、吉原重俊、高崎正風、高橋新吉、那珂通世、南部義籌、内田嘉一、大槻文彦、丸山作楽、福羽美静、近藤真琴、有島武、宮崎蘇庵、清水卯三郎、物集高見の十七名によって「かなのとも」が組織され趣意書が発表されるのは、『東京仮名書新聞』創刊から十年以上経過した明治一六(一八八三)年三月。同年七月一日、いろは会、いろは文金、いつらの音(こゑ)など他の社中がかなのともと合併して「かなのくわい」と改称。親王有栖川宮を担いで、以降の数年間盛んに活動した。すなわち、これら明治初年の平仮名専用組版からかなのくわい結成迄には相当の時日が経過しているのである。大槻文彦が編輯し、当初かなのとも、次にかなのくわい月の部の発行した雑誌には『かなのみちびき』(明治一六年五月第一号発行)、同誌が改称した『かなのしるべ』明治一七年七月第一号発行)があった。月の部とは、卯三郎の息清水連郎の編んだ『かなのくわい大戦争』(清水連郎、明治一六年一二月)の整理によれば「仮名遣ヒテバ従来ノ定法ニ従ヒテ記サント」する一派、他に雪の部(「其仮名遣ヒヲ改ムル所モアリテ記サントス」とする一派で月刊誌『かなのまなび』を発行)、花の部(五十音ノ原ヲ正シ仮名ノ数ヲ増サン」とする一派。按ずるに「いつらの音」の後身か)があった。因みに牧の記している「清水が版元になったかな新聞」とは、みづほやが発行所となったかなのくわい・もとのともの機関紙『かなしんぶん』(明治一八年七月一日創刊、後出)のことであろう。同紙創刊号によれば、かなのくわいは明治一八年七月から仮名遣をめぐって「もとのとも」と「かきかたかいりやうぶ」に分裂したようである。『かなしんぶん』の第二三号(明治一九年六月一日)と第二四号(六月一五日)には、ときはや(常磐屋)が七月一日より『かなしんぶん』を譲り受け『ゑいりかなしんぶん』を発行する旨の広告が掲載されている。この辺りの事情について、国語調査委員会『国字国語改良論説年表』(国語調査委員会、明治三七年四月)などは『かなしんぶん』と『ゑいりかなしんぶん』を混同しつつ、更に『ゑいりかなしんぶん』が明治一九年七月に『かなのてかがみ』と改称したなどと謬って記述してしまっている(東京大学法学部附属近代日本法政資料センター[明治新聞雑誌文庫]には『ゑいりかなしんぶん』の第三一号[明治二〇年六月]と第三八号[同年一二月]が蔵されている。この発行ペースからすると『かなしんぶん』にときはやが出した広告文の月六回発行は実現されなかったものと見える)。また『はやがくもんかなのしんぶん』なるものも明治二〇年八月以降に刊行されており、東京都立中央図書館加賀文庫で第三号([大阪]いろはぐみ、明治二〇年九月)を閲覧することが出来るが、これは大阪の団体の発行になるもの。なお国語国字改良運動に於いて平仮名派が大いに勢力を持ったのはこの時期、明治二〇年前後の数年のみであった。[本文へ戻る]
(7)天地を左右の半分に作った縦組用活字を俗に「おたふく」と呼び、数表を組むための漢数字や金、円、銭などがある。[本文へ戻る]
(8)天地が横幅の四分の三の活字のこと。[本文へ戻る]
(9)発行者前出、昭和九(一九三四)年。なお「小池氏の〔日本新聞歴史〕」とは小池洋二郎『新聞歴史』(巖々堂、明治一五年。巻頭「新聞歴史/東京小池洋二邸撰」、奥附「編輯兼出板人/東京府平民/小池洋次郎/東京浅草南元町廿番地」)のことであろう。[本文へ戻る]
(10)明治六(一八七三)年六月七日付。[本文へ戻る]
(11)見返「いぎりす/とます ていと えらむ/はなしぶり かなよみ/たるしだて/ものわりのはしご/またのな/せいみのてびき/にほん/しみづ うさぶらう のべる」。みづほや蔵版(発行書肆須原屋茂兵衛他東京七店・大阪三店・京都二店)、明治七(一八七三)年春(見返による。自序の末には「むつき」とある)。
