第一部

記載の世界





30 古活字本、北畠親房著『職原抄』(上下二冊)
本居宣長著『古事記伝』(四十八巻四十六冊)
寛政二(一七九〇)年〜文政五(一八二二)年
冊子装本
縦二七・一cm、横一八・八cm文学部国文研究室蔵


『古事記伝』は全四十四巻四十四冊、巻十七附巻として出版された『三大考』と、春庭の編になる『古事記伝目録』三巻三冊(合冊本もあり)を併せて、すべて四十八巻の大部である。その出版は、寛政二(一七九〇)年に第一帙の巻一より巻五が出、以後、寛政四(一七九二)年に第二帙の巻六より巻十一、寛政九(一七九七)年に第三秩の巻十二より巻十七、宣長の没後文政五(一八二二)年に残りの巻十八より巻四十四が全て板行され、実に出版だけでも三十二年をかけて完成されたのである。『古事記伝』はその後も需要があったものと見え、天保一五(一八四四)年、また明治八(一八七五)年に後印本が出ている。

  『古事記伝』は、言うまでもなく国学者本居宣長畢生の大著であり、且つ、近世国学の残した最大の学問的遺産でもある。その研究態度は極めて厳格な実証主義に基づき、近代的な学問の方法論から見ても十二分に批判に堪えうるものである。実際、現在でも『古事記』研究の出発点は『古事記伝』にあり、また『古事記伝』を越えることが、いまなお課題でありつづけているといっても過言ではない。

  そのような内容の高さもさることながら、『古事記伝』は、日本の出版文化史という視点からみた場合にも、一つの金字塔であるといってよい。学術的な出版が、これだけ大部な物として、また宣長本人は勿論のこと、家族、門人、また出版書肆など多くの人々の努力によって、粘り強く長い年月をかけて継続・成就されたということについて、やはり感銘を覚えずにはいられない。

  ここに展示するのは、東京大学国文学研究室の所蔵する和書コレクションとして夙に著名な、本居文庫中のものである。本居文庫は、本居宣長の養子本居大平の旧蔵書であり、その子孫に伝えられ、一時期三井文庫に収まったのち、現在は東京大学国文学研究室と米国カリフォルニア大学バークレー校とに分蔵されている。失明した宣長の実子春庭が宣長の学問上の継承者であるのに対して、大平は、宣長亡き後、鈴屋を実務面で支えた人物であった。鈴屋の出版活動にあっても常に中心的に行動しており、必然的にその出版物は網羅的というべきに近く、彼に収集されていたのである。

  本居文庫は、一点一点としてみれば、例えば宣長自筆草稿のような貴重資料を多く含むわけではない。しかし、ある時期鈴屋の実務を取り仕切っていた人間の蔵書の全体像をみることができるという点で、そのコレクションとしての価値は、近世思想史の資料として誠に多大なものがある。本居家の所蔵であった時代、演奏家であった家人がしばしば留守にするという事情のために南葵文庫に寄託されていたことがあったといい、その時の南葵文庫司書であった高木文氏の作成した略目録がある(1)。本居文庫の全体像を術敵する上での参考となるものである。

  さて、本居文庫本の書誌的事項についてであるが、全て袋綴、五針眼訂法。これは後印の本でも変わらない。和書の袋綴では四針眼訂法が最も標準的で、五針眼訂法も必ずしも珍しいというほどのものでもないが、鈴屋出版物の他の本にあっても多くは四針眼訂法であることを考え併せれば、やはり、『古事記伝』に対する宣長の、更には鈴屋社中の、特別な思い入れの現れの一つとみることもできよう。

  書型は美濃版で、表紙は縹色表紙に布目押紋。この表紙の体裁と紫の角裂、紫の綴糸が、鈴屋出版物の特徴である。出版物のそと見での体裁を統一するということは、のちに、平田篤胤の気吹舎でもそのまま継承されることになる。大きさは縦二七・一センチ、横一八・八センチ。各冊表紙に単郭の刷題簽で、春庭或いは春庭風の筆致の「古事記傳(巻数)」の外題がある。題簽は大体縦一八・五センチ、横三・九センチ程度である。

