第二部

活字の世界



オランダ将来欧文金属活字

オランダ政府が長崎に設けられた海軍伝習所に派遣した教官のひとり、ライデン生まれの活版技師G・インデルマウルは、出島のオランダ商館に一つにオランダ印刷所を設け、本国から持ってきた活版印刷機、欧文活字、インキ、紙類などを使って西洋式の印刷を行ってみせた。これらを長崎出島版と呼ぶ。




38 ドンケル・キュルティウス編『トラクタート』
(俗称『日蘭条約書』)(全一冊)
Donker Curtius, Traktaat,1857
安政五(一八五八)年
出島版
縦一八・三cm、横一一・三cm
国立国会図書館蔵

編者のキュルティウスはオランダ商館長。同種の活字は長崎出島にオランダ商館医師として来日したドイツ人P・シーボルトの著作『日本よりの通信録』(文久元年)、あるいは長崎海軍伝習所のオランダ教官軍医J・J・L・ポンペの著作『薬品指針』(文久二年)にも使用されている。

39 漢字活字百八十七本
幕末〜明治初期
個人蔵
ロンドン伝道会のサミュエル・ダイヤーによって着手され、その没後リチャード・コールによって一八五〇年に完成を見たもの。蘭人日本語学者ヨハン・ヨセフ・ホフマンの提案でオランダ政府が香港英華書院から一八五八年に購入し、それをアムステルダム活字鋳造所が電胎法で複製した。複製にあたって原型サイズ一三・五ポイントを一六ポイントのボディ(活字角寸法)に鋳直している。一八七五年印刷会社ブリルは政府所有の漢字印刷会社を買収し、この漢字活字もブリルの所有となった。ブリルはこの漢字活字を一九七〇年の見本帖に掲載し、一九九〇年頃にそれを廃棄処分した。
  漢字を判読できない蘭人植字工のため、活字の側面に分類番号が付されている。たとえば、「禮字」には「113-13」の番号が付されているが、「113」は康煕字典部首番号で「示」偏、「13」は偏を除いた画数を意味する。この活字もオランダでは滅失したが、日本に二千本ほどが入っており、展示品はその一部である。




市川兼恭・山本勘右衛門製鋳造金属活字

嘉永二(一八四九)年オランダ政府から徳川将軍家慶にスタンホープ型手引活版印刷機一台と欧文活字百余種、その他印刷用小道具類一式が贈られた。しかし、これらはすぐには役立てられず放置されていた。安政二(一八五五)年九段の牛ヶ淵に洋学の教育研究機関として洋学所が設立され、翌年これが蕃書調所と改名され、安政四年一月に開校される。同所頭取の古賀謹一郎は教授手伝役市川斎宮(兼恭)に頼み欧文原書の活版印行を企てた。市川は幕府の倉庫に死蔵されていた上記の活版印刷セットの活用を思いつき、時計職人の山本勘右衛門の助けを借りて、軟鋼に欧字を彫り、焼き入れして父型としたものを銅材に打ち込んだパンチ母型でもって既存のオランダ活字を補鋳し、安政五(一八五八)年にオランダ語教科書『レースブック』の印行にこぎ着けた。




40 『レースブック』(あるいは『西洋武功美談 和蘭文』)
Leesboek voor de Scholen van het Nederlandsche Leger, ’S Gravenhage, Bij Gebroeders Belinfante, 1845
安政五(一八五八)年
江戸蕃書調所版
縦一九・〇cm、横一一・〇cm
大蔵省印刷局蔵

市川斎宮の日記には「是レ日本活字ノ祖ナリ」とあるが、実際には長崎活字版摺立所の印行になる『和蘭文典成句論』の二年程後のことになる。しかし、後者に較べ印刷技術には格段の進歩が見られる。国立国会図書館には同書の阿蘭陀版も残されている。

41a[不掲載]
堀達之助他編『英和対訳袖珍辞書』
A pocket dictionary of the English and Japanese language
文久二(一八六二)年
洋書調所版
縦一五・五cm、横一九・五cm
文学部国語研究室蔵(L81022)