序は『ロビンソン・クルーソー』の翻訳で知られる横山由清。清水の識語は「二千五百三十四ねん いぬのむづき/しみづ うさぶらう しるす」。長井五郎『しみづうさぶらう畧伝』([埼玉・大宮]長井五郎、昭和四五年)によれば、原書は『Outline of Experimental Chemistry; being a familiar introduction of the science of agriculture. London 1850』。[本文へ戻る]
(12)清水卯三郎、明治一七(一八八四)年九月。[本文へ戻る]
(13)大槻文彦著作兼発行(牧野善兵衛・小林新兵衛・三木佐助売捌)、明治二二[一八八九]年五月(第一冊[お以上])・同年一〇月(第二冊[自か至さ])・明治二三[一八九〇]年五月(第三冊自し至ち])・同年四月(第四冊[つ以下])。[本文へ戻る]
(14)巻頭題「明六社雑誌」、売捌所報知社、取次所和泉屋壮造、明治七(一八七三)年。[本文へ戻る]
(15)清水卯三郎撰。万延元(一八六〇)年四月序。上に「その」、「どろ」、「けむり」など平仮名の和語、下に「ガルデン」、「モッド」、「スモーク」など片仮名の英語を配した二段組で、本文には仮名しか遣われていない。[本文へ戻る]
(16)清水卯三郎撰。題簽「英米通語 全」、見返「飛良賀奈/英米通語/元治改板」。(横浜)師岡屋伊兵衛、元治元(一八六四)年。『ゑんぎりしことば』の外題換再版。早大図書館洋学文庫勝俣銓吉郎旧蔵書に『英米通語』が二冊あり、一冊は臙脂、もう一冊は浅葱の装釘であるが、浅葱色の方は巻末に「錦絵地本類品々/外国通語本品々/横浜画図大形/小形一枚摺/萬国新聞紙追々出板/弁天通五丁目/師岡屋伊兵衛」と印され、嚥脂色の方は白紙。[本文へ戻る]
(17)物集高見編纂。清水卯三郎、明治二五(一八九二)年五月(初版明治二一年七月、再版明治二三年一一月)。[本文へ戻る]
(18)『新旧時代』第一巻第五冊所載、渡辺修二郎「清水卯三郎の事一二件」は「世のうはさ」一八六八年版について左のように記している。なお『もしほ草』、『遠近新聞』の後、近年までに『よのうはさ』一八六八年版に目を通したことがあると判然しているのは若き日の渡辺だけであった(パリの国立図書館で見つけたという)。この頃には記憶が大分怪しくなっていたようで紙面が平仮名のみであったかを初め紙面の詳細については聞かれても思い出せなかったらしい(蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史附海外邦人外字新聞雑誌史』[名著普及会、昭和五五年覆刻。初版は大誠堂、昭和一一年]参照)。
明治前後フランスで邦人が新聞紙を発行したと云ふ説(本誌五月号四九頁参照)は、其実この清水が巴里市にてレオン・ロニー(Léon de Rosny)の発行したる日本語の新聞紙『よのうはさ』を手伝つた事を指したので、現に余が往年伯林人種博物館に勤めて居た時、それを見て其表題の文字は明に清水の自筆と認めた又同新聞紙に載せた「まかげゐ」(写真の事)の説も清水の筆に成つたのは一見疑ふの餘地がない(此一篇の全文は慶応四年六月発行『もしほぐさ』第十七篇と同月発行『遠近新聞』に転載しあり(編輯子曰く、本誌三月号三二頁にも転載しました)右『よのうはさ』の発行は一八六八年三月廿四日即ち慶応四年三月一日にして、清水が帰朝の日既に迫りたれば、ロニーも助手を失ひて新聞紙の発行を一号限りに止めたかと想像せらる(下略)
なお「まかげゐ」は「まかげゑ(真影絵)」の間違い。[本文へ戻る]
(19)明治文化研究会編。書物展望社、昭和九(一九三四)年。[本文へ戻る]