  各巻の紙数を掲げると次の通りである。巻一、九十九紙。巻二、六十一紙。巻三、五十二紙。巻四、四十四紙。巻五、八十五紙。巻六、七十九紙。巻七、八十四紙。巻八、六十八紙。巻九、六十四紙。巻十、六十九紙、巻十一、七十八紙。巻十二、五十七紙。巻十三、七十六紙。巻十四、七十六紙。巻十五、八十九紙。巻十六、四十八紙。巻十七、九十五紙。巻十八、七十四紙。巻十九、七十二紙。巻二十、七十紙。巻二十一、六十四紙。巻二十二、八十四紙。巻二十三、百紙。巻二十四、六十四紙。巻二十五、七十三紙。巻二十六、四十二紙。巻二十七、九十三紙。巻二十八、五十八紙。巻二十九、六十八紙。巻三十、九十二紙。巻三十一、六十紙。巻三十二、七十七紙。巻三十三、八十一紙。巻三十四、六十六紙。巻三十五、四十九紙。巻三十六、六十一紙。巻三十七、四十七紙。巻三十八、四十三紙。巻三十九、六十九紙。巻四十、五十紙。巻四十一、五十三紙。巻四十二、五十七紙。巻四十三、八十二紙。巻四十四、七十四紙。目録は合一冊で、上巻、二十五紙、中巻、四十七紙、下巻、三十四紙。三大考、二十六紙。いずれも最初一丁は遊び紙である。明治印本のみ、巻四十四には末尾に七丁にわたって永楽屋東四郎の出版広告がある。各巻とも、本文は一面十行書、但し、『古事記』本文の文字は一面五行書である。

  巻四十四の巻末には次のような刊記がある。

  「文政五年壬午春刻全備
  江戸 前川六左衛門
  大阪 松村九兵衛
  今井喜兵衛
  尾張 長谷川孫助
版元   片野東四郎 」

  因みに、天保一五(一八四四)年刷の本では、刊記は次のようになっている。

 「天保十五年
 甲辰九月再校

 尾州名古屋本町通七丁目
 永楽屋東四郎
 江戸日本橋通本銀町二丁目
 同   出店 」郎

  明治八(一八七五)年刷本では、この天保一五年刷の刊記の後にさらに次のような刊記がある。

 「明治八年十二月廿日版権免許
 度會縣平民
 著述者 本居宣長
 第九大塵飯高郡松坂魚町五拾九番地
 愛知縣平民
 藏版人 片野東四郎
 第壹大區四小區玉屋町三町目拾五番地   」

  『古事記伝』の出版に中心的であった書肆は、天保後印本・明治後印本では一手にそれを引き受け、当初の出版書肆としても刊記の最後にその名の見える「東壁堂」永楽屋(片野)東四郎である。永楽屋東四郎は名古屋最大の書肆、というよりも、三都以外では文句無く最大の書肆としてその名が聞こえ、尾張の藩校明倫堂の御用書肆として、主にかたい内容の物の本の出版を手掛けた書肆であった。鈴屋の著述書の出版は多くこの書肆の手によっている。


  『古事記伝』の内容面については、先学による研究の蓄積も多く、また、思想史研究を専門としない筆者がここで述べるべきこともない。従ってここでは、『古事記伝』に見られる特異な文字・表記について、そしてそのことの国語文字史上における位置付けについて、些かの私見を述べてみたい。先に、『古事記伝』の装丁が五針眼訂法であることに触れ、『古事記伝』に対する特別な思い入れをそこからも読み取ることができようということを述べた。鈴屋出版物の中にあっての『古事記伝』の特別さは、実はそれだけにあるのではない。その中身の文字・表記のあり方も他の書とは異なるものを持っているのであり、それもまた、宣長・鈴屋社中にとっての『古事記伝』の重みを表しているように思われるのである。