文久二(一八六二)年に蕃書調所は洋書調所に改称、さらに翌年には開成所に名を改めた。開成所の活字方では教科書、辞典、参考書など洋学書がいくつも印行されており、なかでも本書は金属活字を用いた国内最初の英和辞典として有名である。ただし、訳語は整版。原装丁は背革、鳥の子紙に両面摺りという西洋風のもの。洋書調所の教官であった柳河春三、田中芳男、西周、箕作貞一郎らが編纂に加わっている。初版は二百部と言われている。
  開成所は明治元年九月に新政府に接収され開成学校となり、さらに大学南校となって東京大学の母体となった。

41b 堀越亀之助他編『改正増補英和対訳袖珍辞書』
A pocket dictionary of the English and Japanese language
慶応二(一八六六)年
開成所再版
縦一五・五cm、横一九・五cm
個人蔵

本辞書の属活字版は慶応二年の再版本まで。以後、慶応三年版、蔵田屋版は和紙袋綴の整版本となる。この辞書から後に『和訳英辞書』(明治二年)、『英和対訳辞書』(明治五年)、『広益英倭字典』(明治七年)などが派生することになった。

42 『英吉利単語篇』
Book for Instruction at the School Kaiseizio in Yedo
慶応二(一八六六)年
開成所版
附属図書館蔵(A100-115)

本文は金属活字、題筆は木版。鳥の子紙両面摺りの仮綴本。明治期に入り、開成所版(蔵田屋販売)(明治三年)、西京版(明治四年)をはじめとする多くの官許金属版本ないし覆刻整版本を生む。




三代木村嘉平製蝋型電胎法金属活字

江戸神田小柳町に生まれ、薩摩藩に仕えた彫工三代木村嘉平は、三田の薩摩屋敷でオランダ人から電気学を学び、安政元(一八五四)年から元治元(一八六四)年にかけ銅電胎法を完成し、国内初の電胎母型による鉛活字鋳造の先鞭をつけた。しかし、彼は極度の近視症となり活版印刷を事業化するに至らず、彼の開発した楷書体漢字と欧文活字は、マーレー著の『英文典』の蘭語訳本の表題および序文の校正刷りに使用されたにすぎなかった。




43a 木村嘉平遺品第四号箱(鹿児島県指定有形文化財)
安政〜元治年間(一八五四〜六四)
縦一八・三cm、横二五・六cm、厚六・六cm
鹿児島尚古集成館蔵

43b 未完成活字の印字見本五点(田村省三作成)
総合研究博物館蔵

43c 完成活字の印字見本一点(田村省三作成)
総合研究博物館蔵
嘉平の遺品としては、和文楷書、欧文活字、種字、父型、母型、鋳造機などが五つの箱に残されている。これはその中の四号箱と呼ばれているもので、楷書活字が小型平圧式印刷機を兼ねた植字枠に収められている。すでに〇・五ミリの木インテル(込物)が使用されていることに注目。

44 『中楷古文孝経』
嘉永三(一八五〇)年
嘉平刻、薩摩版、島津家文庫
縦二九・六cm、横一九・五cm
史料編纂所蔵

第二十八代薩摩藩主島津斉彬が江戸の書家市河米庵に命じて書写させたもの。「字彫りの名人」と謳われた三代嘉平の手になる整版本。こうした見事な刻字技術が活字の種字製作の背景にある。

45 『施治肇要』
安政四(一八五七)年
嘉平刻、薩摩版、島津家文庫
縦二六・三cm、横一七・九cm
史料編纂所蔵

島津斉彬は人材育成のため、国学と洋学を鼓舞し、「薩摩版」と呼ばれる版本をいくつも出版させている。藩の漢方医田宮尚施の著したこの医学書もそのなかの一本。嘉平刻の木活字本で、第一巻の巻首に嘉平開版の経緯が詳しく記載されている。

46 五代木邨嘉平『木村嘉平献上−安政年間製活字略傳書類全』
明治四〇(一九〇七)年
島津家文庫
縦二四・二cm、横一六・三cm
史料編纂所蔵(I-12/33-312)

三代嘉平の遺品が東京袖ヶ崎島津邸に納められるさいに、三代の末子五代嘉平が記したもの。三代嘉平が斉彬の委嘱で和文・欧文活字を製造するに至った経緯、活字鋳造の技術、嘉平の残した活字や道具類に関する記録として貴重である。



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