(20)第一面題字脇「慶応四戊辰年/四月一日/巴里斯/印行/一ヶ年三十/度定価/二十フランク/新聞著/述者/羅尼/西洋紀元千八百六十/八年第三月廿四日」。本紙については『国語国文学報』第三一輯(愛知教育大学国語国文学研究室、昭和五二年)所載、谷口巖「レオン・ド・ロニー篇『よのうはさ』−慶応四年パリ発行、日本字新聞のこと−」を参照されたい。私はようやっと本紙の紙影に接した折、谷口氏の論攷の存在を知らなかった為、初めて〈発見〉されたものとして『週刊読書人』第一九四四号(読書人、平成四年七月)に「〈発見〉された最初の海外邦字新聞」を執筆してしまった。お恥しい限りの失態である(『タイポグラフィックス・ティ』第一四三号[平成四年]所載の拙稿「『まいにちひらかなしんぶんし』の謎(上)」参照)。[本文へ戻る]
(21)長井五郎『しみづうさぶらう略伝』(前出)参照。同書は日記の残存部分のすべてを録している。[本文へ戻る]
(22)例えば『新旧時代明治文化研究第三年度(自昭和二年一月至昭和二年十月)総目録』末尾の福永書店の広告中、「明治文化研究資料出版」の項に「以下準備中」として「六合新聞並瑞穂屋卯三郎遺文」なる条がある。『六合新聞』は後に『明治文化全集』第一七巻「新聞篇」(日本評論社、昭和三年)で翻刻されたが、「瑞穂屋卯三郎遺文」は結局出版されなかった。[本文へ戻る]
(23)明治文化研究会編『新旧時代』第一巻第四冊〜第六冊(大正一四年)に各々上・中・下が分載された。この頃の『新旧時代』には第一巻第五冊の渡辺修二郎の「清水卯三郎の事一二件」、第一巻第一〇冊の清水連郎「瑞穂屋卯三郎のこと」など卯三郎の業績に関して参照すべき記事が多い。[本文へ戻る]
(24)標題紙‘ANTHOLOGIE/ JAPONAISE/ POÉSIES ANCIENCES ET MODERNES/ DES INSULAIRES DU NIPPON/ Traduites en français et publiées avec le texte original/ PAR/ LÉON DE ROSNY/ PROFESSEUR A L'ÉCOLE SPÉCIALE DES LANGUES ORIENTALES/ Avac une Préface/ PAR ED. LABOULATE/ De l'Institut/ PARIS/ MAISONNEUVE ET Cie, ÉDITEURS/ 15, QUAI VOLTAIRE, 15/ M DCCC LXXI’。横浜開港資料館ブルーム・コレクションには本書の素晴しい美本が蔵されている。[本文へ戻る]
(25)標題紙‘MÉMOIRES/ DU/ CONGRÈS/ INTERNATIONAL/ DES/ ORIENTALISTES/ COMPTE-RENDU/ DE LA/ PREMIÈRE SESSION/ PARIS-1873/ TOME PREMIER/ AVEC PLANCHES ET FIGURES INTERCALÉES DANS LE TEXTE/ PARIS/ MAISONNEUVE ET Cie, ÉDITEURS/ LIBRAIRES DU CONGRÈS INTERNATIONAL DES ORIENTALISTES/ 15 QUAI VOLTAIRE/ 1874’。一八七三年九月にパリで開催された第一回東洋学者国際会議の報告書の第一分冊。全体の六割が日本関係の記事に当てられる。ロニーは同会議の中央組織委員長を務め、入江文部他日本人数名も参加している。展示会目録『国立国会図書館所蔵個人文庫展西欧学術の追求』(国立国会図書館、昭和五七年)参照。
なお『横浜毎日新聞』第九四一号([横浜]新聞会社[編輯者妻木頼矩・印刷者山崎由蔵]、明治七年一月二〇日)の「外国雑聞」に「仏都〔パリス〕に於て〔インテルナシヨナルコングレツスヲフヲリエンタリスツ〕東客の公会を開行在ける時日本支那の国語歴史技術に付議論あり其時日本公使鮫島公の言ふ云日本の人民西方の諸国と交通関係は未た政体通商の事に過ぎさるの み今の時に当り吾輩第一に彼我相通するの基を建て久しからすして教育の功により彼我の国民を相通し一致せしむるの場合に日本を進ましむるや余疑わすと云れしを聞しは未た久しからさる事なりき」云々という記事もある。[本文へ戻る]