  ところでここに一つ、まず直面しなければならない問題がある。というのは、『古事記伝』の表記は誰の方針によるものか、という点である。現在残る宣長自筆稿本の『古事記伝』は片仮名漢字交じり文で書かれている。それが版本でみるような平仮名漢字交じり文となったのは、出版の上での販売戦略ということをある程度考慮してのことであったらしい。その、平仮名漢字交じりの『古事記伝』の版下を書いたのは、当初は実子春庭であった。ところが、出版の途中で春庭の失明という事件があったために、春庭の版下は巻一から巻十四までと巻十七から巻二十までで中絶してしまう。そのあとを継いで、巻十五から巻十七と巻二十二から巻二十四までが宣長本人、巻二十五から巻二十九までが娘美濃、そして門人では栗田土満が巻二十一、この『古事記伝』の版木の彫師でもあった植松有信が巻三十から巻三十四、丹波晟が巻三十五から巻四十四までを分担して執筆したのである。そのことは、本居大平の「御題字のしりへに記す詞」草稿の付箋から明らかであり、また大野晋氏はこのことも含め、『古事記伝』各巻の草稿から売り本のできた時期までについても細かく纏めておられるので、現在ではそれに就くにしくはない(2)

  そのように、六名で分担された版本『古事記伝』の筆耕であるが、本居大平が「みな春庭か手にならひてかきたれは、そのけちめ見えすなもある」という通り、見事に同じ体裁に仕上がっている。ここでともかく明らかなのは、春庭以降の人々は、春庭が従っていた方針をそっくり真似しているわけであるから、この表記の方針を建てたのは、春庭に版下の筆耕を命じた宣長か、春庭本人かに絞られるということである。その二人の関係からすれば、当然宣長による指示のあった可能性が高いが、確実なことは、現在のところなんともいえない。

  さて、『古事記伝』に見られる特異な表記方針とは、次の二点に纏めていうことができる。

一、平仮名文でありながら、字の横並びを揃えていること。従って、一行の字詰が一定である。
二、平仮名字体の中に、当時一般にはあまり用いられなかったと考えられる字体があること。そして、その中には濁音専用字体が含まれること。

  まず、一について考えたい。詳しく説明すると、『古事記伝』では、『古事記』本文は一行十二字詰めで書かれており、その後の宣長の文章はその四分の一角で二字分下げ、一行二十二字詰で書かれている。但し、太安万侶の序は宣長の文と同大の字で、頭から、一行二十四字詰で書かれている。ここで、『古事記』本文、安万侶序は漢字文だから、字詰め一定で書かれることは珍しくない。特徴的なのは、漢字平仮名交じり文である宣長の文までもが字詰め一定で書かれていることである。

  このことの由来を実際的な問題から考えると、なるべく綺麗に書くということ、しかも今後長い期間に渡って書きつづけなければならないということを考えるならば、一定のフォーマットを作り、それに則って書写作業を進めていくということが便利である、という

  ことがまず挙げられる。具体的には、原稿用紙様の下敷きを作り、紙の下にそれを敷いて、若しくは袋綴の中に合い紙のようにして入れて、それを目安に書いていくということである。これは、特に版下用の薄様の紙に書写するときには有効である。そうしたことが行われていたことを示す実例もあって、例えば、東京大学国語研究室に所蔵する賀茂季鷹自筆仮名遣書は薄様に書写されているが、実際、書写の際に用いられた下敷きが現在も残されている。

  もう一つ、考えておきたいのは、『古事記』本文に対して、宣長の言葉を二字分下げて書き出し、さらに注は小字で二行割書にするという書式との関連である。この書式は、漢籍の義疏類に見られる形式である。即ち、この書式自体が、漢学から入った宣長の学識の一面の現れでもあり、さらに、『古事記』を中国古典にも比すべき日本第一の古典として取り扱おうとする意志とともに、自らの注釈作業を中国の伝統的訓詰学にも比肩させようという気負いの現れとみることもできようと思うのである。そして、漢籍では一行の字詰めは一定であるから、勢い、その点も同時に模倣されたものと考えられるのである。