(26)標題紙‘ANNUAIRE/ DE LA/ SOCIÉTÉ DES ÉTUDES JAPONAISES/ CHINOISES, TARTARES ET INDO-CHINOISES,/ PREMIÈRE ANNÉE./ 1873.’。[本文へ戻る]
(27)尤も私が参照し得たロニーの著書は国立国会図書館で数点及びマイクロ・フィッシュ二十標目程度、横浜開港資料館ブルーム・コレクション所蔵の書物二十点弱他僅かなものに過ぎず慶応大学言語文化研究所の市河文庫にも当っていない(谷口巖「レオン・ド・ロニー年譜及び著作目録ノート」には泰西の図書館の蔵書を中心に七十三標目が数えられている)。随って「一八七一年以降」と確言し切れる訳などないことを承知の上で更に誌しておくのだが、右の国際会議の報告書やロニーの著書の一部に遣われている平仮名活字が他の在欧日本学者の著書に遣われた例は今のところ管見に入らない。[本文へ戻る]
(28)(あさくさおくらまへかたまち)けいもうしや、明治六(一八七三)年九月三日。[本文へ戻る]
(29)前島会、昭和三〇(一九五五)年改訂再版(初版大正九年)。[本文へ戻る]
(30)(相生橋通神田淡路町)啓蒙社、明治六(一八七三)年三月。早稲田大学図書館西垣文庫所蔵。[本文へ戻る]
(31)同記事にはこうある。
(上略)ところが偶然、前島密家より出でし同新聞を入手し、その編輯者等を知ることを得しは、愉快の至りなりし。予の所蔵する同新聞は、三月の第八番より、五月の第四十三番までに過ぎざれども、その中の一冊に、幸、左の如き、白眼居士述懐記といふ、発行事情を記せる前島自筆文が、合綴されてあり。 『是は、仮名字のみにて、何事をも支障なく記し得べきを、世人に明示し、併せて漢字を学ばぬ下層の人も読得て、智識を弘むる利益ありと、市川清流、平野栄、山田敬三等を記者とし、明治六年春発行したる新聞紙と其看板(研云、ビラ、右に出す)なり。然るに、其文法といひ、言辞文章、皆余の意見に酬ひず、又世上は、未だ新聞を読ざる時なれば、購読者皆無の有様にて収支は酬ひ得べくもあらざれば、数号ならずして廃したり。余の廃漢字熱に狂したるより、此点には、時勢を察知せざりし愚を明さん為に、之を保存し、異日観者の一嗤に附せんとす。(下略)』
ただし前述した如く、第四三号から「数号ならずして」どころか翌七年四月二九日付の第三三二号までが東京大学法学部附属近代日本法政資料センター(明治新聞雑誌文庫)に蔵されているわけであるから、或いは前島は早く手を引き、他のメンバーによって発行が続けられたものかも知れない。『まいにちひらがなしんぶんし』(第二八号以前)、『まいにちひらかなしんぶんし』(第二九号以後)に用いられた記号・約物類と大坂のかなもじしや版等の記号の用法の酷似については、『タイポグラフィックス・ティ』第一四四号(発行者前出、平成四年)所載の拙稿「『まいにちひらかなしんぶんし』の謎(下)」を参照されたい。なお本稿では一往、題字の表記に従って第二八号以前を「ひらがな」、第二九号以降を「ひらかな」と遣い分けておいたが、『増補改訂明治事物起源』に掲載されている啓蒙社のビラでは「まいにちひらかなしんぶんし」となっている。[本文へ戻る]
(32)愛知教育大学、昭和五三(一九七八)年三月。[本文へ戻る]
(33)独文標題'Sechs Wandschirme/ in/ Gestalten der vergänglichen Welt./ Ein japanischer Roman/ im originaltexte/ sammt den Facsimiles von 57 japanischen Holzchnitten/ übersetszt und herausgegeben/ von/ Dr. AUGUST PFIZMAIER./ Die Abbildungen sind den japanischen Mustern volkommen gleich, der/ Tusche möglichst ähnlich; Einband und Papier nach japanischem Vorbide./ WIEN./ Aus der kaiserl. königl. Hof-und Staats-Druckerei./ 1847'。(ウィーン)王立印刷局、一八四七年。フィッツマイエルによる独文のVorredeによれば王立図書館に所蔵されていたDas Originalwerkによる翻刻とされるが、このDas Originalwerkとは、文政一八(一八二一)年江戸版(或いはその版下)であろう。なお『浮世形六枚屏風』は仏、独、英語などに訳されて一九世紀欧羅巴の日本学者たちにより詳細な研究が行われたが、それらのいずれかが逆輸入されて和語版・英語版セットの特異な形態で出版されたと思われるものに慶応三(一八六七)年版『浮世形六枚庭風』がある。前編一・二は英訳版、三・四は日本語版。日本語巻題簸「浮世形六扇屏 全」、見返「慶応三丁卯歳仲負/浮世彩六扇畔/松園蔵版/ACCOUNT/ OF/ A JAPANE ROMANCE.」。書林「江戸馬喰町弐丁目角/永寿堂/西村屋貞八板」、後編「西村屋版」、「江戸彫工 江川留吉/全筆者 藍庭晋米」、巻頭初題「浮世形六枚屏風/柳亭種彦 著/松園梅彦 閲」。英語巻題簽「ACCOUNT/ OF/ A JAPANESE/ ROMANCE.」、扉「ACCOUNT/ OF/ A JAPANESE/ ROMANCE./ 慶慮三丁卯歳仲夏/浮世形六扇屏/松園蔵版」、巻頭初題「ACCOUNT/ OF/ A JAPANESE/ ROMANCE./ PART FIRST.」。松園梅彦(松園大人、松園主人)は本名四方正木、『五国語箋』(臼杵太郎蔵板、製本所禁幸堂菊屋幸三郎、万延元年)等を著している(「松園」については『明治文化』第六巻第二号[明治文化研究会、日本評論社発売、昭和五年]所載の渡辺修二郎「明治前後日欧文学の関係[上]」に「右発行者松園といふは安政の頃朽木昌綱編「西洋銭譜」を抜萃して刊行し、又「海防彙議」を編述した塩田順庵[泰、号松園]であらう、此人は幕府の末の学医である」とあるが誤りであろう)。
なおこれの追摺版に明治二年版もある(鳫金屋清吉板[発行書林須原屋茂兵衛・山城屋佐兵衛・須原屋新兵衛・岡田屋嘉七・和泉屋吉兵衛・和泉屋金右衛門・須原屋伊八・岡村屋庄七・常習屋宗七・和泉屋半兵衛他]、見返「ACCOUNT/ OF/ A JAPANESE/ ROMANCE./ 明治己巳歳初冬/浮世形六扇屏/松園蔵版」)。
文政一八(一八二一)年初版の題簽は「浮世形六枚屏風 種彦作 前(後)編」、見返「辛巳孟春発販/柳亭種彦作/三ッ紋の佐吉/二ッ紋の小松/浮世形六枚/屏風/前編/歌川豊国畫/永寿堂梓」、「一枚目」序末「文政庚辰秋七月稿成/辛巳春正月発販柳亭種彦(印)」。序刊記「文政庚辰秋七月編成/辛巳春正月発販」。
本書を欧洲の読者に紹介したものとして、フィッツマイエルには他にウィーンのCommission bei C. Gerold's Sohnより一八七七年に出版した'Auf der Bergen von Sagami.'があり、仏語訳(フィッツマイエルの独語訳からの重訳)としてはF・テュレッティーニTurrettini,F.による'Komats et Sakitsi.'([ジュネーヴ]H.Georg' 一八七五年)(挿図14)他が刊行されている(渡辺はテュレッティーニの刊行した『あつめ草』の姉妹篇『晩採集』第四巻にも収載としているが私は未見)。[本文へ戻る]
挿図14 Komats et Sakutsi.