  そういった実際的な問題、及び中国における先例ということがあっての現象ではあるが、さらにここで問題にしておきたいのは、このようなことを可能にしたこの時代の文字意識の流れである。

  そもそも平仮名というものは、万葉仮名の、漢字の規範を外れた草体化により生まれたものであって、その発生当初から、連綿と切っても切れない関係にあった。平仮名はそうしたものであるから、そもそも一字をとりだされては安定を欠くという性格をもっていた。文字列の流れの中に置かれて初めて弁別可能になるという場合も少なくなかったし、また、字の粒が揃っていないという点、そもそもの各字の大きさに違いがあるという点にまた、字体の弁別を可能ならしめる要因もあった。従って、平仮名は本来的には、一行の字詰めを一定にするのに適したようにはできていなかったのである。その故に、桃山・江戸初期に活字印刷術が輸入された際、平仮名に関しては連続活字という非常に面倒な方法が採られ、結局日本ではやがて活字印刷が印刷術の主流を整版に明け渡したということは、周知の事実である。

  このように考えると、『古事記伝』に至るまでにこのような字詰め一定の表記が平仮名に発生しなかったということは、単にだれも思いつかなかったということではなく、仮名文字に関する規範意識の問題として、それまでの時代には不可能であったということが言えるのではなかろうか。整版という方式は、近代的な活版印刷に比べれば遥かに生産性が低く、従って文字に与える影響も活版印刷のそれに比べればずっと穏やかなものでしかないが、商業的な整版印刷が本格化してからこの時代には既に二百年近く、印刷が日本人の文字意識に与えつつあった影響の顕現化の、一つの局面として捉えたい。

  次に第二点め、平仮名字体の問題を考える。表1は、『古事記伝』巻一〜巻五に所用の平仮名字体表である。

表1

  当時一般の平仮名表記と比較して著しく特徴的と考えられる仮名字体は、ケの仮名の「氣」、コの仮名の「許」、ツの仮名の「都」、ヌの仮名の「怒」、ヘの仮名の「閉」、ムの仮名の「牟」、メの仮名の「米」、そして濁音のみに用いられたズの仮名の「受」、バの仮名の「婆」、ブの仮名の「夫」、ベの仮名の「倍」といったものである。ことにツの仮名の場合には、普通の主用字体「つ」が見られないという点で特に象徴的である。

  さて、これらの字体に共通して言えることは、万葉仮名としては比較的常用された字体であったものであるが、平仮名としてはあまり一般化しなかったものということである。即ち、本書に関しては、通常一般の平仮名体系ではなく、万葉仮名に立ち戻った上で再構成された平仮名体系がみられるといってよかろう。さて、その万葉仮名の基準となったものとしては、まず当然、『古事記』の影響が考えられる。次に示すのは、『古事記』所用の常用の音仮名のみを抽出した万葉仮名字体表である(表2)。『古事記伝』巻一「仮字の事」を基にいささかの改変を加えて作成した。甲乙の区別については、上に甲類、下に乙類を掲げてある。

表2

  これと先の『古事記伝』所用仮名字体表とを比較すれば、『古事記伝』の平仮名字体が『古事記』の万葉仮名(音仮名)をその重要な基盤としていることは明らかであろう。

  さて、『古事記伝』特有字体の中には濁音専用に用いられた字体がある。これらには濁点も付されており、結果として二重の濁音表示が行われている。実は、こうした平仮名に濁音専用の字体を用いるべきとの主張は、宣長門人であり、後の橋本進吉による上代特殊仮名遣の発見の基を築いたことで著名な、石塚龍麿にみることができる。石塚家より寄贈を受け、現在東京大学国語研究室石塚龍麿文庫に所蔵する龍麿遺稿類のうち、整理番号五番のものがそれである。宣長は、門弟の教育に、課題を与えてその調査・考察の結果を提出させ、それに添削を加えて返すという方法を多く採ったが、これもそうした、現代風にいうならば「レポート」の類である。宣長による漢字片仮名交じりの書き入れも残っており、貴重である。墨付三丁、本文と共紙を表紙として仮綴してある。この稿は次のように始まっている(本文には多くミセケチや書き入れによる訂正があるが、訂正後の姿で示すことにし、句読点を補った)。


  「いまの代にあまねく用るいろは仮字といふものはしも、たづきよきものにはあれども、清濁りをわかちかたし。かたはらに濁りをさせども、あるはきえうせなどもし、又はうつすとてはおとしなともすめれは、さたかならぬことのみおほかり、故レおもふに、いにしへの真仮字叙ただしきものにはありける。しかはあれども、この真仮字よいまの代人はいとものどほくして、用むものとも思へらぬは、ふることまなびにうときかゆゑなり。ふる事学をよくしてみれば、今の代のいろは仮字はなかゝゝにたづきあしく、猶真仮字叙よみみるにも、たづきよきものにはありける。
○今の俗(ヨ)いろは仮字の外に真仮字を草にくつして用るも多かれと、猶清のさたはひたぶるにものせざれば猶たゝしからす。かれ今此事をあげつらふ。」

  内容を要約すると、平仮名の不便な点は、清濁の区別を付けることが難しい点にある。濁点という方法もあるが、小さいものだから消えてしまったり落としたりして不分明になることも多い。そこで、平仮名の先祖である万葉仮名では清濁の字体の区別があったのだから、そこに立ち返って、濁音専用の平仮名字体を定めればよい、というのである。因みに、「いろは仮字」というのは、中世後期から江戸時代に、平仮名字体に多くがあったのにもかかわらず、いろは歌を書写する時には専一的に用いられた、現行字体に近い平仮名字体の一群のことである(3)。それに対して、「真仮字を草にくつして用る」は、今でいう「変体仮名」「異体仮名」にほぼ相当するものである。

  ここに翻字したもののうち、濁点を付したものは、龍麿自身が実際にこの稿の執筆に、濁音専用仮名字体として特殊な平仮名字体を用いている箇所である(龍麿は濁点は振っていない)。「げ」は「牙」を字母とするもの、同様に「ざ」は「射」、「づ」は「豆」、「ど」は「仔」「騰」、「ば」は「婆」、「び」は「批」、「ぶ」は「夫」である。「た」も濁音仮名として用いている。この後には、契沖の『和字正濫砂』によるいろは歌書写の平仮名字体の字母推定を基に、いろは歌書写の平仮名字体について、万葉仮名に還元した場合、いろは歌の読みとは清濁が完全には一致しないことを述べる。そして、シに関しては、「し」の字母「之」は清音であるから「自士ナドニテコソヨケレ」と述べ、スに関しては、「す」の字母「寸」について「寸ハ清音ノカナ也。受ナドテヨシ」とする。

  そして、この後に続いて「今の代にあまねく用る仮字」として、清濁の対立のある四行に関して、一般的に用いられる平仮名字体とその字母を挙げている。いまその一覧を現行字体以外は字母で示す。字母は、現在一般の解釈と異なる部分があるが、それは現在の解釈に訂正して示すこととする。

 〔カ〕清=か可 濁=賀
〔キ〕清=き起
〔ク〕清=く 濁=具
〔ケ〕清=け氣遣希介
〔コ〕清=こ古
〔サ〕清=さ佐
〔シ〕清=し志
〔ス〕清=須す寿春
〔セ〕清=せ 濁=是
〔ソ〕清=曽そ処楚※
〔タ〕清=多多 濁=た堂
〔チ〕清=ち
〔ツ〕清=つ徒川都 濁=豆
〔テ〕清=て天亭
〔ト〕清=登登と止
〔ハ〕清=は八盤盤 濁=婆
〔ヒ〕清=ひ飛 濁=備
〔フ〕清=不布婦
〔へ〕清=へ逼閉 濁=倍
〔ホ〕清=ほ保本
 「曽」に関しては、龍麿が「テニヲハニハ濁音ニモ用ヒタリ」と注する。因みに是と同様の指摘は『古事記伝』巻一でもなされている。