(34)『約翰伝福音書』(アドルフ・ホルツハウゼン、一八七三年。扉「明治六年癸酉新著/約翰伝福音書/東国宇院城阿度留布保流都方前版摺屋蔵活字」)、『路加伝福音書』(一八七三年。扉「明治六年癸酉新著/路加伝福音書/東国宇院城阿度留布保流都方前版摺屋蔵活字」。なお青山学院資料センターには一八五五年香港版『路加伝福音書旨巻頭「路加伝福音書ロカ ヨロコビウトツリヲ/ツタフノ シヨモツ」、見返「乙卯年鐫/路加伝福音書/往普天下伝福音与萬民」、版心上部「新約全書」、版心下部「路加伝福音書 丁付」]が所蔵されている。国際基督教大学アジア文化研究委員会編『日本キリスト教文献目録 明治期』[国際基督教大学、創文社発売、昭和四〇年]に一八七三年ウィーン版が青山学院にあると記されているのは誤りであろう)及び『使徒行伝』(一八七四年。扉「明治七年甲戍新著/使徒行伝/東国宇院城阿度留布保流都方前版摺屋蔵活字」。版心「もつはら つかひどもの でん」)。ベッテルハイムの聖書和訳は弘化三(一八四六)年琉球上陸と那覇に於ける軟禁生活に始まり、嘉永四(一八五一)年の片仮名のみの琉球語訳稿本から、ジョージ・スミス(George Smith)の刊行した漢文に片仮名の和文を附した安政二(一八五五)年及び安政五(一八五八)年の香港版、更にベッテルハイム没後、原稿をウィーンに運んでのウィーン版と、孜々たる修正が続けられた。ウィーン版については豐田實『日本英学史の研究』(前出)を引いておく。
ベテルハイム博士の新約聖書の琉球語訳中、標準日本語に近く直された三つの書があとでしるすように、彼の死後にヴィーンで出版された。博士は前記のとおり、琉球から上海におもむき、それからアメリカに渡り、アメリカでは聖書の訳の改訂とともに、日本本土への渡来を志し日本伝道に要する資金を求めたが、事成らず、一八七〇(明治三)年アメリカのブルックフィールドで永眠した。しかるにその後未亡人は夫の残した訳稿を英国聖書協会に提供し、試みにまずヨハネ伝を印刷する費用のために四百ドルを支出し、聖書協会はヴィーンの東洋学者プフィッツマイヤ教授(August Pfizmaier, 1808-1887)に委嘱してその出版を計り,その結果約翰伝福音書及び路加伝福音書は明治六年に、使徒行伝は明治七年に、おのおの同教授の著書出版所たるアードルフ・ホルツハウゼン(Drucke von Adolf Holzhausen)から出版された。
ベッテルハイムの聖書訳業についてより詳しくは
海老澤有道『日本の聖書 聖書和訳の歴史(前出)参照。管見に入ったフィッツマイエルの著書では'DER/ ANFANG DER JAPANISCHEN ERKLÄRUNGEN/ DER/ WERKE DES KLEINEN SPRECHENS./ von/ Dr. A. PFIZMAIER/ Wien, 1880./ IN COMMISSION BEI CARL GEROLD'S SOHN'及び'DIE JAPANISCHEN/ WERKE AUS DEN SAMMLUNGEN DER HÄUSER/ von/ Dr. A.PFIZMAIER/ Wien,1881./ IN COMMISSON BEI CARL GEROLD'S SOHN'の各々標題紙裏に'Druck von Adolf Holzhausen in Wien,/ k. k. Hof- und Universitäts-Buckdrucker.'のクレディットが施された例がある。[本文へ戻る]



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