  要するに、新たに濁音専用字体を作る一方で、通行字体のうちでも、清濁の別をはっきりさせようということである。但し、宣長が「今ノ世ニアマネク用ル仮字ト題シテ右ノ如クニテハイカゞ也。右ノ字共ノ内ニハ今ノ世ニハ用ヒヌ字モ多ク、又アマネク用ル字ニ人ラヌモ多ケレバ也」と批評したのは的を射たもので、ここに挙げられたものの中には到底一般に使用された仮名字体とは言いがたいものも含まれている。

  さて、以上のようにこの稿で挙げられた濁音字体群には、『古事記伝』の濁音字体を全て包含しており、それ以外に更に『古事記伝』には見えないものをも含んでいるのである。雑稿だけに年記もなく、書かれた年次の正確なところは不明だが、当然『古事記伝』の出版以後ではあり得まい。しかも宣長が眼を通していることは確実であり、この稿は『古事記伝』の表記と何らかの関係を持つものと考えなくてはならない。素直な考えかたをすれば、宣長がこの龍麿の意見を容れて、さらに『古事記伝』への特別な思い入れも加わって春庭にこのような表記を指示したか、若しくは春庭にも龍麿のこのような意見が伝わっており、春庭が主体的に平仮名による清濁区別表記を採用したかのどちらかとなる。或いは、宣長の門弟教育法を考えれば、龍麿のこのような発想自体、宣長からの何らかの示唆があってのものであって、龍麿のこの稿を待たずとも、『古事記伝』を平仮名で書くならこうした表記法で、という契機はすでに宣長の内にあったとも想像できるが、どうであろうか。

  この龍麿稿に見られる宣長の書き入れには次のような言葉も見える。「畢意今ノ世ニ用ル仮字ニテ清濁ヲ論スルハ無用ノコト也。モシ清濁ヲ分テ用ントナラバ別ニ新ニ五十字ヲ定ネバナラヌコト也」。この考えに従うならば、『古事記伝』の特殊な平仮名組織に於いて、単に清濁を字体のレベルで明確に書き分けるというだけでなく、「氣」「許」「都」「怒」「閉」「牟」「米」というように、濁音表示に関係のないところでも特殊な字体を用いなければならなかったことが、その文字意識の面からうまく説明できるように思う。

  いずれにせよ、『古事記伝』の平仮名における清濁書き分け表記がある意図に基づくものであること、そしてその意図の内容を明らかにするものとして、この龍麿遺稿が頗る重要な鍵を握るものであることは間違いない。


  この後、このような特殊な表記法は、『古事記伝』にのみ展開して消えていったわけではない。以後の影響という点では、平田篤胤の気吹舎を見逃すことができない。その出版と文字は、平仮名の字詰めの一定化、特殊な平仮名字体の使用、平仮名における清濁の書き分けという点では、ほぼそのまま『古事記伝』の方針の模倣であった。ただ、篤胤の場合にはもっと極端で、自ら『古事記伝』に比すべき書と考えた『古史徴』等だけではなく、あらゆる書にこれを採用しているのである。そして、こうした特殊表記が結局国学の世界を飛びだすことはなく、従って現在にまで続くものではなかったにせよ、篤胤派の国学が「草莽の国学」と言われるように、深く民衆の問に浸透していったことを思えば、この『古事記伝』に見える特殊な平仮名表記の影響も、江戸後期という一時代のうちにあってはそう小さいものではなかったと言えよう。
(矢田 勉)




【註】

(1)高木文『増補好書雑載』、一九三三年[本文へ戻る]
(2)『本居宣長全集』第九巻解題、筑摩書房、一九六八年[本文へ戻る]
(3)矢田勉「いろは歌書写の平仮名字体」『国語と国文学』七二巻一二号、一九九五年を参照頂きたい。[本文へ戻る]



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